イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

ペルシャ語講座31:数に関する表現

以前のペルシャ語講座14あたりで数の表し方を扱っています。今回は数に関連してもう少し詳しく述べて見たいと思います。
まずは1~10です。序数とは英語なら、first, second, third・・・というものです。

基数 読み方 序数 読み方
1 یک  yek  یکم  yekom
2 دو do دوم dovvom
3 سه se سوم sevvom
4 چهار chahar چهارم chaharom
5 پنج panj پنچم panjom
6 شش shesh ششم sheshom
7 هفت haft هفتم haftm
8 هشت hasht هشتم hashtom
9 نه noh نهم nohom
10 ده dah دهم dahom

1に対して1stは yekom ですが、yek を yak と発音する人は yakom と発音しています。しかしながら、普通はアラビア語由来の avval アッヴァルを使うことの方が多いでしょう。例えば first night なら شت اول シャベ・アッヴァル というわけです。farvardin 月の最初の日 なら روز اول فروردین  ルウゼ アッヴァル ファルヴァルディン となります。

以後、箇条書き風に述べていきましょう。
一度や二度という場合の言い方は yek daffe,  yek bar, yek martabe でいいでしょう。二度なら yek の部分を do ドウにして下さい。daffe, bar, martabeは回数や度数などを表す言葉です。それぞれ دفحه بار مرتبه と書きます。

日本語では物を数えるときに例えば本なら冊、動物なら頭(トウ)などと付けますが、ペルシャ語も同様です。
2頭の馬=دو رأس اسب  ドウ ラス アスブ
2冊の本=دو جلد کتاب  ドウ ジェルド ケターブ
2人(二人)=دو نفر  ドウ ナファル
鉛筆のような小さなものの場合は adad を使って 彼は5本の鉛筆を買った پنج عدد مداد خرید
複などの場合は dast を使って、私は1着のスーツを買った یک دست لباس خریدم
一軒の家を彼は買ったの場合は門という意味のba-b باب を使って、
یک باب خانه جرید
卵のような小さなものは da-neを使って、彼は卵を10個持ってきた
ده دانه تخم مرغ آورد
まだまだ沢山ありますが、これ位にしておきましょう。

カップ一杯のお茶=یک فنحان چای  yek fenjan chai   イエク フェンジャーン チャイ
コップ一杯の水=یک لیوان آب  yek livan a-b  イエク リヴァーン アーブ

 

ペルシャ語講座30:夏の言葉

暑い夏が続きます。先日は岐阜県多治見市で40度超えました。その前の日に多治見のスーパー銭湯に行ってきたのですが、その日もかなり暑かったです。暑いと言えば中東地域は非常に暑いことは言うまでもありません。でも、中東と言っても広いので、場所によっては差があるのは当然です。私がよく知っているのはイランですが、テヘランの夏は非常に暑かったことを思い出します。40度は軽く超えてました。でも湿度が低いので陰では爽やかさを感じることができました。

初めてイランに行ったのが1971年でしたが、その当時の私の会社の勤務は午前と夕方の2部に分かれていました。昼に一度家に帰って、食事して昼寝などの休憩をして、夕方会社に戻るという方式でした。私は独身でしたし、昼寝をする習慣もなかったので、よくホテルに行ったものでした。そこでサンドイッチ程度の軽食を食べて、屋外プールを利用したものです。裸になり一度プールに入って、プールサイドに上がると、気化熱が働いて身体から熱が奪われて寒い位になりました。そんな風な形で避暑をしていました。そのホテルの名はVanak hotel でした。そのころは日本からJALが飛んでましたので、日航の客室乗務員の女性たちの宿泊ホテルになっていたので、プールサイドには彼女たちがいて癒されたものでした。

