コーランについて(7):第5章・・・食卓③

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Pixabayからの画像

7月も月末になり猛暑が続いています。オリンピックが始まって連日日本のメダルが増えているのは明るいニュースです。この明るいニュースがコロナを吹っ飛ばしてくれることを期待したのですが、そうはいかないようですね。昨日27日の感染者が急増しました。東京は2800人ほど、そのほか埼玉や大阪も増えました。一昨日は青森で震度4,今朝は東北地方に台風8号が上陸と色々なことが起きている日本列島です。

こんな時には神に祈り、救いを求めたい気がしないわけではありません。それはそれとして、私は静かに過ごすことにしています。さて、前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。前回、前々回は「第5章食卓」でした。この2回で終わりにしようと思ったのですが、この章には食べ物以外のことも沢山述べられていましたね。でも、タイトルが食卓となっている理由を最後に紹介しておきたいと思います。

112節:さて、その弟子たちが言うことには、「マルヤムの子イーサー様、貴方の主は私たちに天から食卓を下すことがおできになるでしょうか」と。彼は「アッラーを懼れまつれ、もし、お前たち本当の信者であるならば」と答える。
113節:彼らが言うに、「私たち実際に(そういう有難い食卓から)食べて見たら、気持ちもすっかり落ちついて、貴方の仰しゃったことが本当だったということもわかって、立派な証人になることができようと思いまして」と。

人々の「神は我らに食を恵み与えてくれるのでしょうか」という問いに、イーサーは「お前たちが本当の信者なら、神は与えてくれよう」と答えたわけですね。それに対して人々は「実際に与えて見てくれたら、それが本当だという証人になりまっせ!」というやり取りの部分があるわけです。この部分から「食卓」という章の名前になったということです。イーサーとはイエスキリストのこと、マリヤムは聖母マリアであることはお分かりですね。イエスもイスラムでは預言者の一人なのです。

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コーランについて(6):第5章・・・食卓

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ちょっとアカデミックでない記事が続いたので、少し硬いお話しにして軌道を修正しよう。こんな時にはやはりイスラムに戻ろう。そこで今回はコーラン第5章食卓である。食卓という名前ではあるが、食に関する事項だけが纏められている訳ではない。先ずは冒頭の記述から。岩波文庫・井筒俊彦訳「コーラン」の訳文を利用させて頂く。

これ、汝ら、信仰の物よ、一度取りきめた契約はすべて必ず果たすよう。
家畜の獣類は食べてもよろしい。但しこれから読み上げるものは除く。また聖地巡礼の禁忌状態にあって(メッカ巡礼に赴く信者は一種のタブー状態にある)狩猟をしてならぬことは言うまでもない。アッラーは御心のままに掟を作り給う。(中略)狩猟は、禁忌状態が解けてからにせよ。また、神聖な礼拝堂(メッカのカーバを指す)に行くところを邪魔されたからとて、(禁忌状態があけた後でも)相手憎さのあまり不当な暴力をふるってはならぬ。互いに仲良く助け合って義しいことを行い、信仰を深めて行くようにせよ。互いに助け合って罪を犯したり悪事をはたらいたりしてはならぬ。アッラーを懼れかしこみまつれ。まことにアッラーの罰ひとたび下れば恐ろしい。

汝らが食べてはならぬものは、死骸の肉、血、豚肉、それからアッラーならぬ(邪神)に捧げられたもの、絞殺された動物、打ち殺された動物、墜落死した動物、角で突き殺された動物、また他の猛獣の啖ったものーーー(この種のものでも)汝らが自ら手を下して最後の止めをさしたもの(まだ、生命があるうちに間に合って、自分で正式に殺したもの)はよろしいーーーそれに偶像神石壇で屠られたもの。それからまた賭矢を使って(肉を)分配することも許されぬ(人々が集まってする賭。矢をくじの代わりに使って運をきめ、賭けた駱駝の肉を取る)。これはまことに罪深い行いである。・・・中略・・・

