昨日、安倍元首相が銃弾に倒れ、死去されました。世界中でそのことが報じられ、彼の生前の業績を伝えていました。サウジアラビア、トルコ、イランの紙面の画像を紹介しておきます。
元首相のご冥福をお祈りいたします。
中東・イスラム世界への招待
昨日、安倍元首相が銃弾に倒れ、死去されました。世界中でそのことが報じられ、彼の生前の業績を伝えていました。サウジアラビア、トルコ、イランの紙面の画像を紹介しておきます。
元首相のご冥福をお祈りいたします。
最近購入した中公新書を紹介する。小林登志子著『古代メソポタミア全史』である。副題として「シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで」が付いている。定価1000円(税込み1100円)である。まだ数ページしか読んでいないので中身の感想を書くことはできない。このブログの読者にはこの本の中身がわかるように目次を次にアップしておこう。
メソポタミア文明に興味のある私にとってこの辺りの歴史は興味深い。ハンムラビ法典などは子供の時の社会(歴史)で習ったことはあるが、世界最初の法典であり「目には目を」の精神が背景にあるという程度のことしか習わなかった。詳しい歴史は高校の世界史でも扱われてはいなかったと思う、アッシリアについてもそうである。アッシリアのオリエント統一という語句は重要語句として習うが、アッシリアそのものの歴史はあまり扱われていなかったと思う。これから読むのが楽しみである。
まだ少ししか読んでいないが、これを最後まで読むことができる一般読者は果たしてどれ位いるだろうかという思いもした。例えば12頁の部分を例に挙げてみよう。
シュメル人自身は自らが住んでいる地方を「シュメル」とは呼ばなかった。「シュメル」は後代のアッカド語で、シュメル人自身は「キエンギ(ル)」と呼んでいた。一方、「アッカド」はシュメル語で「キウリ」という。まとめるとアッカド語の「シュメルとアッカドはシュメル語では「キエンギとキウリ」といい、シュメル人も、アッカド人も「バビロニア」とは呼ばなかった。・・・・・
一般読者にとってアッカド語でどういうか、シュメル語でどういうかはどうでもいいように思うのである。地名などでも当時の地名で書いておいて括弧の中に(現題名〇〇〇)となっている。最初から現題名で書いてくれた方がスムーズに読めそうであるが、著者にとってはそれが正しい表記であり、親切心一杯なのであろう。分かる気もするのである。私は読んでみようと思う。特に最後の方のサーサーン朝の部分を先に読んでみるだろう。誤解しないでもらいたい。本書を紹介したのは、お勧めだからである。
ハディージャとはいうまでもなく、イスラムの創設者「ムハンマド」の最初の妻である。25歳頃のムハンマドと結婚したハディージャは40歳位であり、夫とは死別していた寡婦であった。裕福な商人であった。東京堂出版の黒田壽郎編『イスラーム辞典』では次のように説明している。色々な書籍で彼女についての記述を読んだが、これが一番詳しくて正しいように思えたので、拝借することにした。
彼女はクライシュ族のフワイリドの娘で二度の結婚歴を持ち、財産と独立を備えた裕福な商人であった。ムハンマドを雇い入れたハディージャは、彼をシリアに向う隊商の長として派遣したが、彼はその使命を見事に果たしている。誠実で責任感のある人がらに心を動かされたハディージャは、ムハンマドに結婚を申込んだ。時にハディージャは40歳、ムハンマドは25歳であったといわれる。この結婚はムハンマドにとって大きな意義をもつものであった。その一つは、メッカでの主たる活動である商業において、彼にその才能を磨く機会を与えたことである。さらに彼の精神的発展にも大きな役割を果たしている。
ハディージャにはワラカと呼ばれるキリスト教徒の従兄弟がいた。啓示を受けたムハンマドが、自分はユダヤ教徒およびキリスト教徒のそれと同じ啓示を受けているというい確信を持つに至ったのは、ワラカとハディージャの助けによると伝えられている。また預言者としての使命に確信を失った時、ムハンマドを励まし、確信を再びとり戻させたのはハディージャそのひとであった。彼女はイスラームに帰依した最初の人物であった。
