アケメネス朝ペルシア:ダレイオス1世の偉業①

ダレイオス大王やビストゥーンの磨崖碑のことばかり書いてきたが、アケメネス朝のことについても話すことにしよう。アケメネス朝は当時の世界における最大の国家であった。ペルシア帝国と呼ばれる所以である。上の図はこれまた帝国書院のものであるが、キュロス⇒カンビュセス⇒ダレイオスの三代の王が国土を広げていった過程を示している。西はエジプト、今のトルコから東はインダス川へ、北東は中央アジアにまで及んでいる広大な領土だった。ダレイオスが成し遂げた偉業の1つは「王の道」の建設であった。図の中心部のスサからアナトリア半島の地中海近くのサルディスに至る2,699kmの道を造り、そこには111の宿駅を設け、守備隊が置かれていた。スサは行政の中心であり、サルディスは旧リディアの首都であった。これまでは徒歩で3ヵ月かかったものが、王室の伝令はわずか数日間で移動することができた。

中央集権体制であったが、全国を20の州(サトラピー)に分けて州知事(サトラップ)を置いた。そして州にはある程度の自治を認めた。これはアッシリアの圧政が裏目にでて早々と崩壊したことの二の舞を避けたのであった。その代わりに州知事の動向を把握するために「王の目、王の耳」を設けた。彼らは各州を回り、州知事の状況を王に報告していた。

ゾロアスター教(2)現代に生きているゾロアスター教

前回、ゾロアスター教について簡単に紹介しました。ユダヤ教やキリスト教以前に誕生した古い中東の宗教です。ゾロアスター教はアケメネス朝で王族の信仰の対象となり、ペルシアを中心に普及していきました。ササン朝ペルシアでは国教となるのでした。しかしながら、ササン朝がイスラム勢力の台頭によって滅びた後、ゾロアスター教は衰退してしまったわけです。現代でもゾロアスター教徒はいます。イランではヤズドという町に多くの信者がいます。またパキスタンやインドに渡った人々の中にも多くいるようです。彼らはパールシー教徒などと呼ばれているようです。

ゾロアスター教が今日の社会に生きている名残りの代表的なものはノウルーズでしょう。3月の春分の日がノウルーズです。ノウは新=英語のnew, ルーズは日です。新しい日=新しい年の意味になります。つまり新年です。イランはイスラムの国です。当然のことですが、イスラム暦を使用しています。が、イランではもう一つの暦がごく普通に使われています。イラン暦というものです。この暦はイスラム暦と同じように西暦622年のヒジュラを紀元とした暦です。イスラム暦はそこから太陰暦でスタートしていますが、イラン暦は太陽暦です。従って、イラン暦の新年は毎年3月の春分の日に始まるのです。ノウルーズはイランだけでなく中東の他の地区、中央アジアの一部の地域でもお祝いするところがあります。イランのノウルーズは日本の正月飾りと同じように定番の飾り物があります。それはハフト・シン(Haft sin)と呼ばれます、ハフトは7で、シンはペルシア語のSです。Sの頭文字のものを7つ揃えるのです。ニンニクやリンゴ、日本のおせちのようにそれぞれに意味があるのです。ユーチューブでもハフト・シンの動画を見ることができます。イスラム世界では新年を祝うということはありませんが、イランではノウルーズの新年を盛大にお祝いするのです。この太陽中心の暦がゾロアスター教の名残なのです。

ノウルーズに子供たちはお年玉をもらいます。エイディというものですが、ちょうど日本のお年玉と一緒です。ノウルーズが近づく年末最後の水曜日にはチャハールシャンベ・スーリーという行事があります。家の近くの広場や路上で枯れ木を燃やして、その上を子供たちがピョンピョン飛び跳ねる行事です。男も女も一緒になって飛び跳ねます。日本でも火の上を歩く行事がありますね。それと同じような年末の行事です。チャハールシャンベというのは水曜日、スーリとは火の炎という意味です。水曜日の行事なのですが、行われるのは火曜日の夜になります。なぜでしょうか。イスラム世界では一日は日没から始まるのです。ですから火曜日の夜はすでに水曜日になっているのです。面白いですね。もっともっとお話ししたいことはありますが、今日はこの辺でさようなら。

