ユダヤ人とは?

「アラブ人とは?」の中で、アラブとユダヤはセム系民族同士であるので言語学的には近いということでした。旧約聖書をみてもアラブとユダヤのルーツであるとされているイシュマエルとイサクは異母兄弟でした。それはそれとして、ユダヤ人とはどういう人たちなのでしょうか。ユダヤ民族とかユダヤ人という人種があるのでしょうか。

佐藤千景著『ユダヤ世界を読む』(創成社新書、2006年)の第一章の冒頭には次のような記載がある。
イスラエル外務省がウェブサイト上で紹介しているユダヤ民族の歴史は、「約4000年前の族長アブラハムとその子イサク、孫のヤコブによってその幕が開かれた」という記述から始まっている。この記述は、旧約聖書の創世記第12章から始まる族長時代に相当する部分であるが、現代においてこうした聖書の物語を、史実としての「歴史」としてとらえる人は少ないであろう。
他方で近年、死海近くにあるクムランの洞窟から発掘された死海文書や、後に述べるマサダの遺跡のように、考古学上の様々な発見によって聖書時代の出来事が徐々に裏付けられつつあることも事実である。とはいえ、過去の旧約聖書に関する多くの研究が示しているように、特に族長時代からダビデ・ソロモン王国成立頃までの記述は、イスラエルの民族に関する政治的、神学的な立場を説明するためにさまざまな部族や集団の民間伝承を紀元前一千年紀頃に再編集したものであるとされている。・・・・中略・・・・
イスラエルの帰還法によれば、ユダヤ人とはユダヤ人の母親から生まれた者、またはユダヤ教に改宗した者と定義されている。この定義に従うならば、ユダヤ人とは先祖の地を受け継いだ者たちだけではなく、特定の宗教信徒を示す名称であるということになる。彼らが別名「啓典の民」または「書の民」と呼ばれているのは、こうした理由による。事実、非ユダヤ人であっても、身体的な特徴を問わず、改宗によってユダヤ民族の一員として認められる場合がある。もちろん、ユダヤ教への改宗は決して簡単なものではない。しかしそれは、来日したスポーツ選手が帰化したにもかかわらず、いわゆる一般的な「日本人」としての集団に加えられることはないという、我が国での民族に対する感覚とは大きく異なるものといえよう。

ここに記載されているように、まずはユダヤ教に改宗した者はユダヤ人なのである。私・日本人がユダヤ教に改宗したとしたらユダヤ人となるということらしい。勿論、ユダヤ教に改宗することは簡単にはできないらしい。それにしても、ユダヤ人というのはユダヤ民族とかユダヤ人種というものではないということは間違いないというわけだ。

もう一つの、ユダヤ人の母親から生まれた者がユダヤ人であるという定義はどうだろう。「あっ、そうか。お母さんがユダヤ人であれば子供はユダヤ人ということだね。」分かりやすいですね。でも実際はそう簡単ではないらしい。ユダヤ人の母とは誰なのか、つまり、母親がユダヤ人であることはどうやってわかるのかという問題が残るというのである。なんかややこしいのであるが、ユダヤ人というのは皆ユダヤ教徒ではあるのでしょうね。

ユダヤ人と言うと外見の特徴がある。ヒゲや帽子などですぐに分かるが、それはそういう格好をすればユダヤ人ということであり、イスラム教徒がベールを着たりするのと同じことで、身体的な特徴ではない。和服の着物をきたのが日本人であるというようなものだろう。

結論としてはユダヤ人という人種や民族はいないということ。ユダヤの民が離散して世界中に散らばって存在しているうちに多様なユダヤ人になっていったというような感じなのでしょうか。

バーレーンもイスラエルと国交樹立

アラブ首長国連邦がイスラエルと国交を正常化させたという記事を書いたのが8月15日でしたから、およそ1ヵ月後の昨日、バーレーンとイスラエルが国交を正常化させると合意しました。予想通りの展開になっていることですので、驚きはしません。

トランプ大統領はこのような合意を仲介することによって、中東和平の進展を推し進める功労者として自己アピールしているわけです。それが大統領再選へむけて大いに後押しをしてくれると信じて、精力的に運動してきたわけです。それと同時にやはりイランの孤立化、イラン包囲網を築こうとしているわけです。

バーレーンという国は人口が150万人位の小さな国です。バーレーンの影響力はそう大きくはありませんが、アラブ首長国に続いてのことですから、今後もサウジアラビアなどが続くと予想されます。すでにイスラエル機はサウジ上空を飛ぶことが暗黙の了解になっているとも報じられています。時間の問題でしょう。

問題は一連の流れが中東和平にどう影響するかということです。日本ではほとんど真剣な議論が公になっていません。パレスチナ問題の解決・和平につながるならば文句はありませんが、逆に解決から遠ざかるようなことになる可能性も大きいのです。和平への仲介をするならばパレスチナ自治政府を抜きにしてはスムーズに運ぶ筈がないことは自明です。トランプの考えていることは、中東和平ではなくて、自分の大統領選なのです。

