Khatam Kari خاتم کاری 象嵌細工のこと

イスファハーンの名所を紹介しているついでに、イランの工芸品を紹介しておこう。工芸品というとペルシア絨毯がその筆頭であろうが、格が違うのでそれはまた別途扱おう。イスファハーンのお土産というとお菓子のギャーズだろう。日本ではヌガーという飴のようなものだ。大小さまざまなサイズの布に草木インクで唐草模様や花模様をスタンプした更紗が手ごろな価格でお土産にはもってこいだ。いまは化学染料インクも使っているが、伝統的なものは絨毯用の糸を染めるようなインクを使うので長年使っても色あせないのである。私は大きなものを買ってベッドカバーに利用したことがある。もうベッドカバーとしては使っていないが、そのもの自体は色あせずに健在である。あと金物細工や木工細工などもあるが、今回はkhatam-kariを紹介したい。これはイスファハーンというよりもイランの工芸品と言った方がいいのかも知れない。テヘランでもいいものが買えるから。それから、今回もタイトルをkhatam Kariとアルファベットで書いているが、それはkhの音であるせいである。日本語ではハータムカーリイと書くのが普通のようだが、じつはハではないからである。喉の奥をこすってケェというように出すハの音である。だから私はハータムと書くことに違和感を覚えるせいである。例えば、これまでにもモンゴルの来襲で中東各地に建国された国々=チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、オゴタイ・ハン国などのハンもkhanなのであるが、これはもうハンに定着したかのような感もあるが、イル・カン国という言い方もある。チンギスハンの場合はカンを使うとジンギスカンになるのかな?もっと余談にいけば、日本では昔カーキー色という表現があった。土色である。語源はペルシア語の土 Khaak である。この場合、日本語はハーキー色ではなくカーキー色となっている。ペルシアの詩には「人は土から生まれ、土に帰る」という人生観が多出する。ペルシア語の学習を始めたばかりの人は日本語に入っているペルシア語に驚くのである。ほかにもペルシアではチャランポラン(チャラングポラングと聞こえるが)も使われていた。

さて本題のハータムカーリー(笑)である。象嵌細工のことである。この記事のトップの写真が一般的なお土産用のハータムカーリーである。表面をアップしてみると、次の通りである。

ラクダの骨、銅、貝殻、木などの材料を埋め込んで作った模様の板を薄切りにして箱などに貼り付けていく伝統工芸品である。次の写真のように、額縁の外枠に使われているものも多い。銅(真鍮)が使われているので、時間が経つと錆がでてくるが、常にきれいに拭いておくと美しさは保つことができる。チェス盤などにも使われることがある。写真はバックギャモンの盤である。実際に遊べるが、飾り物という感が強い。

イランというと、というよりは私たち日本人はイランだけでなく、外国人たちよりも繊細な細工をする技術力は上であると思いがちなのであるが(私の勝手な思い込みかもしれないが)、イラン人たちの技術も大したものである。先述の絨毯織りの技も素晴らしい。陶器にしてペルシアではその技術が途絶えたために、日本人の人間国宝・故加藤卓男さんが再現に成功したペルシアのラスター彩も美しいものである。そのような細かな手作業が得意な民族であるようだ。ここまで書いてきたなら、このハータムカーリーの額にいれるミニアチュールにも触れなければならなくなった。が、それは次回にしよう。

Sheikh Lotfollah Mosque、 シェイク・ルファッラーモスク、مسجد شیخ لطف الله

 

イスファハーンの名所を紹介しているが、今回はSheikh Lotfollah Mosqueである。イスファハーンで一番有名なモスクは長方形状の「王の広場(現イマーム広場)」の南側の辺に位置する「王のモスク(現イマームモスク)」であろう。そのモスクに向かって立つと、左側(東側)の長辺に位置するのがタイトルのモスクである。Sheikh Lotfollahモスクという名であり、サファヴィー朝の名君アッバース大王がレバノンから招いた人の名前である。彼は最初マシャド(Mashahd)に呼ばれた後に、先述の「王のモスク」およびマドレッセ(学校)の責任者としてイスファハーンに招かれたのであった。Sheikh Lotfollahの名が冠されたこのモスクが建てられたのは1602年~1619年である。

