ペルシャ語講座33:有用?な単語・・چشم chashm/cheshm 目/眼

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いろいろな色の目のイラスト(黒)

今回はペルシャ語講座ですが、一つの単語を紹介しましょう。それはタイトルのチャシュム、チェシュムです。目という意味です。辞書を引くと名詞・①目、眼 ②邪視、凶視 とあります。その次に間投詞として「喜んで」「承知しました」と記されています。私が紹介したかったのは、この部分です。わざわざ紹介しなくとも、現地へ行ったならば直ぐに分かることなのですが、最初は「へえ!」と思ったものです。でも便利な言葉です。例えば、使用人に「どこどこに行って、何々を買ってきてください」と言うと、彼は軽く手のひらを胸に当てて「チャッシュ!」と言うのです。私は「かしこまりました」という意味だと解釈しました。そして、私には「チャッシュ」と聞こえましたので、それが目の意味の「チャシュム」だとは、しばらくの間、気が付きませんでした。目の意味だと気づいたときに、「言葉って面白いなあ」と感じたものでした。

いろいろな色の目のイラスト(黒)

ついでにチャシュムを使った表現を辞書からピックアップしておきましょう。
چشم شما روشن  chashme shoma roushan おめでとう!

چشم و چراغ chashm va cheraq 最愛の人
چشمانداز chashm andaaz 展望、見通し、
چشمبند cheshm-band 手品師、奇術師
چشم پوشی cheshm-pushi 黙認、見逃し
چشمچرانی cheshm-charan 色目を使う
چشم روشنی cheshm-roushani 贈り物、お祝いの贈り物
چشمگیر cheshm-gir 目立った、顕著な

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サウジアラビアとワッハーブ派

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前回はタリバンを取り上げた.。タリバンは厳格なイスラムなどと評されるわけであるが、前回述べたように、私は決して正統派の厳格なイスラムであるとは思わない。本来のイスラム精神を厳格に守るという意味ならば、代表的なのはサウジアラビアであろう。今回はサウジアラビアのイスラム=ワッハーブ派について少しだけ紹介する。

サウジアラビアではイスラム・ワッハーブ派が国教である。ワッハーブ派とはどういうものか、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』では以下のように説明している。

アブド・ル・ワッハーブ(1703~87)が18世紀なかばに創始した。『クルアーン』とスンナに帰れとする純粋主義の運動。極端に復古主義的なかたちでイスラームの純化を主張するスンニー派ムスリムの運動で、彼らは自らをムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。法学上はハンバリー派に属し、この派の神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を強く受けた。ヒジュラ暦三世紀以降にもち込まれた一切のビドア(新風・新説)を排除し、正統四法学派の権威と、正統六ハディースのみを認める。スーフィズムを厳しく糾弾し、聖者崇拝や聖者廟詣でを禁じた。信徒には徹底したピューリタン的生活態度が要求される。18世紀後半この運動は、ナジュドのイブン・サウード家の勢力と結びつきアラビア半島に拡大した。ワッハーブの死後、サウード家の長が教主の地位を継承し、政教両権の保持者となる。

サウード家の正確な出自はよく分かっていないが、15世紀頃サウジアラビア東部のオアシスからリヤドの北ワディ・ハニーファのダルイーヤに移り定住したという。1720年より少し前にサウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムグリンの記録がある。その息子のサウード・イブン・ムハンマドが通常サウード家の始祖とされている。といってもそれはアラビア半島に数多くいた部族の一人の長であったにすぎない。それが、のちにサウジアラビアを統一するほどの権力者になることができたのは、ワッハーブとの同盟であったのだ。

アラビア半島に数多くの部族があった中で、有力だったのがラシード家であった。文芸新書・岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』によれば、ラシード家というのは、リヤドの北西シャンマル山地のシャンマル諸支族を支持基盤とするベドウィーンである。1870年代にはオスマン帝国と同盟し、補助金や武器の供給を受け、1884年には半島中心部のカスィーム地区を支配下に収めていた。ナジドの諸部族は、当時兄弟同士の内輪もめを続けていたサウード家に愛想を尽かし、日の出の勢いだったラシード家に傾いていた。その結果、サウード家は衰退したのであるが、その後、クウェートの有力部族サバーハ家がサウード家の一族を保護支援した。サウード家はここで一息つくことができた。