UAEがイスラエルと国交を樹立

昨日 (Aug.14,2020) の中日新聞の記事画像です。イスラエルとUAEが国交を結ぶことを発表したのです。既にエジプトとヨルダンが国交を結んでいるので、アラブ諸国では三カ国目になります。これにより、イスラエルはパレスチナ自治区の併合をこれ以上進めないことを確認したとありますが、私はどこまで守られるかは疑問に思います。よく見ると「一時的に」という条件が入っているようです。

このあと、中東地域の反応をサウジアラビアとヨルダン、イランの新聞で少しみてみました。それはそれとして、私見を述べてみると、既にアラブ諸国はイスラエルと対峙して戦うことはあり得ない状態になっているということです。4度にわたる中東戦争当時と今ではアラブのイスラエルに対する敵対心は完全に骨抜きになっているのです。戦っても勝てる相手ではないでしょう。今回の両国の合意はトランプ大統領の仲介によるものです。この協定はトランプ大統領の思惑で実現したものです。ユダヤ人がイスラエルを建国して以来、パレスチナ問題が発生しユダヤ人対パレスチナ人という対立がイスラエル対アラブ諸国という対立の構造になっていました。イスラエルは国際法違反といわれながらもパレスチナのエリアに侵略してきました。長年の紛争が解決されることもなく現在に至り、アラブ諸国のパレスチナ問題に対する考え方が変化してきました。サウジアラビアの王子は訪米した際に「パレスチナ問題は重要ではない」というような発言もしています。一方で、イランでは1979年に革命により王政が崩壊しました。湾岸のアラブ諸国は殆どが王政です。イランからの革命の輸出を恐れました。それ以来イランと対立するようになっています。イランはシーア派、アラブ側はスンニ派が主流なので両者の対立があるというのは短絡的な発想です。イスラムの宗派の違いはこの場合の根本的な原因ではありません。今、トランプがこのような仲介をするということは、パレスチナ問題で対立していたイスラエルの敵であるアラブ諸国に対して、彼らの敵をイスラエルではなくてイランに変えようとしているのです。イランに対してアメリカが敵対していることは明白な事実ですね。

今回の合意に続いて、おそらくサウジアラビアもイスラエルと合意する可能性が大でしょう。他の国も追従してくるでしょう。そのようにアメリカは働きかけるでしょう。そしてイランを封じ込めようとするのです。トランプの思惑は近づいた大統領選挙です。苦戦が予想されています。是非ともユダヤ系の有権者の支持を得るがために彼は必至なのです。今回の合意を平和への一歩だと歓迎するメディアもあるようですが、本質を見極めることができていないと思います。それでは現地新聞に目を向けてみましょう。

当事国のリーダー、それに仲介役の米大統領の3者の顔写真を並べて、締結した共同声明の全文を掲載しています。興味ある方は読んでみてください。日本の新聞でも和訳で明日頃には掲載されるかと思います。

US President Donald J. Trump, Prime Minister Benjamin Netanyahu of Israel, and His Highness Sheikh Mohamed bin Zayed Al-Nahyan, Crown Prince of Abu Dhabi and Deputy Supreme Commander of the UAE Armed Forces, spoke Thursday and agreed to the full normalization of relations between Israel and the UAE.

This historic diplomatic breakthrough will advance peace in the Middle East region and is a testament to the bold diplomacy and vision of the three leaders and the courage of the UAE and Israel to chart a new path that will unlock the great potential in the region. All three countries face many common challenges and will mutually benefit from today’s historic achievement.

Delegations from Israel and the UAE will meet in the coming weeks to sign bilateral agreements regarding investment, tourism, direct flights, security, telecommunications, technology, energy, healthcare, culture, the environment, the establishment of reciprocal embassies, and other areas of mutual benefit. Opening direct ties between two of the Middle East’s most dynamic societies and advanced economies will transform the region by spurring economic growth, enhancing technological innovation, and forging closer people-to-people relations.

As a result of this diplomatic breakthrough and at the request of President Trump with the support of the UAE, Israel will suspend declaring sovereignty over areas outlined in the President’s Vision for Peace and focus its efforts now on expanding ties with other countries in the Arab and Muslim world. The US Israel and the UAE are confident that additional diplomatic breakthroughs with other nations are possible, and will work together to achieve this goal.

The UAE and Israel will immediately expand and accelerate cooperation regarding the treatment of and the development of a vaccine for the coronavirus. Working together, these efforts will help save Muslim, Jewish, and Christian lives throughout the region.

