アラビア書道作品展に出品しました。

7月22日に「アラビア書道でルバイヤート」という記事を書きました。そのときにルバイヤートの中のひとつの四行詩を作品展用に作成するために本田先生に書いていただいたお手本の画像をアップしたのでした。あれから4ヵ月以上が経過しています。私の作品はどうなったのでしょうか?作品展は11月12日から17日まで、京都市国際交流会館にて開かれました。予定通りと言いたいのですが、開催日直前になってやっとできあがりました。まだまだ満足できるものではありませんが、キリがないので不満足ながらも出品しました。また来年に向けて頑張ろうと思います。作品を以下にアップいたします。

用紙はイランで売られているA4サイズの書道用紙がありましたので、普段使っているA3サイズの用紙に拡大コピーしたものを利用しました。一応カラーコピーになります。最初は近所のコンビニにA3サイズの用紙を持参して、拡大コピーをしたのですが、周りの模様が濃い部分と薄い部分ができたり、色が飛んで白い部分ができたりしたのです。そこで、キンコーズに出かけて、コンビニの話もして相談した結果、奇麗な用紙が出来上がったのでした。あとは額縁も必要です、今回が5回目になりますが、いつもは妻が押し花の作品作りを30年位やっていて、額も沢山持っているので、それを借りていました。でも今回は作品展後もそのまま残しておきたいので画材屋さんにいって買ってきました。安いのから高いのまで色々一杯ありました。作品に合うような色や縁取りでそう高くなくて、京都に送るので軽いものをと探したものが画像の額です。作品ができたあと、文字周りの空間が真っ白ではちょっと寂しいので、バステルを削って粉にして指で擦りつけて薄く色付けしました。作品を書くことのほかにこのようなことを色々して、何とか格好がついてきました。そういうことがまた楽しくもありました。来年はもっともっと良いものをと思っています(毎年のことですが(笑))。

キーワード:アラビア書道、ルバイヤート、京都市国際交流会館、

ペルシャ語講座4:挨拶の会話

今回は「挨拶」にしましょう。ペルシャ語の挨拶の前に先ずはイランもイスラム社会ですから、イスラム圏共通の挨拶がありますね。皆さんご存知の「サラーム」です。「平和」だとか「平穏」というような意味です。アラビア語では定冠詞のalアルがつくので「アッサラーム」となりますが、イランのペルシャ語では単に「サラーム」でいいです。アラビア語では「アッサラーム アレイコム」とも言いますが、ペルシャ語では「サラーム アレイコン」。勿論、アラビア語のようにアッを付けて言っても構いません。この挨拶に対する返事はアラビア語の場合「アッレイコム アッサラーム」ですが、ペルシャ語では返事も「サラーム」または「サラーム アレイコム」とそのまま返すのが一般的かと思います。それでは以下にペルシャ語の日常的な挨拶を紹介しましょう。

  • おはよう   ソブ・ベイル   sobh bekheir
  • ソブは朝。ベヘイルはgood。ですからソブ・ベヘイルは文字通りgood morningです。
  • こんにちは  ルーズ・ベイル  ru-zu bekheir
  • ルーズはdayですから、good dayという意味です。
  • こんばんは  シャブ・ベイル  shab bekheir
  • シャブは夜ですから、good eveningと同じです。
  • さようなら  ダー・ーフェズ  khoda- khafez
  • ホダーは神様。意味は「神様のお加護を!」がさようならの言葉です。
  • 発音で注意するのはカタカナではハヒフヘホの部分ですが、ローマ字ではkha khi khu khe khoとkが付いている部分です。ペルシャ語では خ という文字を使います。上に点が一つ付いています。これは喉の奥を擦って音を出します。点が付いてなければ喉の奥を擦らずに普通にハヒフヘホの音で結構です。この喉の奥を擦る音がペルシャ語を学習し始めた時の最初の難関ですが、すぐになれます。この音はアラビア語も同様ですペルシャ語で発音の難しいのはこれ位でして、アラビア語に較べるとかなり易しいと思います。

