ペルシャ語講座6:動詞現在形の作り方

به مدرسه میروم 私は学校へ行きます。

前回動詞の過去形に続き、今回は現在形です。過去形の方が簡単だから過去形から始めたのですが、現在形も難しくはありません。現在形には全て「ミ」「mi」「می」が頭につきます。そして、前回、動詞には「原形」があると説明しました。原形から過去形が簡単に作れるということでしたね。もう一つ、動詞には「語幹」というものがあります。現在形はこの「語幹」から作ることになります。ペルシャ語の学習者は動詞を勉強するときには、この「原形」と「語幹」を口に覚えさせるのです。例えば、「行く」の原形は「ラフタン」でしたね。語幹は「ラヴ」です。ですから、学習者は raftan—rav と覚えます。他の動詞も紹介すると次のようになります。

  • 来る  o-madan —–o-    オーマダン オー
  • 見る  didan —- bin   ディダン ビン
  • 持っていく  bordan — bar    ボルダン バル

そこで現在形ですが、この語幹の前に mi を付けて、語幹の後ろに人称別の語尾を付けます。例えば「私は行きます」の「行く」は mi-rav-am となります。あなたが行くなら mi-rav-i  彼・彼女なら mi-rav-ad, 以下複数形は一人称から順番に mi-rav-im,  mi-rav-id,  mi-rav-and となります。前回の به مدرسه رفتم  私は学校へ行きましたを現在形にすると به مدرسه میروم beh madoresseh miravam となります。

現在形の作り方、いかがでしたか。語幹に人称語尾と頭にmiを付けるだけですから、簡単でしたね。上にあげた「来る」「見る」「持っていく」についても同様に現在形を作ってみてください。

それから発音について、少し付記します。「行く」という単語の場合、1人称の場合、miravamですが、これは正式な発音ですから間違いではありません。しかし、そのように発音していた私に友人たちからは「お前の発音はketa-bi-だ」と指摘されました。keta-bとはbook=本ですから、書き言葉、読み言葉的だということで口語では違う言い方をするのです。miravamはmiramとなります。miraviはmiriに。miravadはmireに。miravimはmirimに。miravidはmirid。miravandはmirandとなるわけです。最初からそのような発音を覚える必要はありません。イラン人と会話していると自然に覚えることができるでしょう。でも、彼らの会話を聞いた時にこのことだとちょっと頭に入れておくと、戸惑うことはないかも知れません。go=行く という言葉は日常、頻繁に出てくるので申し添えました。他の単語はそのまま発音してください。

キーワード:動詞の現在形、語幹、原形、

想い出の中東・イスラム:幻のイラン新幹線計画

東海道新幹線が開業したのは昭和39年(1964年)10月1日であった。東京オリンピック開催の直前だった。私は高校3年生で大学受験前であった。あれからもう55年になるのだ。私が大学を卒業して、社会人になったのが昭和44年(1969年)。そして、2年後の1971年にイラン駐在員となった。その後、現地で2年ほど経過したときだった。パーラヴィー国王時代であったが、イラン政府が日本の新幹線をイランに走らせたいという意向を私たちの会社に伝えてきた。日本の新幹線をイランに走らせるという新たな計画が突然現実化し始めたのであった。

当時の日本はまだ「国鉄」の時代だった。昔のことなので詳しいことは忘れたが、国鉄と直接ではなくJARTSという国鉄の関連組織が窓口となって、プロジェクトの調査計画を始めたと記憶している。イランはテヘランとペルシャ湾の港コラムシャーとを結ぶ既存の「南線」を電化複線化にすることのほかに、テヘランと聖地マシャドを結ぶ既存の路線を新幹線にすることが希望であった。マシャド線はフランスの技術協力で完成したターボトレイン車が快適な列車の旅を提供していた。下の写真のように車内には飛行機のキャビンアテンダントのような若い女性がいて乗客のケアをしていた。しかし、国王は国威発揚的な意味で新幹線を走らせたいという意向であったようだ。従って、このプロジェクトのメインは新幹線計画であった。

とんとんと話が進み、日本国鉄の技術者たちがイランに入ってきた。当時の滝山技師長、呉副技師長他が来イした。副技師長は現地の中心メンバーとして長期に滞在していた。テヘランからマシャド間の調査のためにイラン国鉄は列車を提供してくれた。列車には寝台車と食堂車がついており、調査中の食事はそこで摂ることができた。イラン料理は美味しかった。次の写真はその時のものである。私はずーと同行して、現地の人の聞き取りなどに活躍(笑)した。

