中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。

 

 

中東の石油(8):石油国有化以後

イランの石油事業が石油メジャーズの殆どのメンバーが参加したコンソーシアムによって運営されるようになったことを前回述べた。その後、1957年にイランの石油開発法が制定された。この法律はコンソーシアムの利権地域以外でNIOC(国営イラン石油会社)が外国石油会社との合弁により、石油開発を進めることを認めたものであった。まず、1957年8月にイランの沖合大陸棚の油田開発のためにSIRIPが設立された。この合弁会社のパートナーはイタリアの国有炭化水素公社(AGIP)であった。ついで、1958年4月にはスタンダード石油インディアナ社の子会社パン・アメリカン石油会社との合弁会社IPACが設立された。これら2社の契約方式は「利権供与合弁事業方式」というべきものであった。NIOCは合弁会社の半分をシェアしているために、利益の50%を得ることができた。一方、外国側のパートナーも利益の50%を受け取るが、イラン政府はその取り分に50%の所得税をかけることができたのであった。つまり、イラン側は利益の75%を受け取ることができるという内容であった。これを契機に、同様の条件による合弁会社の設立が相次いだ。それらはDEPCO, IROPCO, IMINOCO, LAPCO, FPC, PEGOPCO,などであった。この75%対25%という利益配分は周辺産油国における利権協定の条件にも大きな影響を与えていった。

さらに、1966年には新方式の「請負作業契約」がNIOCとフランス国営石油会社ERAPとの間で締結された。この新しい契約は外国の石油会社に利権を与えるのではなく、単なる請負者として石油を開発させるものであった。請け負ったERAPはNIOCの計画、指示によって契約地域内の探鉱と開発に従事するが、ERAPは探鉱・開発の技術と必要な費用は自らが負担し、たとえ油田開発に失敗しても費用は返ってこない。もし、成功すれば探鉱費は無利息借款となり、商業量石油の生産開始後15年間で返済されるというものであった。また、開発費もイランに対する借款となり、こちらは5年以内に、フランスの銀行の現行利息に2.5%を加算した金額相当を返済するというものであった。このように、NIOCはコンソーシアムの協定地区以外で新方式により、より良い条件の下で石油開発を推進していった。これらの合弁会社による石油開発の実績は実は大きなものではなかった。しかし、石油会社との契約条件を改善していったことが、産油国側にとっては大きな成果であった。この方式はイラクやサウジアラビアに波及していったのである。

中東の石油(7):イランの石油国有化(2)

1951年にモサデク首相がイランの石油国有化を行ったことを前回とりあげた。だが、国有化は結局失敗と言わざるを得なかった。イランの石油は国際石油会社からボイコットされたため、市場に出すことができなかった。ということは石油収入が入ってこないということだ。それまでのアングロ・イラニアン石油会社から配分される金額に不満はあったものの、石油収入は莫大なものであった。それが入ってこなくなったのだから、イラン経済は低迷することは当然の成り行きであった。イギリスはイランでの足場を失う大損失を被ることになる。なんとか国有化を阻止したかった。いずれにせよ、国有化は議会で決定されたことであり、国営イラン石油会社もすでに誕生してしまった状況である。

アメリカのCIAとイギリスの諜報機関が連携をとって1953年、モサデク政権転覆作戦(エイジャックス作戦、Operation Ajax)を実行したのである。CIAがイランのザヘディ将軍を担ぎ出して、クーデターのシナリオを実行したのだった。モサデクは失脚に追い込まれ、若き国王がアメリカの保護の下に権力を取り戻した。そして、イランの石油生産、精製、流通、販売を正常化させるために、アメリカの提案で「イラン石油コンソーシアム」が結成された。このコンソーシアムがイランの石油事業を操業するのである。そして、収益の半分をNIOCがとり、残りの半分をコンソーシアムが得るのであった。肝心のコンソーシアムのメンバと出資比率は次の通りとなった。

アングロ・イラニアン 40%
ロイヤル・ダッチ・シェル 14%
フランス石油 6%
ガルフ 7%
モービル 7%
 スタンダード・ニュージャージー 7%
ソーカル 7%
テキサコ 7%
イリコン・エージェンシー 5%