私がこれを取りあげたのは、このモスクの内部が非常に美しいからである。このブログのトップにランダムに現れる写真の中にも入れているのであるが、実に美しい。私が写した素人写真ではどこまで伝わるかは分からないが、それなりに美しさは分かってもらえると思う。モスク内部に入る光の具合でも変化するので、一日に何度訪れても楽しめるモスクである。

スィー・オ・セ橋 ( Si-o-se-pol  سی‌وسه‌پل )

 

今回もイスファハーンの名所を紹介する。前回のアーテシュキャデからイスファハーンの町を見ると緑が豊かであった。ザーヤンデ・ルード(ルードは川という意味)という名の大きな川がある。この川の水がイスファハーンの重要な水源である。Si-o-se-pol はこの川に架けられた橋の通称である。Si-o-se-とは数の33で、-pol は橋という意味である。33の橋ということになるが、写真でみるとわかるように、美しいアーチの部分が33あるのであろう。私は実際に数えたことがないが。

この橋が建設されたのはサファヴィー朝の時代、アッバース1世治世の時である。1599年~1602年に造られた。サファヴィー朝時代を代表する構造物の一つである。橋であるがダムの役割をも兼ねている。そして、人々がレクレーションに集う場所でもあった。建材は石と煉瓦。全長297m、幅約15mで、二階建ての構造になっている。私が最初に訪れた時は1972年頃であったが、水は沢山流れていたが、その後、訪れるたびに水量は減っていた。写真は最後に訪れた時のものであるが、9月初めという季節のせいもあるが、表面には水はなかった。暑い日であったが、この日も橋の上を楽しくお喋りしながら歩く人が沢山いた。残念ながら夜景の写真は持っていないが、夜の橋の景色は一段と美しいのである。

この橋のかかるザヤンデ川には他にも美しい橋がいくつもあるのだ。Khaju橋やチュービ橋などがそれである。

イスファハーンのアーテシュキャデ ・Ateshkadeh ・ اتشكده‎

イスファハーンについて述べてきたので、ついでにイスファハーンの観光名所を紹介しよう。まずは、タイトルの「アーテシュキャデ」である。以前にゾロアスター教を紹介したことがある。この宗教は拝火教と日本語に訳される通り、火を崇める宗教であった。このアテシュキャデはその火を祭っていた場所である。すなわち神殿の場所である。イスファハーンの中心部から車で30分位で行ける郊外にある小山の上に、この神殿はある。小山といったが、木が全然生えていない、はげ山で登り道もザラザラに削れていて、滑りそうであった。9月であったので、まだ太陽がギラギラと焼けつくように暑かった。勉強不足だったので、どの部分が拝火殿なのかなどは分からなかったが、土で作られた構造物があって、そこがそうなのであろう(笑)。

はげ山の様子が良く分かると思うが、アラブの服を着た男性と、黒い衣類をまとった女性が登っていく風景が印象的だった。頂上でしばらく構造物を観察したが、ここには心地よい風が吹いていた。次に示す若いカップルがいたので話を聞いてみた。遠距離交際中の二人であった。女性が地元イスファハーンにいて、男性はテヘランの大学生とのこと。夏休みで帰省中とのことで、今日はデートだった。

最後の一枚は頂上からの町の風景である。緑の多きことに気が付くだろう。イランは乾燥した砂漠の国であるが、水を有効に集めて利用している。人々の住むところはどこも緑豊かな町である。というものの、イスファハーンの河川も実際に行ってみると表面の水量は殆どなかった。上流で堰き止めて灌漑用に使用しているためである。その水の確保も次第に難しくなっているという。

 

サファヴィー朝(1)

さて、サファヴィー朝の歴史であるが、実はこの王朝が存続したのは上の系図が示すように1502年から1736年、11人の王の200年少々にしか過ぎないのである。イスマイル1世がトルコ民族の支配下から脱出・独立してタブリーズを都としてペルシア全土の統一に成功し、シーア派を国教としたのであった。前回、イスファハーンがサファヴィー朝の都であったと述べたが、イスファハーンが都となったのは1598年からのことである。

