中東の世界遺産①:パサルガダエ Pasargadae

中東地域にも世界遺産は数多くあります。これまでこのブログでは、特に世界遺産として取り上げてはいませんが、記事にした事柄の中には世界遺産になっているものもあります。今後、中東の世界遺産にも世界遺産として目を向けようと思うのです。一回目はイランのパサルガダエです。

パサルガダエ
パサルガダエは紀元前6世紀にキュロス大王(キュロス2世)によって建てられたアケメネス朝の最初の都である。その領土は地中海東岸とエジプトからインダス川に至る広大な帝国であった。パサルガダエの遺跡の大まかな図を次に示そう。

数字の1のところがキュロス大王の墓である。そこから北東へ歩いていくと③王の謁見の間跡があり、その先に⑤住居にしていた宮殿跡がある。6の地点にはソロモンの牢獄という建造物がある。その先の7の地点は高台になっており、そこから全体を見渡すことができる。そこから見る風景は2500年前の廃墟でしかないが、それぞれの箇所で見る遺跡群は当時の栄華の様を忍ぶことができる。はじめから写真で辿ることにしてみよう。

東からパサルガダエに近づいていくと両側に立派な並木が現れる。その道の奥の方にキュロス大王の墓が少しずつ見えてくる。到着して先ずはまっすぐにキュロス大王の墓に行く。

キュロスの墓を後にして東北に歩いていくと建物の基礎部分だけが残ったエリアに着く。このあたりが王の謁見の間のようだ。

更に歩をすすめるとResidential Palace of Cyrus になる。日本語ではキュロスが居住した宮殿ということだろう。建物はないが太い大きな柱が沢山建っている。キュロス大王の栄華の跡であろう。

この先に行くと、zendan-e-Soleiman ソロモンの牢獄と呼ばれる四角い石の塔のような構造物がある。次の写真であるが、これはゾロアスター教の拝火殿に近いものであるらしい。ナクシェ・ロスタムにあるゾロアスター教のカーバはより良好に保存された同様のものであるとか。

ペルシャ語講座27:慣用句 رستم در حمام 見掛け倒しの男

上の画像はイランのシーラーズの町にあるキャリム・ハーン城塞の壁にあるタイルの壁画である。私が写した写真である。描かれているのはロスタムである。少し大きくしてみよう。

ロスタムとはペルシア文学の建国叙事詩『シャー・ナーメ (王書) 』における伝説上の英雄。その武勇伝はフィルダウシーの『シャー・ナーメ (王書) 』の中心的部分をなしている。だからロスタムというと強い男というのが定着しているのである。そしてイランではロスタムの肖像が浴場の壁画として描かれることが多かった。入浴によってロスタムのように心身ともに壮健になるようにという意味合いであったようである。それが今回のタイトル 「رستم در حمام ロスタム ダル ハムマーム」訳すると「ハムマームのロスタム」であるが、いつの間にか「見掛け倒しの男」「見かけだけ強そうな男」となっているのが面白い。機会があれば使ってはいかがでしょうか。日本人が言うときっと面白がってくれるように思います。

地下水路カナートについて

上の図はカナートの模式図である。中東地域の至る所で見られる地下水路のことであるが、イランではカナートであるが、他ではカレーズと呼ばれるところもある。降水量の少ない地域ではこのような地下水路を建設して地下水を利用している。図では右側が山地、左側が平地になる。降ることは少ないが山地に近いところで降った雨が地下に沁みこむ、その地下の底に不透水層と呼ばれる岩盤などの層があれば、水はそれ以上下には沁みこまずに地下水となって蓄えられる。その地下水を狙って縦井戸をほり、そこから横に水路を掘っていくのである。縦井戸を掘るとそこで掘り出された土が地上の穴の周りに積まれることになる。だから、空からカナートを見るとドーナツのような円形が続いている風景が見える。砂漠地帯を飛行機で通る時によく目にすることができる。模式図では単純化されて描かれているが、実際には非常に長いものである。数キロから数十キロのものまである。カナートの終点で露出したところが池であり、オアシスであって、村人を支えているのである。

