中東の石油(5):石油の発見(ペルシャ湾岸諸国)

イランで、そしてイラクで石油が発見された。そうなると次はどこかということになる。アラビア半島やペルシャ湾岸諸国であろう。イラク地方で石油利権をめぐる激しい駆け引きが1920年代におこなわれていた当時、アラビア半島に対する関心は低かった。サウジアラビアについていえば、1923年にアングロ・ペルシャ石油会社のジェネラル・マネージャーが送った書簡には「サウジアラビアで石油は発見されそうにない。それは地表に全く油徴がないからである。ほとんど調査されていないとはいえ、地質的な構造からも特に有望とは思えない」と書かれていたそうである。

一方、ニュージーランドのフランク・ホームズ少佐は第一次大戦終了後も帰国せず、石油を求めて中東に滞在していた。そして、彼は1924年にイギリスの保護区であったバーレーンの首長から一鉱区の利権を得た。ホームズはこの利権を1927年11月にガルフ社に5万ドルで売却した。この時、ガルフは赤線協定のメンバーになっていたので、赤線協定の対象地域内にあるバーレーンの石油開発については他のメンバーに諮る必要があった。しかしながら、アングロ・ペルシャ石油がバーレーンでの石油の存在を強く否定したために、ガルフはその利権を協定に参加していなかったソーカル社(スタンダード石油カリフォルニア)に売却したのであった。そして、そのソーカルが1931年に石油を掘りあてたのである。この発見はサウジアラビアへの注目を引くことになる。イラク石油会社内部にもサウジアラビアの利権獲得の動きはあったが、結局、バーレーンで成功したソーカルがイブン・サウド国王から利権を得ることに成功した。

利権を得たものの、ソーカルは資金不足を解消するために、赤線協定には参加していないテキサコに提携を持ちかけた。テキサコはスペインの市場を開拓しており、ソーカルにとっては新しい販路としての市場も魅力的であった。1938年3月にサウジアラビアのダンマンの油田で石油を発見した。そして、石油会社アラムコ(ARAMCO)が設立された。

ガルフがホームズ少佐からバーレーンの利権を得た時に、実はそれにはクウェートの利権も含まれていたのである。バーレーンの利権はソーカルに売却したが、クウェートは赤線協定の区画外であったため、ガルフはその利権を保持していた。クウェートはイギリスの保護下にあった経緯から、クウェートの首長は英国との間で「英政府の同意なしには、誰にも石油利権を与えない」という約束をしていた。ガルフと英国籍のアングロ・ペルシャ石油との間でこの利権をめぐって争いが激化し、首長は両者の駆け引きを利用して好条件を引き出していった。1934年12月23日に両社は首長との間で協定を締結するに至った。クウェート石油会社(KOC)が設立されて、ガルフとアングロ・ペルシャ石油が半分ずつ出資した。双方の和解の裏には一つのテクニックが必要であった。ガルフがカナダに子会社を作って、そこが当事者という形をとったのだ。カナダは英連邦の一員であるからという大義名分ができたというのである。石油は1938年に発見された。

バーレーン
ソーカル社 100%
クウェート
アングロ・ペルシャ石油 50%
ガルフ 50%
サウジアラビア
ガルフ 50%
テキサコ 50%

これで、イラン、イラク、バーレーン、クウェート、サウジアラビアで石油が発見されたことになる。そして、それらの油田は英、蘭、仏、米という大国の石油会社に所有されたわけである。その後、中東諸国ではナショナリズムが台頭する。石油資源を自国の資源に取り戻そうとする動きがでてくる。次回以後は石油資源の国有化への道のりを辿ることにしよう。

中東の石油(4):石油の発見(イラク・旧オスマン帝国領)

イギリスがペルシャ(イラン)の石油を手に入れた。次はドイツである。ドイツはオスマン帝国(トルコ)への進出を狙っていた。トルコでの石油開発のために「トルコ石油」が設立された。この会社の設立に参加したのは次の3社(3国)であった。

会社 出資比率
 イギリス アングロ・ペルシャ石油 50%
 ドイツ ドイツ銀行 25%
 オランダ ロイヤル・ダッチ・シェル石油 25%

ところが第一世界大戦が始まり、ドイツは敗北した。オスマン帝国もドイツ側についたが1918年に降伏した。従って、「トルコ石油会社」の出資者の構成は次のように変化していった。
先ず、ドイツの持ち分がフランスに譲渡された。その後、1922年にはアメリカ企業連合がアングロ・ペルシャ石油から25%を譲り受けた。つまり、英仏蘭米が各々25%を所有したのである。そして、各社が1.25%をグルベンキアンに譲渡して、最終的には以下の通りとなった。