数日間かけて路線の周辺を調査しながらマシャドに到着した。マシャドはシーア派イラン国内で重要な聖地である。817年、8代目イマーム・レザーがこの場所で殉教した地である。モンゴルの攻撃を受けたり、ティームールの息子ミーラーン・シャーによって壊滅的な打撃を受けた町である。しかし、16世紀になりサファヴィー朝の時代に復活したのである。

我々の調査はマスタープラン作成後のフィージビリティ・スタディ(可能性調査)を経て、実施設計へとはいり、その設計も完了したのだった。分厚い報告者が日本から持参されて、すぐさまそれは道路大臣にプレゼンされた。そして、計画に係るすべての成果品を引き渡したのであった。

イランに革命(1979年)が起こらなかったなら、80年代に日本の新幹線がイランに走ったはずだった。けれども革命、その後のイラクとの戦争でイランは混乱状態になっていった。前政権(王政時代)のプロジェクトは殆どが否定されてしまった。ペルシャ湾では三井グループが推進していたIJPCプロジェクト(イラン・日本石油化学プロジェクト)が完成前に頓挫してしまった。私たちの会社が手掛けていた他のいくつかのプロジェクトも継続が不可能となっていった。

この新幹線計画がなされていた時、私は結婚直後であった。南線の方の調査に行ったときは、妻を一人テヘランに残すのが偲びないので、一緒に連れていくことが許されるという粋な計らいを会社はしてくれた。途中、イスファハンなどの名所は国鉄のスタッフと一緒に観光するということもできた。それは私たちの新婚旅行でもあった。

また、この時に日本の新幹線を語るときに欠かせない人物「島秀雄」さんにお会いすることができた。当時はすでに十河総裁とともに国鉄を去っており、宇宙開発事業団の初代理事長であったが、イランの新幹線計画ということでアドバイスにお出でいただいたのであった。滞在中にケアさせていただいたわけだが、同じ島という姓同士で色々話が弾んだことを覚えている。その時に戴いた宇宙開発公団のグッズ(ネクタイピン)は今も大事にとってある。その時は、正直言うと、新幹線計画になくてはならない人物という、そんなに偉い人とは知らなかったのである。でも新幹線と島三代の関りのテレビ番組などを見て、今は詳しく知っている。

長々と書いたが、日本の新幹線技術の最初の海外輸出が幻に終わったという苦い思い出である。

(注) マシャドという地名について。日本ではマシュハドと書かれているのが殆どであるが、それでは現地で通じない。現地語ではمشهدであり、m-sh-h-dの4文字である。3音目のhは子音のhであり、haではない。従って発音は「マシャhド」と書くのが一番近いと思う。地球の歩き方を読むとローマ字表記がMashhadとなっているので、カタカナではマシュハドとなっているようだ。余談ではあるが、旅行に行く人のために一言付記しました。

 

キーワード:イラン新幹線、テヘラン、マシャド、

 

 

ペルシャ語講座5:動詞過去形の作り方

به مدرسه رفتم  私は学校へ行きました。

今回は動詞です。基本的な決まり事をきちんと覚えておきましょう。動詞にはまず「原形」があります。英語の go で説明すると、原形は raftan です。ペルシャ語では رفتن と書きます。ペルシャ語の文字で r f t n の4文字です。 ra-f-t ‐の後に、第一人称の場合 m م を付けます。そうすると raftamとなります。ペルシャ語では رفتم です。そしてこれがgoという動詞の第一人称過去形となります。

  • 一人称単数過去   ラフタム raftam      رفتم
  • 二人称単数過去   ラフティ rafti          رفتی
  • 三人称単数過去   ラフト  raft           رفت    簡単ですね。
  • 一人称複数過去   ラフティム  raftim   رفتیم
  • 二人称複数過去   ラフティッド raftid    رقتید
  • 三人称複数過去   ラフタンド  raftand   رفتند

このように動詞の原形の末尾を変えるだけで動詞の過去形ができます。 go を例にしましたが、英語の say の場合は goftan ゴフタンですから。「私は言った」はゴフタム goftamです。以下、gofti,  goft,  goftim,  goftid,  goftand ということになります。