ハディージャはムハンマドとの間に、女四人、男二人の子供をもうけたが、息子二人は夭逝している。ムハンマドにとって、ハディージャの信頼はきわめて重要であった。彼は生涯、妻を思い起こすたびに愛と感動と感謝の念にあふれたと伝えられる。
「この世にあるいかなる女性もハディージャには値しない。私を信じる者がいない時に、彼女だけが私を信じてくれた。皆が私の言葉を嘘とみなしたのに、彼女は真実であると受け入れてくれた。」
ハディージャはヒジュラの三年前、おそらく619年にこの世を去った。彼女が生きている間、ムハンマドは他に妻を娶らなかった。
他の資料を見るとハディージャは二人の夫と結婚の経験があり一人は生別、一人は死別とある。またムハンマドとの間の子供は三男四女であったとも。いずれも男子は夭逝しているのは同じである。また、ハディージャは生前ムハンマドに他の妻を持つことを許さなかったともある。(以上岩波の新イスラム事典)。大きな差異はないが、こちらのほうはムハンマドが自発的に他の妻を持たなかったのではなく、ハディージャが許さなかったと少々ニュアンスが違っているのが面白い。またハディーシャの従兄弟のワラカがキリスト教徒というのは、ネストリウス派キリスト教修道僧であるという資料もある。私はコーランを読んでいるとムハンマドは旧約聖書のことをよく知っていたんだなと思う。元々読み書きのできない彼がどうして知識を吸収したのだろうかと思ったものであるが、彼の周りにワラカのような人物がいたということで納得がいくのである。イスラム誕生以前のアラビア半島にはユダヤ教徒もキリスト教徒も沢山いたのである。
またムハンマドが隊商の長としてシリア辺りまででかけたのであるが、そのような長距離を駱駝でトボトボと灼熱の砂漠も通過したであろうに、大変な苦労をしたことであろう。冒頭の画像を参考にされたい。
拙著『中東世界を読む』(創成社)138頁~139頁の部分を抜粋する。
地図を見るとシリアはトルコの南、イラクの北西、ヨルダンの北に位置している。西側は地中海に面しているが、この西側の南半分にレバノンが食い込んでいる形となっている。レバノンの南側にはイスラエルが接している。地中海沿岸では古代からフェニキア人などが活躍したことが知られている。この地域はヒッタイト、アッシリア、バビロニア、ペルシアなど幾多の大国の影響下に置かれた歴史を持つ。さて、ペルシアの支配はアレクサンドロス大王の征服によって終わるが、その後この地域はセレウコス朝シリアとなる。シリアはその後紀元前64年ポンペイウス皇帝の時代にローマの属州となる。レバノンのバールベックの遺跡はローマ時代の1世紀に建てられたものである。ジュピター神殿は大部分が崩壊してしまったが、神殿跡には6本の柱が残っている。また、遺跡の南側にはギリシャ風のバッカス神殿があるが、こちらは祭殿や柱、天井の彫刻など多数が残っている。またシリアの最も有名な遺跡はパルミラである。パルミラはシルクロードの西のはずれに位置し、紀元前1世紀から2世紀にかけて築かれたオアシス都市であり、美しいことから「シルクロードのバラ」と呼ばれた。遺跡には巨大な柱が並び、劇場や大浴場、神殿跡が残っている。3世紀頃には女王ゼノビアが大帝国を築いたが、3世紀にローマ軍に滅ぼされた。ゼノビア女王は首に鎖をかけられローマ市中を引き回された。さて、7世紀になるとアラビア半島西部のメディナ、メッカ一帯でイスラムが起き、その勢力はあっという間に周辺に広がっていった。・・・
このくだりにゼノビアという女性が登場するのである。ゼノビアという女王があの遺跡で有名なパルミラという国を治めていたのである。ゼノビアとはどんな女性であったのだろうか。パルミラとはどんな国であったのだろうか。世界史の窓では次のように説明されている。
パルミラとは:
パルミュラともいう。シリア砂漠のほぼ中央に位置するオアシス都市で、ペルシア湾方面からダマスクスと地中海東岸の海岸都市を結ぶ隊商貿易の中間の要衝として栄えた。紀元前1世紀のヘレニズム時代から商業都市として繁栄したが、1世紀からはローマの勢力がこの地に及んだ。
3世紀にはその東のイラン高原に興ったササン朝がシリアに進出するとそれに抵抗し、ローマとササン朝の中間にあって女王ゼノビアはシリアからエジプト、小アジアにかけての勢力を築いた。272年、ローマ帝国のアウレリアヌス帝(軍人皇帝の一人)が遠征軍を派遣し、パルミラを制圧した。女王のゼノビアは、才色兼備の女王でありローマ軍とよく戦ったが、敗れて捕虜となりローマに連行され、パルミラもアウレリアヌス帝によって破壊された。