インターネットでカナートのことを見ていたら2020年4月26日のTehran Timesの記事があった。見出しは「世界最長のカナートが修復中」とあった。その記事によれば、その水路はイランのヤズドにあるが、最近の洪水により土砂が流れ込んだようである。以下に新聞の写真を転載するが、冒頭の図に見るような単純な井戸ではなく、かなり大きな構造物のように見える。

私がカナートのことを知ったのは学生時代に受けた「西南アジア事情」という授業の中であった。その時に先生(確か京大から非常勤できていた末尾先生)が「このカナートに魚がいることがあるらしい。そして、その魚は白くて目が見えないらしい。」と話したのだった。先生が「らしい」と言ったのは先生自身が見たわけでなく、書物からの伝聞であったからである。その本の名は『Blind White Fish in Persia』であった。なぜ、そんな人工的な地下の水路に魚がいることが不思議であったし、さらに地下で日の当たらないところなので色は白く、目も見えないというのが神秘性を感じたのだった。

私自身、旅行中に道路の脇にカナートが見えた時に、車を降りてカナートの近くまで行ったことがある。近くで見ると竪穴の直径は3メートル以上はあって、意外と大きかった。竪穴から人が入り、横穴を掘っていくわけである。灯とりに蝋燭の燭台を使うと聞いた。それは灯とりだけではなく、酸欠の危険から身を護るためでもあるとも聞いた。いずれにせよ。地下での仕事である。土砂の崩壊などのリスクもあるだろう。私のような閉所恐怖症の者には耐えられない仕事である。皆さんも砂漠を横断するような道路を走る機会があったなら、少し注意して周りを見渡してみてはいかがでしょうか。

さきほど『Blind White Fish in Persia』という本の題名を記したのであるが、1972年頃、テヘランの書店でこの本を見つけたので、買ったのであった。今では古びているが書棚の隅に置かれている。表紙カバーはボロボロである。中の画像を少しここにアップしておこう。


表紙と中表紙

カナートの掘削風景と内部

内部

 

 

ペルシャ語講座27:有用表現 دست شما درد نکند ダステ ショマー ダルド ナコネ

今日の覚えておきたい表現は دست شما درد نکند  です。文字通りの発音をアルファベットで書くと、 dast-e-shoma dard nakonad ダステ ショマー ダルド ナコナッド ですが、最後のナコナッドは会話ではナコネとなります。دست dast はのことです。ショマーはあなたですね。دست شما で貴方の手 になります。あなた と  の間には何も書きませんが、ダストの最後にe エをプラスして、ダステ ショマー で貴方の手となります。プラスするエのことをエザフェと呼びます。私の本の場合は ketab とman  なので私の本はketab-e-man ケターベマン です。ペルシャ語の参考書などでは ketab-e-man と表記されることが多いために「ケターブ・エ・マン」先ほどの例では「ダスト・エ・ショマー」などと間違って発音してしまっている人がいるのでご注意下さい。
話を基に戻しますと、貴方の手=タステショマーでして、つぎの درد dard ダルド は痛みという意味です。 نکند はکردن 英語のdoの三人称単数現在 に否定形のナが付いたもので、don’t の意味です。合わせて、痛くするなということです。最初から通すと「あなたの手を痛くするな」となります。日本語の「お手数をおかけしました」に相当するセリフです。原文の意味にもう少し近く訳すと「お手を煩わさないでください」という感じですね。ありがとうとお礼を言う際に使える便利な言葉です。

ついでですが、ナコナッド ➡ ナコネ になるという部分について補足しておきましょう。go رفتن ラフタン を例に説明します。

go رفتن ラフタン
میرون miravam ミラヴァム miram ミラム
میروی miravi ミラヴィ miri ミリ
میرود miravad ミラヴァッド mire ミレ