 

 

 

 

ゾロアスター教について

ビストゥーンの磨崖碑のところでアフラマズダのシンボルが描かれていた。ダレイオス大王はアフラマズダ神が我を王位を授けたという意味を述べていた。そこでアフラマズダを神と崇めるゾロアスター教について触れておくことにしよう。

アフラマズダはゾロアスター教の神である。ゾロアスター教とは日本では拝火教、中国では祆教(けんきょう)と呼ばれた宗教であり、拝火教という名が意味するとおり、「火を崇める宗教」である。祭壇には途絶えることなく火が灯されているという。松本清張氏は著書『ペルセポリスから飛鳥へ』のなかで「ゾロアスターの教義」として書いている部分があることを以下に紹介しよう。

ゾロアスター教は西アジアに紀元前1000年ころからある土俗信仰のミトラ神(太陽信仰)を理論化し組織化したものだが、太陽たる「善」のほかに「悪」の存在を認め、これを暗黒にあらわして二元的な世界観にした。暗黒を「悪」としてあらわしたのは、夜が急激に冷え込むイラン高原や砂漠地方の自然条件のもとに住む人間の実感から出ている。岩山の断層がゆがみ、斜面や頂上が崩壊し、亀裂が生じ、岩屑が落ちるのも、前に触れたように昼間の太陽熱による膨張と夜の寒冷による収縮の繰り返しからである。光明の善神アフラマズダと暗黒の悪神アングロマイニュ(インドの『ヴェーダ』ではアシュラにあたる)との闘争は長く、アングロマニュアの率いる軍隊によってアフラマズダの軍隊が敗北し、世界にはしばしば終末がおとずれようとする。だが、終局的にはアフラマズダの軍隊が勝利し、ここに世界の救済がなるというものである。このことがユダヤ教に影響を与え、それまでは唯一神ヤーハウェのみであったが、悪魔の存在を認めて二元論とした。また仏教に影響を与え、終末思想つまり末世思想となる。・・・・・・だが、終末期には救世主が現れる。ゾロアスター教ではそれがゾロアスターの預言者であり、仏教においては弥勒であり、ユダヤ教ではダビデであり、キリスト教ではキリスト自身である。・・・

引用部分の終わりの方は少々????と思うところもあるが、松本清張さんはゾロアスター教に思い入れが強く、飛鳥の石造物とゾロアスター教の関係を強く訴えている自称考古学者なのである。ゾロアスターについてはちくま学芸文庫から前田耕作氏の『宗祖ゾロアスター』が発刊されている。定価千円(税別)。非常に面白い著書である。

ゾロアスター教の宗祖がゾロアスターである。この人物は謎の多い人である。日本では馴染みが薄いのであるが、西欧社会には想像以上に影響力をもっていたのである。

「アテナイの学堂」はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。・・・これはウィキペディアの文章を引用したのであるが、このアテナイの学堂という絵の中に地球儀を抱えたゾロアスターが占星術師として描かれているのである。興味ある人はインターネットでご覧いただきたい。

さらに、ニーチェの作品『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだことはなくとも、題名は知っている人が多いだろう。このツァラトゥストラという人物が実はゾロアスターなのである。ペルシア語の呼称をドイツ語読みにしたものである。

そうそう、思い出しました。そういえば自動車メーカーのマツダというのはイランではMAZDAと車体に書かれている。たしかマツダの社名の由来が、アフラ・マズダにあるということを聞いたことがある。本当かな?(笑)

今日はこの辺でおわりとするが、ゾロアスター教と奈良東大寺のお水取りの行事が関係あるとする学者さんもいるのである。代表的なのが故伊藤義教先生である。小生は昔、この先生からビストゥーンの碑文の楔型文字について講義を受けたことがある。そのような過去が私を中東世界に引き込んでいった一つの要因かもしれない。

 

ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!