次の挨拶は英語でいうと「how are you」です。ペルシャ語は「ハーレ・ショマー・チェトウル・アスト」「ha-l-e shoma- chetour ast」ショマーは既に習った「あなた」です。状態という意味のhalの前にショマーがついて「あなたの状態は(調子)は」となりますが、単語をつなげる場合にエザフェというのですが単語と単語の間に-e-を入れます。hal-e-shomaとなるのです。私の本という場合は ketab-e-man。 あなたの家=khane-ye-shomaとなります。eとかyeを記しましたが、実際には何も書きません。チェトウル=howという意味です。いかが? どう?という意味になります。最後のアストは既に習ったbe動詞ですね。「ハーレ・ショマー・チェトウル・アスト」ですが、チェトウルの部分をkhub = good として調子はいいですか?ということも一般的です。親しい間柄なら、もっとくだけて چطوری チェトウrーイ だけで十分です。答えはまずは「ありがとう」「メルシー」「モテシャッケラム」と言ってから、正式にはhal-e-man khub astですが。普通はkhub-amで十分です。khubはグッド。アムは1人称のbe動詞。I am goodな状態となります。そして、今度は相手に「あなたはいかが?」と問い返すことになりますね。簡単に「あなたは?」だけなら「ショマー?」と語尾を上げればいいですね。日本人なら挨拶はさっと済ませたいところですが、イラン人はそうはいきません。あなたの調子はどうかと尋ねた後は、あなたの家族はどうか?ご両親はどうか?と延々と挨拶が続くのが普通です。

日本でも初めて会ったりしたり、長年会いたかった人に会った時などは「お目に書かれて嬉しいです」というような言い方もあります。ペルシャ語では「アズ ディダーレ・ショマー kホシュハールショダム」となります。ディダールがお目にかかるでして、あなたにですから先ほど説明したエザフェがついてディダーレ・ショマーとなっています。kホシュハールの部分がkホシュヴァクタムともいうかな。

長い間会ってなかったときは「kheili vaqt nadidamet」文字どおり非常に長い間あなたを見なかったと言います。名古屋では「やっとかめだなも」といいます。ヤットカメとは80日とかの意味らしいです。80日ほどぶりの久しぶりですな、という意味とか。今日はここまでだなも???

追加:冒頭に私が昔使っていた「ペルシャ語の慣用句」の参考書の一頁です。この中から一つ紹介しましょう。Life is too shortという英文の部分です。ドンヤー ドウ ルーズ アスト(ast) . دنیا دو روز اسث  ドンヤーというのは「世界」「現世」ひいては人生などの意味。現世はたったの二日! 日本の光陰矢の如し的な意味。だから人生を謳歌しようぜというニュアンスです。実際、若いときに自分でも使った覚えがあります。会話だったので、最後のアストはeエに変えました。ドンヤー ドウ ルーゼ (ru-z-e)と。

キーワード:ペルシャ語の挨拶

シバの女王のイエメンとは

先月、サウジアラビアの石油基地が何者かにドローンによって攻撃された事件が起きた。サウジと米国はイランの仕業であると主張し、その後イギリスやフランスもイランによる犯行であると断定した。一方でイエメンのアンサール・アッラーは事件後に犯行声明を発してもいるのである。アラブの春が吹き荒れた約10年前の時にチュニジア、リビア、エジプトなどの独裁政権が次々と崩壊し、シリアやイエメンにも波及したのであるが、シリアはご存知の通りアサド政権が依然として存在している。イエメンの場合,反政府運動では何とか持ち堪えたのであったが、その後にサレハ大統領が退陣したのであった。その後も内政は安定せず、現在もそうである。そこにサウジの介入などがあり、今回のサウジの石油基地攻撃に繋がっている。今回はこのイエメンという国について整理してみる。

上の図は左が草思社発行『地図で読む世界情勢』から、右はウィキペディアから拝借したものである。現在のイエメン共和国は通称北イエメンと南イエメンが1990年に統合されて成立した国である。

北の正式名はイエメン・アラブ共和国(1967年にイギリスから独立した国)
南の正式名はイエメン人民民主共和国(1967年から1990年に存在)
南イエメンはイエメン社会党の一党独裁体制によるアラブ世界初の社会主義国で、中東やインド洋におけるソビエト連邦の足場だったが、冷戦終結で経済的に行き詰まり、1990年5月22日に北イエメンと統合して現在のイエメン共和国となった。1994年に南イエメンの再分離独立を求めるイエメン内戦が起きたが鎮圧された。