今回は、暑さや寒さに関する言葉などを取り上げて見ましょう。
暑い季節の夏はターベスターン=تابستان で、反対の冬はゼメスターン زمستان です。春はバハールبهار   秋はパーイーズ  پاییز です。季節は ファスル fasl  فصل です。
暑いときはプールで泳ぎます。プールはestakhr エスタックル استخر : 海は  ダルヤー دریا 湖はダルヤーチェدریاچه  川はルードハーネ رودخانه です。私は」プールで泳ぎました= ダル エスタックル シェナー カルダム = در استخر شنا کردم いつも言うように動詞の語尾が一人称を示しているので、マンは不要です。泳ぐは シェナー カルダン です。
暑いは ギャルム گرم  寒いは サルド سرد  うだるように暑いはダーq داغ です。ギャルムは暖かいときも使えますから、暑いは非常にをつけてkheili ギャルムがいいかもしれません。だーqは沸騰するような暑さです。日本のような湿度の高い状態の形容詞は マルツーブ مرطوب です。

まだあまり長く書いていないのですが、クーラーを入れずに書いているので、非常に暑くなってきました。熱中症にならないように今日はここまでにしておきます。

オリンピック開催中:バレーボール「イラン―日本」戦

東京オリンピックが始まって、既に1/2程が経過しました。日本は柔道での結果が素晴らしく、金メダルが続出して勢いがつきました。卓球混合ダブルスの金メダルでも日本中が盛り上がりましたね。一方で、コロナ禍の下で「それどころではない!」という医療従事者や感染した人々も沢山いるのが現状です。7月末から東京の感染者が3千人超が続いています。4千人超の日もありました。私自身はコロナに関係なくオリンピック反対なので、一部の競技を静かにテレビ観戦しています。
そんな中、8月1日の男子バレーボールの予選を見ました。日本ーイランの試合でした。どちらもこの試合に勝てば決勝リーグに進出できるということで熱戦が繰り広げられました。このブログは中東寄りのサイトですので、どちらも応援しました。テレビに映るイランの選手の映像を写してインスタグラムにアップしました。ここにも紹介しましょう。

インスタグラムではイランの人々から「いいね」を頂きました。この時点では1-1という状態でした。その後1-2とイランがリードし、そのあと日本が踏ん張って2-2となりました。最終5セットに突入し、そこでも接戦の結果、日本が勝ったのでした。イランチームはアジアで一番強いチームだそうでしたが、開催国の利もあったのでしょうか。決勝リーグでの日本の勝利は厳しいのでしょうが、頑張ってほしいものです。

書籍紹介:Cambridge History of Iran

このブログが「イスラム・中東世界への招待」と題しているように、私は高校生時代から中東地域に興味・関心を抱いていた。きっかけは世界史で習った世界の四大文明のうちメソポタミア文明とエジプト文明の二つが中東地域にあったこと。そしてアケメネス朝ペルシャの都・ペルセポリスの写真が世界史の教科書の冒頭に載っていたことなどだった。また、日本には石油がないので海外から輸入しなければならない。中東にはその石油が豊富にあるのだった。日本は中東の国々と良好な関係を保っていく必要があると思っていた。当時はイスラムがどうのこうのという雑音は殆どなかったように思う。それだけまだ外国との関係が一般市民の間では薄かったと思う。

前置きが長くなったが今日の本題は書籍紹介である。冒頭にその本の画像をアップした。これでは厚さが分からないから次の画像をアップした。
かなり分厚い本である。8冊である。1巻から順に紹介すると:
1. The Land of Iran
2. The Median and Achaemenian Periods
3-1. The Seleu
cid, Parthian and Sasanian Periods
3-2. The Seleucid, Parthian and Sasanian Periods
4. From The Arab Invasion to the Seljuqs
5. The Seljuq and Mongol Periods
6. The Timurid and Safavid Periods
7. From Nadir Shah to the Islamic Republic である。日本語にすると:
1.イランの国土
2.メディア王国とアケメネス朝期
3.セレウコス朝、パルティア、ササン朝時代であるが、この3巻は2冊である。
4.アラブの侵入からセルジューク朝時代
5.セルジュ―ク朝からモンゴル襲来の時代
6.ティムールの時代からサファヴィー朝の時代
7.ナーデル・シャーの時代からイスラム共和国の時代  である。