会社 出資比率
 イギリス アングロ・ペルシャ石油 23.75%
 フランス フランス石油 23.75%
 オランダ ロイヤル・ダッチ・シェル石油 23.75%
 アメリカ アメリカ企業連合 23.75%
 個人 グルベンキアン 5%

グルベンキアンというのはトルコのアルメニアに生まれた男である。オスマン帝国のスルタンは石油開発の利権をあちこちに切り売りしていたために、トルコ石油を設立するときにフィクサー的な役割を果した男であり、今回も調整に貢献したのであった。そして、この会社は「トルコ石油会社」から「イラク石油会社」となったのである。イラク石油が石油を発見したのは1927年であった。ここに出てきたアメリカ企業連合というのはエクソンとモービルであった。両者が持ち株を1/2ずつ分け合った。このイラク石油会社という舞台に世界の主要石油会社が結集したことになった。イラク地方は石油埋蔵量が大いに期待できるところであったので、イラク石油のメンバーは、今後の石油開発に遅れをとることのないようにお互いが牽制する必要があった。そこで1928年7月に生まれたのが「赤線協定」であった。彼らは地図上で旧オスマン帝国領土の国境線を赤く引き、その赤線の中では抜け駆けすることは許されず、全員で分け前を享受するということを約束した。この協定が、その後の中東地域における石油利権争いに大きな影響を与えることになったのである。

 

中東と石油(3):中東での石油発見(イラン)

いよいよ中東での石油発見である。中東における最初の石油発見はイランの地であった。その当時のイランはカージャール朝ペルシャであった。1901年、オーストラリアの実業家がカージャール朝政府に石油の利権を申請し、北部地方を除く全イランにおける60年間にわたる石油探査、発掘の権利を手に入れた。彼は1901年から1905年の間に20万3千のイギリスポンド相当を石油開発調査のために費やしたところで、資金的に行き詰り、調査活動を停止せざるを得ない状況に陥った。1906年にイギリスのビルマ石油とスコットランド人の投資家ロード・ストラスコナが石油シンジケートを組織して、彼を援助することとなった。その後の3年間に17万7千ポンドが投資された。しかし、この投資も使い果たしてしまうことになるが、最後の土壇場でついに石油を発見したというドラマチックな出来事であった。場所はイラン南部のペルシャ湾から約2千キロ離れたマスジェデ・スレイマン、1908年のことだった。この男とはウィリアム・ダーシーである。イランではこの利権を「ダーシー利権」と呼ぶ。これが中東における最初の石油発見であり、その翌年に資本金200万ポンドの「アングロ・ペルシャ石油会社」が設立されたのである。ペルシャで発見された石油は英国資本の会社の所有されることになったのだ。1926年には2万5千人以上のイラン人が石油産業で雇用された。第一次世界大戦が始まり、資本金が400万ポンドに増資された。その増資分の200万ポンドはイギリス政府が引き受けた。こうしてイギリス政府がこの会社の支配権を握り、イランの石油は英国海軍の燃料に利用され、重要な戦略物資となっていった。

イランの石油事業は英国の支配下に置かれた。それを国有化したのが、1951年である。そこまでの道のりをここで語りたいのであるが、まずはイランに続いてイラクやサウジアラビアなどでの石油発見の流れを続けたい。         (続く)

中東と石油(2):石油発見の歴史


前回に続いて今回のテーマも石油であるが、石油発見の歴史を辿ってみようと思う。上の画像は石油関連の書籍であるが、私の手元にあったものの一部である。一時、石油関係の論文を書いた時期もあったので、数多くの石油関連書籍を読んだ。この画像のものも古いものとなったのでほとんどは処分したわけである。中でも画像上部中央の『石油の世紀』2巻ものはダニエル・ヤーギン著作の素晴らしいものだった。手元に残しておきたかったが、欲しいという方がいたので譲り渡した。