許されている(食物)な何と何かと訊ねてきたら、答えるがよい、「お前たちに許されているのは、全てまともな食物。次に、お前たちアッラーが教え給うた通りに自分で訓練して馴らした動物(犬や鷹などを指す)がお前たちのために捉えて来る獲物は食べてよろしい。必ずアッラーの御名を唱えてから食べるように。アッラーを懼れまつれ。まことにアッラーは勘定がお早くましますぞ」と。今日、まともな食物は全部汝らに許された。また聖典を戴いた人たち(ユダヤ教徒とキリスト教徒)の食物は汝らにも許されており、汝らの食物も彼らに許されておる。

食べていいものダメなものについて述べられている。豚肉を食べてはいけないというのは、ここに述べられているのである。また食べてはいけない食物だけではなく、殺され方にも条件があるのだ。但し、中略した部分の中には、飢饉のときや、他人から無理強いされた場合にはこの限りではないとある。肉の分配方法にも賭けをすることは許されないとあるように、イスラムでは賭け事に当たるものは全てダメなのである。競馬のようなギャンブル、宝くじのようなものもそうである。けれども、国によってはそういう者が認められている国もあるのだろう。

また(嫁取りについても同様で)、回教信者の操正しい女も、汝らが(『コーラン』の啓示を受ける)以前に聖典を戴いた人たち(ユダヤ人とキリスト教徒)の中の操正しい女も(全く同資格で汝らの妻にしてよろしい)。(その場合も)払うべきものは相手に支払うことは勿論、正規の手続きを踏んで結婚すべきであって、放埓な関係を結んだり、情人でもつくるつもりではいけない。とにかく信仰をないがしろにするような人間は、(現世で)何を為ようとその甲斐はなく、あの世でも敗者の数に入るのみ。

イスラム教徒の食物はキリスト教徒もユダヤ教徒も同じように許されており、その逆もまた許されているとのこと。相手にしてみれば、勝手にしろと言いたいかもしれない。さらに、食物について述べた後で嫁取りについても食物と同じように許されるとあるのも少々滑稽ではないか?この章は長くてまだまだ続く。が、今日はここまでにしておこう。

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2021年アラビア書道作品展の準備

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コロナ禍の中で昨年来アラビア書道の教室(名古屋)も休講が多く、先生の指導を受ける機会も非常に少なくなっています。そんな中でも、昨年も川崎市において作品展が開催されて全国から数多くの作品が寄せられました。私の作品もここに掲載したのでありますが、今年も9月に開催が予定されています。今年は川崎のほかに久しぶりに京都でも開催予定です。次回教室が開かれるのは6月30日ですが、緊急事態宣言のために今年になってからは殆ど開かれていません。30日は非常事態宣言が解除されていれば久しぶりに出席することになります。

そんなわけで、今年の作品をどうするかということです。もうそれほど時間があるわけではありません。そこで私は今年もオマル・ハイヤームのルバイヤートの中の一つの四行詩を選びました。そして、お手本をメールで先生に依頼しました。それが5月の下旬でしたので、このところそれを練習しております。まだまだハードルが高いのですが、挑戦です。先生から頂いたお手本が次の画像です。

アラビア書道の世界では世界のトップであられる本田先生が書いて下さったものです。先生の作品は大英博物館にも常設の部屋があって展示されているほどの有名な先生です。恐れ多いとは思いながら、練習に励んでいます。9月初めには完成させて、皆様に披露できるように頑張ります。

さて、詩の内容ですが。次の通りです。私の訳です。

ああ、青春の書(ふみ)は閉じ、

人生の春も過ぎ去ってしまった。

青春という名の歓喜の鳥は、

いつ来て、いつ飛び去ったのだろう? 

英語訳でもっとも有名なFitsGeraldは次のように訳しています。
Alas, that Spring should vanish with the Rose!
That Youth’s sweet-scented Manuscript should close!
The Nightingale that in the Branches sang,
Ah, whence, and whither flown again, who knows!

