草間彌生のテルアビブ展が開催されています。

エルサレムポスト-イスラエルニュース
Yayoi Kusama’s Tel Aviv exhibition takes viewers back to childhood
11月18日のエルサレム・ポスト紙は上のようなタイトルの記事を載せました。訳すと草間彌生のテルアビブ展は、来館者を子供時代に戻します」なります。

記事の一部を自動翻訳で紹介します。
パンデミック以来、観光業は完全に停止し、日出ずる国への入国は依然として困難です。テルアビブ美術館の館長であるタニア・コーエン・ウッツィエリは、次のように述べています。
草間は、絵画、コラージュ、彫刻、ビデオ、パフォーマンス、インスタレーション、ファッション、文学、音楽など、数多くのメディアと協力し、現在の展覧会のために特別に作成された2つの新しいモニュメントも作成しました。
そして、確かに、美術館に足を踏み入れたとき、私は期待を感じることができました。いつもの夜ではありませんでした。草間彌生は、私たちの時代で最もクリエイティブで重要なアーティストの1人です。

草間さんの写真や「かぼちゃの精霊」という作品の画像も掲載されているのですが、著作権の侵害になるといけないのでここには上げられません。インターネットで検索すれば「新聞名」「草間彌生」「テルアビブ美術館」程度で簡単に見つけることができると思います。
高齢にもかかわらず日本の作家が外国でも注目されていることは誇らしく思いますね。

 

アフガニスタンのタリバンについて

アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。

「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。

「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。

次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。

  • 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
  • 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
  • 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
  • 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
  • 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
  • 1973年ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
  • 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
  • 1979年ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。

アフガニスタン内戦

1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻

1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。

代表的な反政府組織:

ラッバーニ率いるタジク人主体の                                   イスラム協会

ドスタム率いるウズベク人主体の                                  イスラム民族運動

ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の          イスラム党

ハザラ人主体のシーア派勢力                                        イスラム統一党

これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定

1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。

長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。

東京五輪閉幕:中東諸国のメダル数

2021年8月8日、TOKYO2020・東京五輪が閉幕しました。コロナ禍の下で開催賛否両論の中での開催でした。野球では台湾が参加を見合わせました。個人ではコロナ陽性のために出場できなかったアスリートもいれば、自ら参加を辞退したアスリートもいました。開催の裏には様々な背景があるわけですが、ともかく終了しました。そこで、このサイトでは中東諸国のメダル数をチェックしました。今朝のメディアから作成してみました。金メダルの数を優先して順位づけしています。まずは1位から10位までをあげて、その下に中東諸国を並べています。結局、メダルを大量に獲得しているのは先進国です。ここに挙げた中東諸国9か国のメダル数は38個です。アメリカは1国で中東全体の3倍ほどの獲得です。1位から6位、それに10位のイタリアが中東全体より多く獲得しており、7から9位のオランダ、フランス、ドイツは中東合計数とほぼ同じ数でした。

順位
1位 米国 39 41 33 113
2位 中国 38 32 18 88
3位 日本 27 14 17 58
4位 英国 22 21 22 65
5位 ROC 20 28 23 71
6位 豪州 17 7 22 46
7位 オランダ 10 12 14 36
8位 フランス 10 12 11 33
9位 ドイツ 10 11 16 37
10位 イタリア 10 10 20 40
27位 イラン 3 2 2 7
35位 トルコ 2 2 9 13
39位 イスラエル 2 0 2 4
41位 カタール 2 0 1 3
54位 エジプト 1 1 4 6
74位 ヨルダン 0 1 1 2
77位 バーレーン 0 1 0 1
77位 サウジアラビア 0 1 0 1
86位 シリア 0 0 1 1

長年の努力が実を結び、快挙を成し遂げたアスリートもいれば、そうでなかった者もいます。色々なドラマがありました。今回は10代の若い人たちが大活躍でした。本来のオリンピック精神からかけ離れてしまった今のオリンピックを私は否定的に見ていますが、そこに参加するアスリートたちの活躍には応援をし、感動もしました。でも、最終的にオリンピックから見えてきたことの一つは国別メダル数の偏りです。それは世界の格差でしかありません。

オリンピック開催中:バレーボール「イラン―日本」戦

東京オリンピックが始まって、既に1/2程が経過しました。日本は柔道での結果が素晴らしく、金メダルが続出して勢いがつきました。卓球混合ダブルスの金メダルでも日本中が盛り上がりましたね。一方で、コロナ禍の下で「それどころではない!」という医療従事者や感染した人々も沢山いるのが現状です。7月末から東京の感染者が3千人超が続いています。4千人超の日もありました。私自身はコロナに関係なくオリンピック反対なので、一部の競技を静かにテレビ観戦しています。
そんな中、8月1日の男子バレーボールの予選を見ました。日本ーイランの試合でした。どちらもこの試合に勝てば決勝リーグに進出できるということで熱戦が繰り広げられました。このブログは中東寄りのサイトですので、どちらも応援しました。テレビに映るイランの選手の映像を写してインスタグラムにアップしました。ここにも紹介しましょう。