20世紀に入り、ラシード家がオスマン帝国とドイツと関係を強化し、クウェートへ食指を動かす。一方で、イギリスはクウェートとともにサウジアラビアへ勢力を拡大しようとする。サウード家のアブドゥルアジーズはこの時21歳であり、クウェートで保護されていた。そして、1902年1月15日にリヤド城を奇襲し攻略した。その後、アラビア全土を支配下に収める戦闘を続け、1924年にヒジャーズ地方を攻め、メッカを抑え、続いてジェッダとメディナも支配下に入れた。アブドゥルアジーズがヒジャーズ地方を制圧できたのはワッハーブ派の協力によるところが大きかった。つまり、ワッハーブ派とサウード家はお互いに協力し合って勢力を拡大することができたのである。

サウジアラビアはワッハーブ派の国である。我々の世界での政教分離などという考え方は通用しないのである。

 

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ペルシャ語講座32:名詞の複数形

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前にも触れたことがありますが、名詞の複数形について再度まとめてみます。
名詞の単数形語尾に ها ha を付けるのが基本です。鉛筆なら مداد  مدادها となります。簡単ですね。英語の複数形でsを付けるのと同様です。

もし、名詞の示すものが人間の場合、単数形語尾に ان an を付けることもあります。例えば、婦人=zan زن の場合に、zanan زنان となります。先ほどのように ha を付けても間違いではありません。
単数名詞の最後の文字がアレフの場合、an の前に yをいれて yan となります。

例えば、乞食 gada گدا は gadayan گدایان となります。
同じように最後の文字が u و の場合も yan を付けることになります。例えば、誠実な人=rastgu رستگو —- رستگویان rastguyan となります。
名詞の最後が h ه で終わる場合、an の前にg が付くこともあります。例えば、子供=bacche بچه  は bacchegan بچهگان となります。これもバッチェのあとに続けて書かずにバッチェ・ハーという人もいますし、例えば窓はパンジャレhと最後がhで終わりますが、普通はパンジャレハーというでしょう。

一応の基本的なルールがあるけど、例外もあるわけです。でもその例外も基本形を使う限りにおいては許容されるという感じですね。完全に形を変える複数形もありますが、それらはまた改めて紹介しましょう。

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日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(2)

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前回は日本書紀の中にトカラ人が日本にやってきた記述の一部を紹介した。そして、その一行の中に舎衛という女性がいたが、舎衛とはどういう意味なのかという点で学者間に議論があって、どうやらそれは地名であるということになっている。ひとつはネパールの地名であるとし、ひとつはトカーレスターンの地名であると。そしてまた、トカラ人の名前に「乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)」というのがあった。波斯というのはペルシャの意味なので、トカラというのはペルシャのことなのだろうかも思うわけである。今回はその先に進めて行こう。

トカラを表記するのに私はここまでカタカナで記したが、書記には勿論感じで記されている。吐火羅、覩貨邏、覩カ羅(この部分のカは入力できなかったのでカタカナにした。貝の右に化の文字。つまりは貨と配置が異なった文字)などと表記されているのであるが、いずれも同じ地域をさすもので、伝統的にはトカーレスターン(トハーレスターン)とされてきたそうである。これはアフガニスタン北部から隣接する当時のソ連領域の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、パルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域である。サマルカンドやボハーラーというと現在はウズベキスタンの都市である。ところが、井上光貞博士や竹内理三博士によってトカラを東南アジアに求める説も提唱されたとある。それによるとトカラとは驃国のことで、ピュー族がビルマのイラワジ川の中流域に建設したもので、首都はプロムであるという。彼らは突羅成と自称し『新唐書』によれば、およそ18の属国があって、その中に舎衛が含まれているという。中央アジアではなくてもっと日本に近い東南アジアのほうが来日の可能性がより高いと思うが、それに対して実際にトカーレスターンのバルフから長安にやってきた宣教師などの事例を挙げて論争があったようである。