良く使う動詞は英語の give かな。dadanが原形なので「私は与えた」は、dadam,  以下 dadi,  dad,  dadim,  dadid, dadandとなります。

  • 折角なので「私は学校へ行きました」はどうなるでしょうか。
  • 学校   マドレッセ
  • ~へ   英語の to ですが、ペルシャ語では behです。
  • 完成形は  マン べh マドレッセ ラフタム です。
  • べの後ろにhを付けたのはペルシャ語のスペルがbとhでべの後に息を抜くような感じがあります。
  • 語順は日本語に近く、「私は へ 学校 行きました。」ですね。最初のマンは私という意味ですが、動詞の語尾が一人称の語尾なので、マンは付けてもつけなくてもいいことです。「私はねえ~・・」という風に私を強調したければ付けると良いですね。

読み書き、そして会話のためには単語を沢山覚える必要があります。動詞をいくつか紹介しておきましょう。

  • 来る     オーマダン
  • 持ってくる  アーヴァルダン  a-vardan
  • 持っていく  ボルダン                  bordan
  • 支払う    パルダークタン       parda-khtan
  • 着る     プーシダン              pu-shidan
  • 買う     ハリダン                  kharidan
  • 欲する    ハースタン              kha-stan
  • 走る     ダヴィダン              davidan
  • 見る     ディダン                  didan
  • 打つ     ザダン                      zada
  • 洗う     ショスタン               shostan
  • 聞く     シェニダン
  • 理解する   ファハミダン           fahmidan
  • する     キャルダン
  • 取る get    ゲレフタン
  • 座る     ネシャスタン
  • 書く     ネヴェシュタン

イラン料理

パソコンの中の画像を見ていたら、イランへ行ったときの食事を写したものがあった。そこで、今回はイラン料理を紹介することになった。上の画像はペルセポリスの帰りに昼食のために立ち寄ったレストランでの食事であった。手前中央は言わずと知れた「キャバーブ(カバーブ)」だ。キャバーブには普通焼いたトマトや生の玉ねぎが添えられる。その奥がライスだから、それとキャバーブをセットするとチェロウ(ライス)キャバーブ(焼肉)である。普通はライスにバターを混ぜる。その上にソマーグという粉(日本のユカリと同じ)も振りかけると美味しい。生卵が安全なら是非とも卵の黄身をかき混ぜたいところである。ライスとキャバーブ。ランチなら、これだけで十分である。

キャバーブの左は「ホレシュテ・サブズィー」だ。色々な香草に豆なども少し入れて煮込んだもの。これをライスにかけて食べる。香草なので香りがきつい場合もある。ライスの左奥はパニール。イランのチーズである。壁土のような食感(壁土を食べたことはないが)の印象を抱いていたのだが、久しぶりのイランで食べたこのパニールはなかなかクリーミーであった。パニールはナーン(パン)に挟んで食べるといい。その奥が「ホレシュテ・バーデンジャーン」というナスの煮込み。これもライスにかけて食べる。羊の肉が少々入っていることもあるが、ナスがメインである。ホレシュテ・サブズィーの左の白い容器はヨーグルト。その向こうがサブズィー。先ほどのホレシュテの下であるが、生で出てくる。これもナーンにパニールと一緒に挟んで食べるといい。その奥が野菜サラダである。キュウリが多い。これが出てくる前に出たのが大麦のスープであった。こうして全体を見ると、野菜が多くてヘルシーな印象ではないだろうか。

ドリンクは昔はアーベ・ジョー(麦の水)つまりビールを付けたが、いまは公には飲むことはできない。私が飲むのはドゥークといってヨーグルトを炭酸水で割ったドリンク。昔はテヘランのドゥークの銘柄はAb-Aliというものであったが、前回行った折には見当たらなかった。

二つ目の上の写真はまた別の日にどこかのレストランで食べた時のもの。ライスの少々サブズィーが混ざり、黄色いのはサフランライスで副食の鶏肉が添えられている。名前は「チェロウ・モルグ」とでもいうのだろうか。鶏肉でなく羊の肉の場合は「チェロウ・グーシュト」となる。その奥の一皿はちょっと見にくいが「タッチン・グーシュト」だろう。私が大好きで人と一緒の時は必ずこれを食べてもらうようにしていた。ごはんをケーキのように形作り、こんがり焦げ目が少しついている。サフランライスの層が少しあるのかな。これも羊肉と合わせれば「タッチン・グーシュト」だし、鶏肉となら「タッチン・モルグ」と呼ぶ。これ一皿で十分満腹になるが、サラダやヨーグルトも一緒に食べるのが普通だ。

