イランで、そしてイラクで石油が発見された。そうなると次はどこかということになる。アラビア半島やペルシャ湾岸諸国であろう。イラク地方で石油利権をめぐる激しい駆け引きが1920年代におこなわれていた当時、アラビア半島に対する関心は低かった。サウジアラビアについていえば、1923年にアングロ・ペルシャ石油会社のジェネラル・マネージャーが送った書簡には「サウジアラビアで石油は発見されそうにない。それは地表に全く油徴がないからである。ほとんど調査されていないとはいえ、地質的な構造からも特に有望とは思えない」と書かれていたそうである。
一方、ニュージーランドのフランク・ホームズ少佐は第一次大戦終了後も帰国せず、石油を求めて中東に滞在していた。そして、彼は1924年にイギリスの保護区であったバーレーンの首長から一鉱区の利権を得た。ホームズはこの利権を1927年11月にガルフ社に5万ドルで売却した。この時、ガルフは赤線協定のメンバーになっていたので、赤線協定の対象地域内にあるバーレーンの石油開発については他のメンバーに諮る必要があった。しかしながら、アングロ・ペルシャ石油がバーレーンでの石油の存在を強く否定したために、ガルフはその利権を協定に参加していなかったソーカル社(スタンダード石油カリフォルニア)に売却したのであった。そして、そのソーカルが1931年に石油を掘りあてたのである。この発見はサウジアラビアへの注目を引くことになる。イラク石油会社内部にもサウジアラビアの利権獲得の動きはあったが、結局、バーレーンで成功したソーカルがイブン・サウド国王から利権を得ることに成功した。
利権を得たものの、ソーカルは資金不足を解消するために、赤線協定には参加していないテキサコに提携を持ちかけた。テキサコはスペインの市場を開拓しており、ソーカルにとっては新しい販路としての市場も魅力的であった。1938年3月にサウジアラビアのダンマンの油田で石油を発見した。そして、石油会社アラムコ(ARAMCO)が設立された。
ガルフがホームズ少佐からバーレーンの利権を得た時に、実はそれにはクウェートの利権も含まれていたのである。バーレーンの利権はソーカルに売却したが、クウェートは赤線協定の区画外であったため、ガルフはその利権を保持していた。クウェートはイギリスの保護下にあった経緯から、クウェートの首長は英国との間で「英政府の同意なしには、誰にも石油利権を与えない」という約束をしていた。ガルフと英国籍のアングロ・ペルシャ石油との間でこの利権をめぐって争いが激化し、首長は両者の駆け引きを利用して好条件を引き出していった。1934年12月23日に両社は首長との間で協定を締結するに至った。クウェート石油会社(KOC)が設立されて、ガルフとアングロ・ペルシャ石油が半分ずつ出資した。双方の和解の裏には一つのテクニックが必要であった。ガルフがカナダに子会社を作って、そこが当事者という形をとったのだ。カナダは英連邦の一員であるからという大義名分ができたというのである。石油は1938年に発見された。
バーレーン | ||
米 | ソーカル社 | 100% |
クウェート | ||
英 | アングロ・ペルシャ石油 | 50% |
米 | ガルフ | 50% |
サウジアラビア | ||
米 | ガルフ | 50% |
米 | テキサコ | 50% |
これで、イラン、イラク、バーレーン、クウェート、サウジアラビアで石油が発見されたことになる。そして、それらの油田は英、蘭、仏、米という大国の石油会社に所有されたわけである。その後、中東諸国ではナショナリズムが台頭する。石油資源を自国の資源に取り戻そうとする動きがでてくる。次回以後は石油資源の国有化への道のりを辿ることにしよう。