This normalisation of relations and peaceful diplomacy will bring together two of America’s most reliable and capable regional partners. Israel and the UAE will join with the US to launch a Strategic Agenda for the Middle East to expand diplomatic, trade, and security cooperation. Along with the US, Israel and the UAE share a similar outlook regarding the threats and opportunities in the region, as well as a shared commitment to promoting stability through diplomatic engagement, increased economic integration, and closer security coordination. Today’s agreement will lead to better lives for the peoples of the UAE, Israel, and the region.

The United States and Israel recall with gratitude the appearance of the UAE at the White House reception held on January 28, 2020, at which President Trump presented his Vision for Peace, and express their appreciation for UAE’s related supportive statements. The parties will continue their efforts in this regard to achieve a just, comprehensive and enduring resolution to the Israeli-Palestinian conflict. As set forth in the Vision for Peace, all Muslims who come in peace may visit and pray at the Al-Aqsa Mosque, and Jerusalem’s other holy sites should remain open for peaceful worshippers of all faiths.

Prime Minister Netanyahu and Crown Prince Sheikh Mohamed bin Zayed Al-Nahyan express their deep appreciation to President Trump for his dedication to peace in the region and to the pragmatic and unique approach he has taken to achieve it.

そして、パレスチナのアッバス議長が、協定にdismay つまり、がっかりだと表明しています。

そして、既に国交を樹立しているヨルダンのヨルダンタイムズは次の画面でした。

そしてイスラエルと最も対立しているイランはUAEは地域の安定を考えなければならないと当然反発しています。

閑話休題:日本・猛暑の夏

例年より遅く梅雨明けした日本は猛暑の夏を迎えています。最高気温が35度以上の日が続いており、今日8月10日は37度位が予想されています。私自身も連日クーラーの中で過ごす時間が多くなっています。コロナで外出は控えいるので、クーラーのきいた涼しい部屋にこもりっきりというのは身体にあまり良いとは思えません。

今回は、「この程度の暑さは大したことではない」と私の頭を洗脳するために、中東地域の都市の気温をチェックしてみました。データの出典は日本気象協会 https://tenki.jp/world/ を利用させて頂きました。8月10日の日本時間で午前5時発表となっています。

都市 最高 最低 平均
湿度%
サウジアラビア リヤド 42 27 12
トルコ イスタンブール 33 22 58
UAE ドバイ 44 31 62
レバノン ベイルート 28 23 71
バーレーン バーレーン 37 34 48
イラン テヘラン 38 21 18
シーラーズ 44 20 47
イスファハン 41 17 34

やはり、暑いですね。暑いどころか熱いような気がします。最高が40℃を超えるのが殆どです。日本でも40℃を超えることはありますが、それほど多くはありません。そして、最低気温が結構涼しいくらいの温度だということです。20℃台の下の方、イスファハンではなんと17℃となっています。一番暑くて不快そうなのはバーレーンでしょうか最高は37℃ですが、最低が34℃なのです。34度以下にならないのは私ならちょっと・・・ですが、そこで住んでいる人は適応するのでしょうね。

日本でよく言われるのは、気温がそう高くなくても、「湿度が高いからいやだね」ということです。それに比べると中東地域は相対的に湿度は低いです。でも、ペルシャ湾岸などは湿度も高いところがありますが、この統計ではドバイが62%、バーレーンが48%という程度です。

私が住んでいたことのあるテヘランをみると、最高37℃、最低21℃です。湿度は18%。この統計は発表のあった日の記録ですから、年間の最高気温ではありません。明日は40℃を超すかもしれません。実際私もテヘランで40℃超は何度も経験しました。朝は少し涼しいけど午後にはすごく暑い。でも木陰や影に行くと涼しさを感じました。それは湿度が低いからです。この統計では18%ですから、カラカラ状態ですね。あの頃は若かったので、午前の仕事を終えて、午後というか夕方4時半からの仕事再開の間にホテルのプールにいって軽食をとり泳いだりしたものでした。プールから外にでると、空気が乾燥しているので一気に乾きます。そして気化熱の影響で身体が冷えるのです。注射を打つ時に腕をアルコールで消毒すると冷っとするようなものです。湿度が低く乾燥しているということです。他には、日本人ですからよく集まっては麻雀をすることがありました。その麻雀牌なのですが、使っているうちにヒビが出てくるのです。さすがに割れることはありませんが、牌にヒビ傷が入るようになると、それが目印になって相手の牌が読めるようになったりしたものです。また、尺八が趣味な人が、尺八が乾燥して割れたということも聞きました。気温の話から、ついつい昔のことを思い出してしまいました。

結論です。中東に較べると日本の夏はまだ生易しいということです。これでこの夏も乗り切れそう!乗り切りましょう!