自由国民社発行の『国際情勢ベイシックシリーズ・中東』57頁のイスラムの諸派の図(上)によるとシーア派の中にザイド派というのがある。ザイド派のイマームが897年にイエメンを拠点としたことに始まり、その子孫のラシード家からでたイマームがこの地域を統治してきた。一応、オスマン帝国領ではあったが、トルコから遠く離れていたので、自治が与えられている状態であった。
19世紀、スエズ運河の建設が始まると、イギリスはマンデブ海峡の安全確保のために、港町アデンを占領、さらに南イエメンを保護領化した。北イエメンはオスマン領として残り、ここにイエメンの南北分断の歴史が始まった。1839年であった。

北イエメン 南イエメン
191810月30日、当時のイマーム(アル・ムワッタキル・ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン)がオスマン帝国からの独立を宣してイエメン・ムタワッキリ王国(北イエメン)を成立させた。 南イエメン民族解放戦線が反英独立闘争を指揮。

その結果「イエメン人民民主共和国」を建国し、独立(1967年)。マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家を掲げた。

1958年、エジプトのナセルが汎アラブ主義を掲げてアラブ連合共和国を結成。北イエメンも参加。南から英を追い出そうとする。  
1961年、シリアの独立によりアラブ連合共和国が崩壊したため連合から脱退。  
1962年、エジプトの支援を受けた一派がクーデターを起こして王制打破。イエメン・アラブ共和国が成立。  
国王と王政の支持者たちはサウジに亡命。新エジプト派が握る実権を取り戻すべく戦いを始める。 1986年、実権争いから内戦状態に陥り、一万人の餓死者と6万人の亡命者をだす。財政が破綻。
1970年、第三次中東戦争が勃発し、エジプトはイエメンのことに手が回らないために、イエメンから手を引いた。  
1990年、南北イエメン統合。

北の方が人口、経済共に大きい。財政破綻したのは南である。そもそもの本家は北であるため、北が南を併合する形で統合がなされた。その後も、北の政治主導に反発する南の分離独立を唱えたりする者も・・・・

このようにイエメンという国は南北分断の時代を経て統一されたのである。しかしながら統一後も北が主導権をもつ体制に不満を抱く南の人々がおり、統一後も安定した国家運営にはならなかった。そしてアラブの春の運動が中東全域に広がったとき、イエメンではサーリフによる長期独裁政権が続いていた。結果的に新大統領としてハーディ大統領の政権が生まれたのであったが、サーリフ元大統領の勢力が温存されており、アンサール・アッラーが結びついてハーディー政権を脅かした。サーリフ元大統領は2017年末に殺害されているが、イエメンではアンサール・アッラーと政府が戦っている状態である。

アンサール・アッラーは通称フーシー派と呼ばれており、アンサール・アッラーとは神の支援者というような意味である。シーア派ザイド派であるという。そういう観点からシーア派であるイランとの関係が取りざたされることになる。実際にイランとの関係があるのかもしれない。イランは今ドローン技術での先進国でもある。サウジの石油基地攻撃がイランでなくてフーシー派の仕業であったとしたときにイランの関与があったかもしれない。しかしながら、私が強調したいのは、イランが関与する理由がシーア派同士であるという短絡的な理由付けは間違っているということである。ザイド派はシーア派から分離していった派である。イランの12イマーム派とは後継者問題で分かれていき、シーア派同士と言っても考え方は異なっている。

一方、サウジアラビアとイエメンの関係はどうであろうか。私たちが子供の頃のアラビア半島の地図はイエメンとサウジの国境は定まっていなかった。サウジとしては紅海からインド洋にでる出口にあるイエメンを自分の影響下に置きたいというのは当然の理屈であろう。ペルシア湾側の出口ホルムズ海峡をイランに、紅海側をイエメンに抑えられることはサウジの安全保障面にとっては喜ばしいことではない。サウジがイエメンにサウジ寄りの政権を置くことが重要となる。サウジとイランの派遣争いである。ただそれをイランがシーア派同士なのでイエメンに関与するというのは正しくない。

タイトルに「シバの女王」を入れていたことを忘れていた。シバの女王がその昔、莫大な財宝をもってソロモン王に会いに行った有名な話がある。その女王はイエメン辺りにいた女王だったという伝説があるのである。つまりイエメンはその昔、非常に豊かな地域であったということである。シバの女王が持参した財宝とはおそらく乳香などであったのであろう。イエメンでは今でも近くの島で乳香が採れるという。またモカコーヒーという品種のモカはイエメンで採れたコーヒーであった。えっ、コーヒーの栽培ができるの?という疑問は愚問である。イエメンには標高の高いところもあり、樹々もある。その昔、世界で最初に造られたダムがイエメンである。マーリブダムといって、灌漑に使われたそうである。イエメンの豊かさをもって、この周辺は「幸福のアラビア」と呼ばれたそうである。うろ覚えに昔聞いた話を綴ったので若干の間違いがあるかもしれません。その場合はお許し下さい。