つまり、イランの石油事業を操業するコンソーシアムに当時の国際石油会社が総揃いして参加したのである。そして、イギリスの独占体制が崩れたのであった。結果的にみると、アメリカがクーデターを計画して現政権を崩壊させて、新政権後のイランの石油事業に参入することに成功したということになる。そのシナリオはフセイン政権時代のイラクに大量破壊兵器が存在することをでっち上げて、その政権を崩壊させて、イラクに影響力を行使しようとしたことと重なるものがある。大国にとって政権を転覆させることなど簡単なことなのである。イラン政府とコンソーシアムの契約期間は25年であったが、5年間の延長を3回行うことができた。イランの石油国有化は達成されたというものの「イラン人の手によるイラン石油産業の経営」は有名無実となってしまった。

このコンソーシアムに石油メジャーズの殆どが参加したということは、重要な意味を持っていた。コンソーシアムのメンバーは中東産油国各国で石油会社を操業していた。だから、イランのコンソーシアムで会合をすれば、中東全域の石油生産を、ひいては市場を、価格をコントロールできるようになったのである。1955年におけるメジャーズのシェアは92%という高い比率であった。

イランの石油国有化の失敗はその後のOPECの結成へとつながっていったのである。

中東の石油(6):イランの石油国有化(1)

前回までに中東の石油資源が大国の石油会社の支配下になったことを述べた。各社の出資比率を表にまとめると次のようになる。

イラン トルコ➡イラク バーレーン クウェート サウジアラビア
AP 100 50 23.750 50
ドイツ銀行 25
RDS 25 23.750
仏石油 23.750
エクソン 23.750 30
モービル 11.875 10
グルペンキアン 5.0
ソーカル 100 30
ガルフ 50
テキサコ 30
発見年 1908 1927 1931 1938 1938

AP=アングロ・ペルシャ石油会社。後にアングロ・イランニアン石油会社に変更
RDS=ロイヤル・ダッチ・シェル石油会社。

さて、時代が進むと世界各地で大国による支配に対する反発が強まってくる。植民地からの独立のための運動が起きてくる。石油のような資源に対しても自国に取り戻そうという動きがでてくるのは当然のことである。イランの石油国有化が今回のテーマである。

ダーシー利権を与えたときのペルシャの政治体制はカージャール朝であった。1925年にレザー・ハーンがクーデターを起こして、パーラヴィー王朝を開いた。彼は自らをシャー(王)と称しトルコに倣って国内の近代化に努力した。国名をペルシャからイランと改めたが、イランの石油利権はイギリスが保有したまま残されていた。アングロ・ペルシャ石油会社はペルシャがイランとなったのを受けて、アングロ・イラニアン石油会社(Angro Iranian Oil Company)と改称された。AIOCは1933年にイラン政府と契約を更新した。利権の及ぶ範囲は10万平方マイルに限られ、イラン政府に対する支払いも増大した。しかし、利権の期間は60年に渡る長期であった。アバダンの製油所が大規模化し、ケルマンシャーーにも製油所が建設された。1941年までに5つの油田が発見・開発された。第二次世界大戦中に原油生産は減少した。しかし、戦後の欧州の急速な需要増のために生産は急増していった。そして、各地で民族主義が高揚した。石油生産についても、石油収入の配分が不公平であるとの不満がイラン国内に充満してきた。このような時期の1948年にはベネズエラが石油会社との間で、政府と石油会社の利益配分をそれぞれ50%とする新しい分配方法を定めることに成功していた。サウジアラビア政府もアラムコから同様な条件を獲得した。このような環境で、イラン政府とAIOCとの条件改善交渉は一気に国有化へと飛躍していった。