 

さて、このビストゥーンの磨崖碑の位置であるが、写真でみると分かりやすいだろう。小生が下から撮った写真である。下の方で人物がいるところが道であり、この磨崖碑をみるには下から見上げるわけであるが、100m近い頭上のものを肉眼では見ることはできない。また補修用に足場が組まれているので視界が遮られるため、レリーフや碑文を見ることは不可能なのである。それを小生は目の前でみて、碑文を手で触ったのである。

目の前でみた碑文の壁が次の写真である。

ここは世界遺産である。管理事務所の方に案内してもらいたどり着いたのである。世界中の研究者たちから立ち入りができるようにとの要請が沢山くるそうであるが、許可することはないとのことであった。小生の場合は特別である。

そうそう、今回はこの碑文を解読したローリンソンの秘密を明らかにすることであったね。実はローリンソンはここに自分の名前を書いていたんだ!(現代なら大事な遺跡に落書き禁止!というものだが?歴史的な仕事だから、仕方ないよね。)それが、次の写真である。1844年という文字とH.C.Rawlinsonと他に二つの名前が見えるでしょう。

この写真は特ダネものではないでしょうか????

 

ビストゥーンの磨崖碑

上の絵はウィキペディアから拝借したものである。昨日からお話ししているダレイオス大王が王位に就いた際に造られたものである。ウィキペディアでは「反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ。描かれている人物は左から順に、槍持ち、弓持ち、ダレイオス1世。彼は僭称者ガウマタを踏みつけている。さらにその右に命乞いをする9名の反乱指導者がいる。左からアーシナ(エラム)、ナディンタバイラ(バビロニア)、フラワルティ(メディア)、マルティヤ(エラム)、チサンタクマ(アサガルタ)、ワフヤズダータ(ペルシア)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)、最後尾の尖帽をかぶっている人物はスクンカ(サカ)。反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ。」と書かれている。一人一人が何処の誰であるか特定できているのである。しかしながら、一度にすんなりと彼ら全員を征服したのではないことも分かっている。最後尾の男のレリーフはサカ族であるが、彼が征服されたのは他の者たちよりも遅い時代(BC520)であり、このレリーフもあとから彫られたのである。それに関する記述も新たに1欄が加えられているのである(それが第5欄という)。

実は信じてもらえないかもしれないが、私はこの断崖絶壁に造られた磨崖碑の前に登り、レリーフと碑文を眼前で見たのである。その話は改めてアップするが、レリーフの周辺に彫りこまれた文字にも圧巻されたのだった。頭が真っ白になるほどの興奮を覚えたのだ。紀元前520年頃の歴史的な遺産の前に立っている自分が信じられなかった。楔形文字の一部を下に示そう。

余はダレイオス、偉大なる王、諸王の王、ペルシアの王、諸邦の王、ウィシュタースパの子、アルシャーマの孫、アケメネスの裔。・・・・
王ダレイオスは告げる、アウラマズダーの御意によって余は王である。アウラマズダーは王国を余に授け給うた。・・・・

びっしりと書かれた碑文を解読したのはローリンソンであると昨日書いたが、彼はここに彼の足跡を残しているのである。それは次回のお楽しみにされたい。

 

ダレイオス1世とビストゥーンの磨崖碑

前回、カンビュセス2世の弟の偽者が現れ王位就任を宣言した後に、カンビュセス自身が急死したことを述べた。さて、その後であるが、後に第3代の王位に就くことになるダレイオス1世には彼を含めて7名の仲間がいた。彼らがスメルディスを偽者と見破り、BC522年9月末に偽王を殺害した。そこで、だれが王位を継承するかという問題が残った。ヘロドトスの『歴史』によれば、彼らの議論では決めることはできなかったという。そこで早朝に馬に乗って集まったあと、一番先に嘶いた馬に騎乗していた者が王位に就くこととしたとか。少々、うさん臭い話ではあるが、彼ら同志では決められずに籤のようなもので決めたということらしい。いずれにせよ、ダレイオス1世が王位に就いたのだ。