キーワード:イエメン、北イエメン、南イエメン、シーア派、ザイド派、12イマーム派、アラブの春、イラン、サウジアラビア、シバの女王、モカコーヒー、マーリブダム、幸福のアラビア、ソロモン王

 

ペルシャ語講座3:これは本です。این کتاب است

これは本です。این کتاب است

前回は「私は日本人です」でした。主語・述語・補語という形でした。今回も同じ文型です。This is a bookです。これ=イン(in) 本=ケターブ(keta-b) です=アスト(ast)となります。つまり「イン ケターブ アスト」です。ローマ字で表記すると「in keta-b ast」です。カタカナで書くとアストの部分はastですから asutoではないことに注意して発音してください。 アストはbe動詞のisに相当します。「これは本です」という場合は「in keta-b ast」と覚えてください。名詞の単語を覚えていけば本の部分にその単語を入れれば良いわけです。英語の単数の場合のaや定冠詞のtheについてはここでは気にしないでください。始めから細かいことを言っていたら、前に進まないし継続できなくなります。要は「これは****です」は「いん ****アスト」でいいわけです。「これ」でなくて「あれ」にしたいなら「イン」を「アーン」にしてください。

「これは本です」は三人称単数でbe動詞はアストでした。前回は「私」と「あなた」でしたが、「彼」を追加しましょう。「彼は日本人です」=「ウー ジャポイニー アスト」となります。英語のthis is a book.. He is a Japanese.とおなじようにis=astが使われていますね。英語とは異なり、彼も彼女どちらもウーです。

複数形はどうなるでしょうか。これ➡これら=インハー という風にハーをつけます。ケターブの複数形はケターブハーとなります。これ➡これら=インハー。あれ⇔あれら=アーンハーでいいです。彼ら、彼女らはアーンハー(またはイーシャーン)です。アーンをつけて複数形を作るのが一般的ですが、そうでないものもあります。というものの限られたものであることと、規則性があるのでボチボチ理解できるようになると思います。焦らないで、ゆっくり楽しみながら進みましょう。

 

ペルシア語講座2 私は日本人です。من ژاپنی هسثم

私は日本人です。من ژاپنی هسثم

ペルシア語講座を開講すると言ったが、いざ始めようとすると何から始めればいいのか戸惑った。表記はカタカナかローマ字か?アラビア文字をどうするか?いきなり文字は取りつきにくいからカタカナとローマ字併用でやってみよう。市販されている参考書と同じではここで作る意味がない。簡単な会話ができる程度の内容にしてみよう。

先ずは、人称代名詞から 私=マン=man。 私は日本人です。マン ジャポニー ハスタム 簡単でしょう。次に2人称であなたは=ショマー。複数形も同じくショマーでいい。単数形で親しい中であればトウ=tou が使われる。 あなたはイラン人です=ショマー イラニー ハスティ となる。あなた方はイラン人です=ショマー イラニー ハスティド(hastid)である。 単数の場合にもhastidを使うこともある。 ここで英語のbe 動詞 amはhastamである、hastに1人称の語尾amが付くのでハスタムとなる。

2人称の場合は単数がiで、複数はid(イッド)がつくので、hasti, hastidとなる。この語尾の形はbe動詞以外の一般動詞の語尾も同様である。 私たちは=マーである。ローマ字で書くとmaだがaを伸ばす。aの上に横棒を引いて表したいのだが、このパソコンではそれができないのでカタカナでマーとしておく。私たちは中国人です=マー チーニー ハスティム となり、語尾はim となる。ちなみに日本人はジャポニー、中国人=チーニー、トルコ人=トルキー、アメリカ人=アムリカイー、ドイツ人=アルマニー、フランス人=フランサヴィー、英国人=エングリーシーかな。アラブ人=アラビー。

今日はここまでです。

追記 ハスティドとカタカナで書くとティドとなるが、ローマ字の場合 idとかいたように、dの後ろに母音はありません。ドではなくてdです。

ペルシア語講座1(はじめに)