彼の英訳は元の詩の気持ちを訳していると定評があるのですが、英語のニュアンスまで理解できない私にはよく分かりません。というか、この訳はそれほど元の詩とかけ離れた訳ではありませんが、いったいどの詩を訳したのかと思うようなものもあります(失礼ですが)。

原文のペルシャ語の調べを味わってもらいたいために、ペルシャ語の読み方を次に記しておきました。口ずさんでみてはいかがでしょうか。

افسوس که نامه جوانی طی شد

Afsuus keh naameh-ye javaani tey shod

وآن تازه بهارزندگانی دی شد

Van(va aan) taazeh bahaar-e-zendegaani dey shod

آن مرغ طرب که نام او بود شباب

Aan morgh-e tarab keh naam-e uu bud shabaab

افسوس ندانم که کی آمد کی شد

Afsuus, nadaanam keh kei  oomad key shod

                 

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タラス河畔の戦い (751年)

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昨日のテーマが「アンカラの戦い」だったので、今回も「戦い」を扱おうと思って考えた。そこで、時代は遡るが751年の「タラス河畔の戦い」にした。世界史を学んだ時、この戦いは唐とアッバース朝の戦いであり、この戦いが契機となって蔡倫の製紙法が西域に伝わった、と教わったように思う。ただ、紙の製法は蔡倫が発明したものではないというのが現在の説だそうだ。それにしても、製紙法が伝わったことは間違いないのである。

出所:帝国書院『最新世界史図説・タペストリー』

アッバース朝が成立したのが750年であるから、この戦いは成立直後のことである。イスラムの発展は、ムハンマドの時代(~632) ⇒ (632~)正統カリフ時代 ⇒ (661~)ウマイヤ朝 ⇒ (750~)アッバース朝と辿ったのだったね。アッバース朝はその後バグダードに都を建設し9世紀には人口が150万人を超える大都市になった。一方の唐は最盛期であった玄宗 のころ(8世紀前半)で,人口は100万に達し,渤海 ・新羅 ・日本・ペルシア・アラビア・インド・トルキスタンから人が集まる国際的な文化都市であったという。いずれにせよ、東西の大国同士の戦いであったわけだ。その戦いの経緯、原因は何であったろうか。いつものように「世界史の窓」を見ると、次のように説明している。

この戦争の直接の原因は、唐の河西節度使高仙芝(こうせんし、高句麗出身)がタシュケントの王を捕虜として虐待し、脱走した王子がアッバース朝の応援を要請し、それに応えたイスラーム教徒軍が唐軍を攻撃したもの。高仙芝は3万の兵でタラス城を守り、5日間持ちこたえたが、一部の現地のトルコ系部隊がアッバース軍に内通したため総崩れとなり、生還者わずか数千という敗北を喫した。なおこの戦いの時、唐軍の捕虜によって製紙法がアラビア人に伝えられたことは、文化の東西交流の一つとして興味深い。タラスは現在のキルギス共和国ジャンプイル付近。唐が敗れ西域進出が停止され、中央アジアのイスラーム化が始まった。中国から製紙法がイスラーム世界に伝えられる契機となった。

東西の大国が戦ったこの戦いは8世紀のことである。日本は奈良時代になる。752年が東大寺大仏開眼供養、754年鑑真来日などの時代であった。遠い外国での出来事の時代を日本の時代に照らし合わせることも興味深いものである。

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ペルシャ語講座28:有用表現 あなたがいなくて寂しかった جای شما خالی بود

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今日も簡単な表現をひとつ紹介しましょう。それは جای شما خالی بودد です。読み方は、 「ジャーエ ショマー ハーリー ブッド」です。ジャーは「場所」、ショマーは「あなた」、「あなた」と「場所」をくっつける場合は エ を使うので「ジャーエ ショマー」ですね。ハーリーは空っぽという形容詞。ブッドは三人称単数の過去形のbe動詞(was)ですから、「空っぽでした」。全体で「あなたの場所は空っぽでした」という直訳になります。「私たちこんなに楽しかったんだよ。でも、そこにあなたが居なくて寂しくてとても残念だったわ」というようなニュアンスです。会話ではよく使います。アルファベットでも表記しておきますね。jaa-e-shomaa khaalii bud です。アーやリー の伸ばす部分はaaのように二つ書きました。ハーリーは haarii ではなくてkhaalii ですから、ハはhではなくてkh ですから、喉の奥をこすって音を出して下さい。リーの音は英語のエルです。ペルシャ語の場合発音でむつかしいのはこのkh位ですが、すぐに慣れますし、相手も理解してくれるので神経質になる必要はありません。