上の表は英語のgo、ペルシャ語のラフタンの現在形の上から一人称単数、二人称単数、三人称単数形を並べたものです。
教科書ではそれぞれミラヴァム、ミラヴィ、ミラバッドと発音するように習うわけですが、会話では右側の部分になります。ミラム、ミリ、ミレというわけです。これはわざわざ覚えることもなく、使っていると自然に身についてくるものです。例えば、ミラヴァムを何度も繰り返し早口で行ってみると、ミラムになってしましまうような気がします。他の単語も一つ一つ書けばいいかもしれませんが、今日はここまでにしておきましょう。こんな言い方はありませんが、ダステ マン ダルド ナコネ です。

 

ペルシャ語講座24の答え

ペルシャ語講座24で示した平易な文の日本語訳です:
این منزل ماست これは私たちの家です。
منزل ما است がمنزل ماستと短縮されています。
آن باغ مال کیست あの庭は誰のものですか。
آن باغ مال من است あの庭は私のものです。
پدر این بچه کجاست この子供の父親はどこにいますか。
این اطاق پنجره دارد この部屋には窓があります。
کتاب شما روی میز اسب あなたの本は机の上にあります。
مردی بمنزل ما آمد 男の人が我々の家に来ました。
پسر او بیرون اسب 彼(彼女)の息子は外にいます。
دختر من گربه دارد 私の娘は猫を持っています(抱いています)
آنهارا در باغ دید 彼ら(彼女ら)を私は見ました。
این زن کتابی بمن داد この女性は私に一冊の本を与えました。
کجا رفت 彼はどこに行きましたか。
بشهر رفت 町に行きました。
کتاب و مداد روی میز است 本と鉛筆が机の上にあります。
مادر شما بمنزل ما آمد あなたのお母さんが私たちの家に来ました。
اسب او توی باغ است 彼の馬が庭の中にいます。
این منزل مال ماست この家は私たちのものです。

いかがでしたか。 مال は「誰々のもの」というときの「もの」に相当します。マーレ・マンで私のもの。マーレショマーであなたのもの。あの家は私のものですのように使います。

小川亮作とサーデク・ヘダーヤト

前(2020/12/25)に投稿した小川亮作訳のルバイヤートの冒頭で小川訳とサーデク・ヘダーヤト編集のものが同じように八つのパートに分けられていることに気づいたと記した。そのあと、関連資料を読んでいると、それは当然のことであった。つまり、小川亮作氏はサーデク・ヘダーヤトが編集したルバイヤートを訳したということであった。小川氏が訳した元の版を調べておけばこのような初歩的なミスはなかったはずで、お恥ずかしい。

私の勝手な思い込みで、小川良作さんはかなり昔の人であり、ヘダーヤトは私たちと同世代の作家と思っていたのだ。というのは、私が1970年代にテヘランに住んでいたころ、会社の寮のようなフラットに居たり、ペンションに移ったり、はたまたフランス人夫人の家に下宿したことがあったのだが、そのフランス人がヘダーヤトと知り合いだったと話したことがあったのである。私が25-26歳ころである。ヘダーヤトの名前は知っていたが、フランスで自殺したことぐらいしか知らなかった。彼の作品も読んだことがなかった。だからそんなに前の時代の人だとは思ってもいなかったのである。この際、きちんと調べとこうと思う。

サーデク・ヘダーヤト (Sadeq Hedayat) صادق هدایت :
彼は1903年生まれとあるから、明治36年生まれということになる。私の父親が明治37年生まれであったから、父親とほぼ同じ齢ということだから、それほど昔の人ではない(笑)。では、小川亮作氏はどうであろうか。