さて、先を急ごう、ペルシャ文化渡来考の著者、伊藤義教先生の説に移ろう。結論を先にいうと舎衛は地名ではないというのである。舎衛の女というのはトカラ人とは異なる舎衛人の女ではなく、同じトカラ人であるという。理由は一緒に行動していたことや、書記の記述をすなおに読めばそうなるという。そして、難題であるとする舎衛という意味を読み解くのである。以下、伊藤先生の説である。

舎衛は中世ペルシャ語シャーフ(shah) で王の対音とみるほかはない。従って舎衛女とは「舎衛の娘」として「王の娘・王女」以外のなにものでもない。ここまで詰めてくれば、書紀のトカラは、伝統に従って、トカーレスターンに同定するほかはない。トカラ人の漂着者たちの中に王女が一人いたことになり、それゆえに大和朝廷に迎え入れられた理由なのである。

7世紀にトカラ人が日本に漂着した。その中の一人が王女であって、大和朝廷に迎えられていた。トカラとはトカーレスターンであり、その地は今のウズベキスタン辺りである。ブハーラーやサマルカンドはかつてはペルシャ帝国に組み入れられたこともある地域である。つまり、日本書紀に登場する渡来人の招待はペルシャの王女とたちであったというわけである。とここまでくると、私の想像が駆け巡る。王女となるとペルシャの王女。となると、それはササン朝の王女であろう。ササン朝はイスラムによって滅びたわけであるが、その王朝の一部がシルクロードを経て長安へ、さらに日本へ来たということも可能性はあろう。そうなると、話はさらに続いていかねばなるまい。その話のネタは次の画像の書に託したい。

 

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日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(1)

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正倉院の宝物には西域から伝来したものが沢山あることは皆さん承知のことでしょう。シルクロードを通じて西域の文化が中国を経由して日本に伝わってきています。中でも、ササン朝ペルシャの洗練された器物が有名です。でも、ササン朝ペルシャの時代よりももっと前の時代に西域の人々が渡来してきていることが、日本書紀には記録されているのです。今回はそのような渡来人について述べて見たいと思います。タイトルを「日本書紀にみるゾロアスター教徒の来日」としたのですが、正確にはゾロアスター教徒ではなく、ペルシャ人と言った方が良いかもしれません。

654年4月「トカラ国の男二人、女二人、舎衛の女一人が嵐に遭って日向に漂着した」
657年7月3日「トカラ国の男二人、女四人が筑紫に漂泊し、わたしどもは、はじめ奄美島に漂泊しましたと言った。そこで早馬をもって大和に迎え入れた。
657年7月15日「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭盆会、暮饗覩貨邏人。」「すみ山の像を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭盆会を営み、夕方にトカラ人を饗応した。」
660年3月10日「トカラ人が妻なる舎衛婦人といっしょに朝廷に伺候した」
660年7月16日「また、トカラ人乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)が本国に帰りたくて、送使を出してほしいと願い出て、『のちにまた大和朝廷にお仕えした。そこで、妻を残してそのしるしにします』と言った。そして彼は送使数十人(とをあまりのひと)といっしょに、西海に向けて旅立った。」

ここまでを整理してみよう。5つの日時での記述がなされている。最初の654年は孝徳天皇の御世(御代)であり、後の四つは斉明天皇の時代である。トカラ人の男二人と女二人、それに舎衛の女一人が九州に漂着したという記録である。舎衛の女というのが、トカラ人ではなくて舎衛人の女という意味なのか、トカラ人ではあるが、何らかの意味をもつ舎衛の女かはこの時点では分からない。漂着したところが、日向なのか筑紫なのか、奄美島なのか私には分からないが、その後、大和朝廷に迎えられたということのようだ。その後、乾豆波斯達阿が帰国したいと申し出て、妻の舎衛を残して旅立ったとある。達阿というのは名前らしい。またその前の波斯はハシと読むがペルシャの意味である。とすると、トカラ人というのはペルシャ人のことなのだろうか?

