世界史学習:古代オリエント

世界史学習の今回は古代オリエントです。

作業1の答:肥沃な三日月地帯
作業2の A=小アジア B=メソポタミア C=パレスチナ
作業3の答:ハットゥシャ(ボアズキョイ)

都市名 A=メンフィス B=アマルナ(アケトアテン) C=テーベ
問題の答:ヒクソス

ABの都市名:A=エルサレム B=バビロン
事件の名称:バビロン捕囚

A=アケメネス朝ペルシア B=ギリシアの勢力圏 C=フェニキアの勢力圏

いかがでしたか?
少しあやふやな点があったかもしれませんね。それではまた次回に。

 

オリエント世界の風土

前回の世界史学習の答を記入しておきましたので、確認してください。ネタ本となっているタペストリーの該当部分をちょっと取り上げておきましょう。

四角い枠の中の文字が小さいので、以下に書いておきましょう。
「エジプトはナイルの賜物」
ヘロドトスはエジプトの豊かさを、定期的に氾濫を繰り返して沃土をもたらすナイル川のめぐみとしてこうよんだ。

「塩害に悩む」
この地域では早くから灌漑農業が行われ、穀物の収量も増えた。一方で、灌漑用水に含まれる塩基物によって、土壌中の塩分も増加していった。そのため流域は最古の農業地帯でありながら、徐々に農業は衰退していったと考えられる。また水量が豊かで、ときに大洪水を引き起こした。

「肥沃な三日月地帯」
9000年前、人類が最初に農耕を始めた地域の一つ。平原と高原の境にあたる、森林の多様な植物と開墾しやすい平原が出会う地。

「ギルガメッシュ叙事詩」
古代メソポタミアの英雄でウルクの王とされているギルガメッシュの伝説的叙事詩。「旧約聖書」の「ノアの箱舟」の原型だとされる洪水説話が記載されている。

「ベヒストゥーン碑文」
ラガシュ周辺の「王の道」に面した岩壁に刻まれた碑文。ダレイオス1世の業績が彫られている。

「遊牧民の地」
アラブとは遊牧民を意味し、アラビアとは彼らが住んでいる地、すなわち砂漠を意味する。半島中央には246万㎢(日本の約6.5倍)の砂漠がある。

最後の項目の中の「アラブ」についての説明の部分は少し違和感があります。アラブとはアラビア語を母語とする人々の集団と言った方がいいでしょう。

更にユーフラテス川について次のような図と説明があります。

こちらは、このままでも読めますね。
先日紹介したナツメヤシ(デーツ)がメソポタミア原産であり、年二回の収穫ができ、食料として以外の用途にも幅広く利用されてきたことが紹介されています。
さらに、メソポタミア文明を支えたのは粘土とアシであると説明しています。
粘土と葦というのが興味深いです。私はアシがペンに使われたことはよく知っていました。一見ひ弱いと思う葦が船材、建築材に使われたのですね。葦のペンのことですが、実は私はそれを沢山持っているのです。

アラビア書道を始めた時に、買い求めたのです。アラブでは葦ペンを使って文字を書いていたのですから、アラビア書道も葦ペンを使うわけです。しかしながら、葦ペンは弱いです。葦にも色々あるでしょうから、固めのものを使うでしょう。でも、日本なら竹があるので、いま私たちは竹を利用しています。中東の人たちも今は竹を手に入れることができるので竹を利用することが多いと思います。話がアラビア書道のペンにまで及びました。それではまた。

 

世界史学習:オリエント世界 / 地中海世界

さて、このブログも始めてから随分経過しました。気の向くままに少々まとまりもなく続いてきた感があります。今日からはしばらく原点に帰って、世界史の復習をしていこうと思います。帝国書院発行の『世界史図説・タペストリー』の付録白地図作成帳の中から中東・イスラムに関連する部分を利用させていただきます。

オリジナルのサイズでは小さくて見えにくいので以下に拡大してみました。
番号の部分の名称を表に書き込む形になっています。答えは後日記入しますので、確認してみてください。

二日ほど経ちましたので答を記入しました。
簡単でしたね。しいて言えば、ティグリス川とユーフラテス川がどちらかなという点かもしれません。そんなときは、上がティグリス、下がユーフラテスと覚えれば忘れません。

❶ ドナウ川 ❷ イタリア半島 ❸ 地中海
❹ エーゲ海 ❺ 黒海 ❻ アナトリア高原
❼ ナイル川 ❽ 紅海 ❾ アラビア半島
❿ ティグリス川 ⓫ ユーフラテス川 ⓬ イラン高原