1951年4月、石油国有化法案が議会に提議され満場一致で可決され、国営イラン石油会社(NIOC)が誕生した。可決後にイギリス人は全員退去し、残された油田や施設の操業はイラン人の手に委ねられた。イギリスはイランの石油が手に入らなくても、イラクやクウェートでの増産により補うことができた。そして、イランの石油を世界の市場から締め出すべく世界の石油会社に、イラン石油のボイコットを働きかけた。ペルシャ湾にはイギリス軍艦が配備されてイラン石油の輸出を阻もうとした。この時にイランの石油を買い付けに行ったのがあの映画「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光石油の日章丸である。・・・・・出光はイギリスから訴えられる・・・・イランは石油が売れなくて経済が疲弊していく・・・・・国有化を断行したのはモサデク首相であったが、政権の座がぐらつき始める・・・・・イギリスとイランの法廷闘争、イギリスと出光の法廷闘争がつづく・・・・イランは混沌とした状況に陥ってしまった。

国有化は行われた。しかしながら、イランの石油事業は行き詰ってしまった。ここでアメリカのCIAが登場するのである。CIAの策略により、クーデターが起きる。モサデクを失脚させる。そして、その後のイランでアメリカが大きな足場を作るのだ。この続きはまた次回に。

 

ペルシャ語講座13:現在進行形

今回は現在進行形について考えてみたい。考えてみたいというのは、自分でも少々あいまいな気持ちがあるからである。現在進行形は英語の場合は中学生の時に現在形を学んだあと、be動詞の後に動詞の原形にingを付けると習った。 I work が現在形で、I am working が現在進行形である。私は働く。私は働いている。例えば「私はAという会社で働いている」と久しぶりにあった友人に言う場合は、「I am working in A 」というのであろうか。いま会話をしている時点では働いている状態ではないので現在進行形はおかしいような気がする。かといって「I work in A」では「私はAで働く」だから、日本の「私はAで働いている」のニュアンスはないような気がする。英語の専門家でないから、ついついこんなことを考えてしますのである。勿論、このような場合には現在進行形を使わなくてもきちんと表現する言い方はあるであろう。

そんな余計なことを考えながら、ペルシャ語の現在形と現在進行形について考えてみた。前述の「I work 」と例として色々な時制をみてみよう。

I work —————–  کار میکنم      kar mikonam
I worked ————-  کار کردم                       kar kardam
I will work ————  خواهم کار کرد               khaham kar kard
I was working ——-  کار میکردم                   kar mikardam
I have worked —— کار کرده ام                     kar  karde am
I had worked ——-  کار کرده بودم                 kar  karde budam
I am working ——– دارم کار می کنم               daram kar kikonam

過去進行形は、過去形+mi である。が現在進行形は、現在形の前に dashtan の現在形を付けると良い。「~~しているところです」という進行形の意味合いになる。

私は本を読んでいます。 دارم کتاب می خوانم  daram ketab mi khanam
彼は手紙を書いています。 دارد نامه می نویسد  darad name mi nevisad

大学書林発行黒柳恒男著『ペルシャ語四週間』で現在進行形の項をみると、「現在進行形は原則として現在形と同じである。・・・・中略・・・ダーシュタンを助動詞として用い、現在進行形を表すことがある。」と書いてある。

上では未来形や現在完了、過去完了の例を示しているが、それらはまた次の機会に譲ることにしましょう。

イスラム世界の偉人①:イブン・シーナ

「イスラムを知る」のシリーズの一部として「イスラム世界の偉人」を何人か取り上げてみようと思う。最初はイブン・シーナである。このブログでしばしば引用させていただいている平凡社発行『新イスラム事典』から、イブン・シーナについて主要な部分を引用させていただく。

イブン・シーナ(980~1037):ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハラ近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストレレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。・・・・中略・・・・著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を・・・・中略・・・・こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。・・・中略・・・また、形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書『医学典範』は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は『治癒の書』。

事典の説明の半分以上を割愛したが、彼が学問全般に幅広く、しかも深く究めていた学者であることがわかる。私自身は高校の世界史の教科書のイスラム文化のところでイブン・シーナの名前と『医学典範』を試験のために覚えたことを忘れない。イブン・シーナというイスラム世界での名前が、西側世界に伝わる過程でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとなったということも世界史の先生は話してくれた。


画像はアマゾンで出品されているものです。14,994円である。1千年前の貴重な著書が日本語に訳されているのである。カスタマーレヴューを読むとちょっと残念なことが書かれているが、それはイブン・シーナの業績を汚すものではない。