私自身は日本書紀を所有していないし、していても読むことはできないだろう。そこでここまで述べてきたことは上の画像の文庫本を参考にして書いている。というか、読みながら書いている。というのは読んでいるだけではすんなりと頭に入ってこないのである。数ページ読んでみて、その部分を整理して、ここに書いてみて、ああそういうことなんだなと理解しているのだ。私が持っている知識を披露しているのではなく、私自身が理解するために書いているのである、皆さんはそれに付き合って下さっているという状況です。さて時代は天武天皇の御世になる。

676年1月1日「大学寮諸学生陰陽寮外薬寮及舎衛女堕羅女百済王善光新羅仕丁等捧薬及珍異等物進」⇒「大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮や舎衛女・堕羅女・百済王善光・新羅の仕丁たちが薬や珍異等物(めずらしきものども)を奉献した」
つまり新年元旦に天皇に珍しいものを献上したという記録である。注目するのは、ここにも舎衛女が出てきているのである。伊藤義教先生によると、殆どの学者が舎衛国の女としているそうである。舎衛国あるいは舎衛城は梵語名をシュラーヴァスティー(在ネパール)であり、北コーサラ国の首都で、その郊外には有名な祇園精舎があったという。このシュラーヴァスティー説に異を唱えたのは僅か一人だけ井本英一先生であるそうな。井本先生というのは私が大学で4年間教えを受けた主任教授である。つまりゼミ担任である。私たちはそんなことは何も知らずに教えを受けていたのであるが。
それでは井本先生が唱えた説は「舎衛はトカーレスターンの地名Shaweghar または Sawe 」と同定されたそうである。伊藤義教先生はまた異なる説をお持ちのようである。この伊藤先生にも私は学生時代に講義を受けたのであった。そのころ先生は京都大学の教授であったが、非常勤講師として私たちに「古代文字の解読」の講義をされた。この場合の古代文字とは楔型文字つまり古代ペルシャ語の楔型文字のことである。我々にとっては現代ペルシャ語自体も初心者であるのに、そのようなものが理解できるはずはなかった。その先生が語られたダレイオス碑文を60歳代半ばにしてビストゥーンで直にお目にかかるとは、当時は想像だにしなかった。

新たにトカーレスターンとは何処なのかという興味も湧いてきた。何か謎解きのようになってきた。ここまで書いてきた行数はそれほど多くはないが、読んでは整理しながら書くもんだから、結構時間がかかった。久しぶりに快晴となり外は猛暑が再来した。少々疲れたので今日はここまでにして、続きは後日としよう。

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ペルシャ語講座28:有用表現 あなたがいなくて寂しかった جای شما خالی بود

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今日も簡単な表現をひとつ紹介しましょう。それは جای شما خالی بودد です。読み方は、 「ジャーエ ショマー ハーリー ブッド」です。ジャーは「場所」、ショマーは「あなた」、「あなた」と「場所」をくっつける場合は エ を使うので「ジャーエ ショマー」ですね。ハーリーは空っぽという形容詞。ブッドは三人称単数の過去形のbe動詞(was)ですから、「空っぽでした」。全体で「あなたの場所は空っぽでした」という直訳になります。「私たちこんなに楽しかったんだよ。でも、そこにあなたが居なくて寂しくてとても残念だったわ」というようなニュアンスです。会話ではよく使います。アルファベットでも表記しておきますね。jaa-e-shomaa khaalii bud です。アーやリー の伸ばす部分はaaのように二つ書きました。ハーリーは haarii ではなくてkhaalii ですから、ハはhではなくてkh ですから、喉の奥をこすって音を出して下さい。リーの音は英語のエルです。ペルシャ語の場合発音でむつかしいのはこのkh位ですが、すぐに慣れますし、相手も理解してくれるので神経質になる必要はありません。