普通イランの歴史というとアケメネス朝からのものが多いが、ここではその前身のメディア時代から詳述されている。アケメネス朝を創設したキュロス大王の前の時代はメディアがペルシャを支配していたのである。
イランというとペルシャである。ペルシャ帝国というと先ずアケメネス朝、そして我々日本に馴染みの深いササン朝であり、イランの歴史の中でもっとも繁栄したサファヴィー朝を想うのであるが、それ以外に数多くの王朝が歴史をつないだわけである。言い換えれば侵略されたわけである。

7世紀にアラビア半島でイスラムが生まれ、それが周辺世界へと拡大していった。ササン朝ペルシャはイスラムによって崩壊し、ペルシャはイスラム化していった。されど、イスラム化された社会の中で、ササン朝の文明までを築いてきたペルシャ人たちはイスラムの支配下の中でもその存在価値を発揮して生き残ってきた。アラブの侵略だけでなく、モンゴルの襲来によっても大々的な破壊が行われた。四方を海に囲まれた日本の歴史とは異なる血生臭い歴史である。老後のためにゆっくり読もうと思って買いそろえていた全8巻である。そろそろ読み始めることにしよう。

この歴史書はアマゾンで買うことができる。一冊3万円程する非常に高価なものである。私が買ったのはずっと前のことだからそれほどはしなかったが決して安いものではなかった。ボケ防止のためにも、宝の持ち腐れにならないように活用することにしよう。

ダマバンド山 5,671m

今回も山の紹介である。ダマバンド山 5,671m である。


イラン北部、首都テヘランの北東方70キロメートルにあり、アルボルズ山脈中にそびえる。同国の最高峰で標高5671メートル。アルカリ岩系の粗面岩、粗面安山岩からなる成層火山で、噴火記録はないが、山頂火口付近には噴気孔が多く、東~南側山麓(さんろく)には温泉がある。頂部は万年雪を頂く。1836年イギリス人W・トムソンが初登頂した。ゾロアスター教の霊地として知られ、南麓にある同名の集落(人口約5000)は著名な避暑地、行楽地である。(日本大百科全書より引用)

イランの首都テヘランは標高 1200m ほどに位置している。そして、町から北の方角には高い山が連なっている。冬は真っ白な雪に覆われていて、夏には溶ける。それが、大都市テヘランへの供給水となる。その連山がアルボルズ山脈の一部なのだ。テヘランから 66km 離れた北東方向にあるのが、ダマバンド山である。直接テヘランからは見えないが、テヘランからカスピ海方面へ抜けるいくつかのルートのうち、東ルートつまりチャールース方面へ抜けるルートを取るとダマバンド山の姿を見ることができる。飛行機を利用する場合は勿論見ることができる。標高であるが5,671m と記されているが、5611m や5610mというのもあるから、どれが正確化は分からないが、5600mほどの高さであることは間違いない。

イランに在住する日本人の間では、イラン富士と呼ばれている。冒頭の画像が示す通り、富士山のように形の美しい神々しい山である。
日本の旅行会社「西遊旅行」のウェブをみると、ダマバンド山へのツアーの企画も掲載されている。勿論、高山病対策などを要する山なので簡単なものではないだろうが、興味ある人はこのサイトを覗いて見るといいだろう。

 

イラン大統領選挙結果と州別の投票率

イランデイリー紙のオンライン版は選挙結果を報じています。その一部を自動翻訳したのが次の通りです。

内務省は土曜日、保守的な聖職者のライバルが敗北を認めた後、司法長官のSeyyed Ebrahim Raeisiがイランの第13回大統領選挙で62%近くの票を獲得したと述べた。Raeisiは、金曜日に投じられた2890万票以上のうち、1790万票以上を獲得した。これは、340万票を獲得した2位の候補者であるMohsenRezaeiをはるかに上回っている。アブドルナーセル・ヘマティは240万票以上を獲得し、セイエド・アミロセイン・ガジザデ・ハシェミは100万票近くを獲得した、とアブドルレザ・ラーマニ・ファズリ内務大臣は全国テレビで述べた。
イランには5900万人以上の有権者がおり、投票率は48.8%で、1979年のイスラム革命以来最低であった。Rahmani Fazliは、370万票が無効になったと述べた。