ゼノビアとは:
18世紀イギリスの史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』第11章では、このパルミラと女王ゼノビアについて述べている。
(引用)・・・おそらくゼノビアこそは、アジアの風土風習が女の性(さが)として与える隷従怠惰の悪癖をみごとに打破してのけた、ほとんど唯一の女傑だったのではなかろうか。・・・その美貌はクレオパトラにもおさおさ劣らず、貞節と勇気でははるかに上だった。最大の女傑というばかりでなく、最高の美女としてもその名は高い。肌は浅黒く、・・・歯並みは真珠のように白かったという。漆黒のおおきな瞳は、ただならぬ光を帯びて輝き・・・声は力強く、しかも実に音楽的だった。
この頁に二つの画像はショッピングサイトで売られているスカーフである。ゼノビア女王を描いたものである。数万円の価格がついていた。ISが中東地域で文化施設を破壊したためにパルミラの遺跡も現状がどうであるかは不明である。遺跡で有名なパルミラの裏にゼノビアという女性がいたことを知っていただければと思い記事にした。ローマ市中を鎖につながれて引き回されたというが、この時の鎖は金の鎖であったという。
前回はアフガニスタンの女性キャスターの服装の話題だったので、今回もそれに関連して「中東世界の女性たち」と題しましょう。イスラム世界ではなく中東世界です。
最初は「シバの女王」です。シバの女王といえば、エルサレムのソロモン王と知恵比べをしたことで有名な人物である。現在のイエメン辺りが彼女の王国であったという伝説の人物である。伝説と同時に歴史上の人物でもある。現在のイエメンは世界で最も貧しい国の一つに数えられるが、かつては幸福のアラビアと呼ばれるほどの豊かな国であった。乳香、香料など貴重な品の産地として有名であった。また、古代都市マーリブつには世界で最も古いダムが造られていたことが知られている。ダムが建設されて灌漑がなされたということである。マーリブダムの辺りではシバの女王の宮殿跡だとされる「月神殿(アッワーム)」の遺跡が発掘されている。
シバの女王がソロモンに会いに行った当時の簡単な地政図は次のようになる。ダヴィデやソロモンがユダヤ人の国を作り栄えた時代であった。この時代と先ほどの月神殿の時代がマッチするのか疑問視されたこともあったが、月神殿の地下にもっと古い時代のものがあるらしいということで、ソロモンとの知恵比べの話は根拠のない話ではないという見方が強くなったのである。ソロモンとシバの女王の知恵比べの話はネットを見ればいくつも出て来ることであろうから、ここでは触れない。ここで言いたいことは、イスラム世界ではないが、イスラム以前の中東世界において男性のソロモン王に対しても引けを取らない女性がいたということである。
上の画像は MIDDLE EAST MONITOR の少し前の記事の写真です。記事の内容の一部を要約して抜粋すると以下の通りです。
パンデミックと世界のGDPの3.60%の縮小の影響で国際経済がうめき声を上げている間、エジプトは2020年と2021年の両方で3%を超える世界記録の成長率を祝いました。
コロナウイルスの攻撃に続くウクライナに対するロシアの戦争は、この経済成長を打ち砕くようになりました。それはエジプトの観光業に大きな打撃を与えました。また、小麦と石油の価格の上昇のために耐え難い財政的圧力がかかるようになりました。
エジプトは原油と石油派生物の純輸入国であり、年間1億2000万バレル以上の原油が輸入されています。過去数年間、政府は1バレルあたり約61ドルの石油価格予算を起草しました。世界のバレル価格が120ドルを超え、これが150ドルを超える可能性があると予測されているため、エジプト政府は予算の割り当てを2倍にする必要があります。
もう1つの打撃は、小麦と食料の価格です。エジプトは世界最大の小麦輸入国であり、2021年に1160万トンが国内に持ち込まれました。エジプトの供給大臣、アリ・モセリ氏は、政府は小麦の価格を1トンあたり255ドルと想定しましたが、現在は350ドルを支払っています。残念ながら、エジプトの輸入の86%は、ロシアとウクライナの2つの戦争国からのものであるため、問題はここで止まりません。