インスタグラムではイランの人々から「いいね」を頂きました。この時点では1-1という状態でした。その後1-2とイランがリードし、そのあと日本が踏ん張って2-2となりました。最終5セットに突入し、そこでも接戦の結果、日本が勝ったのでした。イランチームはアジアで一番強いチームだそうでしたが、開催国の利もあったのでしょうか。決勝リーグでの日本の勝利は厳しいのでしょうが、頑張ってほしいものです。

オリンピックが近づきましたね。

コロナ禍の中でオリンピック、パラリンピックの開催が近づいてきました。開催の賛否両論、観客をどうするかの意見も多岐に分かれている中での開催になりますね。そこで、前回のリオデジャネイロでの開催時の中東諸国のメダル獲得数を調べてみました。出所は朝日新聞のネット記事から拝借しました。

順位
6 日本 12 8 21 41
25 イラン 3 1 4 8
41 トルコ 1 3 4 8
48 バーレーン 1 1 0 2
54 ヨルダン 1 0 0 1
69 カタール 0 1 0 1
75 エジプト 0 0 3 3
77 イスラエル 0 0 2 2
78 UAE 0 0 1 1

メダル数は日本が41個で第6位だそうです。中東ではイランとトルコが8個ですが、金メダルを3個取っているイランが25位、トルコが41位となるようです。メダルの数や順位などどうでもいいことですが多くの国はそんなにメダルを取ることができないわけです。先進国有利な競技大会です。

私はもう何年も前からオリンピックは不要と考えています。始まった当時のアマチュア精神が無くなった以上、存在価値はないと思っています。勝つことよりも参加することに意義があり、勝ち負けではなく世界の平和、友好のシンボル的な競技会であったのです。そのころはプロのアスリートは参加できませんでした。参加標準タイムなどもないので、閉会式が終わるころになって帰ってきたマラソンの選手などもいました。水泳でも一人ダントツに遅いスイマーもいてみんなで応援したものでした。

プロ選手も出場できるようになった今のオリンピックに魅力はありません。それぞれのスポーツにはワールドカップがあって世界一を競う大会があります。なのに、オリンピックを開催する意味はどこにあるのでしょうか。IOCの姿勢もいけません。商業主義になり下がりました。面白くするために、協議のルールにまで口出しするようになりました。レスリングもそのとばっちりを受けてオリンピック種目から外されかけたこともありました。IOCを接待しなければならなくなります。IOCの意向に沿うために競技種目まで歪められてしまいます。

開催地の選考もIOCの独壇場です。IOC役員は開催希望国を豪遊してまわり、接待を受けて、あれこれ注文をだして決定しているわけです。金のかからない五輪には、なりようがありません。

サッカーの世界一はワールドカップでいい。テニスの世界一はウィンブルドンなど4つのグランドスラムがあればいい。野球など世界でマイナーなスポーツは五輪には要らない。プロとして稼ぐことの難しいような競技種目、例えば陸上だとか、フェンシング、体操などは五輪にふさわしいのではないだろうか。

中途諸国のメダル数から横道に逸れてしまったようだけど、コロナ禍の今、開催地以外で真剣に開催を望む国、国民はいったいどれくらいいるのでしょうか?

というものの、出場のために一生懸命頑張っているアスリートは応援していますよ、勿論。特に水泳の池江さんなどはそうですね。
冒頭の画像は昨日のイラン・デイリー紙の記事です。バドミントンの出場権を勝ちとったイランの女子選手の紹介です。感染対策を十分にして来日してほしいものです。

 

 

イラン大統領選挙結果と州別の投票率

イランデイリー紙のオンライン版は選挙結果を報じています。その一部を自動翻訳したのが次の通りです。

内務省は土曜日、保守的な聖職者のライバルが敗北を認めた後、司法長官のSeyyed Ebrahim Raeisiがイランの第13回大統領選挙で62%近くの票を獲得したと述べた。Raeisiは、金曜日に投じられた2890万票以上のうち、1790万票以上を獲得した。これは、340万票を獲得した2位の候補者であるMohsenRezaeiをはるかに上回っている。アブドルナーセル・ヘマティは240万票以上を獲得し、セイエド・アミロセイン・ガジザデ・ハシェミは100万票近くを獲得した、とアブドルレザ・ラーマニ・ファズリ内務大臣は全国テレビで述べた。
イランには5900万人以上の有権者がおり、投票率は48.8%で、1979年のイスラム革命以来最低であった。Rahmani Fazliは、370万票が無効になったと述べた。

