書籍紹介:アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国

前回の記事投稿が、10月9日でした。アラビア書道展が川崎で開かれたので、そちらを訪れたついでに子供たちの家に行って1週間ほど滞在してきました。子供たちというより、目的は久しぶりの孫二人と会いたかったわけです。コロナのせいで2年近く会ってませんでした。といっても、昼間は孫たちは学校や保育園に行ってるわけですから、私は暇なわけです。今回はパソコンを持参しなかったので、暇つぶしのために見つけたのがタイトルの新書版です。

 

中公新書、阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国』880円+税です。書店で偶然発見したのですが、発行は今年の9月ですから新刊です。とっさに思ったことはアケメネス朝ペルシアだけで一冊の本を一般人向けに出版することができるんだ!ということです。失礼かもしれませんが「へえ、こんな本でも売れるのかなあ?」という思いでした。アケメネス朝ペルシャは当然世界史で学ぶところでありますし、キュロス大王やダレイオス大王とペルセポリスの遺跡、そしてこの帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされたことなどで興味・関心もある人は多いでしょう。でも、その中間の部分つまり、ダレイオス大王の最盛期から末期に至る間のことはあまり関心がない人が多いと思っているのです。正直、自分もそうでした。そのような偏見に満ちた私感はここまでにしましょう。ペルシアに興味のある人は是非とも読んでいただきたい本だと思います。

まず、最初に伝えたいことはダレイオス大王がアケメネス朝の初代の王かもしれないということです。普通は初代がキュロス大王で二代目が息子のカンビュセス、そして3代目にするか4代目かと紛らわしいダレイオス大王となるのですが、キュロス大王の国とダレイオス大王の国は分ける考え方もできると諸説を紹介しています。私もこの説は以前から知っています。青木健氏はその著書の中で、キュロス大王から3代目までをチシュピシュ朝としています。今、世の中にでている歴史書の中の系図で、アケメネス朝は以下の図になっています。

確かにダレイオス1世(ダレイオス大王)はキュロスの直系ではありません。しかし遡れば繋がるということになるわけです。しかし真実はそうではなくて、ダレイオス大王が自らが王位についた正統性を主張するために作り上げた可能性があるというのです。それに関することがらがいくつか示されるのが大変興味深い。

カンビュセスが死んでダレイオス大王の時代になるわけであるが、カンビュセスの死とそこにまつわるストーリーもいくつかのシナリオが示されておりこれまた興味深いものであります。普通は、カンビュセスが実の弟を殺害し、秘密にしていた。しかし、それを知った弟に瓜二つのそっくりさんが、カンビュセスのエジプト遠征中に弟になりすまし王位就任を宣言する。慌てて引き返すカンビュセスが馬から落ちて死ぬとかなのでありますが、このあたりのストーリーも諸説があり、面白い。

とにかく、大昔の歴史であり、その当時を伝えるのがヘロドトスの『歴史』やクテシアスの『ペルシア史』しかないのである。あと有力なものとしてはベヒストゥーン碑文であり、私も地上100m、断崖絶壁に登りこの碑文を目の前にして感動したのですが、この碑文はダレイオス大王が造った、造らせたものであるから、自分に都合の良いように記している可能性は皆無ではないわけです。

このようにこれまで当たり前とされていた点が、そうでなくなるという内容は中々読みごたえがあるものです。しかし、一般読者にはそこまで細かい点は必要ないと思う点もあるので、適当に取捨選択してページをめくればいいでしょう。

 

 

 

 

 

2021年度アラビア書道展が始まります。

今年も作品展の季節になりましたので、作品を発送しました。会期は12日から17日6日間です。上の画像が私の作品です。3年連続してオマル・ハイヤームのルバイヤートの中から選んだ一つです。右側にナスタアリーク書体(ペルシャ書体)です。右面のサイズはA3です。左側にもA3サイズに詩の和訳と挿絵を入れていますが、額の幅に合わせて少し重ね合わせています。約3カ月間、何枚も書きましたが、最後まで満足できる出来ではありませんでした。س や  ن  の丸い部分の形が奇麗に書けないのです。また、長く伸ばして書く部分の曲がり具合が流麗に書けなかったりするのです。こちらが良ければ、あちらがダメとかになるのです。結局すべての部分がいいと思うようには書けない。これが今の自分の実力なのでしょう。

昨年もそうでしたが、今年の作品展もアラビア書道だけではなく、ペルシア書道、モンゴル書道、ハングル書道とのコラボ作品展なのです。多種多様な作品が展示されますので、お近くの方は是非とも御覧ください。そして11月にはアラビア書道単独での作品展が京都で開催されます。
こちらは2年ぶりの開催となります。私は出品を予定しておりませんが、もしかして、新しい作品が書き上げられるなら、出品するかもしれません。こちらの方の案内状も以下に紹介しておきます。