中東の食べ物?: デーツ(ナツメヤシ)

スーパーマーケットでデーツが売られているのを見つけました。懐かしくて、とっさにショッピング・バスケットに入れました。甘くて美味しいのです。最近では健康に良いということで人気があるようですね。日本ではナツメヤシとも呼ばれています。ウィキペディアではどう説明されているのかと、覗いて見ると次のように書かれていました。内容は全てが信頼できるものとは限りませんが、あくまでも参考としてのことです。

ナツメヤシは非常に古くから栽培されているため、本来の分布がどうであったかは定かではない。北アフリカか西南アジアのペルシャ湾沿岸が原産と考えられている。

耐寒性は低いものの、乾燥には比較的強い。雌雄異株。樹高は15 mから25 mで、単独で生長することもあるが、場合によっては同じ根から数本の幹が生え群生する。葉は羽状で、長い葉柄は3 mに達する。葉柄には棘が存在し、長さ30 cm、幅2 cmほどの小葉が150枚ほど付く。実生5年目くらいから実をつけ始める。樹の寿命は約100年程が普通であるものの、場合によっては樹齢200年に達することもある。

メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6千年紀にはすでにナツメヤシの栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前4千年紀に栽培されていたことを示す考古学的証拠も存在する。例えば、ウルの遺跡(紀元前4500年代−紀元前400年代)からは、ナツメヤシの種が出土している。シュメールでは農民の木とも呼ばれ、ハンムラビ法典にもナツメヤシの果樹園に関する条文がある。アッシリアの王宮建築の石材に刻まれたレリーフに、ナツメヤシの人工授粉と考えられる場面が刻まれていることはよく知られている。

ナツメヤシはギルガメシュ叙事詩やクルアーンにも頻繁に登場し、聖書の「生命の樹」のモデルはナツメヤシであると言われる。クルアーン第19章「マルヤム」には、 マルヤム(聖母マリア)がナツメヤシの木の下でイーサー(イエス)を産み落としたという記述がある。アラブ人の伝承では大天使ジブリール(ガブリエル)が楽園でアダムに「汝と同じ物質より創造されたこの木の実を食べよ」と教えたとされる。またムスリムの間では、ナツメヤシの実は預言者ムハンマドが好んだ食べ物の1つであると広く信じられている。

ということで、古くから中東地域で栽培されていたことが分かります。また、今でもデーツは中東諸国の農産物として大量に栽培されているのです。2008年に農林水産省から「GCC諸国の農業・貿易政策」という調査報告書を作成するように委託されたことがあり、一生懸命調べた想い出があります。その際にデーツが湾岸諸国の農産物の中でデーツが大きなウエィトを占めている農産であることを実感したのでした。

先ほど、デーツは健康に良いということでしたが、栄養価はどの程度なのか、今度は「上野アメ横。小島屋」のホームページの助けを借りましょう。次のように書かれています。

・ 便通を整える『食物繊維』
食物繊維には、腸内環境を整え、消化吸収を良くしたり便通を改善させる効果があります。また同時に、悪玉菌や有害物質を減らして腸内環境を整える効果もあり、生活習慣病をや感染症などの病気の予防や健康維持にも重要な成分です。
デーツには、ごぼうと比較すると1.3倍もの食物繊維が含まれており、中でも不溶性食物繊維が豊富です。不溶性食物繊維は、腸の中で水を含んで腸を刺激し、便通を整える働きがあります。また有害物質を減らすため、大腸がん予防に効果があるとして期待されています。

・ 貧血予防だけじゃない『銅』
デーツは様々なミネラルも豊富に含んでいます。ミネラルとは、体内で酵素などとして働き多様な作用に関わる重要な栄養成分で、銅はその1種です。銅は、ヘモグロビン合成や免疫細胞のエネルギー代謝に関わり、また活性酸素を除去する働きを助けます。デーツは、ドライフルーツの中でもトップレベルの銅含有量を誇っており、貧血予防や免疫力アップに嬉しい果物なのです。

・ 味覚を保つ『亜鉛』
亜鉛とは、タンパク質・DNAの合成や免疫機能の維持、味覚の維持など多くの役割を持っているミネラルです。舌にある味細胞は日々作り変えられていますが、亜鉛はこのような細胞の生まれ変わりをサポートするのに欠かせないミネラルなのです。