勿論、日本の各紙も報じているが、ここには落選した候補者の票数も記されている。また、今回の選挙は候補者の事前審査で民主穏健派がふるいにかけられたことで嫌気になった国民の多くが投票しなかったために、投票率が低いということが注目されたのであった。その投票率は48.8%であった。低いというが、日本の選挙と比べてどうだろうか。かなり高いように私は思う。保守強硬派を支持する層は積極的かつ組織的に投票したのであろう。

ペルシャ語日刊紙Hamshajri紙では、速報記事の中で各州別の投票率を前回の大統領選のそれと比較している。速報であるのですべての州が出そろってはいないが、それらを表にしてみたのが次である。

前回投票率 (%) 今回投票率 (%)
東アゼルバイジャン 65.0 44.0
北ホラーサーン 81.0 65.0
セムナーン 80.3 52.0
ガズヴィン 80.0 50.0
ケルマン 80.0 57.0
ケルマンシャー 70.0 45.0
ゴレスターン 78.0 57.0
ヤズド 93.0 57.0

前回の投票率が殆どの州で80%以上であったが、今回は50%前後となっているわけである。その差、30%の投票しなかった人は、投票したい候補者がいないために棄権したのであろう。もし、民主派、穏健派が候補者になっていれば、この投票率の差の30%を得ることができたであろう。そうすると保守強硬派は敗れることになる。前々回にロウハニ前大統領が選ばれたのは今回棄権した人たちが投票した結果の番狂わせであった。最高指導者たちは十分に情勢を把握しているがために、今回の事前審査では民主穏健派の候補者を一人も入れなかったのである。つまり、国民の欲している大統領の人物像をきちんと認識しているのである。そうである以上う、今回の保守強硬派と称される新大統領も強硬路線をひた走りすることはないであろう。最高指導者ハメネイがこの新大統領もコントロールしながらしたたかな外交を推進することであろう。

 

 

イランの大統領選挙

日本の新聞でも取り上げられているように、イランの大統領選挙に出馬する候補者7名が決まりました。とりあえず、イランの新聞に掲載されている候補者紹介のタイトルをここに紹介しておきましょう。
Hemmati: イランは大統領として経済学者を必要としている
前中央銀行総裁である彼は自分の経済面での専門性を生かそうとしている。
Jalili: すべての分野で大きな飛躍が必要
核問題について次期政権は消極的な姿勢をしては駄目だといっている。

Mehralizadehは:低所得者への現金配布を5倍に増やすことを約束します
前副大統領である彼は当選すれば貧困層や低所得者に支払われる現金支給額を5倍に増やすと述べた。
Qazizadeh-Hashemi :立候補は名声を獲得することを目的としていない
当選すれば、国民の参加を奨励し、国内経済への政府の関与を減らす方向に動くだろうと述べた。イランの経済は完全に公的部門によって運営されていると付け加えた。

Raeisi:当局は批判にさらされるべき
彼の描く政権は、国の高い住宅価格に対処し、若者の間での結婚を奨励するために、4年間の任期中に400万ユニットを建設する可能性があると述べた。住宅価格の高騰が、若者が結婚して家族を始める上で「大きな障害」であると付け加え、懸念を和らげるために手頃な価格の住宅を建設する努力をすると誓った。Rezaei :当選すればより効果的な外交を目指す
次の大統領に選出された場合、人々の時間を浪費するために提起された問題に対処することを容認しないだろうと述べ、より効果的で真の外交を追求すると付け加えた。イランは国際社会から距離を置くことはできないと付け加え、イスラム共和国は米国を含む一部の世界大国と利害が対立していると指摘した。

Zakani:リーダーが承認すれば米国と交渉すると言う
イラン・イスラム共和国の指導者アヤトラ・セイエド・アリ・ハメネイが許可を与えれば、彼の政権は米国と交渉すると述べた。

立候補を届け出た者は、立候補事前審査をパスしなければならない。そして、それを審査するメンバーを最高指導者が選ぶわけである。最高指導者の息のかかった者が選ばれ、彼らの審査結果も自ずから最高指導者の意向に沿ったものとなる。つまり、候補者に選ばれた人物はいずれも保守強硬派に近い人物である。これに対してブーイングを唱える者も多くいるが、最高指導者の権力は絶大なるものであり、どうにもならない。ロウハニ現大統領も改革派や保守穏健派の候補者を入れるように嘆願したともいわれているが結果は変わらない。