さて、中東では古くから石油の存在が知られており、利用もされてきた。ゾロアスター教が拝火壇で火をともし続けきたその燃料も石油であったかもしれない。日本では日本書紀に「天智天皇に越の国より燃える水を献上した」という記述があるそうだ。燃える水とは石油のことである。当時は「臭い水」という意味で「くそうず」と呼ばれたなどと読んだことがある。越の国、すなわち新潟県地方では燃える水を献上する様子を再現したお祭りがあるということも聞いたことがある。しかしながら、石油が我々の生活の必需品となり、商業ベースで石油開発が始まったのはそれほど遠い昔のことではない。最初の商業ベースでの開発・発見はアメリカであった。以後、ロシア、インドネシアと続いた。

(1) アメリカ
ジョージ・ベゼルという人物が1853年にペンシルベニア州の地域住民が薬として使われている物質(これがセネカ・オイルと呼ばれる石油であった)のことを知る。彼はこの物質が燃えることを知って、薬以外の用途(例えば光源や燃料など)の利用の可能性を期待して開発をしようとしたが失敗した。
その後、エドウィン・ドレークという人物が開発に乗り出して、石油発見に成功したのである。それからオイル・ラッシュが始まったわけである。湧きだした石油を貯める方法がない。そこでウィスキーの樽がかき集められた。このことは前回のバレルの単位のところで述べたことである。・・・・・石油生産が盛んになっていき・・・・・・石油精製業をしていたロックフェラーが生産事業に進出して、一気に巨大企業に発展させていった。・・・それが、あの有名なスタンダード石油会社である。

(2) ロシア
ロシア帝国では工業化が始まったが、首都ペテルブルグでは日照時間が短いため光源としての石油の需要が高まりつつあった。1862年にアメリカから灯油が届いたという。そして、ロシアでも石油開発がスタートするのである。カスピ海沿岸のバクーでも昔から皮膚病の薬として使われており、初歩の石油産業が現れていた。バクーは19世紀初めにロシアに併合されており、ロシア政府はここで民間(個人)の石油開発を競わせた。そこに参加してきたのが、ノーベル兄弟であった。そう、あのノーベル賞のノーベルである。ダイナマイトを発明したノーベルの息子兄弟のことである。1871年~72年にかけて彼らの油井から石油がでたのであった。かれらは石油開発に成功したあと、その輸送のためにパイプラインを、またカスピ海の湖上輸送のためにタンカーを開発したとも言われている。ここでの開発競争にロスチャイルドが参入してくるというおまけもあるのであるが、とにかくロシアも石油を手に入れたということだけに留めておこう。

(3) オランダ
オランダ統治下の東インド諸島でも数百年前から石油の露出の話が伝わっていた。滲みだした油は、ここでも薬として利用されていたとのことだ。1880年、東スマトラ・タバコ会社が現地人が明るい炎の松明をもっていることから、石油の存在を信じ、石油発見に取り組んだ。そして、1885年にスマトラ島北東部で試掘に成功した。オランダ政府は石油発見の快挙を讃えた。そして、この会社はロイヤルの称号をもつ「ロイヤル・ダッチ社」となった。しかし、開発には莫大な資金が必要であった。当時、貝殻細工の製造販売から財をなしたシェル社がボルネオ島で石油開発を手掛けており、両者が合併して「ロイヤル・ダッチ・シェル社」となったのである。

(4) イギリス
アメリカ、ロシア、オランダと石油を手に入れることができた。次はイギリスである。イギリスが石油を手に入れたのはペルシャであった。これが中東地域での最初の石油発見である。1908年のことである。ここからは、次回にしよう。  (続く)

 

中東と石油(1):原油埋蔵量

今回のテーマは石油である。20世紀は「石油の世紀」とも言われた。石油が燃料としてだけではなく、加工されてありとあらゆるものに製品化されたのである。我々の日常生活にも石油は大きく貢献してきた。温暖化や環境破壊などが問題視されだしたことから、21世紀は「脱石油の時代」になるはずであったが、福島の原発事故などもあり、脱石油へのシナリオは容易ではない。「脱石炭」さへ日本では難しいのが現状である。そんな現状であるが、石油資源について考察してみることにしよう。

(1) 原油確認埋蔵量
石油いうものの大元は原油である。地下から汲み上げる。それが海底の地下深いところから汲み上げることもある。その原油を製油所で精製してガソリン、灯油などが作られる。一方でナフサが作られて、それより数多くの種類の石油化学製品が作られる。その大元である原油の埋蔵量から見ることにしよう。以下の表は2018年末時点の「原油確認埋蔵量」を地域別に示したものである。