混乱した国家を鎮圧したのであるが、敵はスメルディスだけではなかった。アケメネス家の安泰を揺るがそうとする輩は各地に居たわけであり、ダレイオスはそれらを制圧して王位に就いたことを宣言した。彼はキュロス大王の直系ではないことを気にしていたようで、「自分はこの国に安泰をもたらすために悪い奴らを制圧して王位に就いたのである」ということを声を大にして訴えたのである。それが上に示したレリーフと周囲の碑文である。9人ほどの人物が手に縄をかけられてダレイオスの前に並んでいる。ダレイオスの足で踏んづけられている人物も一人いるようだ。これらは反逆者であり、彼らを制圧したのがダレイオスであるという意味である。また彼らの頭上には有翼神アフラマズダがいる。写真では分かりづらいから絵にしてみた。

有翼神アフラマズダのシンボルである。そして、ダレイオスは言う「アフラマズダ神は王国を余に授けたもうた」と。ダレイオスはアフラマズダ神の助けと加護のおかげで戦いに勝利したとして、彼の背後に神がいることを強調して権威付けを図ったのである。

このレリーフの周囲には楔形文字でダレイオスが王位についたことに関する記述がなされていて、「ビストゥーンの磨崖碑文」と呼ばれている。ビストゥーンはイランのケルマンシャーにある地名である。この碑文は3つの言語で書かれている。エラム語、バビロニア語、古代ペルシア語の3つである。そして、この碑文は解読されているのであるが、それは3つの言語で同じことが書かれていることから解読が容易だった(容易と言っても大変な作業ではあるが)。地上70m位の断崖絶壁にある碑文をどのようにして解読作業はなされたのであろうか。それは次回に譲ことにするが、それを行ったのはイギリス人のローリンソンであった。

アケメネス朝第2代国王「カンビュセス2世」

キュロス大王がアケメネス朝初代の王であるが、アケメネス家の存在は紀元前700年ころまで遡ることができる。上の図は山川出版社の『世界史図録ヒストリカ』に掲載されている系図の一部を拝借したものであるが、キュロス大王はキュロス2世ということになる。系図によると祖父がキュロス1世であり、父がカンビュセス1世ということがわかる。そして、キュロス大王は生前にカンビュセス2世を王位継承者に指名し、弟のバルディアには広大な地域の統治権と特権を与えた。カンビュセス2世はBC525~BC522年にかけてエジプトを征服し、さらにリビアから中央アジアにいたるまで帝国の領土を拡大したのだった。

カンビュセス2世は父親のキュロス大王とは性格が違い、短気で癇癪持ちであったと言われるが、彼は一人の国王の命令によって全国が統一されるような支配体制、つまり中央集権的な国家を望んだ。その結果、弟のバルディヤを暗殺したのであるが、暗殺されたはずの弟の偽者(マギ僧のスメルディス)が現れた。そして、この偽者はカンビュセスがエジプトの遠征中に王位就任を宣言した。カンビュセスは急いで帰還しようとしたが、そこで急死する。ということで、カンビュセス2世はあっけなくこの世を去ったのであるが、この偽者の王を巡って国は混乱する。このあたりの歴史については、ギリシアの歴史家で有名なヘロドトスが『歴史』の中で詳しく書いている。ヘロドトスが生きた時代がこの時代に近いこともあって、彼の『歴史』に書かれていることは比較的信頼性も高く、注目すべき内容なのである。

さて、カンビュセス後の後継者が系図では直系でないダレイオス1世となっているではないか。その辺りの経緯は次回に譲ことにしよう。

アケメネス朝ペルシア創設者キュロス大王の墓

前回、キュロス大王がユダヤ人を解放したと述べた。彼はアケメネス朝ペルシアを建国し、パサルガダエで新しい都の建設を始めたのであった。しかしながら、この都の完成を待たずしてキュロスは戦士した。というもののここには建設された宮殿などの遺跡が残されている。その後、都はスサやペルセポリスに移るのである。ここで最も有名なのが上の写真の背景である。キュロス大王の墓である。私の身長が丁度第一段目ほどであるので、高さは私の身長の8倍から10倍程度でしょうか。次回からアケメネス朝の歴史になります。