ついでに「私、寂しくなっちゃった」は دلم تنگ شد   delam tang shod デラム タング ショッド です。دلم   は دل من ということです。心という意味のデルdelと私のマンmanをくっつけています。タングはさみしいですから「私の心がさみしかった」「私寂しかったよ」です。ショッドは英語のbecomeの過去形です。今さびしいよと現在形がいいならショッドの部分をbe動詞現在のastでいいです。日本語では私が寂しいなら主語は私になりますが、この場合のペルシャ語の主語は「私」ではなく「私の心」ですから、三人称になります。

最後にもう一つ 「私の心は燃えている」ならデラム ミスゼ

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ペルシャ語講座25:有用表現 عیب ندارد

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今回はよく使われる表現、覚えておくと便利な表現を一つ紹介しましょう。それはタイトルに記した عیب ندارد です。
عیب ’eib  エイブ とは欠点、欠陥、不名誉、恥というような意味が辞書にはでてきます。
ندارد  の原形は داشتن 「持つ」という意味の三単現です。
عیب ندارد エイブ ナダラッド ですが、エイブ ナドレ と発音するのが一般的です。
意味は「問題ないよ」「大したことじゃないよ」ですが、私の感覚では、例えば待ち合わせの時間より少し遅れた場合などに、誤ったとすると「エイブ ナドレ」と返ってきます。「何も問題ないよ」その後ろに「気にするな」というような意味合いを感じます。

一方で、相手が約束を守らなかったので責めたりすると「エイブ ナドレ」とちょっと開き直った感じで「大したことじゃないよ、何が悪いんだ?」というように感じたこともありました。

とにかく会話ではしょっちゅう出てくる言葉です。上の意味以外にももっと多くのニュアンスで使われていると思います。便利な言葉なのでぜひ使ってみて下さい。

 

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新シリーズ「オスマン帝国」:④ルーム・セルジューク朝

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さて、セルジューク朝の次はルーム・セルジューク朝である。大セルジューク朝には数多くの地方政権のようなものがあったとこれまでに述べてきた。ルーム・セルジュークもその一つであった。この王朝の始祖であったスライマーン・ブン・クタルムシュの父クルムタシュはセルジューク朝の創始者トゥグリル・ベクのいとこである。スライマーンは1071年のマンジケルトの戦の後、ニカエアを占領してルームの地に国家を建設したのである。・・・・13世紀に全盛期を迎えたが、カイホスロウ二世の時代にモンゴル軍の侵攻を受ける。1243年にキョセ・ダグの戦に敗れて、1277年以後イルカン国に従属することとなり、以後衰退し14世紀になって滅亡した。

十字軍とセルジューク朝
キリスト教徒の十字軍の遠征の目的はエルサレムの奪還であった。この時のエルサレムを占領したのがセルジューク朝である。キリスト教徒側はエルサレムを占領したセルジューク朝によって巡礼者が迫害されているという理由で十字軍の遠征を始めたのである。

1097年に第一次十字軍がビザンツ軍とともにニカイヤを奪い返すと、ルーム・セルジュークはコンヤまで後退した。その結果、12世紀のアナトリアはルーム・セルジューク朝とトルコ系のダニシュメンド朝、そしてアナトリアの西部でビザンツ帝国の三者に分割された状態であった(冒頭の図は講談社『興亡の世界史「オスマン帝国500年の平和』から引用させていただいた)。その後、ダニシュメンド朝はルーム・セルジューク朝に滅ぼされる。一方でヴェネチアに先導された第四次十字軍がコンスタンティノープルを征服してラテン王国を建てる(1204)事件があり、ビザンツ帝国はニカイヤに亡命国家を作るなど、アナトリアは混沌とした状態となったのである。ルーム・セルジューク朝もその後モンゴルによって滅亡するわけである。

この辺の歴史を今更に読み返してみると複雑極まりない。セルジュークとビザンツの関係も対立一辺倒だったわけではないようである。これらは本題ではないので深入りはしないでおくが、このような状況の中からオスマンが台頭してくることになるのであろう。