10億バレル 可採年数
USA 50.0 2.9% 10.5
Total North America 226.1 13.3% 30.8
Venezuela 303.2 17.9% 393.6
Total S. & Cent. America 330.1 19.5% 125.9
Norway 7.9 0.5% 11.0
United Kingdom 2.3 0.1% 6.3
Total Europe 13.4 0.8% 10.4
Azerbaijan 7.0 0.4% 24.1
Kazakhstan 30.0 1.8% 44.8
Russian Federation 106.2 6.3% 25.8
Total CIS 144.9 8.5% 27.8
Iran 157.2 9.3% 86.5
Iraq 148.8 8.8% 90.2
Kuwait 101.5 6.0% 91.9
Qatar 25.2 1.5% 36.1
Saudi Arabia 266.2 15.7% 61.0
United Arab Emirates 97.8 5.8% 68.1
Total Middle East 807.7 47.6% 70.0
Algeria 12.2 0.7% 21.7
Angola 9.5 0.6% 15.6
Libya 48.4 2.9% 153.3
Nigeria 37.5 2.2% 51.6
Total Africa 126.5 7.5% 42.9
China 25.7 1.5% 18.3
Indonesia 3.2 0.2% 9.2
Total Asia Pacific 48.0 2.8% 16.7
世界全体 1696.6 100% 50.2

出所は石油メジャーのBPの「Statistical review 」である。時には、確認可採埋蔵量ということもある。現時点で地下に埋蔵されていると推定できる量のうち、現時点での採掘技術で採掘可能な埋蔵量である。現代の科学では地球内部に存在する原油量は物理学的に推定できるようである。そして、現在の科学技術で採掘できる量を示しているそうである。数十年前には深海に油断があることが分かっていても採掘する技術がなかったが、今はそれが可能である。その時点で埋蔵量は増えるのである。上表の埋蔵量の単位は「十億バレル」である。バレルとは英語で樽という意味である。1バレルは159リットルである。昔、アメリカのペンシルベニア州で石油が発見されたときに、ウィスキーの樽を利用して輸送したことから、バレルが原油量の単位になったのである。埋蔵量の後ろの列の%は全体に占める比率である。中東地域の比率は 47.6 %となっている。つまり世界全体の埋蔵量の約半分が中東地域に偏在しているということ。そして、最後の列の可採年数は、その埋蔵量を現在の年間生産量で割り算したものである。簡単に言うと、埋蔵量が100億バレルで、年間生産量が10億バレルなら10年で底をついてしまうという単純な目安である。アメリカは約10年となっている。もうずっと10年以上まえから10年程度となっている。新規に油田が発見されることもあるが、それは先に述べたように深海油田などの存在が分かっていても可採でなかった油田が可採になったりするためである。アメリカのシェール石油なども近年に埋蔵量が増えた一因でもある。埋蔵量が多く、可採年数も長いのがやはり中東地域であることも良く分かる表である。              (続く)

 

イスラム世界の偉人②:イブン・バットゥータ

今回紹介するのはイブン・バットゥータである。平凡社発行の『新イスラム事典』を要約すると以下の通りである。

1304年にモロッコで生まれたベルベル系のアラブ人旅行家である。1325年、21歳のときにメッカ巡礼の旅にでた。以後30年間世界を旅した男である。陸路エジプトを経てシリアからメッカに入ったのが1326年。その後、イラク、イラン西部、アラビア半島、イエメン、東アフリカ、アナトリア、アフガニスタン、そしてインドへ行き、1333年~42年までデリーに滞在した。その後、モルディブ諸島、セイロン、ベンガル、スマトラへ、再びペルシャ湾からシリア、エジプトへと旅し、1349年にフェスに帰った。3か月の闘病生活のあと再び旅に出て、グラナダを訪問。52~53年にはサハラ砂漠を越えてニジェール川上流地域を調査した。1353年の帰国後に旅の記録をまとめた旅行記を完成したのち、1377年に没した。

彼の旅行記は平凡社の東洋文庫から8冊で発行されているので、現代でも読むことができる。自分で買うとなると高価なので、図書館に行って、東洋文庫を探せば殆どの図書館では置いているのではなかろうか。