政府がすでに継続的な物価上昇、賃金の凍結、補助金の撤回で人々に負担をかけていたときに打撃が来ました。政府は、電気、水、燃料の補助金をほぼ廃止し、食糧補助金の価値と受益者数を削減しました。また、重量を減らした後、補助金付きのふすま(バラディ)パンの価格が上がることになりました。
4月7日のこのブログにウクライナとロシアの戦争が中東の小麦の供給に大きな打撃を与えていることを書きましたが、いまエジプトではその影響がパンの価格に現れてきたわけです。各地でデモが起こり、政府に抗議する運動が広がっているということです。エジプトでは過去何度もパン騒動と呼ばれる動きで政府が揺さぶられた歴史があります。今回のウクライナの戦争の影響が世界各地に影響を及ぼし、それが拡大しつつあることが目に見えるようになってきています。早く、終結してほしいものです。
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2010年にチュニジアで起きた民衆の行動が、反政府運動へと拡大し、政権が崩壊したのでした。その余波が中東各国に広がり、エジプトの政権も崩壊したのでしたね。反政府運動の波は長期独裁を続けて来た国々の指導者たちを怯えさせたものでした。その一連の流れをマスコミはすぐに「アラブの春」と名付けたのでした。それは、1968年春にチェコスロバキアで起きた民主化の動きを意味した「プラハの春」という言葉を捩ったものでした。このときにはソ連と東欧軍が介入したのですが、結局は民主化が勝利したのです。
マスコミがジャーナリストが「アラブの春」という言葉を連発する状況をみて私は「春などすぐに来るわけはない!」と思っていたので、この言葉を聞くたびにうんざりしたのでした。結果はその通りでした。一部の国では政権が交代したものの、そこに春が来てはいないのです。いまでは、死語となった「アラブの春」です。
そんな死語となった「アラブの春」を題材とした書物を、今日は紹介いたします。書物の紹介というよりは、書物の存在を紹介したいのです。タイトルは冒頭の通りです。2012年、角川書店発行の新書(角川oneテーマ21)で著者は重信メイです。彼女は「はじめに」の中で次のように語っています。「アラブで生まれ育ち、いまは日本に暮らしている私の目からみたアラブの春について書いています」と。そうです、彼女はアラブで生まれ育ったのです。新書の帯には「大手メディアが伝えない革命の真実」と書いています。アラブの春の運動の経緯や事実関係は知っていたのですが、私は彼女の目からはどう見えていたのだろうかと興味を持ったのでした。著者の名前に魅かれたのです。彼女の母親は「重信房子」です。重信房子とパレスチナ人男性との間に生まれたのが著者「重信メイ」なのです。当時読み終えて特に満足感も違和感もない感想でした。知らないことも沢山あったので、そうなんだと受け入れたものでした。一度読んだだけなので、汚れもなく新品同様を維持しています。ただ一カ所だけ最終章の「おわりに」の中でパレスチナ問題について語った部分に鉛筆で線が引いてあります。次の言葉が印象に残ったのでした。
パレスチナとイスラエルの問題は、宗教的な問題ではないということです。イスラム教とユダヤ教の対立ではありません。
イスラエルは確かにユダヤ教徒がつくった国ですが、彼らに土地を奪われたパレスチナ人はイスラム教徒だけではありません。キリスト教徒も無宗教の人たちもいます。そういう人たちがみんなでかつて自分たちやその親が住んでいた土地を取り戻すために、イスラエルの占領政策に抵抗しています。
弾圧、差別、自由がない・・・だから抵抗しているのです。宗教のためではなく、生活のために戦わざるをえない。そのことをまず知ってほしいと思っています。
私がこのあとがきでパレスチア問題を取り上げたのは、この問題とアラブの春は決して無関係ではないからです。
チュニジアやエジプトで人々が訴えたのは、まさに「人間的な問題」です。・・・・・・」