 

ペルシャ語講座33:有用?な単語・・چشم chashm/cheshm 目/眼

いろいろな色の目のイラスト(黒)

今回はペルシャ語講座ですが、一つの単語を紹介しましょう。それはタイトルのチャシュム、チェシュムです。目という意味です。辞書を引くと名詞・①目、眼 ②邪視、凶視 とあります。その次に間投詞として「喜んで」「承知しました」と記されています。私が紹介したかったのは、この部分です。わざわざ紹介しなくとも、現地へ行ったならば直ぐに分かることなのですが、最初は「へえ!」と思ったものです。でも便利な言葉です。例えば、使用人に「どこどこに行って、何々を買ってきてください」と言うと、彼は軽く手のひらを胸に当てて「チャッシュ!」と言うのです。私は「かしこまりました」という意味だと解釈しました。そして、私には「チャッシュ」と聞こえましたので、それが目の意味の「チャシュム」だとは、しばらくの間、気が付きませんでした。目の意味だと気づいたときに、「言葉って面白いなあ」と感じたものでした。

いろいろな色の目のイラスト(黒)

ついでにチャシュムを使った表現を辞書からピックアップしておきましょう。
چشم شما روشن  chashme shoma roushan おめでとう!

چشم و چراغ chashm va cheraq 最愛の人
چشمانداز chashm andaaz 展望、見通し、
چشمبند cheshm-band 手品師、奇術師
چشم پوشی cheshm-pushi 黙認、見逃し
چشمچرانی cheshm-charan 色目を使う
چشم روشنی cheshm-roushani 贈り物、お祝いの贈り物
چشمگیر cheshm-gir 目立った、顕著な

サウジアラビアとワッハーブ派

前回はタリバンを取り上げた.。タリバンは厳格なイスラムなどと評されるわけであるが、前回述べたように、私は決して正統派の厳格なイスラムであるとは思わない。本来のイスラム精神を厳格に守るという意味ならば、代表的なのはサウジアラビアであろう。今回はサウジアラビアのイスラム=ワッハーブ派について少しだけ紹介する。

サウジアラビアではイスラム・ワッハーブ派が国教である。ワッハーブ派とはどういうものか、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』では以下のように説明している。

アブド・ル・ワッハーブ(1703~87)が18世紀なかばに創始した。『クルアーン』とスンナに帰れとする純粋主義の運動。極端に復古主義的なかたちでイスラームの純化を主張するスンニー派ムスリムの運動で、彼らは自らをムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。法学上はハンバリー派に属し、この派の神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を強く受けた。ヒジュラ暦三世紀以降にもち込まれた一切のビドア(新風・新説)を排除し、正統四法学派の権威と、正統六ハディースのみを認める。スーフィズムを厳しく糾弾し、聖者崇拝や聖者廟詣でを禁じた。信徒には徹底したピューリタン的生活態度が要求される。18世紀後半この運動は、ナジュドのイブン・サウード家の勢力と結びつきアラビア半島に拡大した。ワッハーブの死後、サウード家の長が教主の地位を継承し、政教両権の保持者となる。

サウード家の正確な出自はよく分かっていないが、15世紀頃サウジアラビア東部のオアシスからリヤドの北ワディ・ハニーファのダルイーヤに移り定住したという。1720年より少し前にサウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムグリンの記録がある。その息子のサウード・イブン・ムハンマドが通常サウード家の始祖とされている。といってもそれはアラビア半島に数多くいた部族の一人の長であったにすぎない。それが、のちにサウジアラビアを統一するほどの権力者になることができたのは、ワッハーブとの同盟であったのだ。

アラビア半島に数多くの部族があった中で、有力だったのがラシード家であった。文芸新書・岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』によれば、ラシード家というのは、リヤドの北西シャンマル山地のシャンマル諸支族を支持基盤とするベドウィーンである。1870年代にはオスマン帝国と同盟し、補助金や武器の供給を受け、1884年には半島中心部のカスィーム地区を支配下に収めていた。ナジドの諸部族は、当時兄弟同士の内輪もめを続けていたサウード家に愛想を尽かし、日の出の勢いだったラシード家に傾いていた。その結果、サウード家は衰退したのであるが、その後、クウェートの有力部族サバーハ家がサウード家の一族を保護支援した。サウード家はここで一息つくことができた。