ペルシア語は美しい言葉である。アラビア文字を使用するために一見して取っつきにくい、難しそうと思うのであるが、それほど難しい言語ではない。というのは、アラビア語に較べると語彙の変化が殆どないという点が大きな理由である。このブログの新たなジャンルとして今回から「ペルシア語講座」を入れることにした。

ペルシア語はインド・ヨーロッパ語族に属する言語である。従って、英語に近い言語である。ペルシア語を学び始めるとすぐに、英語と同じ語源である語彙に出会う。例えば、娘・少女はدخترと書いて dokhtar (ドクタル)と発音する。英語の daughter である。英語ではスペルの中のghを発音しないが、ペルシア語では明確に喉の奥を擦るようにして発音する。英語でも昔は発音していたのかもしれない?。男の兄弟は brother である。ペルシア語では برادر と書いて barodar (バローダル)である。語源は同じである。というものの何もかもが一緒というのではなく、むしろ探せばあるという程度かもしれない。

先ほど、それほど難しくないと言った。それは変化が少ないからだと述べた。ペルシア語の場合は単数の名詞を複数にする場合は単数の語尾に ها ha を付ければよい。語彙によっては a-n (アーン)の時もある。ganという例外もあるが。そしてあとは動詞の語尾が人称によって変化する。詳しいことは各論の中でゆっくりと説明することにしよう。

最初にペルシア語は美しい言葉であると述べた。前回、ペルシアの詩人の話をしたが、是非ともペルシア語の詩を聞いてもらいたいものだ。過去の有名詩人の作品でもいい。現代詩人の詩でもいい。内容が分からなくとも聞いてるだけで癒されるリズムと旋律で詩が詠まれるのである。fereydoon Moshiri のkuhcheh(路地)をユーチューブにリンクしてみた。

冒頭の文法書は私が昭和40年に大学一年生で最初にペルシア語を学んだ時のものである(これは社会人になってイラン駐在時にテヘランの書店で買ったものであるが)。当時、日本語で書かれた参考書はどこにもなく、英文で書かれたこれが大学で使う教科書であった。またネイティブのペルシア語は客員教授のカーゼン・プール先生のものしかなかった。今ではインターネットやNHKワールドなどでもネイティブの音声はいくらでも聞けるが、当時はそうではなかった。隔世の感である。

キーワード:ペルシア語、ペルシャ語

ペルシアの詩人たち

以前にアブー・ヌワースという詩人の『アラブ飲酒詩選』を紹介したことがある。イスラム社会の中でありながら大胆に酒を歌ったものをいくつか紹介した。そしてタイトルを書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1としたのであった。だからその2を書かなければならないのである。でも詩と言えば、本場(?)はペルシアであろう。ペルシアつまりイランのことである。そこでちょっと寄り道をすることにしよう。

イラン人が詩を愛することは有名である(日本では知られていないかもしれないが)。数多くの詩人を輩出しており、イラン人は有名な詩人の詩の中のフレーズをいくつも身に着けている。イラン人はお喋りである。スピーチも上手である。そんな彼らから発せられる言葉には詩の引用も多々見られるのである。

代表的な詩人というと、シーラーズのハーフェズとサアディであろう。ゲーテがペルシアの詩人たちを高く評価したこと、そしてその著『西東詩集』の中で「ハーフェズ」という一章を設けてハフェズを絶賛したことで彼の名は世界中で知られるようになった。『ハーフェズ詩集』はイラン人の家庭には必ず一冊はあるという。上の画像は私の本棚にあるものである。

岩波文庫で発行されているゲーテの『西東詩集』の紹介文には次のように書かれている「幼い頃から東洋にあこがれを抱いていたゲーテは、老年、ペルシアの詩人ハーフィスを知り、深い愛着をもった。さらに、才気溢れるマリアンヌと出会い、作家の感情は詩となって迸しる。彼女との相聞歌を含む「ズライカの巻」は、本詩集中最もよく知られている。ここには、東洋の恋・酒・知恵と、西洋の精神とのうるわしい結合がある。