勿論、日本の各紙も報じているが、ここには落選した候補者の票数も記されている。また、今回の選挙は候補者の事前審査で民主穏健派がふるいにかけられたことで嫌気になった国民の多くが投票しなかったために、投票率が低いということが注目されたのであった。その投票率は48.8%であった。低いというが、日本の選挙と比べてどうだろうか。かなり高いように私は思う。保守強硬派を支持する層は積極的かつ組織的に投票したのであろう。

ペルシャ語日刊紙Hamshajri紙では、速報記事の中で各州別の投票率を前回の大統領選のそれと比較している。速報であるのですべての州が出そろってはいないが、それらを表にしてみたのが次である。

前回投票率 (%) 今回投票率 (%)
東アゼルバイジャン 65.0 44.0
北ホラーサーン 81.0 65.0
セムナーン 80.3 52.0
ガズヴィン 80.0 50.0
ケルマン 80.0 57.0
ケルマンシャー 70.0 45.0
ゴレスターン 78.0 57.0
ヤズド 93.0 57.0

前回の投票率が殆どの州で80%以上であったが、今回は50%前後となっているわけである。その差、30%の投票しなかった人は、投票したい候補者がいないために棄権したのであろう。もし、民主派、穏健派が候補者になっていれば、この投票率の差の30%を得ることができたであろう。そうすると保守強硬派は敗れることになる。前々回にロウハニ前大統領が選ばれたのは今回棄権した人たちが投票した結果の番狂わせであった。最高指導者たちは十分に情勢を把握しているがために、今回の事前審査では民主穏健派の候補者を一人も入れなかったのである。つまり、国民の欲している大統領の人物像をきちんと認識しているのである。そうである以上う、今回の保守強硬派と称される新大統領も強硬路線をひた走りすることはないであろう。最高指導者ハメネイがこの新大統領もコントロールしながらしたたかな外交を推進することであろう。

 

 

イスラエルの新政権発足!

前々回の続きになります。
イスラエル国会は13日、右派政党「ヤミナ」のベネット党首が率いる連立政権を承認し、歴代最長の12年続いたネタニヤフ政権に終止符が打たれた。連立を切り崩そうとしていたネタニエフの抵抗もむなしく、イスラエル国会は連立政権を承認した。投票結果は60対59であるからギリギリの得票であった。連立を率いるベネットのヤミナ党は右派強硬派であるから、これまでのネタニエフと同じ傾向の思想であるが、連立構成は前々回に述べたように8党の構成であるから、右派強硬派ばかりではない。ベネット自身がこれまでに比べて、穏健な面を出さざるを得ないというような発言をしている。様々な思想をもった党の連立であるから、いつ破綻するかもわからない。
ネタニエフの汚職に関する裁判も進むことであろうし、今後のイスラエルを注視することが必要だ。

イスラエル:ネタニエフ政権の終焉か!

これまで何度か総選挙をやっても連立協議がまとまらずに選挙を繰り返したイスラエルであるが、この度、タイムリミット30分前にようやく八つの野党が連立を組むことに合意した。というものの最後までどうなるかはわからない。
出所:中日新聞

上の図でお分かりのように、今予想されている連立野党の議席は62と、過半数の61に対して一人多いだけなのである。造反者が一人でも出れば過半数には達しない。何よりも危惧されているのは、8党の政治思想がバラバラであるということ。これで連立を組んで事がスムーズに進んでいくのかということである。主義主張が異なる者同士の連立であって、唯一一致しているのは反ネタニエフということだ。第二党党首のラピド氏が組閣作業を開始したわけであるが、今後の動向は注目しなければならないだろう。

私個人としては、ネタニエフ政権のパレスチナに対する強硬な姿勢には辟易している。この二年間に4回の総選挙をしても政権を樹立できなかったということは、彼の求心力は既に衰えているということだ。汚職問題も発覚して、彼の立場は弱まっている。その彼が、自分の足元を固めようとするために手っ取り早い手法は、国外の敵(ここでは当然パレスチナ)との抗争を拡大することである。パレスチナに平穏をもたらすのはもだ遠い先のことであろうが、ネタニエフは退場してもらったほうがいい。

 

イランの大統領選挙

日本の新聞でも取り上げられているように、イランの大統領選挙に出馬する候補者7名が決まりました。とりあえず、イランの新聞に掲載されている候補者紹介のタイトルをここに紹介しておきましょう。
Hemmati: イランは大統領として経済学者を必要としている
前中央銀行総裁である彼は自分の経済面での専門性を生かそうとしている。
Jalili: すべての分野で大きな飛躍が必要
核問題について次期政権は消極的な姿勢をしては駄目だといっている。

