コーランについて(3):第2章・・・雌牛①

コーランの最初の頁「第1章・・・開扉」に続くのが「第2章・・・牝牛」です。かなり長い章で286節で構成されています。手元にある亜日対訳コーランでは約50頁の量になっています。ここには興味ある事柄が盛りだくさん含まれています。

第1節はアリフ・ラーム・ミームです。これだけです。アラビア文字の3文字があるだけです。つまり、الم というわけです。何を意味するのでしょうか?諸説あるようですが、それを聞いても私には良く分かりません。逆に言うと、こう言う意味であるとはっきりしたものがないということなのでしょう。全114章のうちの29章が冒頭にこのようにアルファベットで始まっています。そして、このアリフ・ラーム・ミームで始まっているのは6つの章です。残りの23章がどのような文字で始まるかはその都度紹介していきましょう。(以下の訳文は井筒俊彦著『コーラン』からの引用です。)

礼拝をする方角をキブラということは以前紹介したことがあります。このキブラについて142節以後で触れています。144節には「何処から出てきた場合でも、必ず顔を(メッカの)聖なる礼拝堂の方に向けるようにせよ。この(規定)は、まさしく主の下し給うた真理。アッラーは汝らの所業をぼんやり見過ごしたりはなさらぬぞ。」とあります。世界中のどこにいても、イスラム教徒たちが礼拝の時にはメッカの方向を見て行うということがここに記載されているのです。

では、食べ物について見てみましょう。173節には次のように書かれています。「アッラーが汝らに禁じ給うた食物といえば、死肉、血、豚の肉、それから(屠る時に)アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)のみ。それとて、自分から食い気を起こしたり、わざと(神命に)そむこうとの心からではなくて、やむなく(食べた)場合には、別に罪にはなりはせぬ。まことにアッラーはよく罪をゆるし給うお方。まことに慈悲の心深きお方。」豚肉・血・死肉以外のものなら何を食べてもいいようです。

第177節「本当の宗教心とは汝らが顔を東に向けたり西に向けたりすることではない。いや、いや、本当の宗教心とは、アッラーと最後の(審判の)日と諸天使と聖典と予言者たちとを信仰し、己が惜しみの財産を親類縁者や孤児や貧民、または旅路にある人や物乞いに分け与え、とらわれの(奴隷)を購って(解放し)、また礼拝のつとめをよく守り、こころよく喜捨を出し、一旦約束したらば約束を果し、困窮や不幸に陥っても危急の時にのぞんでも毅然としてそれに堪えてゆく人、(これこそ本当の宗教心というものじゃ)そういうのが誠実な人、そういうのこそ真に神を畏れる心をもった人。」とある。とある。この部分は喜捨の勧めに相当するでしょうか。

第183節「これ信徒の者よ、断食も汝らの守らねばならぬ規律であるぞ、汝らより前の時代の人々の場合と同じようね。(この規律を良く守れば)きっとお前たちにも本当に神を畏れかしこむ気持ちが出来てこよう。」第184節「(この断食のつとめは)限られた日数の間守らなければならぬ。但し、汝らのうち病気の者、または旅行中の者は、いつか他の時に同じ数だけの日(断食すればよい)。また断食をすることができるのに(しなかった)場合は、貧者に食物を施すことで償いをすること。しかし、(何事によらず)自分から進んで善事を成す者は善い報いを受けるもの。この場合でも(出来れば規律通りに)断食する方が、汝らのためになる。もし(ものごとの道理が)汝らにはっきりわかっているならば。」このあともう少し断食についての記載が続いている。断食の規律に従えなかった場合には後日穴埋めをすればよいというようなことであるが、このような点で私はイスラムは非常に現実的かつ具体的なを有する集団であると思う。それにもう一つ人間臭いものでもあると感じている。それは次のような節である。第187節「断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らは彼女らの着物。アッラーは汝らが無理していることをご承知になって、思い返して、許し給うたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)彼女らと交わるがよい。そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかしその時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ。礼拝堂におこもりしている間は、絶対に妻と交わってはならぬ。これはアッラーの定め給うた規定だから、それに近づいて(踏越え)てはならぬ。このようにアッラーは人間にそのお徴を説き証かし給う。こうすればきっとみんなも敬神の念を抱くようになるかも知れぬとお思いになって。」

長くなるので一度ここで終わることにし、後日つづきを追加することにします。