小川亮作:
1910年生まれ。つまり明治43年生まれである。私の母が明治44年生まれであったから、私の母とほぼ同じ齢である。ロシア語を勉強して外交官になり、ペルシャに赴任した。テヘランに3年間滞在したあと1935年(昭和10年)に帰国した。滞在中にルバイヤートに魅せられて翻訳することとなったのである。岩波文庫の出版が1949年(昭和24年)である。1910年生まれであるから39歳での出版となる。私が生まれたのが昭和22年であるから、既に翻訳はされていたことになる。また、ヘダーヤト版のルバイヤートをペルシャにおいて愛読していたことも、納得がいくのである。

二人の関連が分かったところで、ついでと言ってはなんであるが、ヘダーヤトの作品を少し紹介してみたい。

まず日本語で読める作品を挙げるなら、やはり彼の代表作の一つである『盲目の梟』であろう。調べてみると1983/1/1発行で、白水社から「白水社世界の文学」として出版されていることがわかった。訳者は 中村公則である。絶版になっておりアマゾンの古書では1万円とか21,558円とかで出品されている。愛知県図書館には所蔵されていることがわかった。ということで簡単にはお目にかかることのできないのが実情である。私は英語版とペルシャ語版を持っている。次の画像はその表紙である。
アマゾンでは新刊は手に入らないが購入者のレビューが載っているので参考になるだろう。また、アマゾンで入手できる翻訳本は『が生埋め―ある狂人の手記より 』があるが、よく見るとこれも一時的に品切れとなっている。入手できるのは『サーデグ・ヘダーヤト短編集』2007年慧文社 発行がある。定価3000円(税別)。内容は「20世紀イランを代表する大作家サーデグ・ヘダーヤトが、第二次大戦前後の激動のイランにあって、時代の波に翻弄されつつ、ときにリアルに、ときには表現主義的に、ときには風刺的に、またときには内省的、哲学的に時代の諸相を描いた珠玉の選訳十篇。」と書かれており、作家の紹介は「1903年テヘラン生まれ。国費留学生としてベルギー、フランスへ留学。1930年に短篇集『生埋め』を上梓し、本格的に作家としてデビュー。1936年からの滞印中に執筆した前衛的小説『盲目の梟』は、のちにアンドレ・ブルトンらも賞賛するところとなる。ペルシア語による斬新な小説執筆に旺盛な創作力を示す一方で、イラン固有のフォークロアなどにも強い興味を示し民俗誌的傑作を多く残したほか、欧州の文学作品のペルシア語への翻訳にも優れた業績を残した。1951年4月逗留先のパリで自らの手で命を絶ち逝去」と書かれている。この短編集は私も読んだが、読んだ後「良かった」というような感情は湧かないのが殆どだ。人それぞれに受け止め方が異なるものだろうから、それ以上私情を述べるのは止めておこう。

もっと彼のことを知ろうとするなら、ウィキペディアでも詳しく知ることができる。また彼の作品について知りたければアマゾンUSA やBook Depository で彼の名前で検索すれば数多くの書籍がでてくるので参考にされたい。Book Depository での購入は世界中どこでも送料無料なので大変ありがたいのだ。

ペルシャ語講座24:基本単語と平易な文

またまた久しぶりのペルシャ語講座です。今日は基本的な単語と平易な文章です。
先ずは基本単語です。

مرد mard man 男、男性
زن zan woman 女、女性
پسر pesar boy, son 息子、少年
دختر doghtar daughter 娘、少女
پدر pedar father
مادر ma-dar mother
برادر bara-dar brother 兄弟
خواهر kha-har sister 姉妹
بچه bacche child 子供
کار ka-r work 仕事
اطاق otaq room 部屋
منزل manzel house
باغ ba-gh garden
گدا geda- beggar 乞食
شهر shahr city, town 市、町
بازو ba-zu forearm
راستگو ra-stgu truthful person 正直者
ایرانی i-ra-ni- Iranian イラン人
اسب asb horse
سگ sag dog
گربه gorbe cat
گاو ga-v ox, cow