Mehralizadehは:低所得者への現金配布を5倍に増やすことを約束します
前副大統領である彼は当選すれば貧困層や低所得者に支払われる現金支給額を5倍に増やすと述べた。
Qazizadeh-Hashemi :立候補は名声を獲得することを目的としていない
当選すれば、国民の参加を奨励し、国内経済への政府の関与を減らす方向に動くだろうと述べた。イランの経済は完全に公的部門によって運営されていると付け加えた。

Raeisi:当局は批判にさらされるべき
彼の描く政権は、国の高い住宅価格に対処し、若者の間での結婚を奨励するために、4年間の任期中に400万ユニットを建設する可能性があると述べた。住宅価格の高騰が、若者が結婚して家族を始める上で「大きな障害」であると付け加え、懸念を和らげるために手頃な価格の住宅を建設する努力をすると誓った。Rezaei :当選すればより効果的な外交を目指す
次の大統領に選出された場合、人々の時間を浪費するために提起された問題に対処することを容認しないだろうと述べ、より効果的で真の外交を追求すると付け加えた。イランは国際社会から距離を置くことはできないと付け加え、イスラム共和国は米国を含む一部の世界大国と利害が対立していると指摘した。

Zakani:リーダーが承認すれば米国と交渉すると言う
イラン・イスラム共和国の指導者アヤトラ・セイエド・アリ・ハメネイが許可を与えれば、彼の政権は米国と交渉すると述べた。

立候補を届け出た者は、立候補事前審査をパスしなければならない。そして、それを審査するメンバーを最高指導者が選ぶわけである。最高指導者の息のかかった者が選ばれ、彼らの審査結果も自ずから最高指導者の意向に沿ったものとなる。つまり、候補者に選ばれた人物はいずれも保守強硬派に近い人物である。これに対してブーイングを唱える者も多くいるが、最高指導者の権力は絶大なるものであり、どうにもならない。ロウハニ現大統領も改革派や保守穏健派の候補者を入れるように嘆願したともいわれているが結果は変わらない。

選挙は今月の18日に実施される。ライシ氏が最有力であり、信任投票に様なものであると言われている。いずれにせよ、現在、トランプからバイデンに米大統領が変わったことにより、米国が脱退したイランの核合意について交渉が行われているところである。今回の大統領選びは実は非常に重要な選挙であるのだが、これでは国民の意向を反映させることはできない。投票に行かない国民が増えることは必至である。

在イスラエルの米大使館

 

日本時間の21日午前にハマスとイスラエルの間で停戦合意に至った。この間にパレスチナ側では多くの子供たちも犠牲になっている。国連安保理事国の足並みが乱れて、停戦への道筋がつけられなかったが、エジプトの仲介ということで停戦に至った。
衝突の発端は例のごとくエルサレムでの両者の扱いによるものであるが、今回、このように一気に激しい戦闘になったことは、双方のリーダーの自己本位的な思惑によるところが大きい。特にイスラエルではネタにエフが求心力を失っており、それを挽回する意味でも非常に強硬な手段に出たのである。

両者の衝突のことはさておいて、停戦協定のあと、米国務長官であるブリンケンが25日にイスラエルを初訪問した。彼がネタニエフと会談したあと、パレスチナ自治区でアッバス議長とも会談し、その後、エジプト、ヨルダンを訪問したはずである。

トランプ前大統領がイスラエルの米大使館をテルアビブからエルサレムに移転させたことは2018年のことであった。実は米合衆国議会では1999年5月31日までにエルサレムへ移転するように1995年10月23日にエルサレム大使館法(Jerusalem Embassy Act)が成立していたのであった。しかしながら、クリントン、ブッシュ、オバマ大統領はそれを執行しなかったという経緯がある。それは1967年の第三次中東戦争でイスラエルが獲得した土地を、アメリカが公認することになるとの恐れであった。それをトランプが執行したのであった。当時、アラブ諸国は勿論、世界各国が非難したものであったが、移転は実行された。

トランプからバイデン大統領に代わっても、米国大使館の位置は元には戻らない。議会で決めたことをトランプは執行しただけであるから、戻しようがない。戻すなら再び議会での議決が必要となるのだろうが、現在の米の政治家がそんなことをするわけがない。トランプが脱退を指示したパリ協定や、そのほかの国際協定への復帰はあっても、エルサレムの米大使館の位置はもう戻らないのである。冒頭の図は旧市街と米大使館の位置を示す地図である。ウィキペディアには次のように書かれている。「この場所はエルサレム旧市街のダマスカス門(Damascus Gate)から公道60号線で約5km南へ行った所のそばで、一部は1946~67年停戦ライン(1946-67 Armistice line)に跨っていて、一部は西岸地区に、一部は無人地帯にある。国連の人は、国際法上は占領地区にあるのでどちら側もそこを使うことはできない、ともいっている。」