20世紀に入り、ラシード家がオスマン帝国とドイツと関係を強化し、クウェートへ食指を動かす。一方で、イギリスはクウェートとともにサウジアラビアへ勢力を拡大しようとする。サウード家のアブドゥルアジーズはこの時21歳であり、クウェートで保護されていた。そして、1902年1月15日にリヤド城を奇襲し攻略した。その後、アラビア全土を支配下に収める戦闘を続け、1924年にヒジャーズ地方を攻め、メッカを抑え、続いてジェッダとメディナも支配下に入れた。アブドゥルアジーズがヒジャーズ地方を制圧できたのはワッハーブ派の協力によるところが大きかった。つまり、ワッハーブ派とサウード家はお互いに協力し合って勢力を拡大することができたのである。

サウジアラビアはワッハーブ派の国である。我々の世界での政教分離などという考え方は通用しないのである。

 

アフガニスタンのタリバンについて

アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。

「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。

「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。

次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。

  • 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
  • 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
  • 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
  • 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
  • 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
  • 1973年ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
  • 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
  • 1979年ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。

アフガニスタン内戦

1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻

1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。

代表的な反政府組織:

ラッバーニ率いるタジク人主体の                                   イスラム協会

ドスタム率いるウズベク人主体の                                  イスラム民族運動

ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の          イスラム党

ハザラ人主体のシーア派勢力                                        イスラム統一党

これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定

1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。

長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。

ペルシャ語講座32:名詞の複数形

前にも触れたことがありますが、名詞の複数形について再度まとめてみます。
名詞の単数形語尾に ها ha を付けるのが基本です。鉛筆なら مداد  مدادها となります。簡単ですね。英語の複数形でsを付けるのと同様です。

もし、名詞の示すものが人間の場合、単数形語尾に ان an を付けることもあります。例えば、婦人=zan زن の場合に、zanan زنان となります。先ほどのように ha を付けても間違いではありません。
単数名詞の最後の文字がアレフの場合、an の前に yをいれて yan となります。

例えば、乞食 gada گدا は gadayan گدایان となります。
同じように最後の文字が u و の場合も yan を付けることになります。例えば、誠実な人=rastgu رستگو —- رستگویان rastguyan となります。
名詞の最後が h ه で終わる場合、an の前にg が付くこともあります。例えば、子供=bacche بچه  は bacchegan بچهگان となります。これもバッチェのあとに続けて書かずにバッチェ・ハーという人もいますし、例えば窓はパンジャレhと最後がhで終わりますが、普通はパンジャレハーというでしょう。

一応の基本的なルールがあるけど、例外もあるわけです。でもその例外も基本形を使う限りにおいては許容されるという感じですね。完全に形を変える複数形もありますが、それらはまた改めて紹介しましょう。

イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

イスラムの美 ①:タイル

2021年も早や9月になりましたね。コロナは一向に静まる気配がありません。本来ならば行楽の秋、芸術の秋ということで何処も賑わいを増す季節になるのでしょうが、今年はそうもいかないようです。せめて、ここではイスラムの美を楽しむことにしましょう。今回はタイルです。イスラム世界を旅するとモスクの美しさに強烈な印象を覚えるのではないでしょうか。勿論絢爛豪華なモスクばかりではありませんが、豪華でないモスクでもそれなりの美しさを感じるような気がします。

モスクを美しいと感じるとき、それは色彩からかもしれません。あるいは花や唐草をあしらった模様、いわゆるアラベスク模様かもしれません。私たちのアラビア書道の仲間には、モスクを見た時の文字の美しさに魅せられてアラビア書道を始めたという方が大勢おられます。色彩であれ、模様であれ、文字であれ、それらはモスクの外壁を覆っているタイルの美しさなのです。今回はヴィクトリア・アンド・アルバート美術館発行の「Palace and Mosque – Islamic art from the Victoria and Albert Museum 」の中のタイルを紹介させていただきます。つまり、これらはこの美術館に所蔵されているものです。

メッカ・カーバ神殿図解のタイルである。トルコ、おそらくイズニクでの17世紀の作であろう。縦が61センチ。

押型ラスター彩青釉文字唐草文小型ミフラーブ。イランおそらくカーシャーン、14世紀初期。高さ62センチ。

ラスター彩草花文十字・星形タイル。イランおそらくカーシャーン。1261ー62年の年代銘記。

ラスター彩釉文字文方形タイル。イランおそらくカーシャーン。1307ー08年頃。高さ35.8センチ。

白地多彩花文組タイル。トルコおそらくイズニク。17世紀。高さ188.6センチ。

白地多彩野宴図組タイル。イラン、エスファハーン。17世紀。幅221.5センチ。

白地多彩文字タイル。トルコ。1727年。主調となるのは書道文字装飾で、神の名、預言者ムハンマド、さらにアブー・バクル、ウマル、ウスマーン及びアリーの最初の歴代カリフ4名の名が様式化されてあしらわれている。この組み合わせはシーア派がアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの正統性を拒絶していることから、スンナ派イスラムへの帰依を表す。高さ29センチ。