基本的な前置詞を挙げておきましょう。

بیرون biiru-n out, outside 外に
در dar in 中に
تو tu in, inside
رو ru on 上に

続いて簡単な文章です。上の基本単語を利用して次の文章を日本語にしてください。先ずは自力でやってみて下さい。数日したら解答をアップいたします。
این منزل ماست
آن باغ مال کیست
آن باغ مال من است
پدر این بچه کجاست
این اطاق پنجره دارد
کتاب شما روی میز اسب
مردی بمنزل ما آمد
پسر او بیرون اسب
دختر من گربه دارد
آنهارا در باغ دید
این زن کتابی بمن داد
کجا رفت
بشهر رفت
کتاب و مداد روی میز است
مادر شما بمنزل ما آمد
اسب او توی باغ است
این منزل مال ماست

小川亮作訳『ルバイヤート』108~143「一瞬をいかせ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第8章「一瞬(ひととき)をいかせ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

いよいよ最後の章になりました。これまで1章、2章・・・8章と書いてきましたが、この岩波文庫版でそう章立てされているわけではありません。八つのパートに分けられているので、便宜上私が章としただけのことです。

イランで発行されているルバイヤートは数多くあります。イランの有名な作家サーデク・ヘダーヤトが編集したものが手元にあります。改めてそれを見てみるとルバイヤートの解説のあとに、143編の詩があるのですが、それは小川亮作さんが訳されたものと同じ内容でありました。こちらも8つの部分に分けられていて、それぞれに名前が付いています。ヘダーヤト版は岡田恵美子さんの訳で日本でも平凡社ライブラリーから発行されています(冒頭の画像はその表紙です)。それによると、8つのパートは章になっていて、それぞれの名前が以下の通りです。

1.創造、この不可解なもの
2.生きる苦しみ
3.太初からの運命
4、廻(めぐ)る天輪
5.土から土へ
6.なるようになるさ
7、無
8.一瞬を知ろう
それでは最後の章をお楽しみください。

一瞬《ひととき》をいかせ

108
迷いの門から正信までは、ただの一瞬《ひととき》、
懐疑の中から悟りに入るまでもただの一瞬。
かくも尊い一瞬をたのしくしよう、
命の実効《しるし》はわずかにこの一瞬。

109
たのしくすごせ、ただひとときの命を。
一片《ひとかけ》の土塊《つちくれ》もケイコバードやジャムだよ。
世の現象も、人の命も、けっきょく
つかのまの夢よ、錯覚よ、幻よ!

110
大空に月と日が姿を現わしてこのかた
紅《くれない》の美酒《うまざけ》にまさるものはなかった。
腑に落ちないのは酒を売る人々のこと、
このよきものを売って何に替えようとか?

111
月の光に夜は衣の裾《すそ》をからげた。
酒をのむにまさるたのしい瞬間《とき》があろうか?
たのしもう! 何をくよくよ? いつの日か月の光は
墓場の石を一つずつ照らすだろうさ。

112
あすの日が誰にいったい保証出来よう?
哀れな胸を今この時こそたのしくしよう。
月の君*よ、さあ、月の下で酒をのもう、
われらは行くし、月はかぎりなくめぐって来よう!

113
あわれ、人の世の旅隊《キャラヴァン》は過ぎて行くよ。
この一瞬《ひととき》をわがものとしてたのしもうよ。
あしたのことなんか何を心配するのか? 酒姫《サーキイ》よ!
さあ、早く酒盃を持て、今宵《こよい》も過ぎて行くよ!

114
東の空の白むとき何故《なぜ》鶏《にわとり》が
声を上げて騒ぐかを知っているか?
朝の鏡に夜の命のうしろ姿が
映っても知らない君に告げようとさ。

115
夜は明けた、起きようよ、ねえ酒姫《サーキイ》
酒をのみ、琴を弾け、静かに、しずかに!
相宿の客は一人も目がさめぬよう、
立ち去った客もかえって来ぬように!