ついでに「私、寂しくなっちゃった」は دلم تنگ شد   delam tang shod デラム タング ショッド です。دلم   は دل من ということです。心という意味のデルdelと私のマンmanをくっつけています。タングはさみしいですから「私の心がさみしかった」「私寂しかったよ」です。ショッドは英語のbecomeの過去形です。今さびしいよと現在形がいいならショッドの部分をbe動詞現在のastでいいです。日本語では私が寂しいなら主語は私になりますが、この場合のペルシャ語の主語は「私」ではなく「私の心」ですから、三人称になります。

最後にもう一つ 「私の心は燃えている」ならデラム ミスゼ

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ペルシャ語講座25:有用表現 عیب ندارد

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今回はよく使われる表現、覚えておくと便利な表現を一つ紹介しましょう。それはタイトルに記した عیب ندارد です。
عیب ’eib  エイブ とは欠点、欠陥、不名誉、恥というような意味が辞書にはでてきます。
ندارد  の原形は داشتن 「持つ」という意味の三単現です。
عیب ندارد エイブ ナダラッド ですが、エイブ ナドレ と発音するのが一般的です。
意味は「問題ないよ」「大したことじゃないよ」ですが、私の感覚では、例えば待ち合わせの時間より少し遅れた場合などに、誤ったとすると「エイブ ナドレ」と返ってきます。「何も問題ないよ」その後ろに「気にするな」というような意味合いを感じます。

一方で、相手が約束を守らなかったので責めたりすると「エイブ ナドレ」とちょっと開き直った感じで「大したことじゃないよ、何が悪いんだ?」というように感じたこともありました。

とにかく会話ではしょっちゅう出てくる言葉です。上の意味以外にももっと多くのニュアンスで使われていると思います。便利な言葉なのでぜひ使ってみて下さい。

 

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新シリーズ「オスマン帝国」:④ルーム・セルジューク朝

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さて、セルジューク朝の次はルーム・セルジューク朝である。大セルジューク朝には数多くの地方政権のようなものがあったとこれまでに述べてきた。ルーム・セルジュークもその一つであった。この王朝の始祖であったスライマーン・ブン・クタルムシュの父クルムタシュはセルジューク朝の創始者トゥグリル・ベクのいとこである。スライマーンは1071年のマンジケルトの戦の後、ニカエアを占領してルームの地に国家を建設したのである。・・・・13世紀に全盛期を迎えたが、カイホスロウ二世の時代にモンゴル軍の侵攻を受ける。1243年にキョセ・ダグの戦に敗れて、1277年以後イルカン国に従属することとなり、以後衰退し14世紀になって滅亡した。

十字軍とセルジューク朝
キリスト教徒の十字軍の遠征の目的はエルサレムの奪還であった。この時のエルサレムを占領したのがセルジューク朝である。キリスト教徒側はエルサレムを占領したセルジューク朝によって巡礼者が迫害されているという理由で十字軍の遠征を始めたのである。

1097年に第一次十字軍がビザンツ軍とともにニカイヤを奪い返すと、ルーム・セルジュークはコンヤまで後退した。その結果、12世紀のアナトリアはルーム・セルジューク朝とトルコ系のダニシュメンド朝、そしてアナトリアの西部でビザンツ帝国の三者に分割された状態であった(冒頭の図は講談社『興亡の世界史「オスマン帝国500年の平和』から引用させていただいた)。その後、ダニシュメンド朝はルーム・セルジューク朝に滅ぼされる。一方でヴェネチアに先導された第四次十字軍がコンスタンティノープルを征服してラテン王国を建てる(1204)事件があり、ビザンツ帝国はニカイヤに亡命国家を作るなど、アナトリアは混沌とした状態となったのである。ルーム・セルジューク朝もその後モンゴルによって滅亡するわけである。

この辺の歴史を今更に読み返してみると複雑極まりない。セルジュークとビザンツの関係も対立一辺倒だったわけではないようである。これらは本題ではないので深入りはしないでおくが、このような状況の中からオスマンが台頭してくることになるのであろう。