サファヴィー朝というのは元々はサファヴィー教団という神秘主義教団に源があります。15世紀の中ごろに騎馬遊牧民の戦士を組織して、戦う教団となったときに、シーア派十二イマーム派であることを表明した。戦士たちは赤い印をつけたターバンを巻いていたのでキジルバシ(赤い頭)と呼ばれていたのである。新たな王朝を建設したものの、西にはオスマン帝国という大国が控えていた。1514年にはオスマンとの戦いで大敗を喫し、その後もオスマンの圧力を受ける苦しい時代が続くなかで、十二イマーム派の教義が整えられてきたのである。現在のイランがシーア派十二イマーム派であることは、この時の歴史の流れから発しているのである。

サファヴィー朝を代表する王といえば、アッバース1世である。通称アッバース大王(Abbas the Great)である。系図で見る通り、彼は第5代の王である。ではあるが、彼は幼いころに祖父からホラサーン地方の総督に任命されており、現地のキジルバシに守られて成長した。その後、第3代の叔父、第4代の父が王に就くが、ごたごたがありサファヴィー朝は衰退しつつあった。ごたごたのことは省略しておいて、17歳で王位について、第5代となったのである。シャー・アッバースである。シャーというのはペルシア語で王という意味である。オスマン帝国のスルタンに対してサファヴィー朝ではシャーが、それぞれ王に等しい権力者である。1979年のイラン革命で失脚してパーラヴィー国王はシャーハンシャーと名乗っていたが、それは王の中の王というペルシア伝統的な呼び方である。

アッバース大王は都をガズヴィンからイスファハーンに遷した。タブリーズから一度ガズヴィンに都がおかれたことがあり、そこからの遷都である。ガズヴィンとはテヘランの西方の比較的近い所である。余談ではあるが、イランで「あいつはガズヴィニー(ガズヴィンの人)だ」というと、深い意味がある。これは冗談であるが、日本なら「京都の着倒れ」「大阪の食い倒れ」とかいうように、土地ごとに揶揄される言葉があるのである。イスファハニー(イスファハーン人)は〇〇だとか。そんなことも知るようになると会話も弾むようになるのである。

シャー・アッバースはイスファハーンを首都にするにあたり、様々な工夫をした。旧市街と新都市との間に現存する「王の広場(現イマーム広場)」を作り、周りに「王のモスク(現イマームモスク)」等モスクや宮殿など公共施設、バザールなどの商業施設などを造り、周辺の発展を期した。イスファハーンが急速に発展した理由は他にもあった。それについては、次回にしよう。今回もイスファハーンの写真をどうぞ。

 

イスファハーンは世界の半分

この絵は有名な探検家ヘディンが描いたペルシア、イスファハーンの王のモスクである。イスファハーンと言えばサファヴィー朝ペルシアの都である。私のこのブログもとうとうサファヴィー朝にたどり着いたのである。私の手元には白水社発行のヘディン探検全集全14巻と別冊2巻がある。ヘディンは1865年2月19日生まれ、1952年11月6日87歳で没したスエーデンの地理学者である。誕生日は私と同じ日である。全巻を完全には読み終えていないのであるが、シルクロードやペルシアの辺りを何度も読み返している。彼は、道中の風景を自らが絵に描いているのである。カラーではないが、写真のように写実的に描かれている。現実の色鮮やかなモスクではないが、雰囲気のある私の好きな絵である。

サファヴィー朝ペルシアの歴史については、徐々に述べることにするが、まずイスファハーンについて話そう。イスファハーンはテヘランから南へ約340kmにある町である。サファヴィー朝の全盛期にはイスファハーンは世界で最も繁栄した都市であった。その繁栄ぶりを「イスファハーンは世界の半分」「Isfahan is  half of the world」「 اصفهان نصف جهان」と表現したのである。つまり、ここイスファハーンには世界の半分の富が集まっているという、豊かさを表した言葉である。先ずは私が写したイスファハーンの美しい写真をご覧あれ。