116
わが心の偶像よ、さあ、朝だ、
酒を持て、琴をつまびき、うたえ歌。
千万のジャムシードやケイホスロウら
夏が来て冬が行くまに土の中!

117
朝の一瞬《ひととき》を紅《くれない》の酒にすごそう、
恥や外聞の醜い殻を石に打とう。
甲斐《かい》のないそらだのみからさっさと手を引き、
丈なす髪と琴の上にその手を置こう。

118
こころよい日和《ひより》、寒くなく、暑くない。
空に雲 花の面の埃《ほこり》を流し、
薔薇《ばら》に浮かれた鶯《うぐいす》はパハラヴイ語で、
酒のめと声ふりしぼることしきり。

119
花のころ、水のほとりの草の上で、
おれの手をとるこの世の天女二、三人。
世の煩《わずら》いも天国ののぞみもよそに、
盃《さかずき》にさても満たそう、朝の酒!

120
はなびらに新春《ノールーズ》の風はたのしく、
草原の花の乙女の顔もたのしく、
過ぎ去ったことを思うのはたのしくない。
過去をすて、今日この日だけすごせ、たのしく。

121
草は生え、花も開いた、酒姫《サーキイ》よ
七、八日地にしくまでにたのしめよ。
酒をのみ、花を手折《たお》れよ、遠慮せば
花も散り、草も枯れよう、早くせよ。

122
新春《ノールーズ》にはチューリップの盃《はい》上げて、
チューリップの乙女《おとめ》の酒に酔え。
どうせいつかは天の車が
土に踏み敷く身と思え。

123
菫《すみれ》は衣を色にそめ、薔薇の袂《たもと》に
そよかぜが妙なる楽を奏でるとき、
もし心ある人ならば、玉の乙女と酒をくみ、
その盃を破るだろうよ、石の面《も》に。

124
さあ、起きて、嘆くなよ、君、行く世の悲しみを。
たのしみのうちにすごそう、一瞬《ひととき》を。
世にたとえ信義というものがあろうとも、
君の番が来るのはいつか判《わか》らぬぞ。

 

125
大空の極《きわみ》はどこにあるのか見えない。
酒をのめ、天《そら》のめぐりは心につらい。
嘆くなよ、お前の番がめぐって来ても、
星の下《もと》誰にも一度はめぐるその盃《はい》。

126
学問のことはすっかりあきらめ、
ひたすらに愛する者の捲毛《まきげ》にすがれ。
日のめぐりがお前の血汐を流さぬまに
お前は盃《はい》に葡萄《ぶどう》の血汐を流せ。

127
人生はその日その夜を嘆きのうちに
すごすような人にはもったいない。
君の器が砕けて土に散らぬまえに、
君は器の酒のめよ、琴のしらべに!

(128)
春が来て、冬がすぎては、いつのまにか
人生の絵巻はむなしくとじてしまった。
酒をのみ、悲しむな。悲しみは心の毒、
それを解く薬は酒と、古人も説いた。

129
お前の名がこの世から消えないうちに
酒をのめ、酒が胸に入れば悲しみは去る。
女神の鬢《びん》の束また束を解きほぐせ、
お前の身が節々《ふしぶし》解けて散らないうちに。

(130)
さあ、一緒にあすの日の悲しみを忘れよう、
ただ一瞬《ひととき》のこの人生をとらえよう。
あしたこの古びた修道院を出て行ったら、
七千年前の旅人と道伴《みちづ》れになろう。

(131)
胸をたたけ、ああ、よるべない大空の下、
酒をのめ、ああ、はかない世の中。
土から生れて土に入るのか、いっそのこと、
土の上でなくて中にあるものと思おう。

132
心はたぎる、早くこの手に酒をくれ!
命、いのち、銀露のようにたばしる!
とらえないと青春の火も水となる。
さあ、早く物にくらんだ目をさませ!