パレスチナ問題を宗教の問題ではないという辺りは全く同感です。私も以前から同じように考えていました。さらに言うならばイスラム同士での紛争ではすぐにスンナ派とシーア派の対立だと決めつけることが多いのですが、対立の真の原因はそんな単純なものではないと考えています。
さて、この本の紹介を今日行った意味にもう皆さんはお気づきですね。重信房子が近く刑期を終えて出所することになるのです。彼女の今については新聞各紙が書き始めているので、そちらをご覧ください。毎日、短歌を詠んで日々を送っているようです。歌集も出版されるようです。これまでの過去を踏まえた歌のようで、いくつかを読みましたが、興味というか、うーんそうなんだという思いが湧いてきました。テルアビブ、ハーグなどなど、様々な思いが浮かんでくるようです。
ロシアのウクライナへの攻撃は依然として収まっていません。世界中にその影響が及んでいますが、中東への影響はどうでしょうか。ウクライナからの穀物輸出先のトップ10を見てみましょう。
2020年のウクライナの穀物輸出先トップ10 | 2019年のウクライナの穀物輸出先トップ10 |
中国 18億5500万ドル エジプト 11億2000万ドル インドネシア 5億4700万ドル スペイン 5億4300万ドル オランダ 5億1900万ドル トルコ 4億7300万ドル チュニジア 3億4700万ドル バングラデシュ 3億1700万ドル 韓国 2億8200万ドル リビア 2億6500万ドル |
エジプト 13億1100万ドル 中国 8億5900万ドル スペイン 7億6500万ドル トルコ 7億1800万ドル バングラデシュ 4億2100万ドル イスラエル 3億1700万ドル オランダ 6億2400万ドル インドネシア 5億3800万ドル チュニジア 2億9300万ドル イタリア 2億8300万ドル |
輸出穀物の量 | 輸出穀物の量 |
トウモロコシ 2790万トン 小麦 1810万トン 大麦 500万トン ライ麦 5000トン |
トウモロコシ 3230万トン 小麦 2000万トン 大麦 410万トン ライ麦 1万3000トン |
数値の出所は以下のサイトです。利用させていただきありがとうございます。
ウクライナのマルチメディア報道プラットフォーム
https://www.ukrinform.jp/rubric-economy/3195317-nianukurainano-gu-wu-shu-chu-xiantoppuweiha-zhong-guo.html
このトップテンにはエジプトとトルコ位しかでていませんが、輸出量の多い順ですから他の中東諸国は出ていません。でも、それぞれの国の穀物輸入量全体の中でウクライナからの比率は非常に高いのです。ですからレバノン辺りではロシアとウクライナで80%とかの高い比率になるはずです。ウクライナだけ採り上げましたが、ロシアも小麦の輸出大国です。当然中東にも影響がでているわけです。
私たちはエネルギーのことが一番大切のように考えがちですが、食料品が大事なのは当然のことですね。早く戦争が終わらないと、色々な面で大変なことになるってしまうでしょう。コロナ同様に早く終わりますように。
ウクライナがロシア軍の攻撃を受けて大変な戦争が続いています。最近ではウクライナがアメリカと結託して化学兵器を使おうとしているから攻撃しているとか、戦争を正当化するための出鱈目な主張もしています。プーチンは狂ったようですね。
そんな中で各国がロシアを非難し、制裁を発動し、ウクライナを支援する動きが大きくなっています。また、両国間の仲介役をかって出る国もいるわけですが、トルコもその一つです。ロシアとウクライナの外相会議をお膳立てしましたが、結果は何も出ませんでした。そのトルコが今回のテーマです。
トルコもロシアとの間には苦い歴史があります。ロシアの南下政策で南へ進出したかったロシアはトルコの脅威でした。何度か戦争となりました。コトバンクには次のように書かれています。
【露土戦争】
18~19世紀を通じて,ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で戦われた一連の戦争。ロシア・トルコ戦争とも呼ばれる。不凍港を求めて,黒海からさらに地中海への南下を目ざすロシアの東方政策を主たる契機として発生した。