中公文庫BIBLIOから発行されているのが『三大陸周遊紀抄』である。抄と記載されているように、これは先述の旅行記の要約版らしい。でも、平凡社新書の『イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる』 なら、もっと手っ取り早く、彼の足跡を知ることができるだろう。

14世紀の時代に大旅行を成し遂げることを可能にしたのは、イスラムと深い関りがあるという。新イスラム事典ではそれを可能にしたのは「諸都市を結んで張りめぐらされていたムスリム知識人のネットワークによるところが大きい」と記している。また東京堂出版『イスラーム辞典』では「イスラムにおける旅行者への優遇措置と一時的ではあるが壮大なモンゴル支配下の東西交易路の保全、拡大であった。この時代にはスペイン人イブヌ・ル・ハティーブやチュニジア人のアッ・ティジャーニー等の有名な旅行家がいる」と記している。両書ともイスラム世界・イスラム社会という背景がこのような大旅行を可能にした重要なポイントであるとしている。最後にインターネットの「世界史の窓」から彼の辿った足跡を示した地図を拝借しておこう。このサイトのURLを記載しておくので、そのサイトの説明も一読していただくと良いと思う。
世界史の窓・イブン・バットゥータの旅行記

 

ペルシャ語講座13:現在進行形

今回は現在進行形について考えてみたい。考えてみたいというのは、自分でも少々あいまいな気持ちがあるからである。現在進行形は英語の場合は中学生の時に現在形を学んだあと、be動詞の後に動詞の原形にingを付けると習った。 I work が現在形で、I am working が現在進行形である。私は働く。私は働いている。例えば「私はAという会社で働いている」と久しぶりにあった友人に言う場合は、「I am working in A 」というのであろうか。いま会話をしている時点では働いている状態ではないので現在進行形はおかしいような気がする。かといって「I work in A」では「私はAで働く」だから、日本の「私はAで働いている」のニュアンスはないような気がする。英語の専門家でないから、ついついこんなことを考えてしますのである。勿論、このような場合には現在進行形を使わなくてもきちんと表現する言い方はあるであろう。

そんな余計なことを考えながら、ペルシャ語の現在形と現在進行形について考えてみた。前述の「I work 」と例として色々な時制をみてみよう。

I work —————–  کار میکنم      kar mikonam
I worked ————-  کار کردم                       kar kardam
I will work ————  خواهم کار کرد               khaham kar kard
I was working ——-  کار میکردم                   kar mikardam
I have worked —— کار کرده ام                     kar  karde am
I had worked ——-  کار کرده بودم                 kar  karde budam
I am working ——– دارم کار می کنم               daram kar kikonam

過去進行形は、過去形+mi である。が現在進行形は、現在形の前に dashtan の現在形を付けると良い。「~~しているところです」という進行形の意味合いになる。

私は本を読んでいます。 دارم کتاب می خوانم  daram ketab mi khanam
彼は手紙を書いています。 دارد نامه می نویسد  darad name mi nevisad

大学書林発行黒柳恒男著『ペルシャ語四週間』で現在進行形の項をみると、「現在進行形は原則として現在形と同じである。・・・・中略・・・ダーシュタンを助動詞として用い、現在進行形を表すことがある。」と書いてある。

上では未来形や現在完了、過去完了の例を示しているが、それらはまた次の機会に譲ることにしましょう。

イスラム世界の偉人①:イブン・シーナ

「イスラムを知る」のシリーズの一部として「イスラム世界の偉人」を何人か取り上げてみようと思う。最初はイブン・シーナである。このブログでしばしば引用させていただいている平凡社発行『新イスラム事典』から、イブン・シーナについて主要な部分を引用させていただく。

イブン・シーナ(980~1037):ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハラ近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストレレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。・・・・中略・・・・著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を・・・・中略・・・・こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。・・・中略・・・また、形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書『医学典範』は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は『治癒の書』。

事典の説明の半分以上を割愛したが、彼が学問全般に幅広く、しかも深く究めていた学者であることがわかる。私自身は高校の世界史の教科書のイスラム文化のところでイブン・シーナの名前と『医学典範』を試験のために覚えたことを忘れない。イブン・シーナというイスラム世界での名前が、西側世界に伝わる過程でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとなったということも世界史の先生は話してくれた。