ところで、イブン・シーナはどこの国の人なのでしょうか。ブハラに生まれたとある。数回前のハーフェズの詩を紹介したときに、「シーラーズの乙女に与えようサマルカンドをブハーラを」と出てきたあのブハーラのことである。サーマン朝の都ブハラでサーマン朝高官の息子としてうまれたそうである。サーマン朝(873年 – 999年)はイラン系のイスラム王朝である。サーマン朝が滅びたとき彼は19歳。21歳で父を亡くすと、カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始したという。その後、テヘラン、レイ、ブアイフ朝支配下のハマダンへと居を移し、『医学典範』を完成させたのは1020年ハマダンにいた時である。その後、イスファハンに移動する。

病で母を失った青年がロンドンからイスファハンに向かい、医師イブン・シーナの弟子になって医学を学ぶ物語の映画がある。上の画像はその時の広告のポスターである。このことはこのブログの「アッバース朝(つづき)」で書いたとおりである。

ルバイヤート紹介 ②

前回に続いて今回もルバイヤートとしよう。前回のように前置きはやめて早速私の好きな詩を岡田訳と小川訳で紹介していこう。

岡田恵美子訳『ルバイヤート』No.29
ああ、若い日々の書は早くも綴じ、
人生の歓喜の春も過ぎてしまった。
青春という愉悦(よろこび)の鳥は、
いつ来て、いつ飛び去ったのであろう。

小川亮作訳『ルバイヤート』No.35 では同じものがこうなる。
若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

 

岡田訳 No.99
ハイヤームよ、酒に酔うなら、楽しむがよい。
チューリップの美女と共にいるのなら、楽しむがよい。
この世の終わりはついには無だ。
自分は無だと思って、いま在るこの生を楽しむがよい。

小川訳 No.140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈のものがあると思って。

 

岡田訳 No.15
来て去るだけの一生になんの益がある。
この世を織りなす縦糸と横糸の交わりはどこにある。
われわれは罪もなくこの世につながれ、
そして燃やされて灰になる、その煙はいずこ。

小川訳 No.18
来ては行くだけでなんの甲斐があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻の輪につながれ、
身を燃やして灰となる煙はどこであろう?

 

ハイヤームの詩は私に次のように囁いているようだ:
酒を飲むなら、楽しんで飲めばいい
そこにチューリップのような美女がいれば、楽しめばいい
そんな良き日、青春はあっという間に過ぎ去ってしまうもの
いずれ煙と化す我が身、土と化す我が身なのだから

 

 

ルバイヤート紹介 ①

先般、ハーフェズの抒情詩を紹介しましたが、今回はオマル・ハイヤームのルバイヤートの中から、彼の詩を紹介します。既に、ルバイヤートについては過去にも述べたことがありますので、重複する部分があるかと思います。

オマル・ハイヤームについて:
オマル・ハイヤームは1048年に現在のイランのニシャプールの町に生まれ、1131年に没したペルシャの詩人である。ところが生前の彼は詩人として知られた存在ではなかったようだ。そのような彼を岩波文庫『ルバイヤート』の著者である小川亮作氏は、そのあとがきの中で次のように述べている。
「性来彼は学問を好み、数学、天文学、医学、歴史、哲学などの蘊蓄を極め、今日のトルクメン族の祖先がペルシアを征服して建てたセルジュク帝国(1037~1194)の新都メルヴヘスルタン・マリク・シャー(在位1072~1092)建設の天文台に八人の学者の主席として聘せられ、1074年同王の命によって、他の七名の学者とともに暦法の改正に当たり、後で述べる通りその正確さにおいて現代のグレゴリオ暦にもまさるほどの有名なジャラリー暦を制定したが、これは惜しくも採用されるにいたらなかった。」

「彼の科学的業績として今日存在を知られているものは、アラビア語による『代数学問題の解放研究』、『ユークリッドの「エレメント」の難点に関する論文』、気象学の書、恒星表、インド算法による平方および立方根の求め方の正確度を検した数学書等である。」