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新シリーズ「オスマン帝国」:②トルコ民族の台頭

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前回、宮田律先生の『中東イスラーム民族史』の名前を挙げて終わったのであった。その中公新書の126頁の一部を引用させて頂こう。
トルコ語を話す人々が最初に確認されたのは六世紀のことだった。その活動の地理的範囲は内陸アジアと東ヨーロッパで、内陸アジアでは六世紀半ばに、トルコ語を話す、つまりトルコ系の遊牧部族が台頭する。
この遊牧部族の支配層は、テュルク(突厥・とっけつ)と名乗っていた。540年ごろ、中国の北端に、柔然(じゅうぜん)という遊牧国家が存在し、モンゴリアとその周辺部分を支配していた。テュルクは柔然を滅ぼし、やはりトルコ系の鉄勒(てつろく)諸部族を服従させてモンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯までも支配する大帝国を築いた。

ということで、6世紀頃からトルコ語を話す人々の存在が歴史に現れてきているようだ。そして、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと支配を拡げていったのである。いつもお世話になっている山川出版の『世界史図録ヒストリカ』から次の図を引用させていただいた。

 

この図によれば、トルコ系民族は8世紀頃にウィグルのクチャやカシュガルにいたが、その後、西進しカラハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝を築いていった。ガズナ朝はその後インドのイスラム化につながっていった。トルコ系民族の王朝を平凡社『新イスラム事典』で見てみることにしよう。

カラハン朝 (840-1212):
中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝。王朝の起源についてはまだ定説がない。ブリツァクの説によると、840年にウイグル王国が崩壊すると、その支配下にあったカルルク部族連合体が独立、チュー河畔のベラサグンを本拠に新王朝を開いたとされる。サトゥク・ボグラ・ハーン(955没)の時代に初めてイスラムを受容し、続くムーサーの時代にあたる960年には20万帳に上る遊牧トルコ人がイスラム化したという。以後の諸ハーンは東トルキスタンのホータン、クチャなどの仏教圏に聖戦を敢行するかたわら、999年にはブハラを占領してサーマン朝を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルのトルコ化を促進した。しかし内部抗争のため、1041/42年にはシル・ダリヤおよびホーカンドを境に東西に分裂した。西カラハン朝は1089年セルジューク朝、1141年カラキタイ朝の宗主権下に入り、1212年ホラズム・シャー朝によって滅ぼされた。一方、東カラハン朝の首都カシュガルでは、最古のトルコ・イスラム文学作品『クタドグ・ビリク』が著される(1069/70)など、新たなトルコ・イスラム文化の萌芽がみられたが、1089年にはセルジューク朝、1132年にはカラキタイ朝の支配下に入り、1211年ナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。

ガズナ朝 (977-1186):
アフガニスタンに興ったトルコ系イスラム王朝。サーマン朝のトルコ人マムルーク、アルプティギーンは逃亡してアフガニスタンのガズナの実質的な支配者とない、以後マムルークたちが次々に権力を握った。サブクティギーン以降は世襲となり、インドへの侵入を開始、その子マフムードは遠くソムナートまで遠征してヒンドゥー教寺院を破壊し、イスラムの擁護者としての名声を得るとともに、多数の略奪品を得た。彼の時代が最盛期で、その版図は、イラン中央部からホラズム、パンジャーブにまで達した。軍隊の中核はトルコ人などのマムルークによって占められ、官僚にはイラン人が用いられた。公用語は主としてペルシャ語で、多数のペルシャ詩人が宮廷に出入りしたが、インド遠征に同行して記録を残したビールーニーのように、アラビア語で著作を行う学者もあった。第五代のマスウード時代には、セルジューク朝によってホラズム、ホラーサーンを失い、12世紀にはセルジューク朝のサンジャルに服属して貢納を行うようになった。同世紀の中ごろにはゴール朝にガズナを奪われ、最後はラホールで滅亡した。