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新シリーズ「オスマン帝国」:②トルコ民族の台頭

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前回、宮田律先生の『中東イスラーム民族史』の名前を挙げて終わったのであった。その中公新書の126頁の一部を引用させて頂こう。
トルコ語を話す人々が最初に確認されたのは六世紀のことだった。その活動の地理的範囲は内陸アジアと東ヨーロッパで、内陸アジアでは六世紀半ばに、トルコ語を話す、つまりトルコ系の遊牧部族が台頭する。
この遊牧部族の支配層は、テュルク(突厥・とっけつ)と名乗っていた。540年ごろ、中国の北端に、柔然(じゅうぜん)という遊牧国家が存在し、モンゴリアとその周辺部分を支配していた。テュルクは柔然を滅ぼし、やはりトルコ系の鉄勒(てつろく)諸部族を服従させてモンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯までも支配する大帝国を築いた。

ということで、6世紀頃からトルコ語を話す人々の存在が歴史に現れてきているようだ。そして、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと支配を拡げていったのである。いつもお世話になっている山川出版の『世界史図録ヒストリカ』から次の図を引用させていただいた。

 

この図によれば、トルコ系民族は8世紀頃にウィグルのクチャやカシュガルにいたが、その後、西進しカラハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝を築いていった。ガズナ朝はその後インドのイスラム化につながっていった。トルコ系民族の王朝を平凡社『新イスラム事典』で見てみることにしよう。

カラハン朝 (840-1212):
中央アジアを支配したトルコ系イスラム王朝。王朝の起源についてはまだ定説がない。ブリツァクの説によると、840年にウイグル王国が崩壊すると、その支配下にあったカルルク部族連合体が独立、チュー河畔のベラサグンを本拠に新王朝を開いたとされる。サトゥク・ボグラ・ハーン(955没)の時代に初めてイスラムを受容し、続くムーサーの時代にあたる960年には20万帳に上る遊牧トルコ人がイスラム化したという。以後の諸ハーンは東トルキスタンのホータン、クチャなどの仏教圏に聖戦を敢行するかたわら、999年にはブハラを占領してサーマン朝を滅ぼし、マー・ワラー・アンナフルのトルコ化を促進した。しかし内部抗争のため、1041/42年にはシル・ダリヤおよびホーカンドを境に東西に分裂した。西カラハン朝は1089年セルジューク朝、1141年カラキタイ朝の宗主権下に入り、1212年ホラズム・シャー朝によって滅ぼされた。一方、東カラハン朝の首都カシュガルでは、最古のトルコ・イスラム文学作品『クタドグ・ビリク』が著される(1069/70)など、新たなトルコ・イスラム文化の萌芽がみられたが、1089年にはセルジューク朝、1132年にはカラキタイ朝の支配下に入り、1211年ナイマンのクチュルクによって滅ぼされた。

ガズナ朝 (977-1186):
アフガニスタンに興ったトルコ系イスラム王朝。サーマン朝のトルコ人マムルーク、アルプティギーンは逃亡してアフガニスタンのガズナの実質的な支配者とない、以後マムルークたちが次々に権力を握った。サブクティギーン以降は世襲となり、インドへの侵入を開始、その子マフムードは遠くソムナートまで遠征してヒンドゥー教寺院を破壊し、イスラムの擁護者としての名声を得るとともに、多数の略奪品を得た。彼の時代が最盛期で、その版図は、イラン中央部からホラズム、パンジャーブにまで達した。軍隊の中核はトルコ人などのマムルークによって占められ、官僚にはイラン人が用いられた。公用語は主としてペルシャ語で、多数のペルシャ詩人が宮廷に出入りしたが、インド遠征に同行して記録を残したビールーニーのように、アラビア語で著作を行う学者もあった。第五代のマスウード時代には、セルジューク朝によってホラズム、ホラーサーンを失い、12世紀にはセルジューク朝のサンジャルに服属して貢納を行うようになった。同世紀の中ごろにはゴール朝にガズナを奪われ、最後はラホールで滅亡した。