このように生前の彼は詩人としてよりも科学者として有名であったことがわかる。小川氏のあとがきによると、死後しばらくしてから、彼が書き残していた詩は伝えられたようであるが、今でいう大きなヒットを飛ばすことはできなかったようだ。そんな彼を詩人として世界中に知らしめたのは英国人フィッツジェラルドの翻訳がきっかけであった。彼についての詳細は省略するが、彼は1959年に250部のみの私家版として出版したのであった。最初、売れなかったこの詩集が、次第に陽の目を見るようになったらしい。

ルバイヤートの日本での翻訳本
私の手元には次の翻訳本がある。
小川亮作訳『ルバイヤート』岩波文庫、1949年第1刷発行
竹友藻風訳『ルバイヤート』㈱マール、2005年第1刷発行
岡田恵美子訳『ルバーイヤート』平凡社ライブラリー、2009年初版発行
小川と岡田の訳は原語からの直訳である。2番めの竹友の訳はフィッツジェラルドの英語訳からの和訳である。2005年発行とあるが、竹友訳が最初に発行されたのは1921年(大正10年)である。彼の訳は文語調の美しい調べの名訳であると思う。が、私自身はフィッツジェラルドの英訳が原典からあまりにも意訳すぎると感じているので、原語からの和訳の作品に拍手を送りたい。勿論、フィッツジェラルドの英訳は英語話者にとっては原典の調べを上手に訳した良い作品なのであろうと思う。でないと、世界中の人にルバイヤートの良さを伝えることはできなかったはずである。
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ここで一つの詩を紹介する。そして先述の複数の訳者による翻訳を味わってみてもらいたい。

これが原語のペルシャ語によるものである。ペルシャの詩はこのように美しいナスターリーク書体で書かれると、詩の調べまで感じることができるような気がする。通常反対側の頁にミニアチュールの絵が挿入されるのだ。
ナスターリーク書体に慣れていない人のために、同じ詩を活字体で示すと次のようになる。

ペルシャ語学習の初級者のテキストにはアルファベットでの表記がある。ペルシャ文字が読めなくても、美しいペルシャ語の調べを少しは味わえるかもしれない。

そして、初級学習者用には、ペルシャ語の意味を直訳した英語訳が示されているのである。それが次の通りである。

そこでルバイヤートを世界的に有名にフィッツジェラルドの翻訳が次の通りである。

原文ではBaghdadとBalkhとなっている地名はNaishapurとBabylonとなっている。Balkhは現在のアフガニスタンにある中世に栄えた都市である。Baghdadは言うまでもなく現在のイラクの首都である。アッバース朝時代に首都として建設された大都市である。フィッツジェラルドが訳出したNaishapurは現在のイラン北東部の町でオマル・ハイヤームの出身地である。Babylonはバビロニア王国の都でる。Naishapuru(私はいつもニシャプールと発音しているが)やバビロンにしても地名であるからそのままでいいと思うのであるが、フィッツジェラルドにはその都市の名前から浮かぶイメージがあったのであろうと思う。この彼の英訳から竹友藻風が訳した日本語訳は以下の通りである。

文語調、五七調なので、詩の雰囲気をうまく醸し出している気がする。中には難しい言葉が使われているために、すぐには意味が分からないような訳もあるが、この詩については分かりやすいと思う。

次に、原語から直訳された日本語訳を小川訳、岡田訳と続けて示そう。

色々な訳を紹介したが、これまでにハーフェズの詩の時に登場した黒柳恒男先生の訳が欠けていた。その書籍は私の手元にはないのだが、黒柳恒男訳注『ルバイヤート』大学書林発行である。そこでの訳は次の通りである。

フィッツジェラルド(竹友)、小川、岡田、黒柳の4人による日本語訳を紹介した。いずれが一番しっくりと心に響いただろうか。原文の語順と意味の取り方から、4人の訳のいいとこどりをした私の訳は次の通りとなった。

人生が甘くとも、苦かろうと、 命は尽きる!
そこがバグダートでもバルフでも、 酒杯が満ちるなら、
酒を飲め! 我らが(この世から)去った後も、
月は限りなく満ちては欠け、欠けては満ちる!

お疲れさまでした。ハステ ナバーシイ!