押型ラスター彩青釉タイル。バフラーム・グール図。イラン、タフト・イ・スレイマーン。13世紀末。高さ31.5センチ。

白地多彩チンターマニ(変形宝珠)文タイル貼暖炉。トルコおそらくイスタンブル。1731年。高さ365センチ。

それぞれの画像には詳しい説明もあるのですが、ここではこれらのタイルの美しさを楽しんでいただければと思います。

日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(2)

前回は日本書紀の中にトカラ人が日本にやってきた記述の一部を紹介した。そして、その一行の中に舎衛という女性がいたが、舎衛とはどういう意味なのかという点で学者間に議論があって、どうやらそれは地名であるということになっている。ひとつはネパールの地名であるとし、ひとつはトカーレスターンの地名であると。そしてまた、トカラ人の名前に「乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)」というのがあった。波斯というのはペルシャの意味なので、トカラというのはペルシャのことなのだろうかも思うわけである。今回はその先に進めて行こう。

トカラを表記するのに私はここまでカタカナで記したが、書記には勿論感じで記されている。吐火羅、覩貨邏、覩カ羅(この部分のカは入力できなかったのでカタカナにした。貝の右に化の文字。つまりは貨と配置が異なった文字)などと表記されているのであるが、いずれも同じ地域をさすもので、伝統的にはトカーレスターン(トハーレスターン)とされてきたそうである。これはアフガニスタン北部から隣接する当時のソ連領域の一帯を汎称するもので、クンドゥズ、パルク(バルフ)、サマルカンド、ボカーラー(ボハーラー)などの都市を擁する地域である。サマルカンドやボハーラーというと現在はウズベキスタンの都市である。ところが、井上光貞博士や竹内理三博士によってトカラを東南アジアに求める説も提唱されたとある。それによるとトカラとは驃国のことで、ピュー族がビルマのイラワジ川の中流域に建設したもので、首都はプロムであるという。彼らは突羅成と自称し『新唐書』によれば、およそ18の属国があって、その中に舎衛が含まれているという。中央アジアではなくてもっと日本に近い東南アジアのほうが来日の可能性がより高いと思うが、それに対して実際にトカーレスターンのバルフから長安にやってきた宣教師などの事例を挙げて論争があったようである。

さて、先を急ごう、ペルシャ文化渡来考の著者、伊藤義教先生の説に移ろう。結論を先にいうと舎衛は地名ではないというのである。舎衛の女というのはトカラ人とは異なる舎衛人の女ではなく、同じトカラ人であるという。理由は一緒に行動していたことや、書記の記述をすなおに読めばそうなるという。そして、難題であるとする舎衛という意味を読み解くのである。以下、伊藤先生の説である。

舎衛は中世ペルシャ語シャーフ(shah) で王の対音とみるほかはない。従って舎衛女とは「舎衛の娘」として「王の娘・王女」以外のなにものでもない。ここまで詰めてくれば、書紀のトカラは、伝統に従って、トカーレスターンに同定するほかはない。トカラ人の漂着者たちの中に王女が一人いたことになり、それゆえに大和朝廷に迎え入れられた理由なのである。

7世紀にトカラ人が日本に漂着した。その中の一人が王女であって、大和朝廷に迎えられていた。トカラとはトカーレスターンであり、その地は今のウズベキスタン辺りである。ブハーラーやサマルカンドはかつてはペルシャ帝国に組み入れられたこともある地域である。つまり、日本書紀に登場する渡来人の招待はペルシャの王女とたちであったというわけである。とここまでくると、私の想像が駆け巡る。王女となるとペルシャの王女。となると、それはササン朝の王女であろう。ササン朝はイスラムによって滅びたわけであるが、その王朝の一部がシルクロードを経て長安へ、さらに日本へ来たということも可能性はあろう。そうなると、話はさらに続いていかねばなるまい。その話のネタは次の画像の書に託したい。

 

日本書紀に見るゾロアスター教徒の来日(1)

正倉院の宝物には西域から伝来したものが沢山あることは皆さん承知のことでしょう。シルクロードを通じて西域の文化が中国を経由して日本に伝わってきています。中でも、ササン朝ペルシャの洗練された器物が有名です。でも、ササン朝ペルシャの時代よりももっと前の時代に西域の人々が渡来してきていることが、日本書紀には記録されているのです。今回はそのような渡来人について述べて見たいと思います。タイトルを「日本書紀にみるゾロアスター教徒の来日」としたのですが、正確にはゾロアスター教徒ではなく、ペルシャ人と言った方が良いかもしれません。