セルジューク朝(1038-1194):
トルコ系の王朝。トゥルクマーンの族長セルジュークは、カスピ海、アラル海の北方方面より10世紀末にシル・ダリヤ河口のジャンドへ移住してムスリムとなり、ガージーを集めて勢力をなした。その子イスラーイールは、サーマン朝、次いでカラハン朝、ガズナ朝と同盟して力を伸ばした。その甥のトゥグリル・ベク、チャグリ・ベクらは、1038年ニシャプールに無血入城し、40年にはダンダーナカーンの戦でガズナ朝軍を破り、ホラーサーンの支配権を手中に入れた。55年にトゥグリル・ベクはバグダードに入り、アッバース朝カリフより史上初めてスルタンの称号を公式に受け、当方イスラム世界における支配者として公認された。・・・

セルジューク朝の記述はまだまだ続くのであるが、トゥグリル・ベクがスルタンの称号を得たということで、セルジューク朝は大きな王朝になるので、これについては改めて取り上げるほうが妥当であろう。
セルジューク朝が台頭してきたところで、トルコ系民族がオスマン帝国を築くに至った民族の大きな流れが掴めたようである。

 

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書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その2

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「その1」をアップしたのが、2019年6月であったから1年以上の長い時間が経ってしまいました。ペルシャの詩のほうに寄り道したせいであったかもしれません。まだまだ紹介したい部分があるということで締めくくっているので、もう少し彼の詩を紹介したいと思います。

酒が欲しくなるとき
飲酒をとがめる人よ
 いつ君は愚かになったのか?
私に別な忠告をしたほうが
 君には似つかわしい。
とがめる人に我々が従うくらいなら、
 アッラーに従っていたことだろう。
飲み友達よ、朝酒の盃をほし給え。
 そして、私にも注いでくれ給え。
私は世人に非難されると、
 ますます酒が欲しくなる。

震える指
飲み友達は二日酔いが続き、
 指に震えがきている。
右手を左手で支えてやらないと、
 盃をもっていられない。
夜半、私が彼に盃をさすと、
 彼はもっと欲しがり、更に欲しがった。
彼は言った。「私を落ち着かせるため、
 もう一杯、私はもっと欲しいのだ」
これが毎夜の二人の習慣、
 私が余計に注ぐと、彼は更に求める。
やがて倒れてしまうが、彼は知らない、
 大地の上に寝たか、部屋の中に寝たか。

僧院の朝酒
鐘の音が君に暁を告げ、
 修道士が僧院で祈り声をあげた。
酔漢が酒を恋しがっている。
 雨が降り、時は春だ。
君は庭園を見廻し、
 緑の草、黄色の花に笑いかける。
さあ、飲み友達に酒を与えよ、
 雨の一滴をまぜた上で。
肴はラヴェンダーや睡蓮、
 そして色とりどりの花の飾りだ。
野原のここかしこで、
 白い若鹿が草を食んでいる。
すばらしいものは僧院の朝酒、
 そして一年の中で四月。
腰に帯をまいた者よ、
 聖なる酒場で、ユダヤ人の祭日に。
私を知っているなら、注がないでくれ、
 私の胸にひめたもの以外は。
君の知っている私の好物を持ってこい。
 酒であれば、名は何とでもつけよ。

不思議なもの
もし酒が私の食べ物だったら、私は幸せだ。
 食事を待たずに酒だけを飲んでいればよい。
酒は不思議なもの、君はそれを飲む。
 飲むがよい、たとえ酒が君に罪を負わせようとも。
生の赤酒をとがめる人よ、
 君は天国へ行け。私は地獄に住まわせてくれ。

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今回は飲酒詩の中から4編を紹介した。素直に味わっていただきたい。何も難しいことを詠ってはいない。ただ、酒を愛する気持ちの発露である。イスラム社会に生きた酒飲みである。少しは罪に気持ちも抱いている。大ぴらに、酒を扱うのは異教徒である。「僧院の朝酒」で「腰に帯をまいた者」はユダヤ人である。酒飲みの私としては共感すること大である。少し長いので今回紹介していないが「酒と船」の書き始めで今回の結びとしよう。

 悩みごとが生じたら、盃で癒し給え
 悩みごとなどなくなるように。

アブー・ヌワースは酒で有名な詩人であるが、美しい恋愛詩やたしなめの詩、禁欲詩なるものも書いている。またの機会に紹介することにしよう。

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