ウズベキスタンの書架台

今日はウズベキスタン製の書架台の紹介です。ウズベキスタンの木工品でして、向こうに行くとお店に沢山並んでいるようです。残念ながら私はウズベキスタンに興味があり、是非とも行きたい国なのですがまだ行ったことがありません。かつて、ウズベキスタン観光から帰った知人に見せてもらったことがあり、以前から欲しいと思っていた品物です。今回、皆さんご存知のメルカリに出ていたので入手することができました。

冒頭の写真はその書架台にコーランを置いたところの写真です。英語では「Folding Quran holder」とか「Folding Quran stand」と訳されているように、イスラムのコーランを置く台なのです。Folding という 部分は折り畳み式ということです。もちろん、どんな本や楽譜などをおいてもいいでしょうね。

これの特徴は一枚の板でできているようなのです。信じられないのですが、厚い板をうまく切り込みをいれてはがすようにしてバラバラにならないように切っていって作るのでしょうか。確かに複数の板を組み込んでくっつけた形跡はありません。まず、畳んでいる状態が次です。

これを少し広げていくと、すこし高くなってきます。次のようになります。

さらに伸ばしていくと、次のようになります。

同じ状態のものを前からみると、高さも良く分かります。このような状態ならコーランを載せられます。

次の写真を見てください。これも同じような形になっていますが、上部両サイドの先端を見てください。先ほどの上の写真ではその部分が山のようにカーブしています。しかし、これは角ばった形になっています。組み立て方が幾通りもできるのです。最初はこの形にすることすら難しいかったです。形ができてもストッパー的な部分があわなくてペシャンコになったりします。試行錯誤しながら覚えればいいでしょう。でも書架台としてなら、今できている形で十分でしょう。

コーランを置くと様になりますね!

昨日、この写真をインスタグラムに投稿しました。するとイラン人の方から、ペルシャ語ではこれを「رحل」rahl ということを教えてくれました。早速辞書を見ると確かに載っていました。「コーランの書架」「書見台」と。こうして今日も又新しい単語を覚えることができました。

吉田正春:ペルシャを訪れた最初の日本人の一人

上はペルシャ湾と当時のペルシャの地図である。ペルシャ湾内に黒い実線が描かれており、チグリス川を遡りバグダードに続いている。さらにもう一本の線がブシェールからシラズ、イエズディ、イスパハン、テヘラン、レシトへと続いている。現在ではシーラーズ、ヤズド、イスファハン、テヘラン、ラシトと表記されている都市である。これは明治時代に、この地に足を踏み入れた日本人が辿ったルートである。

その男の名は吉田正春。彼は明治13年(1880年)にカージャール朝ペルシャとの国交樹立のための調査団を率いて現在のイランを訪れた。ブッシェール港に着いた彼らは先ず、現在のイラクの首都バグダードを往復してから、イランの首都テヘランに向かったのであった。

この調査の旅が実現するまでの経緯を少し説明しておこう。明治7年(1874年)1月、榎本武揚が駐露特命全権公使となり、サンクトペテルブルクに赴いて、樺太・千島交換条約を締結したのであるが、その後、1879年に訪欧の帰途にロシアに立ち寄ってペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーに会う機会があった。そこで、皇帝から国交樹立の条約締結の提案があった。榎本武揚は帰国後に国交樹立の前段階の調査団を派遣することを決めた。その結果、団長として外務省御用掛である吉田正春が選ばれたのである。

吉田正春以外のメンバーは、参謀本部から工兵大尉古川宣譽、大蔵省商務局から大倉組商会副頭取の横山孫一郎、大倉組商会社員土田政次郎、七宝焼き磁器商の後藤猪太郎、小間物商の藤田多吉、金銀細工物商の三河鋳二郎であった。

一行は、明治13年4月に軍艦比叡で東京を出発し、途中、香港着4月23日、香港発5月1日、シンガポール着5月7日、ボンベイ着5月20日、ペルシャのブシェール港に到着。ブシェールに到着したのであるが、吉田と横山は先ずバグダードに行って、再びブシェールに戻っている。そして、改めてテヘランを目指したのである。外務省の資料は次のように記している。