画像はアマゾンで出品されているものです。14,994円である。1千年前の貴重な著書が日本語に訳されているのである。カスタマーレヴューを読むとちょっと残念なことが書かれているが、それはイブン・シーナの業績を汚すものではない。

ところで、イブン・シーナはどこの国の人なのでしょうか。ブハラに生まれたとある。数回前のハーフェズの詩を紹介したときに、「シーラーズの乙女に与えようサマルカンドをブハーラを」と出てきたあのブハーラのことである。サーマン朝の都ブハラでサーマン朝高官の息子としてうまれたそうである。サーマン朝(873年 – 999年)はイラン系のイスラム王朝である。サーマン朝が滅びたとき彼は19歳。21歳で父を亡くすと、カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始したという。その後、テヘラン、レイ、ブアイフ朝支配下のハマダンへと居を移し、『医学典範』を完成させたのは1020年ハマダンにいた時である。その後、イスファハンに移動する。

病で母を失った青年がロンドンからイスファハンに向かい、医師イブン・シーナの弟子になって医学を学ぶ物語の映画がある。上の画像はその時の広告のポスターである。このことはこのブログの「アッバース朝(つづき)」で書いたとおりである。

ルバイヤート紹介 ②

前回に続いて今回もルバイヤートとしよう。前回のように前置きはやめて早速私の好きな詩を岡田訳と小川訳で紹介していこう。

岡田恵美子訳『ルバイヤート』No.29
ああ、若い日々の書は早くも綴じ、
人生の歓喜の春も過ぎてしまった。
青春という愉悦(よろこび)の鳥は、
いつ来て、いつ飛び去ったのであろう。

小川亮作訳『ルバイヤート』No.35 では同じものがこうなる。
若き日の絵巻は早も閉じてしまった、
命の春はいつのまにか暮れてしまった。
青春という命の季節は、いつ来て
いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

 

岡田訳 No.99
ハイヤームよ、酒に酔うなら、楽しむがよい。
チューリップの美女と共にいるのなら、楽しむがよい。
この世の終わりはついには無だ。
自分は無だと思って、いま在るこの生を楽しむがよい。

小川訳 No.140
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈のものがあると思って。

 

岡田訳 No.15
来て去るだけの一生になんの益がある。
この世を織りなす縦糸と横糸の交わりはどこにある。
われわれは罪もなくこの世につながれ、
そして燃やされて灰になる、その煙はいずこ。

小川訳 No.18
来ては行くだけでなんの甲斐があろう?
この玉の緒の切れ目はいったいどこであろう?
罪もなく輪廻の輪につながれ、
身を燃やして灰となる煙はどこであろう?

 

ハイヤームの詩は私に次のように囁いているようだ:
酒を飲むなら、楽しんで飲めばいい
そこにチューリップのような美女がいれば、楽しめばいい
そんな良き日、青春はあっという間に過ぎ去ってしまうもの
いずれ煙と化す我が身、土と化す我が身なのだから

 

 

ルバイヤート紹介 ①

先般、ハーフェズの抒情詩を紹介しましたが、今回はオマル・ハイヤームのルバイヤートの中から、彼の詩を紹介します。既に、ルバイヤートについては過去にも述べたことがありますので、重複する部分があるかと思います。

オマル・ハイヤームについて:
オマル・ハイヤームは1048年に現在のイランのニシャプールの町に生まれ、1131年に没したペルシャの詩人である。ところが生前の彼は詩人として知られた存在ではなかったようだ。そのような彼を岩波文庫『ルバイヤート』の著者である小川亮作氏は、そのあとがきの中で次のように述べている。
「性来彼は学問を好み、数学、天文学、医学、歴史、哲学などの蘊蓄を極め、今日のトルクメン族の祖先がペルシアを征服して建てたセルジュク帝国(1037~1194)の新都メルヴヘスルタン・マリク・シャー(在位1072~1092)建設の天文台に八人の学者の主席として聘せられ、1074年同王の命によって、他の七名の学者とともに暦法の改正に当たり、後で述べる通りその正確さにおいて現代のグレゴリオ暦にもまさるほどの有名なジャラリー暦を制定したが、これは惜しくも採用されるにいたらなかった。」

「彼の科学的業績として今日存在を知られているものは、アラビア語による『代数学問題の解放研究』、『ユークリッドの「エレメント」の難点に関する論文』、気象学の書、恒星表、インド算法による平方および立方根の求め方の正確度を検した数学書等である。」