簡単すぎてあまり大事件のように聞こえませんが、もっと詳しくは「世界史の窓」などを見ていただくといいでしょう。いずれにせよロシア軍の侵攻によってオスマン帝国が戦争の場になったわけです。
さて、トルコの国情についてです。今回も米国はCIAの資料を利用しています。自動翻訳なので妙な日本語文があるかもしれません。
概要 | 現代トルコは、敗北したオスマン帝国の残党から、後にアタチュルクまたは「トルコ人の父」という称号を授与された国民的英雄ムスタファ・ケマルによって設立されました。彼のリーダーシップの下で、国は根本的な社会的、法的、政治的改革を採用しました。一党支配の期間の後、複数政党政治の実験は、野党民主党の1950年の選挙勝利と政権交代につながりました。それ以来、トルコの政党は拡大しましたが、民主主義は不安定な時期と軍事クーデター(1960、1971、1980)によって崩壊し、いずれの場合も最終的には正式な政治権力が民間人に返還されました。1997年、軍は再び、当時のイスラム志向の政府の追放者(一般に「ポストモダンクーデター」と呼ばれる)の設計を支援しました。トルコは、ギリシャによる島の乗っ取りを防ぐために1974年にキプロスに軍事的に介入し、それ以来、トルコだけが認めている「北キプロスのトルコ共和国」の守護国として行動してきました。米国指定のテロ組織であるクルディスタン労働者党(PKK)によって1984年に開始された分離主義者の反乱は、長い間トルコの治安部隊の注目を集め、40,000人以上の命を奪ってきました。2013年、トルコ政府とPKKは暴力を終わらせることを目的とした交渉を行いましたが、2015年に激しい戦闘が再開されました。トルコは1945年に国連に加盟し、1952年にNATOの加盟国になりました。1963年、トルコは欧州共同体の準会員になりました。2005年にEUとの加盟交渉を開始しました。過去10年間、経済改革といくつかの政治改革が相まって、2015年から2016年まで続くトルコでは、アンカラ、イスタンブール、および主にクルド人の南東部地域全体での大規模な攻撃を含む、テロリストによる暴力の増加が見られました。2016年7月15日、トルコ軍の一部がクーデターを試みましたが、一般的な抵抗が広まったため、最終的には失敗しました。トルコ市民がクーデター軍と対峙するために一斉に街頭に出たとき、240人以上が殺され、2,000人以上が負傷した。政府は、失敗したクーデターを扇動したとして、フェトフッラーギュレンの国境を越えた宗教的および社会的運動(「ヒズメット」)の信者を非難し、運動の信者をテロリストとして指名した。クーデター未遂以来、トルコ政府当局は13万人以上の警備員、ジャーナリスト、裁判官、学者を逮捕、停職、または解雇しました。ギュレンの運動との関係が疑われる公務員。クーデターの失敗に続いて、トルコ政府は2016年7月から2018年7月まで非常事態宣言を制定しました。トルコ政府は2017年4月16日に国民投票を実施し、有権者はトルコを議会から大統領制に変更する憲法改正を承認しました。改正案は、2018年6月の大統領選挙と議会選挙に続いて完全に発効しました。 |
元首 | レジェップ・タイップ・エルドガン大統領(2014年8月28日から国家元首、2019年7月9日から政府の長)。 |
政府代表 | レジェップ・タイップ・エルドガン大統領 |
政体 | 共和制 |
首都 | アンカラ |
国土面積 | 783,562平方キロメートル (日本は38万) |
人口 | 82,482,383(2021年7月推定) |
人種 | トルコ語70-75%、クルド人19%、その他の少数民族7-12%(2016年推定) |
言語 | トルコ語(公式)、クルド語、その他の少数言語 |
宗教 | イスラム教徒99.8%(主にスンニ派)、その他0.2%(主にキリスト教徒とユダヤ教徒) |
経済概要 | 一人当たりGDP $ 28,400 (2020年推定) $ 28,200(2019年推定) $ 28,300(2018年推定) |