1878年(明治11年)、榎本武揚(えのもと・たけあき)駐ロシア公使が、ロシアでペルシャ国王(ガージャール朝の第四代ナーセロッディーン・シャー)および総理大臣と会見したことが、明治の日本とペルシャとの交流のきっかけとなりました。特使派遣を知らせる井上馨(いのうえ・かおる)外務卿からペルシャ外務卿への通牒(1880年4月1日付)によれば、この榎本公使とペルシャ国王との会見をきっかけとして、両国間に通商協定を結ぶ機運が生まれ、交易の準備として、まずは商況調査のための使節団が派遣されることとなりました。
 特使に選ばれたのは、外務省御用掛の吉田正春(よしだ・まさはる)でした。吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。使節団には、吉田を団長として、参謀本部から派遣された古川宣譽(ふるかわ・のぶよし)陸軍工兵大尉、大倉組副社長の横山孫一郎(よこやま・まごいちろう)や同社員の土田政次郎(つちだ・まさじろう)、七宝焼陶器や小間物、金銀細工の商人が参加していました。
 一行は1880年4月に、インド洋での演習に向かう軍艦「比叡」で東京湾から出発し、5月にはペルシャ湾岸のブーシェフルに到着しました。その後吉田と横山はバグダッドへと旅行した後、再びブーシェフルに戻って古川らと合流し、7月の下旬から9月にかけてシーラーズ、イスファハンを経てテヘランへと北上の旅を続けました。
 吉田使節団の道中はまさに冒険というべき苦労の旅でした。途次、砂漠で遭難しそうになったり、現地人に医者と間違えられたり、険しい崖道を夜闇の中命からがら進んだり、といった稀有な体験をしながら、テヘランに到達したようです。
 一行は同年9月27日、ペルシャ国王ナーセロッディーン・シャーに謁見しました。この時に国王が吉田に与えた言上は、国書として日本側に渡されました。その国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。
 この時の会見の模様は、吉田が帰国後に提出した「謁見始末」に詳しく報告されています。吉田はまた、政府に提出した報告書に基づき『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著しました。国王はアジアでともに近代化をめざす国として日本に強い関心を示し、日本の政体・徴兵制度・鉄道建設など様々な問題についての詳細な質問を行ったことが「謁見始末」に記されています。この会見は、外国からの訪問者に対する会見としては異例の長時間に及んだということです。

9月17日に王に謁見したとあるから、ブシェールを出発した日がはっきりと分からないのであるが6月初めとすると、4ヵ月近くかかったことになる。そして、『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著したとある。その書の表紙の画像が次である。

なかなか古めかしい表紙である。国会図書館のサイトのデジタル資料として公開されているものである。これも是非見てみたいものであるが、私が入手しているものは、中央公論社の中公文庫1990年12月に発行された復刻本のようなものである。その表紙画像も次に示しておこう。

 

文語体で書かれているので読みにくいけど、興味があれば厭わずに読めるものである。これによると、テヘランに到着するまでの当時のペルシャの様子が描かれているので非常に興味深い。中から部分的に紹介してみよう。

第三章:ブシールよりシラズに到る道中(表記も原文通り):
ブシールよりテヘランに到らんとするには、その旅装の都合二様あり。荷物を多く持ちたる者は隊商(キャラバン)に入るべく、また軽装急行の者は駅伝(チャバル)に拠らざるべからず。駅伝の方法はおおむね普通旅客の成し得るところにあらずして、かの国の官吏または外国人に限りこれが便に藉(か)ることを得、すなわち費用を多くして日数を短くする方なり。隊商はその体ほぼアラビアに似たれども、途上はアラビアに比して見ればまず大抵安全なる方と言わざるべからず。・・・・・

まどろっこしいので、自分の言葉で書くことにする。
駅伝は費用が高いが時間的に早く行ける。ペルシャ側の役人の勧めなどもあり駅伝を利用することにするが、荷物が多いものもいるので、隊商利用と駅伝利用の二つの組に分けてシラズに向かって出発したそうである。

途中で現地の子供が口の中を大怪我をしたのに出会った。吉田たちを外国人と知って、助けを求められたことがあった。医者でもないし、どうしようもなかったが、泣き疲れたので仕方なく、砂糖水をなめさせることしかできなかった。それでも感謝されて、その場を立ち去ったというようなことも書かれていた。

ラバに乗った印象は次のように記している。「鞍上は馬よりも穏やかであるが、ゴー、ストップを御するのは難しい。口の引っ張る力が強いので、力いっぱい腕に力を入れても止まってくれない。普段騎乗に慣れていない自分たちはしばしば墜落した」とロバの背に乗り四苦八苦している様子が目に見える。今から見れば珍道中であったようだが、過酷な旅であったろう。いくつかの挿絵も紹介しておこう。

 

 

一行はテヘランで王に謁見したのであるが、すぐに会えたのではなく、結局テヘランには4ヵ月滞在したとある。テヘランでの仕事がメインであったが、カスピ海沿岸のギーラーン州のラシトに回った。そして、船でバクー(現在のアゼルバイジャン)に行きそこからトルコ経由のルートに変更している。ラシトは私が45年ほど前に妻と1歳の娘と共にしばらく住んでいた町である。正春はラシトについて、以下のように記している。
「ギーラーン州に入れば到るところ村落相連なり、田野広廓、石は皆苔衣を帯び、樹は皆老大陰をなせり。・・・・ここに至って余は初めて信ぜり。テヘラン以南の荒れ果てた地をもってペルシャの国は皆同じということは言えないと。・・・」。カスピ海沿岸は雨も多く、湿度も高いので風景は日本とそっくりなところなのだ。正春もそれをみて、ペルシャは砂漠の地ばかりではないということを自分の目で見て知ったのであった。気候・風土が似ているということは、生活様式も似通ったものがある。ラシトに住んでそのようなことも私は驚いたのであった。例えば、冬に家庭で暖をとるのに、コタツがあった。