一方、同じシーラーズで生まれたサアディもまたイランを代表する詩人である。彼の詩には人生のための教訓のようなものが多いため、実践道徳の詩人とも呼ばれている。サアディとハーフェズの二人の国民的詩人を生み出したシーラーズは薔薇の花で有名な美しい町である。アケメネス朝時代の宮殿ペルセポリスを訪れる拠点の町でもあるため、世界中から訪れる観光客が多い所である。人々は二人の詩人の廟を訪れるのも観光の定番である。詩人たちの個々の詩は改めて紹介するので、今回は詩人たちの紹介に留めておく。

私が最も好きなのはニシャプールのオマル・ハイヤームである。彼も非常に人気のある詩人である。とりあえず詩人としておくが、詩人というよりも科学者・天文学者としての方が有名であった。彼が作成した暦はその正確さで高い評価を得ている。彼の死後に彼の4行詩(ルバイヤート)がEdward Fitzgeraldによって英語に翻訳された後に世界中で知られるようになったのであった。ルバイヤートとは4行詩という意味であり、詩の形式を言うものであったが、彼の詩があまりにも有名になったために、ルバイヤートといえばハイヤームのルバイヤートと固有名詞のようになっている。ルバイヤートの詩集は詩と挿絵がペアになっていて見るだけでも楽しい装丁になっている(下図参考)。

それから近年世界中で非常に人気が高まっているのがルーミーである。「愛の詩人」と呼ばれたりしている。スーフィズム(イスラム神秘主義)的な面がある詩人である。ほかにもまだまだあるが、今回はここまでにしておこう。詩の紹介はまた改めて!

キーワード:アブー・ヌワース、ゲーテ、西東詩集、ハーフェズ、サアディ、オマル・ハイヤーム、ハイヤーム、ルバイヤート、ルーミー、

 

第一次世界大戦とアラビアのロレンス

このブログで紹介しているように、現在月に一回程度で「中東・イスラム学習会」、通称「南山会」を開いています。開催日やテーマは、このブログの「学習会の案内」から見ることができます。8月の例会は31日の土曜日に開催しました。テーマは「第一次世界大戦とアラビアのロレンス」でした。その内容をこのブログ(中東を見る視線)用にちょっと整理して、ここにアップしておきましょう。

第一次大戦は1914年に始まったが、その前からオスマン帝国周辺は不安定な状況が続いていた。オスマン帝国は1877年~78年のロシアとの戦争で大敗しており、ヨーロッパの領土の大半を失っていた。バルカン半島のスラブ系民族もオスマンから独立しようとしていた。そのような動きに対してロシアは汎スラブ主義を唱え、オーストリア、ドイツは汎ゲルマン主義を掲げて支援するような情勢であった。1912年の第一次バルカン戦争では、オスマン帝国に対してセルビア、ギリシア、ブルガリア、モンテネグロが戦った。そして、1913年に起きた第二次バルカン戦争は第一次バルカン戦争の戦後処理に不満を抱いたブルガリアがセルビア、ギリシア、ルーマニア、そしてオスマンと戦ったのである。昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵状態の混沌とした情勢であった。そんな折の1914年6月28日にオーストリア皇太子がサラエボにて、セルビアの青年に暗殺されるという事件が起こった(サラエボ事件)。これがきっかけとなって第一次大戦が引き起こされた。

簡単にいうと以上の通りであるが、第一次大戦は三国同盟側のドイツ、オーストリアなどと、三国協商のイギリス、フランス、ロシアなどとの戦争となった。そしてオスマン帝国はドイツ側に参加したわけであった。イギリスとフランスは戦争後にオスマン帝国領土を分割して自国の支配下に置こうと画策しており、そのために次のような協定や条約などを結んだ。

  • フセイン・マクマホン協定(1915年):メッカの太守フセイン(フサイン)と英国の駐エジプト高等弁務官マクマホンとの間で複数の書簡が交わされたが、その中で、オスマン帝国とたたかって勝利した後に、アラブ人の国家独立を支持すると約束した。
  • サイクス・ピコ条約(1916年5月16日):英仏の間で取り交わした秘密協定。内容は戦後にオスマン帝国領の中東を英仏で分割支配するものであった。前項のフセインと約束したアラブの国家建設予定地などが英仏の支配下になるというもので、アラブとの約束に反するものであった。
  • バルフォア宣言(1917年11月):イギリスの外務大臣バルフォアがユダヤ人に資金援助を求める対価に戦後処理のなかでユダヤ人の国家建設を支援するというもの。正確には国家とは言ってなくて「ホームランド」という表現であるが、これが現在のパレスチナ問題にまで発展している原因である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このような状況の中でロレンスが登場するのである。トーマス・エドワード・ロレンスは1888年にウェールズで生まれた。大学はオックスフォードでジーザス・カレッジに入学し、歴史や考古学を学んだ。1907年と1908年には長期にわたってフランスを旅して中世の城を見て回り、1909年にはレバノンを訪れて十字軍の調査をした。その後もメソポタミアの調査団に加わった。アラビア語にも堪能であったという。ロレンスは歴史学者、考古学者への道を辿っていたようである。