選挙は今月の18日に実施される。ライシ氏が最有力であり、信任投票に様なものであると言われている。いずれにせよ、現在、トランプからバイデンに米大統領が変わったことにより、米国が脱退したイランの核合意について交渉が行われているところである。今回の大統領選びは実は非常に重要な選挙であるのだが、これでは国民の意向を反映させることはできない。投票に行かない国民が増えることは必至である。

想い出の中東・イスラム世界:労働許可証

前々回に手書きの預金通帳をアップした時に、昔の労働許可証や居住許可証と一緒に机の中から出てきたと書いていたので、今回もまた想い出深い労働許可証を紹介してみることにする。次の画像は第一頁で顔写真のほかにパスポート番号や職業(コンサルティングエンジニア)、企業名、居住場所などが手書きされている。何事も手書きの時代であった。

次の頁(右側)には最初の労働許可期間が記されている。1971年12月27日~1972年6月26日である。私がイランに入国したのが11月初めであったから、1カ月以上を経た時点でこの期間の労働許可が下りたということだ。先ずは6カ月間の労働が認められた。そして、左の頁では6カ月後にまた、次の6カ月間が認められている。入国した時にはビザは不要であったが、3カ月の滞在しか認められていなかった。そして、長期に滞在するにはこのような許可が必要であった。認められなければ、例えばクウェートのような近くの国に一度出国して、再入国することにより、滞在期間を延ばす日本人が多かった。

次の画像の右側の頁が、その次の6カ月間である。そして、左の頁が1973年6月26日~1974年6月25日とあるように、やっと1年間の期間が認められた。1973年といえば、第一次石油危機の時、第四次中東戦争の時であった。日本では石油が高騰し、トイレットペーパーがなくなると長蛇の列ができた時代である。イランでは余りある石油のおかげで夜中の町も明かりが煌々と点いていた。

次の2頁の画像も1年ずつの期間が認められた。こうしてここまでで、4年半の滞在となった。最初の入国が25歳の少し前だったが、この時1976年6月には28歳になっていた。

そして次は右側が1976年~1977年で、左側が1977年6月~1978年6月である。この許可証の最後の頁である。私の年齢は31になっていた。もうどっぷりイランに漬かっていた。このままではイランのことしか知らないイランバカになることを恐れた。そこでしばらくは日本国内の勤務を申し出たところ受け入れられたのだった。1978年前半という時代は、1979年1月の革命の半年前の時代である。もうすでに各地で騒動が起きていた時代であった。でも、まだ我々外国人のところには正確な情報が届いていなかった。私が帰国したあとから、反国王、反政府運動が激しくなって、残された同僚たちは帰国するにもままならないという大変な困難に巻き込まれたのだった。私は家財道具を全て船便で出すこともできた最後の日本人だったろう。

革命が成就し、その後は出張という形で何度もイランを訪れた。革命後のイランは変わった。80年代に入るとイラクとの戦争も始まった。81年当時に訪問したときは、戦死者を弔う様子があちこちで見られた。この労働許可証の裏には私のイランにおける歴史が刻まれているのである。

想い出の中東・イスラム世界:手書きの預金通帳

 

机の中を整理していたら、昔のパスポートやイランの労働許可証、居住許可証などとともに、銀行の預金通帳がでてきました。1970年代のものです。最初に8500リアル預け入れて、何回か引き出して最後に9000リアル引き出して残高が1000リアルになっています。そのころのリアルの日本円との換算は1リアル=4円程度でした。ですから、最初の85000リアルは30万円程度になるわけで大金のようですが、実際には8万5千円位の感覚でしかありませんでした。いまリアルは非常に安いので遠い昔話のようです。今日のレートでは1米ドル=42,000リアルと出ていますから、先ほどの通帳の最初の85000リアルは今では2ドルちょっとでしかないわけです。

それともう一つ面白いのは金額の記載が手書きであることです。右端に担当者のサインがありますが、このようなもので良かった時代でした。古き良き時代の想い出です。