経済 | トルコの主に自由市場経済は、その産業と、サービス部門によって推進されていますが、その伝統的な農業部門は依然として雇用の約25%を占めています。自動車、石油化学、および電子産業は重要性を増しており、トルコの輸出構成の中で従来の繊維および衣料品セクターを上回っています。しかし、最近の政治的安定と経済のダイナミズムは、国内の不確実性と安全保障上の懸念に取って代わられ、金融市場のボラティリティを生み出し、トルコの経済見通しを圧迫しています。
現在の政府の政策は、構造的な経済改革の実施が鈍化している一方で、ポピュリストの支出措置と信用破綻を強調しています。政府はいくつかの戦略的セクターでより積極的な役割を果たしており、経済機関や規制当局を利用して政敵を標的にし、司法制度に対する民間セクターの信頼を傷つけてきました。2016年7月から2017年3月の間に、法の支配と経済改革のペースに関する懸念を理由に、3つの信用格付け機関がトルコのソブリン信用格付けを格下げしました。 トルコは依然として輸入石油とガスに大きく依存していますが、より幅広い国際的パートナーとのエネルギー関係を追求し、再生可能エネルギー、原子力、石炭などの国内エネルギー源の使用を増やすための措置を講じています。トルコとアゼルバイジャニのアナトリア横断天然ガスパイプラインは、トルコとヨーロッパへのカスピ海ガスの輸送を増やすために前進しており、完成すると、トルコの輸入ガスの供給源を多様化するのに役立ちます。 2001年にトルコが深刻な金融危機を経験した後、アンカラはIMFプログラムの一環として金融および財政改革を採用しました。改革は国の経済ファンダメンタルズを強化し、2008年まで年平均6%以上の力強い成長の時代を迎えました。積極的な民営化プログラムはまた、基礎産業、銀行、輸送、発電、通信への国家の関与を減らしました。世界的な経済情勢と財政引き締めにより2009年にGDPは縮小しましたが、トルコの規制の厳しい金融市場と銀行システムは、国が世界的な金融危機を乗り切るのに役立ち、GDP成長率は2010年と2011年に輸出と投資として約9%に回復しました。危機後に回復した。 2016年以降のトルコのGDPの成長は、トルコ経済の根底にある不均衡が根強いことを明らかにしています。特に、トルコの大きな経常赤字は、成長の資金を調達するために外部投資の流入に依存しなければならないことを意味し、経済を投資家の信頼の不安定な変化に対して脆弱なままにします。その他の厄介な傾向には、トルコリラの対ドル安が続いていることを考えると、2017年に増加した失業率とインフレ率の上昇が含まれます。政府債務はGDPの約30%と低いままですが、銀行と企業の借入は過去10年間でGDPの%としてほぼ3倍になり、新興市場の同業他社を上回り、投資家は長期的な持続可能性について懸念を抱いています。 |
輸出入 | 輸出品 自動車および車両部品、精製石油、配送トラック、宝飾品、衣料品およびアパレル(2019)輸入品 金、精製石油、原油、車両部品、鉄くず(2019) |
今年度もあと半月になりました。これまで勤めて来た非常勤講師の仕事も終えることにしました。そこで今回は中東諸国のプロフィールを改めて整理したいと思うのです。現役のときは自分のデーターベースを常時アップデートしていましたが、非常勤になってからは必要な部分のみを見てきました。原点に戻って、改めて中東諸国の現状を整理したいと思います。というものの、現地の国々の資料をにアクセスするのは個人の立場としては難しい(費用が掛かる)ので、やはり米国の資料に頼ることにします。とりあえず今回はサウジアラビアです。
概要 | サウジアラビアはイスラム誕生の地であり、メッカとメディナの二つの聖地が在る。現在のサウジアラビアはアラビア半島の大部分を統一したイブン・サウドによって1932年にスタートした。石油、天然ガスの世界最大級の生産国である。 |
元首 | King and Prime Miniser SALMAN bin Abd al-Aziz Al Saud |
政府代表 | 同上 |
政体 | 絶対君主制 |
首都 | リヤド (Riyadh) |
国土面積 | 215万㎢ *日本は38万㎢だから5倍以上 |
人口 | 3480万人(2021年7月時推定) 推定成長率1.62% |