イラン人はおもてなしが上手である。公園を歩いているとグループでランチをしている場面に出くわすことが多い。そのそばを通ると「ベファルマイ! どうぞ!」といって、食べて行けと進めてくれる。街を歩いていて話しかけてくることも多い。そうするうちに「是非とも、我が家へ来てください」ということになる。どうしようかな?社交辞令だよな?とか思っているうちに、自宅の場所と時間を示されて約束させられる。二人の日本人を連れてイランに行った時もそうだった。私はその二人にイラン人の家庭を体験してもらうのもいいかと思い。招待を受け入れて夜、3人で訪問した。その時の料理が次の写真である。

若い夫婦と小さな子供二人がいる家庭であった。富裕層ではなくごく普通の家庭である。突然の訪問に奥さんは戸惑ったであろうが精一杯の準備をしてくれていた。

料理に関していうと、私は「フェッセンジャーン」というローカル料理が好きである。テヘランのイラン料理レストランではメニューにおいているところが多くない。地方料理らしい。どんな料理かと説明できないのだが、ごはんにかけるホレシュテの類になるのだろうか。胡桃がすりつぶして入っており、少し酸っぱい味がするのはザクロのせいである。レストランでメニューにあれば食べたい料理であった。読者も機会があればオーダーしてみてください「フェッセンジャーン」と。

最後にケルマンシャーのチェロウ・キャバーブ店の玄関とキャバーブとチキンキャバーブの写真をアップしておこう。

キーワード:イラン料理、キャバーブ、カバーブ、ホレシュテ・バーデンジャーン、ホレシュテ・サブズィー、スーペ・ジョウ、チェロウ、ソマーグ、

 

アラビア書道作品展に出品しました。

7月22日に「アラビア書道でルバイヤート」という記事を書きました。そのときにルバイヤートの中のひとつの四行詩を作品展用に作成するために本田先生に書いていただいたお手本の画像をアップしたのでした。あれから4ヵ月以上が経過しています。私の作品はどうなったのでしょうか?作品展は11月12日から17日まで、京都市国際交流会館にて開かれました。予定通りと言いたいのですが、開催日直前になってやっとできあがりました。まだまだ満足できるものではありませんが、キリがないので不満足ながらも出品しました。また来年に向けて頑張ろうと思います。作品を以下にアップいたします。

用紙はイランで売られているA4サイズの書道用紙がありましたので、普段使っているA3サイズの用紙に拡大コピーしたものを利用しました。一応カラーコピーになります。最初は近所のコンビニにA3サイズの用紙を持参して、拡大コピーをしたのですが、周りの模様が濃い部分と薄い部分ができたり、色が飛んで白い部分ができたりしたのです。そこで、キンコーズに出かけて、コンビニの話もして相談した結果、奇麗な用紙が出来上がったのでした。あとは額縁も必要です、今回が5回目になりますが、いつもは妻が押し花の作品作りを30年位やっていて、額も沢山持っているので、それを借りていました。でも今回は作品展後もそのまま残しておきたいので画材屋さんにいって買ってきました。安いのから高いのまで色々一杯ありました。作品に合うような色や縁取りでそう高くなくて、京都に送るので軽いものをと探したものが画像の額です。作品ができたあと、文字周りの空間が真っ白ではちょっと寂しいので、バステルを削って粉にして指で擦りつけて薄く色付けしました。作品を書くことのほかにこのようなことを色々して、何とか格好がついてきました。そういうことがまた楽しくもありました。来年はもっともっと良いものをと思っています(毎年のことですが(笑))。

キーワード:アラビア書道、ルバイヤート、京都市国際交流会館、

ペルシャ語講座4:挨拶の会話

今回は「挨拶」にしましょう。ペルシャ語の挨拶の前に先ずはイランもイスラム社会ですから、イスラム圏共通の挨拶がありますね。皆さんご存知の「サラーム」です。「平和」だとか「平穏」というような意味です。アラビア語では定冠詞のalアルがつくので「アッサラーム」となりますが、イランのペルシャ語では単に「サラーム」でいいです。アラビア語では「アッサラーム アレイコム」とも言いますが、ペルシャ語では「サラーム アレイコン」。勿論、アラビア語のようにアッを付けて言っても構いません。この挨拶に対する返事はアラビア語の場合「アッレイコム アッサラーム」ですが、ペルシャ語では返事も「サラーム」または「サラーム アレイコム」とそのまま返すのが一般的かと思います。それでは以下にペルシャ語の日常的な挨拶を紹介しましょう。