閑話休題:چهارشنبه‌ سوری Chahar Shanbeh Suri のこと

この数日は非常に暖かい日が続きます。名古屋は昨日18度で、今日はまた14度です。春が近くなりました。前に述べたことがあると思いますが、イランでは春分の日がノウルーズ、つまり新年になります。でも、今日はノウルーズを紹介するのではなく、その前に行われるチャハルシャンベ・スーリー (چهارشنبه‌ سوری ) について紹介しましょう。イラン暦とはイスラム暦の紀元と同じですが、春分の日を元日とする太陽暦であります。ですから、いまはもうイラン暦の12月です。12月は Isfandという名前がついています。日本なら12月は師走というのと同じことです。そして、ノウルーズ前の今年最後の水曜日の夜のお祝い行事がチャハルシャンベ・スーリーなのです。チャハルシャンベが水曜日という意味です。火のお祭りです。悪を象徴する暗黒に勝利する善を象徴する光を祝うお祭りです。この儀式の背後にある象徴性はすべて2500年以上以前のゾロアスター教に由来しています。だから、これはイスラムの伝統でもなく、アラブの部族や人々によって祝されるものではありません。ゾロアスター教に起源があるのですが、現在では宗教色の濃い行事でも、政治的な行事でもありません。これは暗黒の終わりを祝い、そして、希望に満ちた新たな光の始まりを祝うお祭りなのです。つまり、暗黒=寒い冬が終わり、光=暖かい春=新春・新年の到来を待ち望むお祝いの行事なのです。

人々は通りや路地で焚火を作ります。そして、歌いながら、その火の上を飛び越えます。歌の文句は 「あなたの赤(元気・健康)を私に、私の黄色(痛み・病)をあなたに!」というような意味で、無病息災を神に祈るわけです。

子供たちはお菓子を求めてスプーンや鍋を叩いて各戸を廻る qashogh-zani (スプーン叩き)ことなどもします。これはハローウィンと関係があるかもしれません。また、ku-ze shekastanといって、この一年の災いを打ち壊すというように、陶器を叩きつけて壊すとうようなことも行うようでした。

焚火の上を飛び越えるという行事から、私は日本でも同じような行事があることを思い浮かべるのです。全国あちこちのお寺などで火渡りの行事がありますよね。ゾロアスター教は2500年ほど前には存在していたし、紀元前10世紀ごろからとかも言われています。インドや中央アジア、中国などから日本にも伝わっている可能性もありますね。また、チャハルシャンベというのは水曜日のことなのですが、実際に行われるのは火曜日の夜なので、最初は不思議に思ったものでした。ここでも一つ勉強することになるのです。一日は日没から始まり、次の日の日没前に終わるのです。ですから、水曜日というのは火曜日の夜から、水曜日の夕方までなのです。

我が日本にも穏やかな平和な春がやってくることを祈って終わります。

画像の出所はイランのウェブサイト(tehran times, real Iran)より。

 

オスマン帝国(4)

上の画像は講談社発行「興亡の世界史10」の『オスマン帝国500年の平和』である。サブタイトルも見えているが、そこには「イスラムの名の下に多民族が共有した帝国」とある。時間の余裕のある人は図書館ででも借りて読んでもらいたい本である。さて、このブログではビザンツ帝国を滅ぼした後の歴史について、この本に記載されている年表から主な出来事をピックアップしてみたい。