ペルシャ語講座12:疑問代名詞・ who, where など

疑問代名詞「what」に相当する「チェ」に続いて今回は「who」に相当する「キー」と「where」相当の「コジャー」です。

先ずは「誰?」ですが、簡単です「キー」となります。アルファベットでかくと k y  کی の2文字。「彼は誰ですか」なら、文字通り正確にいうと「彼は(ウー) 誰(キー) です(アスト)?」となります。 او کی است؟ ですが、いつもいうようにペルシャ語の場合は主語は動詞の語尾で分かるのでなくてもいいですね。すると「キー アスト?」となりますが、連続させて「キースト」「کیست 」となります。「あなたは誰ですか」なら、あなたという単語は省略して「キー ハスティ」ですが連続して「キエ」となります。日常生活で「あなたは誰ですか」という会話は殆どありませんが、来訪者があってインターフォンがなった時、こちらから「どなた様ですか」という場合に「キエ」といいます。いくつかのフレーズをメモっておきましょう。
● 誰が来たの? キー オーマッド
● 誰のもの? マーレ キースト
● 誰と行ったの? バー キー ラフティ

次は「where」「どこ」です。「コジャー」となります。کجا  koja です。「誰」のときもそうですが、「どこ」の場合も日本語の語順と同じように単語を並べれば、ほとんど正解です。
● どこへ行くの? べ コジャー ミラヴィ(ミリ) 「ベ」は「~へ」の意味ですが、つけなくても大丈夫。
● どこから来たの? アズ コジャー オマディ
● どこの出身ですか? コジャーイーエ
● あなたの家はどこですか マンゼレ ショマー コジャースト

それでは次は「when」「いつ?」にしましょう。これは「ke y」「ケイ」です。کی と書きます。 k  と y なので、先ほどの「誰?」の キーと同じ綴りです。それを「ケイ」と発音します。ちょっとややこしいですが、簡単なことですね。例文をいくつか挙げておきましょう。
● あなたはいつイランに来たか? ケイ ベ イラン オマディ?
● 列車はいつ出発しましたか? ghatar  kei harcat kard
● いつから  アズ ケイ
● いつまで ター ケイ

「誰?」の「キー」と「いつ?」の「ケイ」が同じ発音は違うが同じスペルだと書いたことが、ちょっと気になったので辞書を開きました。すると「誰?」の「きー」は 「ケ که」の口語であると書いてありました。ということで本来の「誰?」は「ケ」らしいのです。私にとってこれは初耳でした。

ズール・ハーネを知ってますか?

イランの国技的な存在のズール・ハーネを知ってますか? アルファベット表記なら Zurkhaneh;と書くのでハの音が喉を擦る音になります。ペルシア語表記は زور خانه‎ となります。khanehとは「家」、zurとは「力」という意味です。文字通り訳せば「力の館」とでもなるのでしょうか。そこでは力自慢の大きな男たち、まるでプロレスラーのような男たちが身体を動かしているのです。一種のスポーツです。私はズールハーネのことを詳しく調べたわけではないので、素人目でみたことを述べることしかできませんので、間違っている点があればお赦し願いたい。

上半身が裸で、パジャマのようなパンツをはいて、ハードな筋トレのような運動をグループでやるのです。建物の中に、極端にいうと日本の相撲の土俵みたいな場所があり、そこで飛び跳ねたり、腕立て伏せのような動きをしていました。大きな戸板のようなものを持ち上げて、操ったりするのもあったように思います。が、一番ポピュラーなのは大きな木のこん棒のようなものを両手にもって振り回すのです。

この写真のような形のものです。これは土産物として私が買ったミニチュアですが、実際のものは5キロ、10キロ、20キロぐらいのものも扱っているかもしれません。

会場にはイスラム・シーア派のイマーム・アリーの肖像画が架けてあったりします。ですから、選手(?)が入場してくるあたりは、宗教的な雰囲気が漂います。アリーはスンナ派では正統カリフの4人目ですね。スンナ派と異なり、イランのシーア派ではアリーの肖像画をよく見ることがあります。

ここまで書いてきましたが、これ以上詳しく書くのが難しくなってきました。なにしろ、本物を見たのは遠い昔のことなので、すらすら綴れません。そこでユーチューブなら何かあると思うので、皆さんで探して頂きたいと思います。今日はこれにて失礼します。