ロレンスは第一次大戦勃発後に陸軍省作戦部第四課(=地図班)で地図を作成する仕事に携わることになる。そして同年1914年12月にはカイロに赴任することになる。1916年10月までがカイロ駐在期であり、その後アラブの反乱に身を投じることになるのである。カイロの陸軍でのロレンスはどちらかというとつまはじきにされていたようである。また、軍がアラブの反乱に積極的に関わろうとする様子でもないことを感じる。そしてまた、サイクス・ピコ条約のことなどを知って、ここは自分の居場所ではないと思い、転任してもらえるように計画した。そして、外務省の直接命令下にある「アラビア局」の所属となったのである。そうしてロレンスはファイサルに会いに行く。ファイサルとはフセイン・マクマホン協定の当事者であるフセインの長男である。ロレンスはファイサルに会う前に弟のアブドゥッラーに会い、ファイサルのところまで案内される。ファイサルとの話し合いのあと、ロレンスが40名ほどのアラブ軍を率いてアカバを攻めることになるのであるが、その辺りの物語が冒頭に画像で示した映画「アラビアのロレンス」のストーリーである。アカバのオスマン軍の拠点は海から接近するであろう敵に対して大砲を海に向けて設置していた。ロレンスは敵の裏をかいて背後から攻めようとしたのである。それには過酷な自然条件のネフド砂漠を横断しなければならなかった。ファイサルたちはそれは無理だと言ったのであるが、ロレンスはアカバを攻略するにはその方法しかないと主張して決行した。映画のストーリーは実際のロレンスの行動をそのまま物語化したものではないが、大筋で合っている。面白い映画であった。私は大学生時代に始めて見たのであるが、その後何度かテレビで放映されたので、その都度みた。そして今はDVD化されたものを持っている。今回の学習会のためにもう一度見直してみた。

アカバを攻略したあと、ロレンスは英雄となる。そして、アラブ軍はヒジャーズ鉄道を破壊してオスマン軍に打撃を与えた。ヒジャーズ鉄道というのはダマスカスから南へ紅海沿いにメッカ迄建設しようとしたものであるが、メディナで終わった約1300kmの鉄道である。その後、アラブ軍はダマスカスに入城して、ダマスカスを陥落させる。

ファイサルは、大戦後の1919年に大シリア国民会議を招集して、大シリア立憲王国を建設しようとした。一方イギリスとフランスはシリアなどを分割支配しようとした。フランスはシリアの北半分を保護下におくことを主張して、武力でファイサルをダマスカスから追い払った。結局フランスは、新たにできた国際連盟から委託されたという形式をとって、シリアの北半分を、レバノンとシリアに分けて統治することになった。イギリスは、シリアの南半分を、ヨルダン渓谷の東(トランス・ヨルダン)とパレスチナに分けて統治し、またイラクも委任統治にした。アラブとの約束を守らずにイギリスはフランスと領土を分割してしまった。アラブ側の不満が収まることはなかった。そこでイギリスは不満を抑えるために、トランス・ヨルダンの国王にアブドゥッラーを、イラクの国王にファイサルを据えることにしたのであった。アラブ地域は結局イラク、シリア、レバノン、トランス・ヨルダン、パレスチナという五つの地域に分割されて、今現在あるような国境ができたのである。

最後にロレンスが描いていた戦後はどのようなものであったのか。彼はこのように言っている。

  • 今日でいうイラクの領域について「クルド人とアラブ人を分割した政府を設立すべきだ」、またシリアにおいては「アルメニア人をアラブ人と切り離して自主独立させるべき」であると。
  • 「自主独立はアラブ人の手で」
  • 「英国軍兵士は全員撤退させよ」「それまで英国人は単純に『英国流儀の英語で統治する政府』を設立してきたが、その代わりにアラブでは、アラビア語の政権を樹立しアラブ人の義勇兵軍隊を修練して、英国兵士は彼の地から撤退させるべきだ」

ロレンスの主張に耳を傾ける必要があったのではないだろうか。

 

キーワード:第一次世界大戦、サラエボ事件、フセイン・マクマフォン、サイクス・ピコ、バルフォア、アラビアのロレンス、ロレンス、ファイサル、ヒジャーズ鉄道、

 

 

レバノンの英字新聞が一面を黒塗りで発行!