さらに次のような項目を挙げて、デーツの良さを説明しています。
以下は見出しだけにしておきます。興味ある方は「小島屋」のホームページを直接ご覧ください。

・ 縁の下の力持ち『マグネシウム』
・ 抗酸化力を持つ『βカロテン』
・ 二日酔いに効く!『ナイアシン』
・ 多機能ビタミン『パントテン酸』
・ デーツの健康&美容効果4つ
・ ①貧血の予防に
・ ②酸化を防いでアンチエイジング
・ ③ストレス対策にも
・ ④ダイエット効果も注目!カロリーは控えめ?!
・ デーツの健康・美容効果を高める食べ方

本当に体に良い食品であることが分かりました。栄養機能食品などの通販カタログにもデーツは出ています。しかし、結構いい値段しているように思います。この度買ったものは300円で小さな袋ですので、買いやすい値段でした。チュニジア産で種を抜いていたので食べやすく美味しかったです。以前、東京ジャーミー(モスク)に行ったときに、売店で一箱一杯入ったものが500円で買った覚えがあります。イスラムでは断食の日の日没後や断食明けの際に一番最初に口にするのがデーツです。中東・イスラム社会では必需品なのであります。皆様も是非とも食して見てください。日本の干し柿にちょっと近い感じがしますが、どうでしょうか?

書籍紹介:アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国

前回の記事投稿が、10月9日でした。アラビア書道展が川崎で開かれたので、そちらを訪れたついでに子供たちの家に行って1週間ほど滞在してきました。子供たちというより、目的は久しぶりの孫二人と会いたかったわけです。コロナのせいで2年近く会ってませんでした。といっても、昼間は孫たちは学校や保育園に行ってるわけですから、私は暇なわけです。今回はパソコンを持参しなかったので、暇つぶしのために見つけたのがタイトルの新書版です。

 

中公新書、阿部拓児著『アケメネス朝ペルシア・史上初の世界帝国』880円+税です。書店で偶然発見したのですが、発行は今年の9月ですから新刊です。とっさに思ったことはアケメネス朝ペルシアだけで一冊の本を一般人向けに出版することができるんだ!ということです。失礼かもしれませんが「へえ、こんな本でも売れるのかなあ?」という思いでした。アケメネス朝ペルシャは当然世界史で学ぶところでありますし、キュロス大王やダレイオス大王とペルセポリスの遺跡、そしてこの帝国がアレクサンドロス大王に滅ぼされたことなどで興味・関心もある人は多いでしょう。でも、その中間の部分つまり、ダレイオス大王の最盛期から末期に至る間のことはあまり関心がない人が多いと思っているのです。正直、自分もそうでした。そのような偏見に満ちた私感はここまでにしましょう。ペルシアに興味のある人は是非とも読んでいただきたい本だと思います。

まず、最初に伝えたいことはダレイオス大王がアケメネス朝の初代の王かもしれないということです。普通は初代がキュロス大王で二代目が息子のカンビュセス、そして3代目にするか4代目かと紛らわしいダレイオス大王となるのですが、キュロス大王の国とダレイオス大王の国は分ける考え方もできると諸説を紹介しています。私もこの説は以前から知っています。青木健氏はその著書の中で、キュロス大王から3代目までをチシュピシュ朝としています。今、世の中にでている歴史書の中の系図で、アケメネス朝は以下の図になっています。

確かにダレイオス1世(ダレイオス大王)はキュロスの直系ではありません。しかし遡れば繋がるということになるわけです。しかし真実はそうではなくて、ダレイオス大王が自らが王位についた正統性を主張するために作り上げた可能性があるというのです。それに関することがらがいくつか示されるのが大変興味深い。

カンビュセスが死んでダレイオス大王の時代になるわけであるが、カンビュセスの死とそこにまつわるストーリーもいくつかのシナリオが示されておりこれまた興味深いものであります。普通は、カンビュセスが実の弟を殺害し、秘密にしていた。しかし、それを知った弟に瓜二つのそっくりさんが、カンビュセスのエジプト遠征中に弟になりすまし王位就任を宣言する。慌てて引き返すカンビュセスが馬から落ちて死ぬとかなのでありますが、このあたりのストーリーも諸説があり、面白い。

とにかく、大昔の歴史であり、その当時を伝えるのがヘロドトスの『歴史』やクテシアスの『ペルシア史』しかないのである。あと有力なものとしてはベヒストゥーン碑文であり、私も地上100m、断崖絶壁に登りこの碑文を目の前にして感動したのですが、この碑文はダレイオス大王が造った、造らせたものであるから、自分に都合の良いように記している可能性は皆無ではないわけです。