このように生前の彼は詩人としてよりも科学者として有名であったことがわかる。小川氏のあとがきによると、死後しばらくしてから、彼が書き残していた詩は伝えられたようであるが、今でいう大きなヒットを飛ばすことはできなかったようだ。そんな彼を詩人として世界中に知らしめたのは英国人フィッツジェラルドの翻訳がきっかけであった。彼についての詳細は省略するが、彼は1959年に250部のみの私家版として出版したのであった。最初、売れなかったこの詩集が、次第に陽の目を見るようになったらしい。

ルバイヤートの日本での翻訳本
私の手元には次の翻訳本がある。
小川亮作訳『ルバイヤート』岩波文庫、1949年第1刷発行
竹友藻風訳『ルバイヤート』㈱マール、2005年第1刷発行
岡田恵美子訳『ルバーイヤート』平凡社ライブラリー、2009年初版発行
小川と岡田の訳は原語からの直訳である。2番めの竹友の訳はフィッツジェラルドの英語訳からの和訳である。2005年発行とあるが、竹友訳が最初に発行されたのは1921年(大正10年)である。彼の訳は文語調の美しい調べの名訳であると思う。が、私自身はフィッツジェラルドの英訳が原典からあまりにも意訳すぎると感じているので、原語からの和訳の作品に拍手を送りたい。勿論、フィッツジェラルドの英訳は英語話者にとっては原典の調べを上手に訳した良い作品なのであろうと思う。でないと、世界中の人にルバイヤートの良さを伝えることはできなかったはずである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここで一つの詩を紹介する。そして先述の複数の訳者による翻訳を味わってみてもらいたい。

これが原語のペルシャ語によるものである。ペルシャの詩はこのように美しいナスターリーク書体で書かれると、詩の調べまで感じることができるような気がする。通常反対側の頁にミニアチュールの絵が挿入されるのだ。
ナスターリーク書体に慣れていない人のために、同じ詩を活字体で示すと次のようになる。

ペルシャ語学習の初級者のテキストにはアルファベットでの表記がある。ペルシャ文字が読めなくても、美しいペルシャ語の調べを少しは味わえるかもしれない。

そして、初級学習者用には、ペルシャ語の意味を直訳した英語訳が示されているのである。それが次の通りである。

そこでルバイヤートを世界的に有名にフィッツジェラルドの翻訳が次の通りである。

原文ではBaghdadとBalkhとなっている地名はNaishapurとBabylonとなっている。Balkhは現在のアフガニスタンにある中世に栄えた都市である。Baghdadは言うまでもなく現在のイラクの首都である。アッバース朝時代に首都として建設された大都市である。フィッツジェラルドが訳出したNaishapurは現在のイラン北東部の町でオマル・ハイヤームの出身地である。Babylonはバビロニア王国の都でる。Naishapuru(私はいつもニシャプールと発音しているが)やバビロンにしても地名であるからそのままでいいと思うのであるが、フィッツジェラルドにはその都市の名前から浮かぶイメージがあったのであろうと思う。この彼の英訳から竹友藻風が訳した日本語訳は以下の通りである。

文語調、五七調なので、詩の雰囲気をうまく醸し出している気がする。中には難しい言葉が使われているために、すぐには意味が分からないような訳もあるが、この詩については分かりやすいと思う。

次に、原語から直訳された日本語訳を小川訳、岡田訳と続けて示そう。

色々な訳を紹介したが、これまでにハーフェズの詩の時に登場した黒柳恒男先生の訳が欠けていた。その書籍は私の手元にはないのだが、黒柳恒男訳注『ルバイヤート』大学書林発行である。そこでの訳は次の通りである。

フィッツジェラルド(竹友)、小川、岡田、黒柳の4人による日本語訳を紹介した。いずれが一番しっくりと心に響いただろうか。原文の語順と意味の取り方から、4人の訳のいいとこどりをした私の訳は次の通りとなった。

人生が甘くとも、苦かろうと、 命は尽きる!
そこがバグダートでもバルフでも、 酒杯が満ちるなら、
酒を飲め! 我らが(この世から)去った後も、
月は限りなく満ちては欠け、欠けては満ちる!

お疲れさまでした。ハステ ナバーシイ!