  • おはよう   ソブ・ベイル   sobh bekheir
  • ソブは朝。ベヘイルはgood。ですからソブ・ベヘイルは文字通りgood morningです。
  • こんにちは  ルーズ・ベイル  ru-zu bekheir
  • ルーズはdayですから、good dayという意味です。
  • こんばんは  シャブ・ベイル  shab bekheir
  • シャブは夜ですから、good eveningと同じです。
  • さようなら  ダー・ーフェズ  khoda- khafez
  • ホダーは神様。意味は「神様のお加護を!」がさようならの言葉です。
  • 発音で注意するのはカタカナではハヒフヘホの部分ですが、ローマ字ではkha khi khu khe khoとkが付いている部分です。ペルシャ語では خ という文字を使います。上に点が一つ付いています。これは喉の奥を擦って音を出します。点が付いてなければ喉の奥を擦らずに普通にハヒフヘホの音で結構です。この喉の奥を擦る音がペルシャ語を学習し始めた時の最初の難関ですが、すぐになれます。この音はアラビア語も同様ですペルシャ語で発音の難しいのはこれ位でして、アラビア語に較べるとかなり易しいと思います。

次の挨拶は英語でいうと「how are you」です。ペルシャ語は「ハーレ・ショマー・チェトウル・アスト」「ha-l-e shoma- chetour ast」ショマーは既に習った「あなた」です。状態という意味のhalの前にショマーがついて「あなたの状態は(調子)は」となりますが、単語をつなげる場合にエザフェというのですが単語と単語の間に-e-を入れます。hal-e-shomaとなるのです。私の本という場合は ketab-e-man。 あなたの家=khane-ye-shomaとなります。eとかyeを記しましたが、実際には何も書きません。チェトウル=howという意味です。いかが? どう?という意味になります。最後のアストは既に習ったbe動詞ですね。「ハーレ・ショマー・チェトウル・アスト」ですが、チェトウルの部分をkhub = good として調子はいいですか?ということも一般的です。親しい間柄なら、もっとくだけて چطوری チェトウrーイ だけで十分です。答えはまずは「ありがとう」「メルシー」「モテシャッケラム」と言ってから、正式にはhal-e-man khub astですが。普通はkhub-amで十分です。khubはグッド。アムは1人称のbe動詞。I am goodな状態となります。そして、今度は相手に「あなたはいかが?」と問い返すことになりますね。簡単に「あなたは?」だけなら「ショマー?」と語尾を上げればいいですね。日本人なら挨拶はさっと済ませたいところですが、イラン人はそうはいきません。あなたの調子はどうかと尋ねた後は、あなたの家族はどうか?ご両親はどうか?と延々と挨拶が続くのが普通です。

日本でも初めて会ったりしたり、長年会いたかった人に会った時などは「お目に書かれて嬉しいです」というような言い方もあります。ペルシャ語では「アズ ディダーレ・ショマー kホシュハールショダム」となります。ディダールがお目にかかるでして、あなたにですから先ほど説明したエザフェがついてディダーレ・ショマーとなっています。kホシュハールの部分がkホシュヴァクタムともいうかな。

長い間会ってなかったときは「kheili vaqt nadidamet」文字どおり非常に長い間あなたを見なかったと言います。名古屋では「やっとかめだなも」といいます。ヤットカメとは80日とかの意味らしいです。80日ほどぶりの久しぶりですな、という意味とか。今日はここまでだなも???