さて、長くなってしまったので終わりにしようと思うが、先ほどの外務省の資料の記述に、吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。という部分があった。そうなのだ。吉田正春は吉田東洋の息子である。土佐から東京にでて英語を学び外務省に勤めるようになった。このペルシャの旅のあと、彼は政治運動にも参加する。板垣退助などとも親交があったはずである。

一つのことを調べて、あることを知ると、そこからまた芋づる式に新たなことを知るきっかけになる。正春が乗っていった軍艦比叡は前回紹介したエルトゥールル号の遭難生存者をトルコへ送還した軍艦であった。そして、その正春のことを知ると、彼が吉田東洋の息子で、時代的にもきっと坂本龍馬とも交流があったと思わざるを得ない。実は10年ほど前に正春のことを知りたくて高知に行ったことがあるのです。知を求め、広げることは何と快感なんだろう。

 

 

中東におけるコロナの状況

新型コロナウイルス感染症に世界中が脅かされ始めたのが、今年の初めでしたから、もう5ヵ月にもなりますね。日本でも全国で緊急事態宣言が発出され、現在も8都道府県で継続されています。でも、感染者の増加も緩やかになりつつあることが、せめてもの救いというものです。私自身は定年退職者でありますし、非常勤の大学講師も後期のみなので、外出する必要もなく隠遁生活(笑)をおくっています。運動不足を回避するため、毎日5000歩程度のウォーキングを続けています。さて、冒頭の画像はPCのスクリーンショットですが、米国のジョンズ・ホプキンス大学が立ち上げている新型コロナウイルス感染状況ダッシュボードです。ニュースメディアを初めとして世界中から毎日十億人以上のアクセスがある信頼高いサイトです。世界中のデータを集めて、このようなサイトを構築することのできる機動力は驚くべきことです。大学の研究機関としてのポジションを見事に維持できていることに感心するばかりです。

今回はこのブログの対象としている中東地域のコロナの感染状況をこのサイトから拾い集めましたので、それを紹介いたします。中東では最初イランが多くの感染者を出しました。その後、イランよりもトルコの方が多くなり、今現在はトルコが最多となっています。死者はイランの方が多いですね。サウジが5万人台、カタールのような人口が少ない国でも2万4千人と意外と多いです。下の表にまとめていますので、そちらをご覧いただければ私の説明は不要と思います。この数値がどれほど正確なのかは分かりません。イエメンなどでは少ないのですが、どこまでデータが把握されているのかという点もあるでしょう。医療設備の整っていない地域や感染症対策の不十分な地域もあるでしょうから、コロナが拡がらないことを願うばかりです。

Country Infected Death Country Infected Death
Turkey 150,593 4,171 Bahrain 7,184 12
Iran 122,492 7,057 Oman 5,379 25
S.Arabia 57,354 320 Iraq 3,554 127
Qatar 33,969 15 Lebanon 931 26
UAE 24,190 224 Jordan 629 9
Kuwait 15,691 118 Yemen 130 20
Egypt 12,764 645 Japan 16,305 749

この数値は一応5月19日午前のものです。日本は中東ではないので色を変えています。そして、日本のサイトにおいて、19日午前10時ののものとして発表されているのは、感染者16,635人、死者763人ということです。

アラビア太郎と石油利権

先月の4月には「中東の石油」という記事を11回続けました。そこでは中東の石油が英仏蘭米の石油会社に支配されていた歴史を紹介しました。そして、産油国がその支配から資源を取り返すことができたのはまだ最近のことであることを理解していただけたと思います。イランの石油国有化の時には出光石油会社が石油市場からボイコットされたイランの石油を日章丸Ⅱ号で買い付けに行きました。資源を持たない日本企業の行動でした。同様に石油資源の獲得に奔走した人物がいました。それが通称アラビア太郎=山下太郎です。

そして、1957年12月、サウジアラビアとクウェートの沖合にあった中立地帯の石油開発に関して半分の権益を有していたサウジアラビア政府と利権協定を締結したのでした。そして、翌1958年7月には残りの半分の権益を有するクウェート政府とも利権協定を締結したのでした。この山下太郎はとういう人物だったのでしょうか。

山下太郎は明治22年(1889年)、秋田県生れ。祖父母の養子となり山下姓を名乗る。小学5年から東京の慶應義塾普通部に通い、その後、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学した。
1909年3月、札幌農学校を卒業。従兄の山下九助とともにオブラートを発明し、1914年に特許を取得した。山下オブラート㈱を設立。会社は隆盛するが、山下太郎は海外貿易の資金を得るために会社を売却する。