セルジューク朝(1038-1194):
トルコ系の王朝。トゥルクマーンの族長セルジュークは、カスピ海、アラル海の北方方面より10世紀末にシル・ダリヤ河口のジャンドへ移住してムスリムとなり、ガージーを集めて勢力をなした。その子イスラーイールは、サーマン朝、次いでカラハン朝、ガズナ朝と同盟して力を伸ばした。その甥のトゥグリル・ベク、チャグリ・ベクらは、1038年ニシャプールに無血入城し、40年にはダンダーナカーンの戦でガズナ朝軍を破り、ホラーサーンの支配権を手中に入れた。55年にトゥグリル・ベクはバグダードに入り、アッバース朝カリフより史上初めてスルタンの称号を公式に受け、当方イスラム世界における支配者として公認された。・・・

セルジューク朝の記述はまだまだ続くのであるが、トゥグリル・ベクがスルタンの称号を得たということで、セルジューク朝は大きな王朝になるので、これについては改めて取り上げるほうが妥当であろう。
セルジューク朝が台頭してきたところで、トルコ系民族がオスマン帝国を築くに至った民族の大きな流れが掴めたようである。

 

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書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その2

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「その1」をアップしたのが、2019年6月であったから1年以上の長い時間が経ってしまいました。ペルシャの詩のほうに寄り道したせいであったかもしれません。まだまだ紹介したい部分があるということで締めくくっているので、もう少し彼の詩を紹介したいと思います。

酒が欲しくなるとき
飲酒をとがめる人よ
 いつ君は愚かになったのか?
私に別な忠告をしたほうが
 君には似つかわしい。
とがめる人に我々が従うくらいなら、
 アッラーに従っていたことだろう。
飲み友達よ、朝酒の盃をほし給え。
 そして、私にも注いでくれ給え。
私は世人に非難されると、
 ますます酒が欲しくなる。

震える指
飲み友達は二日酔いが続き、
 指に震えがきている。
右手を左手で支えてやらないと、
 盃をもっていられない。
夜半、私が彼に盃をさすと、
 彼はもっと欲しがり、更に欲しがった。
彼は言った。「私を落ち着かせるため、
 もう一杯、私はもっと欲しいのだ」
これが毎夜の二人の習慣、
 私が余計に注ぐと、彼は更に求める。
やがて倒れてしまうが、彼は知らない、
 大地の上に寝たか、部屋の中に寝たか。

僧院の朝酒
鐘の音が君に暁を告げ、
 修道士が僧院で祈り声をあげた。
酔漢が酒を恋しがっている。
 雨が降り、時は春だ。
君は庭園を見廻し、
 緑の草、黄色の花に笑いかける。
さあ、飲み友達に酒を与えよ、
 雨の一滴をまぜた上で。
肴はラヴェンダーや睡蓮、
 そして色とりどりの花の飾りだ。
野原のここかしこで、
 白い若鹿が草を食んでいる。
すばらしいものは僧院の朝酒、
 そして一年の中で四月。
腰に帯をまいた者よ、
 聖なる酒場で、ユダヤ人の祭日に。
私を知っているなら、注がないでくれ、
 私の胸にひめたもの以外は。
君の知っている私の好物を持ってこい。
 酒であれば、名は何とでもつけよ。

不思議なもの
もし酒が私の食べ物だったら、私は幸せだ。
 食事を待たずに酒だけを飲んでいればよい。
酒は不思議なもの、君はそれを飲む。
 飲むがよい、たとえ酒が君に罪を負わせようとも。
生の赤酒をとがめる人よ、
 君は天国へ行け。私は地獄に住まわせてくれ。

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今回は飲酒詩の中から4編を紹介した。素直に味わっていただきたい。何も難しいことを詠ってはいない。ただ、酒を愛する気持ちの発露である。イスラム社会に生きた酒飲みである。少しは罪に気持ちも抱いている。大ぴらに、酒を扱うのは異教徒である。「僧院の朝酒」で「腰に帯をまいた者」はユダヤ人である。酒飲みの私としては共感すること大である。少し長いので今回紹介していないが「酒と船」の書き始めで今回の結びとしよう。

 悩みごとが生じたら、盃で癒し給え
 悩みごとなどなくなるように。

アブー・ヌワースは酒で有名な詩人であるが、美しい恋愛詩やたしなめの詩、禁欲詩なるものも書いている。またの機会に紹介することにしよう。

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