654年4月「トカラ国の男二人、女二人、舎衛の女一人が嵐に遭って日向に漂着した」
657年7月3日「トカラ国の男二人、女四人が筑紫に漂泊し、わたしどもは、はじめ奄美島に漂泊しましたと言った。そこで早馬をもって大和に迎え入れた。
657年7月15日「作須彌山像於飛鳥寺西。且設盂蘭盆会、暮饗覩貨邏人。」「すみ山の像を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭盆会を営み、夕方にトカラ人を饗応した。」
660年3月10日「トカラ人が妻なる舎衛婦人といっしょに朝廷に伺候した」
660年7月16日「また、トカラ人乾豆波斯達阿(けんづはしだちあ)が本国に帰りたくて、送使を出してほしいと願い出て、『のちにまた大和朝廷にお仕えした。そこで、妻を残してそのしるしにします』と言った。そして彼は送使数十人(とをあまりのひと)といっしょに、西海に向けて旅立った。」

ここまでを整理してみよう。5つの日時での記述がなされている。最初の654年は孝徳天皇の御世(御代)であり、後の四つは斉明天皇の時代である。トカラ人の男二人と女二人、それに舎衛の女一人が九州に漂着したという記録である。舎衛の女というのが、トカラ人ではなくて舎衛人の女という意味なのか、トカラ人ではあるが、何らかの意味をもつ舎衛の女かはこの時点では分からない。漂着したところが、日向なのか筑紫なのか、奄美島なのか私には分からないが、その後、大和朝廷に迎えられたということのようだ。その後、乾豆波斯達阿が帰国したいと申し出て、妻の舎衛を残して旅立ったとある。達阿というのは名前らしい。またその前の波斯はハシと読むがペルシャの意味である。とすると、トカラ人というのはペルシャ人のことなのだろうか?

私自身は日本書紀を所有していないし、していても読むことはできないだろう。そこでここまで述べてきたことは上の画像の文庫本を参考にして書いている。というか、読みながら書いている。というのは読んでいるだけではすんなりと頭に入ってこないのである。数ページ読んでみて、その部分を整理して、ここに書いてみて、ああそういうことなんだなと理解しているのだ。私が持っている知識を披露しているのではなく、私自身が理解するために書いているのである、皆さんはそれに付き合って下さっているという状況です。さて時代は天武天皇の御世になる。

676年1月1日「大学寮諸学生陰陽寮外薬寮及舎衛女堕羅女百済王善光新羅仕丁等捧薬及珍異等物進」⇒「大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮や舎衛女・堕羅女・百済王善光・新羅の仕丁たちが薬や珍異等物(めずらしきものども)を奉献した」
つまり新年元旦に天皇に珍しいものを献上したという記録である。注目するのは、ここにも舎衛女が出てきているのである。伊藤義教先生によると、殆どの学者が舎衛国の女としているそうである。舎衛国あるいは舎衛城は梵語名をシュラーヴァスティー(在ネパール)であり、北コーサラ国の首都で、その郊外には有名な祇園精舎があったという。このシュラーヴァスティー説に異を唱えたのは僅か一人だけ井本英一先生であるそうな。井本先生というのは私が大学で4年間教えを受けた主任教授である。つまりゼミ担任である。私たちはそんなことは何も知らずに教えを受けていたのであるが。
それでは井本先生が唱えた説は「舎衛はトカーレスターンの地名Shaweghar または Sawe 」と同定されたそうである。伊藤義教先生はまた異なる説をお持ちのようである。この伊藤先生にも私は学生時代に講義を受けたのであった。そのころ先生は京都大学の教授であったが、非常勤講師として私たちに「古代文字の解読」の講義をされた。この場合の古代文字とは楔型文字つまり古代ペルシャ語の楔型文字のことである。我々にとっては現代ペルシャ語自体も初心者であるのに、そのようなものが理解できるはずはなかった。その先生が語られたダレイオス碑文を60歳代半ばにしてビストゥーンで直にお目にかかるとは、当時は想像だにしなかった。

新たにトカーレスターンとは何処なのかという興味も湧いてきた。何か謎解きのようになってきた。ここまで書いてきた行数はそれほど多くはないが、読んでは整理しながら書くもんだから、結構時間がかかった。久しぶりに快晴となり外は猛暑が再来した。少々疲れたので今日はここまでにして、続きは後日としよう。