  • 1453年、コンスタンチノープル征服
  • 1460年、ペロポネス半島併合
  • 1469年、白羊朝との戦いに勝利して、中央アナトリアを支配
  • 1492年、スペインなどからユダヤ教徒を受け入れ
  • 1501年、イランにサファヴィー朝が成立
  • 1514年、サファヴィー朝にチャルディランの戦いで勝利する
  • 1515年、東部・南部アナトリアを征服
  • 1516年、シリアを征服
  • 1517年、エジプト征服。マムルーク朝を滅ぼす。メッカ、メディナの支配者となる。
  • 1512年、ベオグラード征服
  • 1522年、ロードス島征服
  • 1526年、モチーハの戦いでハンガリー軍を破る
  • 1529年、ウィーン包囲
  • 1538年、プレヴェザの海戦でヴェネチア・スペインの合同艦隊を破る
  • 1543年、フランスと協同でニース攻撃
  • 1557年、建築家シナンにより、スレイマニエ・モスク完成
  • 1571年、レパントの海戦でヴェネチア・ハプスブルク家などの連合艦隊に敗れる
  • 1574年、チュニス奪還。チュニジアを属国に。
  • 1579年、サファヴィー朝とコーカサスとアゼルバイジャンを巡って戦争始まる
  • 1587年、サファヴィー朝にアッバース1世即位し、コーカサス、アゼルバイジャンを奪還
  • 1606年、シリアでジャンボラットオールの乱
  • 1622年、イェニチェリが反乱。オスマン2世殺害
  • 1639年、サファヴィー朝とカスレ・シーリーン条約
  • 1672年、オスマン帝国ヨーロッパ側の領土最大に
  • 1683年、ウィーン包囲(第二次)失敗
  • 1699年、カルロヴィッツ条約。ハンガリー・トランシスヴァニアをハプスブルグ家に割譲
  • 1718年、パッサロイッツ条約。ベオグラード周辺を失う。

周辺諸国との争いを続けながら領土を拡大していったことが良く分かる。そして、このころから領土を逆に奪回されるようなことも起きてきていることも分かる。

  • 1740年、フランスがカピチュレーション改訂版を獲得。カピチュレーションとは生命・財産の安全,治外法権(領事裁判権,免税)などの保障を在留外国人に特権的に認めることを定めた国際的条約のことである。このような特権を一国に与えると、同じように強国から要求されることにもなるのである。

 

  • 1768~74年、露土戦争。チェシュメの海戦でロシア軍に大敗。1787~92年、第二次露土戦争。クリミアを露が併合。ロシアとの戦争はこのあとも何度か繰り返す。

次第にオスマン帝国は衰退へと向かっていく。この年表の所々にサファヴィー朝が出てきたのであるが、サファヴィー朝はオスマン帝国の東側、つまり今のイランに位置したペルシア帝国である。ペルシア帝国はアケメネス朝、ササン朝、そしてこのサファヴィー朝とまさに興亡の歴史そのものの帝国である。西のオスマンと東のサファヴィーが同時期に覇権を争った両国である。両者の関係はスンナ派 ⇔ シーア派の対立でもあるのだ。

キーワード:オスマン朝、サファヴィー朝、露土戦争、カピチュレーション、ウィーン包囲、プレヴェザの海戦、カルロヴィッツ条約、レパントの海戦

オスマン帝国(3)ミマール・シナンを知ってますか?

多くの日本人がトルコ旅行をしているでしょう。そして、イスタンブールでモスク見学、バザールで買い物、少し遠出してカッパドキアやトロイの遺跡、コンヤで旋回舞踊を見たりとか。親日的な人々、美味しいトルコ料理(世界三大料理だとか)も人気のある理由でしょうか。オスマン軍楽隊が演奏するジェッディン・デデン(Ceddin Deden)は東洋的な響きもあり、私たちの心を鼓舞してくれるメロディーではないでしょうか。このように盛りだくさんの観光を楽しんできた方は沢山いることでしょう。そこで質問です。「皆さんはミマール・シナンのことを知っていますか?」

シナン(?~1588年)は土木工事のようなことを生業とする父親のもと、キリスト教徒の家庭に生まれた男です。オスマン帝国の仕組みの紹介の中に、デヴシルメという制度を紹介しましたが、シナンは正にそのデヴシルメで徴用されたのでした。そして、これまた紹介済みの図にあったように、イェニチェリ(スルタンの近衛兵)になるのです。とんとんと出世して軍団の長にまで昇格します。軍人として勤めあげたわけですが、この間にバルカン半島や様々な土地を訪れ、建築物や構造物に触れることから、そのようなものに対する興味・関心が強くなり、自らも勉強したわけです。軍の現場でも実際に土木・建築的な仕事をこなすようになったそうです。こまごまとしたことは、この程度にしておきましょう。