1916年結婚。ロシアのウラジオストックで鮭缶を買い占めてて設けたり、第一次大戦中にはアメリカから硫安を輸入・販売し、巨利をえた。国内のコメ相場の高騰に際しては、アメリカの米を輸入するが米騒動などにより失敗。満鉄との取引でも損害を被っったり、成功したりを繰り返す。第二次大戦の敗戦により、満州の資産を失うも、戦後は石油資源の獲得に奔走したのだった。

昭和31年(1956年)、日本石油輸出株式会社を創立し先述のサウジアラビアとクウェートとの利権交渉を始め、協定に調印することができた。その結果、日本政府や財界の支援を得てアラビア石油会社が設立され、日本石油輸出㈱の権利を継承した。
1960年:カフジ油田で採掘に成功
1963年:フート油田で採掘に成功

石油資源のない日本にとってアラビア石油の石油は貴重なものであった。山下太郎は英雄であった。このような日本の資本によって開発された石油は「日の丸石油」とも呼ばれたのでした。

アラビア石油も産油国からみれば外国資本に利権を与えた石油です。欧米の石油会社に与えた利権と同じです。1974年にはサウジアラビアとクウェート政府による60%の事業参加協定が発効したのです。こうしてアラビア石油の利益は減少していくことになりました。そして、

2000年:サウジアラビア政府との利権協定が終了しました。
2003年:クウェート政府との利権協定が終了しました。
アラビア石油は撤退はせずに、同油田でのサービス契約で油田操業に係ることになったのです。サウジアラビアの利権延長交渉では、サウジ側が日本に対して産業用の鉄道建設支援などの要求があったのですが、日本政府はそれを受け入れることができなかったのでした。こうして日の丸石油も先細っていったのでした。

 

中東の石油(11):セブン・シスターズ

中東の石油シリーズの最後は「セブン・シスターズ」という題にしたい。中東の石油利権を手に入れて、中東の石油だけでなく世界の石油を牛耳ってきた石油会社は「国際石油資本」とか「石油メジャーズ」と呼ばれることがある。このブログの中でも欧米の石油会社が競って中東の石油利権を手に入れてきたことを述べてきた。そのような中で、彼らの仲間に入ろうとして競ったが、勝てなかった男がいた。そして、彼は対抗した相手を「7人の魔女」と呼んだのであった。その男、とはイタリアのエンリコ・マッティである。ウィキペディアでは彼のことを以下のように記している。

エンリコ・マッテイ(Enrico Mattei、1906年4月29日 – 1962年10月27日)は、イタリアの実業家、政治家。長年にわたりイタリア国営石油会社ENIを率い、当時ヨーロッパの石油市場を独占していたメジャーに対抗した。マッテイはキリスト教民主主義の党員であり、1948年から1953年にかけては議員も務めた。1962年に飛行機事故により死亡したが、メジャーとの対立を続けたその経歴から謀殺の噂が今も絶えない。

末尾に書かれているように、彼の突然の死はメジャーズによって仕掛けられた暗殺であるというのが定説である。冒頭の画像は、1926年にイギリスで生まれたジャーナリスト、アンソニー・サンプソンが著した『セブン・シスターズ / 不死身の国際石油資本』の表紙である。彼はエンリコ・マッテイが「7人の魔女」と呼んだ7つの石油会社を「セブン・シスターズ」として石油の歴史と石油会社の熾烈な競争を書き著した。私の手元にあるこの本は石油界のおどろおどろした歴史の内情がつぶさにわかる名著である。セブン・シスターズとは次の7社である。(ウィキペディアより引用)

  • スタンダードオイルニュージャージー(後のエッソ石油、その後1999年にモービルと合併しエクソンモービル)
  • ロイヤル・ダッチ・シェル(オランダ60%、英国40% )
  • アングロペルシャ石油会社(後のBP)
  • スタンダードオイルニューヨーク(後のモービル、その後1999年にエクソンと合併してエクソンモービル)
  • スタンダードオイルカリフォルニア(後のシェブロン)
  • ガルフ石油(後のシェブロン、一部はBP)
  • テキサコ(後のシェブロン)

スタンダード石油が誕生した後、数多くの石油会社が設立された、合併や再編成、消滅を繰り返して現在に至っている。少し古いがその推移を図示したものが岩波新書の瀬木 耿太郎著『石油を支配する者』(1988)から拝借して紹介しておこう。

この新書は現在でもアマゾンを利用すれば手に入る。値段も手ごろであるので、是非とも読んでもらいたい一冊である。(終わり)

中東の石油(10):OPECの結成後

テーマがあちこちに移り、目まぐるしいかも知れないが、ご容赦願いたい。今回はまた「中東の石油」に戻ることにしよう。前回はOPECが結成されて、徐々に産油国の力が強くなってきたというところで終わった。その続きである。