このようにこれまで当たり前とされていた点が、そうでなくなるという内容は中々読みごたえがあるものです。しかし、一般読者にはそこまで細かい点は必要ないと思う点もあるので、適当に取捨選択してページをめくればいいでしょう。

 

 

 

 

 

2021年度アラビア書道展が始まります。

今年も作品展の季節になりましたので、作品を発送しました。会期は12日から17日6日間です。上の画像が私の作品です。3年連続してオマル・ハイヤームのルバイヤートの中から選んだ一つです。右側にナスタアリーク書体(ペルシャ書体)です。右面のサイズはA3です。左側にもA3サイズに詩の和訳と挿絵を入れていますが、額の幅に合わせて少し重ね合わせています。約3カ月間、何枚も書きましたが、最後まで満足できる出来ではありませんでした。س や  ن  の丸い部分の形が奇麗に書けないのです。また、長く伸ばして書く部分の曲がり具合が流麗に書けなかったりするのです。こちらが良ければ、あちらがダメとかになるのです。結局すべての部分がいいと思うようには書けない。これが今の自分の実力なのでしょう。

昨年もそうでしたが、今年の作品展もアラビア書道だけではなく、ペルシア書道、モンゴル書道、ハングル書道とのコラボ作品展なのです。多種多様な作品が展示されますので、お近くの方は是非とも御覧ください。そして11月にはアラビア書道単独での作品展が京都で開催されます。
こちらは2年ぶりの開催となります。私は出品を予定しておりませんが、もしかして、新しい作品が書き上げられるなら、出品するかもしれません。こちらの方の案内状も以下に紹介しておきます。

 

ペルシャ語講座33:有用?な単語・・چشم chashm/cheshm 目/眼

いろいろな色の目のイラスト(黒)

今回はペルシャ語講座ですが、一つの単語を紹介しましょう。それはタイトルのチャシュム、チェシュムです。目という意味です。辞書を引くと名詞・①目、眼 ②邪視、凶視 とあります。その次に間投詞として「喜んで」「承知しました」と記されています。私が紹介したかったのは、この部分です。わざわざ紹介しなくとも、現地へ行ったならば直ぐに分かることなのですが、最初は「へえ!」と思ったものです。でも便利な言葉です。例えば、使用人に「どこどこに行って、何々を買ってきてください」と言うと、彼は軽く手のひらを胸に当てて「チャッシュ!」と言うのです。私は「かしこまりました」という意味だと解釈しました。そして、私には「チャッシュ」と聞こえましたので、それが目の意味の「チャシュム」だとは、しばらくの間、気が付きませんでした。目の意味だと気づいたときに、「言葉って面白いなあ」と感じたものでした。

いろいろな色の目のイラスト(黒)

ついでにチャシュムを使った表現を辞書からピックアップしておきましょう。
چشم شما روشن  chashme shoma roushan おめでとう!

چشم و چراغ chashm va cheraq 最愛の人
چشمانداز chashm andaaz 展望、見通し、
چشمبند cheshm-band 手品師、奇術師
چشم پوشی cheshm-pushi 黙認、見逃し
چشمچرانی cheshm-charan 色目を使う
چشم روشنی cheshm-roushani 贈り物、お祝いの贈り物
چشمگیر cheshm-gir 目立った、顕著な

サウジアラビアとワッハーブ派

前回はタリバンを取り上げた.。タリバンは厳格なイスラムなどと評されるわけであるが、前回述べたように、私は決して正統派の厳格なイスラムであるとは思わない。本来のイスラム精神を厳格に守るという意味ならば、代表的なのはサウジアラビアであろう。今回はサウジアラビアのイスラム=ワッハーブ派について少しだけ紹介する。

サウジアラビアではイスラム・ワッハーブ派が国教である。ワッハーブ派とはどういうものか、東京堂出版・黒田壽郎編『イスラーム辞典』では以下のように説明している。

アブド・ル・ワッハーブ(1703~87)が18世紀なかばに創始した。『クルアーン』とスンナに帰れとする純粋主義の運動。極端に復古主義的なかたちでイスラームの純化を主張するスンニー派ムスリムの運動で、彼らは自らをムワッヒドゥーン(一神教徒)と称する。法学上はハンバリー派に属し、この派の神学者イブン・タイミーヤの思想の影響を強く受けた。ヒジュラ暦三世紀以降にもち込まれた一切のビドア(新風・新説)を排除し、正統四法学派の権威と、正統六ハディースのみを認める。スーフィズムを厳しく糾弾し、聖者崇拝や聖者廟詣でを禁じた。信徒には徹底したピューリタン的生活態度が要求される。18世紀後半この運動は、ナジュドのイブン・サウード家の勢力と結びつきアラビア半島に拡大した。ワッハーブの死後、サウード家の長が教主の地位を継承し、政教両権の保持者となる。