133
酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一《ゆいつ》の効果《しるし》だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬《ひととき》を、それこそ真の人生だ!

134
酒をのめ、マハムード*の栄華はこれ。
琴をきけ、ダヴィデ*の歌のしらべはこれ。
さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう
今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。

135
あしたのことは誰にだってわからない、
あしたのことを考えるのは憂鬱《ゆううつ》なだけ。
気がたしかならこの一瞬《ひととき》を無駄《むだ》にするな、
二度とかえらぬ命、だがもうのこりは少い。

(136)
時のめぐりも酒や酒姫《サーキイ》がなくては無だ、
イラク*の笛も節《ふし》がなくては無だ。
つくずく世のありさまをながめると、
生れた得《とく》はたのしみだけ、そのほかは無だ!

137
いつまで有る無しのわずらいになやんでおれよう?
短い命をたのしむに何をためらう?
酒盃に酒をつげ、この胸に吸い込む息が
出て来るものかどうか、誰に判ろう?

138
仰向《あおむ》けにねて胸に両手を合わさぬうち*、
はこぶなよ、たのしみの足を悲しみへ。
夜のあけぬまに起きてこの世の息を吸え、
夜はくりかえしあけても、息はつづくまい。

139
永遠の命ほしさにむさぼるごとく
冷い土器《かわらけ》に唇《くち》触れてみる。
土器《かわらけ》は唇《くち》かえし、謎《なぞ》の言葉で――
酒をのめ、二度とかえらぬ世の中だと。

140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈《はず》のものがあると思って。

141
もうわずらわしい学問はすてよう、
白髪の身のなぐさめに酒をのもう。
つみ重ねて来た七十の齢《よわい》の盃《つき》を
今この瞬間《とき》でなくいつの日にたのしみ得よう?

142
めぐる宇宙は廃物となったわれらの体躯《からだ》、
ジェイホンの流れ*は人々の涙の跡、
地獄というのは甲斐《かい》もない悩みの火で、
極楽はこころよく過ごした一瞬《ひととき》。

143
いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの論議になどふけっておれよう?
酒をのめ、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!

 

小川亮作訳『ルバイヤート』101~107「むなしさよ」

岩波文庫、小川亮作訳、オマル・ハイヤーム著『ルバイヤート』の第7章「むなしさよ」をお届けします。テキストの電子化は「青空文庫」さんによるものです。ここに感謝して利用させて頂きます。

むなしさよ

101
九重の空のひろがりは虚無だ!
地の上の形もすべて虚無だ!
たのしもうよ、生滅の宿にいる身だ、
ああ、一瞬のこの命とて虚無だ!

102
時の中で何を見ようと、何を聞こうと、
また何を言おうと、みんな無駄《むだ》なこと。
野に出でて地平のきわみを駈《か》けめぐろうと、
家にいて想いにふけろうと無駄なこと。

103
世の中が思いのままに動いたとてなんになろう?
命の書を読みつくしたとてなんになろう?
心のままに百年を生きていたとて、
更《さら》に百年を生きていたとてなんになろう?

(104)
地の青馬にうち跨《またが》っている酔漢《よいどれ》を見たか?
邪宗も、イスラム*も、まして信仰や戒律どころか、
神も、真理も、世の中も眼中にないありさま、
二つの世にかけてこれ以上の勇者があったか?

105
戸惑《とまど》うわれらをのせてめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ。
日の燈火《ともしび》を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上を走りすぎる影絵だ。

106
ないものにも掌《て》の中の風があり、
あるものには崩壊と不足しかない。
ないかと思えば、すべてのものがあり、
あるかと見れば、すべてのものがない。

107
世に生れて来た効果《しるし》に何があるか?
生きた生命の結果として何が残るか?
饗宴の燭《ともしび》となってもやがて消えはて、
ジャムの酒盃*となってもやがては砕ける。