追加:冒頭に私が昔使っていた「ペルシャ語の慣用句」の参考書の一頁です。この中から一つ紹介しましょう。Life is too shortという英文の部分です。ドンヤー ドウ ルーズ アスト(ast) . دنیا دو روز اسث  ドンヤーというのは「世界」「現世」ひいては人生などの意味。現世はたったの二日! 日本の光陰矢の如し的な意味。だから人生を謳歌しようぜというニュアンスです。実際、若いときに自分でも使った覚えがあります。会話だったので、最後のアストはeエに変えました。ドンヤー ドウ ルーゼ (ru-z-e)と。

キーワード:ペルシャ語の挨拶

シバの女王のイエメンとは

先月、サウジアラビアの石油基地が何者かにドローンによって攻撃された事件が起きた。サウジと米国はイランの仕業であると主張し、その後イギリスやフランスもイランによる犯行であると断定した。一方でイエメンのアンサール・アッラーは事件後に犯行声明を発してもいるのである。アラブの春が吹き荒れた約10年前の時にチュニジア、リビア、エジプトなどの独裁政権が次々と崩壊し、シリアやイエメンにも波及したのであるが、シリアはご存知の通りアサド政権が依然として存在している。イエメンの場合,反政府運動では何とか持ち堪えたのであったが、その後にサレハ大統領が退陣したのであった。その後も内政は安定せず、現在もそうである。そこにサウジの介入などがあり、今回のサウジの石油基地攻撃に繋がっている。今回はこのイエメンという国について整理してみる。

上の図は左が草思社発行『地図で読む世界情勢』から、右はウィキペディアから拝借したものである。現在のイエメン共和国は通称北イエメンと南イエメンが1990年に統合されて成立した国である。

北の正式名はイエメン・アラブ共和国(1967年にイギリスから独立した国)
南の正式名はイエメン人民民主共和国(1967年から1990年に存在)
南イエメンはイエメン社会党の一党独裁体制によるアラブ世界初の社会主義国で、中東やインド洋におけるソビエト連邦の足場だったが、冷戦終結で経済的に行き詰まり、1990年5月22日に北イエメンと統合して現在のイエメン共和国となった。1994年に南イエメンの再分離独立を求めるイエメン内戦が起きたが鎮圧された。

自由国民社発行の『国際情勢ベイシックシリーズ・中東』57頁のイスラムの諸派の図(上)によるとシーア派の中にザイド派というのがある。ザイド派のイマームが897年にイエメンを拠点としたことに始まり、その子孫のラシード家からでたイマームがこの地域を統治してきた。一応、オスマン帝国領ではあったが、トルコから遠く離れていたので、自治が与えられている状態であった。
19世紀、スエズ運河の建設が始まると、イギリスはマンデブ海峡の安全確保のために、港町アデンを占領、さらに南イエメンを保護領化した。北イエメンはオスマン領として残り、ここにイエメンの南北分断の歴史が始まった。1839年であった。

北イエメン 南イエメン
191810月30日、当時のイマーム(アル・ムワッタキル・ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン)がオスマン帝国からの独立を宣してイエメン・ムタワッキリ王国(北イエメン)を成立させた。 南イエメン民族解放戦線が反英独立闘争を指揮。

その結果「イエメン人民民主共和国」を建国し、独立(1967年)。マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家を掲げた。

1958年、エジプトのナセルが汎アラブ主義を掲げてアラブ連合共和国を結成。北イエメンも参加。南から英を追い出そうとする。  
1961年、シリアの独立によりアラブ連合共和国が崩壊したため連合から脱退。  
1962年、エジプトの支援を受けた一派がクーデターを起こして王制打破。イエメン・アラブ共和国が成立。  
国王と王政の支持者たちはサウジに亡命。新エジプト派が握る実権を取り戻すべく戦いを始める。 1986年、実権争いから内戦状態に陥り、一万人の餓死者と6万人の亡命者をだす。財政が破綻。
1970年、第三次中東戦争が勃発し、エジプトはイエメンのことに手が回らないために、イエメンから手を引いた。  
1990年、南北イエメン統合。

北の方が人口、経済共に大きい。財政破綻したのは南である。そもそもの本家は北であるため、北が南を併合する形で統合がなされた。その後も、北の政治主導に反発する南の分離独立を唱えたりする者も・・・・

このようにイエメンという国は南北分断の時代を経て統一されたのである。しかしながら統一後も北が主導権をもつ体制に不満を抱く南の人々がおり、統一後も安定した国家運営にはならなかった。そしてアラブの春の運動が中東全域に広がったとき、イエメンではサーリフによる長期独裁政権が続いていた。結果的に新大統領としてハーディ大統領の政権が生まれたのであったが、サーリフ元大統領の勢力が温存されており、アンサール・アッラーが結びついてハーディー政権を脅かした。サーリフ元大統領は2017年末に殺害されているが、イエメンではアンサール・アッラーと政府が戦っている状態である。