産油国が強くなったというものの、メジャーズに利権を与えるという契約の基本は変わっていなかった。そこで、1972年には、メジャーズに対してパーティシペーションを求める交渉が開始された。パーティシペーションとは、産油国がメジャーズに与えた利権に参加するというものであった。OPECを代表して交渉にあたったのはサウジアラビアのヤマニ石油相であった。この交渉に加わった産油国はイラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、アブダビの湾岸産油国であった。イランは名目上とはいえ、既に石油国有化を終えていたので、この交渉には参加していない。

交渉をめぐり、メジャーズ間の意見は分裂した。結局、国有化されるよりはパーティシペーションへと傾いていった。ヤマニは長い交渉の末に、1972年10月にメジャーズと「一般協定」の締結に成功した。協定により、石油会社の25%を産油国が所有することになった。そして、その比率は1983年までに51%にまで引き上げるというものであった。さらに産油国が獲得できるようになった持分25%相当の原油を石油会社が買い戻す価格(バイバック価格)について、アラムコのメンバー4社は公示価格の93%という高い水準を認めたのであった。この価格の高さだけでなく、誰が原油を買い戻すのか(手に入れるのっか)ということが大きな問題であった。石油会社同士がもめるばもめるほど産油国の立場が強くなっていった。

当時、アメリカにおける原油生産量が下降しだし、アメリカは本格的に石油輸入国になった。パーティシペーションによって産油国が得た原油がスポット市場に姿を現すようになり、原油価格は上昇した。OPEC諸国のパーティシペーションの比率や、原油価格の買い戻し価格が予想より高かったことから、イランはコンソーシアムと条件改善を求めて交渉を開始した。しかし、コンソーシアムがイランの要求に応じないため、1973年にパーラヴィー国王はコンソーシアムとの協定期間を1979年以後は延長せずに、契約を終結させることを発表した。この時、私はイランに駐在していたので、テヘランでこの発表を聞いた。役所の建物には垂れ幕が垂れ下がり、国王の英断を讃えていた。契約終了予定の1979年とはイラン革命が成立した年である。国王自身は追放(逃亡)の身となり、真の国有化を見ることができなかった。歴史とは皮肉なものである。

クウェートの場合はどうであっただろうか。OPECが設立された1960年にクウェート国営石油会社(KNPC)が設立された。この会社はクウェート石油会社(KPC:既に述べたメジャーズの会社)が生産した石油製品をクウェート国内で販売することを目的としていたが、KNPCはスペインの企業と合弁会社を設立し探鉱・開発にも進出していった。前述したように、OPECの一員であるクウェートもKOCに対して25%の事業参加協定を調印したのであったが、クウェートの場合は議会が最終的に批准せずに、クウェート政府は1974年にKOCの60%を取得し、1976年には100%つまりすべての株を取得し国有化に至ったのであった。さらにクウェート政府はKNPCの株もすべて取得し完全国有化した。そして、1980年には石油関連部門を統括するために100%政府所有のクウェート・ペトローリアム・コーポレーション(KPC)を設立した。

イラク石油会社(IPC)も1972年3月、イラク政府に対して20%のパーティシペーションを承諾した。しかし、イラク政府は、その年の6月にIPCの国有化を発表した。産油国にとって国有化が即、パーティシペーションより有効な結果を生んだかというと、決してそうではない。原油生産・精製事業を自力で操業することはできなかったし、販売面ではメジャーズのボイコットを受けた。しかしながら、イラク政府は1964年に既に探鉱・開発・生産を目的として国営イラク石油会社(INOC)を設立していた。INOCはソ連と1967年に協定を結び、ソ連から必要な設備の供給を受け、石油開発・輸送・販売等の支援を受けていた。両国は通商条約を結び、イラクとソ連との間には友好関係が築かれていった。国有化されたIPCの原油が西側にボイコットされた時、イラク政府はソ連に安く引き取らせて切り抜けた。

アラムコのメンバーであるエクソン、テキサコ、シェブロン、モービルも1972年3月にサウジアラビア政府に対して20%のパーティシペーションに合意した。さらに12月には1973年1月以後、25%に比率をアップし、以後一年ごとに5%ずつ増やし、1981年には51%とする「一般協定」に調印した。1974年には「一般協定」が改定され、サウジアラビアの参加比率は60%に改められた。そして、1980年には完全な国有化に至ったのであった。

OPEC結成の1960年から第一次石油危機前後の70年代前半にかけて、産油国が自国の石油資源を外国石油会社から取り戻してきた経緯をごく簡単に紹介した。このような経緯があったから、イランは二度と天然資源の利権を外国企業に与えることはしないと憲法で規定している。他の産油国もほぼ同様な考え方である。この資源を持たない我々は産油国との友好関係を上手に築き、末永くエネルギー源を確保できるような外交関係を確立させなければならないのであるが、現実はどうであろうか。