サウード家の正確な出自はよく分かっていないが、15世紀頃サウジアラビア東部のオアシスからリヤドの北ワディ・ハニーファのダルイーヤに移り定住したという。1720年より少し前にサウード・イブン・ムハンマド・イブン・ムグリンの記録がある。その息子のサウード・イブン・ムハンマドが通常サウード家の始祖とされている。といってもそれはアラビア半島に数多くいた部族の一人の長であったにすぎない。それが、のちにサウジアラビアを統一するほどの権力者になることができたのは、ワッハーブとの同盟であったのだ。

アラビア半島に数多くの部族があった中で、有力だったのがラシード家であった。文芸新書・岡倉徹志著『サウジアラビア現代史』によれば、ラシード家というのは、リヤドの北西シャンマル山地のシャンマル諸支族を支持基盤とするベドウィーンである。1870年代にはオスマン帝国と同盟し、補助金や武器の供給を受け、1884年には半島中心部のカスィーム地区を支配下に収めていた。ナジドの諸部族は、当時兄弟同士の内輪もめを続けていたサウード家に愛想を尽かし、日の出の勢いだったラシード家に傾いていた。その結果、サウード家は衰退したのであるが、その後、クウェートの有力部族サバーハ家がサウード家の一族を保護支援した。サウード家はここで一息つくことができた。

20世紀に入り、ラシード家がオスマン帝国とドイツと関係を強化し、クウェートへ食指を動かす。一方で、イギリスはクウェートとともにサウジアラビアへ勢力を拡大しようとする。サウード家のアブドゥルアジーズはこの時21歳であり、クウェートで保護されていた。そして、1902年1月15日にリヤド城を奇襲し攻略した。その後、アラビア全土を支配下に収める戦闘を続け、1924年にヒジャーズ地方を攻め、メッカを抑え、続いてジェッダとメディナも支配下に入れた。アブドゥルアジーズがヒジャーズ地方を制圧できたのはワッハーブ派の協力によるところが大きかった。つまり、ワッハーブ派とサウード家はお互いに協力し合って勢力を拡大することができたのである。

サウジアラビアはワッハーブ派の国である。我々の世界での政教分離などという考え方は通用しないのである。

 

アフガニスタンのタリバンについて

アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。

「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。

「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。

次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。

  • 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
  • 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
  • 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
  • 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
  • 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
  • 1973年ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
  • 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
  • 1979年ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。

アフガニスタン内戦

1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻

1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。

代表的な反政府組織:

ラッバーニ率いるタジク人主体の                                   イスラム協会

ドスタム率いるウズベク人主体の                                  イスラム民族運動

ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の          イスラム党

ハザラ人主体のシーア派勢力                                        イスラム統一党

これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定

1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。

長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。

ペルシャ語講座32:名詞の複数形

前にも触れたことがありますが、名詞の複数形について再度まとめてみます。
名詞の単数形語尾に ها ha を付けるのが基本です。鉛筆なら مداد  مدادها となります。簡単ですね。英語の複数形でsを付けるのと同様です。

もし、名詞の示すものが人間の場合、単数形語尾に ان an を付けることもあります。例えば、婦人=zan زن の場合に、zanan زنان となります。先ほどのように ha を付けても間違いではありません。
単数名詞の最後の文字がアレフの場合、an の前に yをいれて yan となります。

例えば、乞食 gada گدا は gadayan گدایان となります。
同じように最後の文字が u و の場合も yan を付けることになります。例えば、誠実な人=rastgu رستگو —- رستگویان rastguyan となります。
名詞の最後が h ه で終わる場合、an の前にg が付くこともあります。例えば、子供=bacche بچه  は bacchegan بچهگان となります。これもバッチェのあとに続けて書かずにバッチェ・ハーという人もいますし、例えば窓はパンジャレhと最後がhで終わりますが、普通はパンジャレハーというでしょう。

一応の基本的なルールがあるけど、例外もあるわけです。でもその例外も基本形を使う限りにおいては許容されるという感じですね。完全に形を変える複数形もありますが、それらはまた改めて紹介しましょう。