アンサール・アッラーは通称フーシー派と呼ばれており、アンサール・アッラーとは神の支援者というような意味である。シーア派ザイド派であるという。そういう観点からシーア派であるイランとの関係が取りざたされることになる。実際にイランとの関係があるのかもしれない。イランは今ドローン技術での先進国でもある。サウジの石油基地攻撃がイランでなくてフーシー派の仕業であったとしたときにイランの関与があったかもしれない。しかしながら、私が強調したいのは、イランが関与する理由がシーア派同士であるという短絡的な理由付けは間違っているということである。ザイド派はシーア派から分離していった派である。イランの12イマーム派とは後継者問題で分かれていき、シーア派同士と言っても考え方は異なっている。

一方、サウジアラビアとイエメンの関係はどうであろうか。私たちが子供の頃のアラビア半島の地図はイエメンとサウジの国境は定まっていなかった。サウジとしては紅海からインド洋にでる出口にあるイエメンを自分の影響下に置きたいというのは当然の理屈であろう。ペルシア湾側の出口ホルムズ海峡をイランに、紅海側をイエメンに抑えられることはサウジの安全保障面にとっては喜ばしいことではない。サウジがイエメンにサウジ寄りの政権を置くことが重要となる。サウジとイランの派遣争いである。ただそれをイランがシーア派同士なのでイエメンに関与するというのは正しくない。

タイトルに「シバの女王」を入れていたことを忘れていた。シバの女王がその昔、莫大な財宝をもってソロモン王に会いに行った有名な話がある。その女王はイエメン辺りにいた女王だったという伝説があるのである。つまりイエメンはその昔、非常に豊かな地域であったということである。シバの女王が持参した財宝とはおそらく乳香などであったのであろう。イエメンでは今でも近くの島で乳香が採れるという。またモカコーヒーという品種のモカはイエメンで採れたコーヒーであった。えっ、コーヒーの栽培ができるの?という疑問は愚問である。イエメンには標高の高いところもあり、樹々もある。その昔、世界で最初に造られたダムがイエメンである。マーリブダムといって、灌漑に使われたそうである。イエメンの豊かさをもって、この周辺は「幸福のアラビア」と呼ばれたそうである。うろ覚えに昔聞いた話を綴ったので若干の間違いがあるかもしれません。その場合はお許し下さい。

キーワード:イエメン、北イエメン、南イエメン、シーア派、ザイド派、12イマーム派、アラブの春、イラン、サウジアラビア、シバの女王、モカコーヒー、マーリブダム、幸福のアラビア、ソロモン王

 

ペルシャ語講座3:これは本です。این کتاب است

これは本です。این کتاب است

前回は「私は日本人です」でした。主語・述語・補語という形でした。今回も同じ文型です。This is a bookです。これ=イン(in) 本=ケターブ(keta-b) です=アスト(ast)となります。つまり「イン ケターブ アスト」です。ローマ字で表記すると「in keta-b ast」です。カタカナで書くとアストの部分はastですから asutoではないことに注意して発音してください。 アストはbe動詞のisに相当します。「これは本です」という場合は「in keta-b ast」と覚えてください。名詞の単語を覚えていけば本の部分にその単語を入れれば良いわけです。英語の単数の場合のaや定冠詞のtheについてはここでは気にしないでください。始めから細かいことを言っていたら、前に進まないし継続できなくなります。要は「これは****です」は「いん ****アスト」でいいわけです。「これ」でなくて「あれ」にしたいなら「イン」を「アーン」にしてください。

「これは本です」は三人称単数でbe動詞はアストでした。前回は「私」と「あなた」でしたが、「彼」を追加しましょう。「彼は日本人です」=「ウー ジャポイニー アスト」となります。英語のthis is a book.. He is a Japanese.とおなじようにis=astが使われていますね。英語とは異なり、彼も彼女どちらもウーです。

複数形はどうなるでしょうか。これ➡これら=インハー という風にハーをつけます。ケターブの複数形はケターブハーとなります。これ➡これら=インハー。あれ⇔あれら=アーンハーでいいです。彼ら、彼女らはアーンハー(またはイーシャーン)です。アーンをつけて複数形を作るのが一般的ですが、そうでないものもあります。というものの限られたものであることと、規則性があるのでボチボチ理解できるようになると思います。焦らないで、ゆっくり楽しみながら進みましょう。