年齢構成 0-14歳: 24.84%(男性4,327,830 /女性4,159,242) 15-24歳: 15.38%(男性2,741,371 /女性2,515,188) 25-54歳: 50.2%(男性10,350,028 /女性6,804,479) 55-64歳: 5.95%(男性1,254,921/女性778,467) 65歳以上: 3.63%(男性657,395 /女性584,577)(2020年推定) |
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人種 | アラブ(90%) |
言語 | アラビア語(公用語) |
宗教 | イスラム教徒(公式、市民はスンニ派85〜90%、シーア派10〜15%)、その他(東方正教会、プロテスタント、ローマカトリック、ユダヤ教、ヒンズー教、仏教、シーア派を含む)(2012年推定) 注:さまざまな信仰の駐在員コミュニティ(人口の30%以上)、スンニ派イスラム教の政府認可の解釈と矛盾するほとんどの形式の公の宗教的表現は制限されています。非イスラム教徒はサウジアラビアの市民権を持つことは許可されておらず、非イスラム教徒の礼拝所は許可されていません(2013) |
経済概要 | サウジアラビアは石油ベースの経済であり、主要な経済活動に対する政府の強力な統制があります。世界で実証済みの石油埋蔵量の約16%を保有し、石油の最大の輸出国としてランク付けされており、OPECで主導的な役割を果たしています。石油セクターは、予算収入の約87%、GDPの42%、輸出収入の90%を占めています。
サウジアラビアは、経済を多様化し、より多くのサウジアラビア国民を雇用するために、民間部門の成長を奨励しています。サウジアラビア経済、特に石油およびサービス部門では、約600万人の外国人労働者が重要な役割を果たしています。しかし同時に、リヤドは自国民の失業を減らすのに苦労しています。サウジアラビアの当局者は、特に若者の人口が多いことを重視しています。 2017年、王国はGDPの8.3%と推定される財政赤字を被りました。これは、債券の売却と準備金の引き出しによって賄われていました。王国は、かなりの外国資産を引き出すか借りることによって数年間高額の赤字を賄うことができますが、設備投資を削減し、電気、水、石油製品への補助金を減らし、最近5%の付加価値税を導入しました。2016年1月、皇太子と副首相のムハンマド・ビン・サルマンは、サウジアラビアが国営石油会社ARAMCOの株式を上場する意向であると発表しました。これは、収益と外部投資を増やすためのもう1つの動きです。政府はまた、石油市場の縮小を受けて、経済の民営化と多様化をより綿密に検討している。歴史的に、サウジアラビアは多様化の取り組みを発電に集中させてきました。電気通信、天然ガス探査、および石油化学セクター。最近では、政府は、ヘルスケア、教育、観光産業における民間部門の役割の拡大について投資家に働きかけています。サウジアラビアはしばらくの間、多様化の目標を強調してきましたが、現在の石油価格の低さにより、政府は長期的なスケジュールに先立ってより抜本的な変更を余儀なくされる可能性があります。 |
経済 | 農産物 牛乳、ナツメヤシ、鶏肉、果物、スイカ、大麦、小麦、ジャガイモ、卵、トマト産業 原油生産、石油精製、基礎石油化学製品、アンモニア、産業ガス、水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)、セメント、肥料、プラスチック、金属、商用船の修理、商用航空機の修理、建設工業生産の成長率 -2.4%(2017年推定)労働力 1,380万(2017年推定) 注: 310万人のサウジアラビア人と1,070万人の非サウジアラビア人で構成されています労働力-職業別 農業: 6.7%、産業: 21.4%、サービス: 71.9%(2005年推定) 失業率 失業、15〜24歳の若者 |
輸出入 | 輸出 1841.1億ドル(2020年推定) 2858.6億ドル(2019年推定)輸出-パートナー 中国20%、インド11%、日本11%、韓国9%、米国5%(2019)輸出-商品 原油、精製石油、ポリマー、工業用アルコール、天然ガス(2019)輸入 1,798億ドル(2020年推定) 輸入-パートナー 輸入-商品 |