中日新聞が報じていましたが、レバノンの英字新聞「Daily Star」が8日発行の第一面を黒塗りで発行した。「黒塗り」という見出しで私は即「外国でも、日本の情報公開の際に、まずいことには黒塗りをするという卑劣な手段があるんだ」と思ったのですが、これは違いました。講義の意味だったのです。記事によると「宗派対立で停滞する政治や、財政危機などに警鐘を鳴らす狙いであったということです。画像のように、一面は国名だけ。他の面も、例えば「25%の失業率」「一千億ドルに迫る公的債務」「150万人以上の難民」「道端にあふれるごみ」などの見出しだけであったという。編集者は政治家だけではなく、国民にショックを与える必要を感じたそうである。

昨年五月に総選挙が行われたあとも、今年一月になってやっとのことで挙国一致内閣が発足したというものの、6月末には国務相の側近二人が銃撃で死亡するなど不安定な状況が続いている。新聞は宗教対立が背景にあるとしているが、レバノンの場合は宗教対立だけではなく、ヒズボラの存在やシリアとの関係などの政治的な諸問題もあって複雑な問題を抱えている国である。私が子供のころのベイルートは中東のパリなどと呼ばれたハイカラな都市であった。

アラビア書道でルバイヤート

アラビア書道をやっていることはまだこのブログには書いてなかったかもしれません。習いだしてからかれこれ5年にはなるでしょう。ナスヒー書体、ルクア書体を終えて、今はナスタアリーク書体(ペルシア書体)を練習しています。そして、今年の作品展の日程が11月に決まりました。まだまだ力不足なのですが、ペルシア書体で四行詩に挑戦しようとおもいます。それで先日、教室の先生に好きな詩のお手本を依頼しました。そして、書いてくださったのが上の写真です。なんと教室の先生ではなくて、本田先生が書いてくださったのでした。

本田先生は日本のアラビア書道界の第一人者というのは勿論ですが、世界のアラビア書道界の第一人者なのです。先生の作品は大英博物館にも所蔵・展示されているのです。マレーシアのイスラムアート美術館でも多数展示されているそうです。インターネットで調べると、素晴らしい先生の作品を見ることができます。もう文字というよりはまさに芸術的な絵画のような宇宙の世界です。頂いたお手本はまさに書道ですが、もったいないのでお手本はコピーを使うことにして、大事に取っておくことにしました。自分でこのように上手に書けることができる日が来るようにせっせと練習しようと思います。

この書について説明しましょう。ペルシアの詩人オマル・ハイヤームの四行詩ルバイヤートの中の一つです。岩波文庫の『ルバイヤート』の表紙には次のように書かれています。「生への懐疑を出発点として、人生の蹉跌や苦悶、望みや憧れを、短い四行詩(ルバイヤート)で歌ったハイヤームは、11世紀ペルシアの詩人である。詩形式の簡潔な美しさとそこに盛られた内容の豊かさは、19世紀以後、フィッツジェラルドの英訳本によって多くの人々に知られ、広く愛読された。日本最初の原典訳」そして、小川亮作の和訳が次の通りです。

  • 今日こそわが青春はめぐってきた!
  • 酒を飲もうよ、それがこの身の幸せだ。
  • たとえ苦くても、君、とがめるな。
  • 苦いのが道理、それが自分の命だ。  

また、ペルシア文学の研究者・岡田恵美子さんは次のように訳している。

  • いざ、青春のめぐりくる日、
  • 酒を飲もう、酒こそわが喜び。
  • その酒が苦くとも、とがめるな、
  • わたしの生命だから苦いのだ。

そして、小生は次のように訳してみました。

  • さあ、いま私は青春の真っただ中、
  • 酒を飲む、それがわが喜び。
  • その酒が苦くても良し、
  • 苦いのは我が人生だから。

キーワード:アラビア書道、四行詩、ルバイヤート、オマル・ハイヤーム、小川亮作、岡田恵美子、