 

ペルシア語講座2 私は日本人です。من ژاپنی هسثم

私は日本人です。من ژاپنی هسثم

ペルシア語講座を開講すると言ったが、いざ始めようとすると何から始めればいいのか戸惑った。表記はカタカナかローマ字か?アラビア文字をどうするか?いきなり文字は取りつきにくいからカタカナとローマ字併用でやってみよう。市販されている参考書と同じではここで作る意味がない。簡単な会話ができる程度の内容にしてみよう。

先ずは、人称代名詞から 私=マン=man。 私は日本人です。マン ジャポニー ハスタム 簡単でしょう。次に2人称であなたは=ショマー。複数形も同じくショマーでいい。単数形で親しい中であればトウ=tou が使われる。 あなたはイラン人です=ショマー イラニー ハスティ となる。あなた方はイラン人です=ショマー イラニー ハスティド(hastid)である。 単数の場合にもhastidを使うこともある。 ここで英語のbe 動詞 amはhastamである、hastに1人称の語尾amが付くのでハスタムとなる。

2人称の場合は単数がiで、複数はid(イッド)がつくので、hasti, hastidとなる。この語尾の形はbe動詞以外の一般動詞の語尾も同様である。 私たちは=マーである。ローマ字で書くとmaだがaを伸ばす。aの上に横棒を引いて表したいのだが、このパソコンではそれができないのでカタカナでマーとしておく。私たちは中国人です=マー チーニー ハスティム となり、語尾はim となる。ちなみに日本人はジャポニー、中国人=チーニー、トルコ人=トルキー、アメリカ人=アムリカイー、ドイツ人=アルマニー、フランス人=フランサヴィー、英国人=エングリーシーかな。アラブ人=アラビー。

今日はここまでです。

追記 ハスティドとカタカナで書くとティドとなるが、ローマ字の場合 idとかいたように、dの後ろに母音はありません。ドではなくてdです。

ペルシア語講座1(はじめに)

ペルシア語は美しい言葉である。アラビア文字を使用するために一見して取っつきにくい、難しそうと思うのであるが、それほど難しい言語ではない。というのは、アラビア語に較べると語彙の変化が殆どないという点が大きな理由である。このブログの新たなジャンルとして今回から「ペルシア語講座」を入れることにした。

ペルシア語はインド・ヨーロッパ語族に属する言語である。従って、英語に近い言語である。ペルシア語を学び始めるとすぐに、英語と同じ語源である語彙に出会う。例えば、娘・少女はدخترと書いて dokhtar (ドクタル)と発音する。英語の daughter である。英語ではスペルの中のghを発音しないが、ペルシア語では明確に喉の奥を擦るようにして発音する。英語でも昔は発音していたのかもしれない?。男の兄弟は brother である。ペルシア語では برادر と書いて barodar (バローダル)である。語源は同じである。というものの何もかもが一緒というのではなく、むしろ探せばあるという程度かもしれない。

先ほど、それほど難しくないと言った。それは変化が少ないからだと述べた。ペルシア語の場合は単数の名詞を複数にする場合は単数の語尾に ها ha を付ければよい。語彙によっては a-n (アーン)の時もある。ganという例外もあるが。そしてあとは動詞の語尾が人称によって変化する。詳しいことは各論の中でゆっくりと説明することにしよう。

最初にペルシア語は美しい言葉であると述べた。前回、ペルシアの詩人の話をしたが、是非ともペルシア語の詩を聞いてもらいたいものだ。過去の有名詩人の作品でもいい。現代詩人の詩でもいい。内容が分からなくとも聞いてるだけで癒されるリズムと旋律で詩が詠まれるのである。fereydoon Moshiri のkuhcheh(路地)をユーチューブにリンクしてみた。

冒頭の文法書は私が昭和40年に大学一年生で最初にペルシア語を学んだ時のものである(これは社会人になってイラン駐在時にテヘランの書店で買ったものであるが)。当時、日本語で書かれた参考書はどこにもなく、英文で書かれたこれが大学で使う教科書であった。またネイティブのペルシア語は客員教授のカーゼン・プール先生のものしかなかった。今ではインターネットやNHKワールドなどでもネイティブの音声はいくらでも聞けるが、当時はそうではなかった。隔世の感である。

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