1539年にシナンは宰相から住宅を建設する役所の長官に任命されたのです。そして、・・・・で、晩年にはモスクの建築を手がけたのです。そう、今回皆さんに伝えたいのは、トルコを観光すると素晴らしいモスクを沢山見ることができます。シナンが造り上げたモスクも見ているのです。

オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしましたね。そして、ビザンツ帝国はキリスト教の立派な教会や建築物を造っていました。そこで、ビザンツ帝国がオスマン帝国に敗れた際に、彼らは「オスマンが俺たちに勝ったといっても、お前たちはこのような壮大なモスクや建築物はいつになっても造ることはできないだろう」と言い放ったとか。たしかに、キリスト教の大聖堂として建てられたアヤソフィアは立派です。あの大きなドームの屋根をイスラム教徒には造れはしないさ!といいうのが、敗れた側のセリフだったわけです。

シナンはオスマン帝国の建築家として見事にモスクを造り上げた人なのです。シェフザーデ・ジャーミイ、スレイマニエ・ジャーミイ、セリミーエ・ジャーミイなどが彼が建てた有名なモスクです。でも、もっともっと沢山あるのですよ。インターネットで調べると沢山でてくるので、自分で調べてみてください。

それはそれで、いいのですが、私は冒頭に紹介した夢枕獏さんが書いたこの文庫本を是非とも読んでもらいたいのです。アヤソフィアを見ながら、自分で作るモスクへの夢を実現するために努力する男の姿に引き付けられました。これは事実に基づいた小説なのですが、キリスト教徒の家に生まれた男が、いつかオスマン帝国というイスラム国家のために尽くしたという過程のなかに、葛藤がなかったのかとか、いろいろ考えてしまうのです。

キーワード:トルコ、オスマン帝国、ミマール・シナン、モスク、ビザンツ、アヤソフィア、

オスマン帝国(2)スルタンとは

前回、「オスマン帝国のしくみ」という図を示したが、その支配構造の頂点には突然「スルタン」が現れていた。イスラム世界ではムハンマド亡き後の後継者がカリフと呼ばれていた。正統カリフ4人もカリフであった。その後のウマイヤ朝もアッバース朝も最大権力者はカリフであったではないか。ただ、アッバース朝の衰退とともにイスラム世界の分裂も進んでいたことは既に述べた。アッバース朝にはカリフがいる状況で、後ウマイヤ朝の指導者もカリフを名乗った。イスラム世界の頂点にたって共同体を牽引してきたのがカリフであった筈である。イスラムという宗教の指導者=精神的な指導者、同時にイスラムは政教一致的な共同体であるので政治的な、あるいは軍事的な面でも指導者の役割をもっていた。イスラム世界に1人というのが本来の姿である。

アッバース朝時代には、先ほど述べた後ウマイヤ朝とエジプトのファーティマ朝君主がカリフを名乗ったので、同時期にイスラム世界に3人のカリフが存在したことがある。モンゴルの侵入により、1258年にアッバース朝が滅び、カリフ制度は途切れる形になった。その後、マムルーク朝でスルタンを名乗るバイバルス1世がアッバース朝のカリフの末裔をカリフとして擁立した。スルタンの権威にお墨付きを与えようとする実権のない形式的な擁立である。1299年にオスマン帝国が興て、1517年にマムルーク朝を滅ぼすと、カリフはオスマン帝国へ連れていかれた。オスマン帝国には実権を有するスルタンとバックに形式的なカリフがいたわけである。

カリフやスルタンという位置づけをこまごまと述べてきてしまった。私の勝手な解釈も含んでいるが、分かりやすく言うと、江戸時代の日本でいうとカリフは天皇でスルタンが将軍であろう。さらにイスラム世界ではアミールなどという語句もでてくる。これは地方を統括する総督のような者が、権力を蓄えてきたときに、ある程度の自治を与えられたときに、称号として与えられたものか。大名に相当かもしれない。

オスマン帝国では、スルタンを中心にした国家運営が行われたが、一つは宰相を頭に政治・軍事が行われ、一方でイスラム法学者の最高位であるシェイヒュル・イスラム職の下でウラマー(イスラムの学者・宗教指導層)がイスラム教徒の生活になくてはならない存在であった。