オリエント世界 (4) ユダヤ人の解放

上の図は帝国書院発行の『最新世界史図説・タペストリー』から拝借したものであるが、アッシリアが崩壊したあとの四王国時代が描かれている。そして、その後のオリエントを再び統一したのはメディアの支配下から立ち上がったペルシア人のアケメネス一族である。アケメネス一族はアステュアゲス治下のメディアを陥落させたあと、クロイソス治下のリュディアを、ナポニドス治下の新バビロニアを征服していった。そしてアケメネス朝ペルシアが誕生した。王位に就いたのはキュロス大王であり、スサに最初の都を築いた。彼が新バビロニア王国を打ち破ったあとに最初に行ったことは、バビロニア捕囚、つまりユダヤ人たちの解放であった。ユダヤ人たちはパレスチナに戻ることができ(戻らなかった人もいる)、破壊された神殿を再建したのであった。ユダヤ人の歴史はこのあとハスモン朝の建設、ローマの支配下、ローマとの闘いなどと続くのであるが、それはまた別の機会に譲ろう。ここでは、ユダヤ人たちがバビロン捕囚の身から解放してくれたのがペルシアのキュロス大王であったということを強調したいのである。現在、ペルシア人のイランとユダヤ人のイスラエルは犬猿の仲であるが、古代の歴史を振り返れば、ユダヤ人たちはペルシア人たちに大きな借りがあるということになる。旧約聖書のエズラ記の冒頭は「ペルシアの王キュロスの布告」である。キュロス大王がユダヤ人たちにエルサレムへの帰還を許し、神殿を再建することを許すということが布告されたと記されているのである。ユダヤ人にとってキュロス大王は英雄だったのである。

 

 

オリエント世界 (3) バビロニア捕囚

前回、ヘブライ王国やバビロン捕囚の語句がでたので、それに関連して書いてみよう。旧約聖書ではユダヤ人はアブラハムに率いられて古代メソポタミアのウルから西に向かい、カナンの地に入植した。そこは乳と密の流れる地であり、ここがパレスチナであった。ここでユダヤ人達はペレシテ人の地に初めて入植したことになる。しかし、その後、飢饉などのせいでユダヤ人たちはエジプトに移住していった。エジプトでは奴隷のような扱いをうけて苦難の日々を送っていたことから、再びエジプトを脱出することになる。それを率いたのがモーセ(モーゼ)である。旧約聖書の「出エジプト記」にはそのことが記されている。モーセに率いられた一行はエジプト軍に追いかけられ進路がなくなった時に海が割れて道ができるなどの奇跡が起きる中、十戒を授けられるが、それを守り、ついにカナンの土地に戻ることができたのである。しばらくの間、ユダヤ人たちの世界は繁栄し自分たちの国・ヘブライ王国を持つことができた。都エルサレムには神殿が建設された。この神殿は今では残っていないが、ユダヤ教徒が聖地としているのはこの神殿跡である。神殿の壁の一部が残っており、それが「嘆きの壁」である。知恵者で有名なソロモン王はこの国の第三代目の王であった。しかしながら、この王国は紀元前926年頃に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国はその後アッシリアによって滅ぼされた。ユダヤ王国はもう少し長く続いたが、新バビロニアにより征服され、ユダヤ人たちは捕らえられてバビロンに連れていかれてしまう。歴史でいうところの「バビロニア捕囚(バビロンの捕囚)」である。時は紀元前586年~538年頃のことである。

旧約聖書の詩編137には次のような詩がある。この中のシオンというのはエルサレム神殿のあった丘のことであり、ユダヤ人たちがシオンの丘に国家を造って戻ろうという運動がシオニズム運動と呼ばれたのであった。

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