トルコ南東部で大地震

6日にトルコ南部で大きな地震が起きましたね。テレビニュースでは高い建物が倒壊する様子なども映し出されていました。

震源地は上の画像の地域でして、シリアとの国境近くです。地震の規模はマグニチュード7以上で、その後、9時間後にも7以上の地震が起きたとのこと。この地震による死者は時間が経過するにつれて増えつつあります。トルコ側だけでなくシリア側でも被災者が多数出ているようです。

映像を見ていると、やはり建物の耐震対策が日本のようにしっかりとられていないように感じますね。レンガ建ての建物もおおいようです。私が昔イランに居た頃の建物を思い出します。そのころの建物はやはりレンガ建てが多くありました。そして、そのレンガで床もふくのですが、梁と梁の間を緩やかなアーチ型にしてレンガを繋いでいました。ですから上からの圧力に対しては充分な強度があるのですが、梁を揺らされると、つまり横揺れが起こると、もろく崩れるのでした。幸い、滞在中に大きな地震には会わなかったので幸いでした。が、妻とは地震が起きた場合には食卓の下に逃げることを決めていました。建物が崩壊した時にまず一番に食卓のあるダイニングを探すということにしていました。もう40年以上も前のことですから、建物の構造も耐震性のある物に代わってはいるでしょうが、トルコの建物の崩壊現場を見ると、十分な対策ができているようには見えません。昔はレンガそのものが焼成煉瓦ではなく、日干し煉瓦も使われていました。雨が少ない土地ですからできた話ですが、地方の田舎に行くと、日干し煉瓦でできた家が沢山あったのです。今はどうでしょうか?トルコは雨も多いでしょうから、日干し煉瓦は使われないでしょう。それにしても今回のトルコ、シリアの地震による被災地にいち早く支援が届くことを祈るばかりです。

ブログ再開:ナイルの水を飲んだ者は、再び、そこ(ナイル)に戻る

肩の捻挫で暫くブログも休んでいましたが、2週間たってもまだ痛みます。でも少しは痛みが軽減したので少しづつ動かすようにしています。そこでアラビア書道の稽古をボチボチ始めました。書くのは右手を使うわけですが、左手で用紙を押さえる必要があります。押さえないと紙が動いてしまうので書けません。押さえる位なら左手でできると思ったのですが、机の高さに左手を乗せると当初は痛かったのですが、今日は何とかできるようになりました。そこで、今後稽古するのは次のお手本にしました。

しばらくの間、ペルシア書体(ナスタアリーク書体)でペルシア語の四行詩を稽古してきましたが、四行詩を書くとなると文字数が多いので、個々の文字は小さく、細くなります。そこで今回は大きな太い文字で書ける短い文にしたのです。用紙のサイズはA3です。偶々本田先生が書かれたお手本を頂いたので、これにしました。これを稽古して、上手く書けたら5月に名古屋で開く名古屋教室の作品展に出そうと思います。でも太くて大きい文字、それはそれなりに難しいものです。大きいと墨が足らなくてカスレてしまったりします。それはそれとして、何と書いてあるのでしょうね。

アラビア語の有名な諺というか言葉です。「ナイルの水を飲んだ者は、再びそこ(=ナイル)に戻る」という意味です。インターネットで調べるとこの言葉の意味を解説したものがいくつか出ています。言葉の意味通りにエジプトに再び縁があって再訪した体験談などが語られています。同じような諺は日本ではすぐには思いつきません。でも、一度訪れてまた行きたいなと思う所は沢山ありますね。私はイランのイスファハンの町です。何度も行ったことがあるのですが、また行きたいと思う美しい町です。

ちょっとお休み

先週、山歩き中に滑って手を故障したので、数日間、ブログを休みます。片手で入力は大変。

イランの反政府運動の行方

先週、中日新聞は2日にわたり「ヒジャブの下から・女性が変えるイラン」という特集記事を掲載した。
イランでは昨年秋頃から政府に対する抗議でもが、激化していた。きっかけはクルド人女性がヘジャブの着用が不適切だとして風紀警察に拘束された末に死亡したことに対する抗議だった。その抗議デモが各地に拡大して、反政府の大きなうねりとなってきたのである。鎮圧に乗り出した政府はデモの参加者の多くを拘束したが、衝突の過程で多くの死者がでている。また拘束された者で何人かは死刑を執行されたという。見せしめのための死刑執行であるが、それ以後、大規模のデモは姿を消しているが、国民の政府に対する控えめな抗議は続いている。

記事では、初めはクルド人女性の拘束後の死に対するものであったが、反政府運動にまで拡大したのは現在の経済悪化の状況に対する政府への反感であるとしている。米国の経済生活により経済は悪化し、ウクライナ問題のせいもあり物価はさらに上昇し、国民の生活は困窮しているのだ。

私はインスタグラムを利用している。そこでイランの人とも接点があるのだが、インターネットが常時つながる状態ではないと彼らは言う。また、この記事にも「女性・命・自由」というスローガンもインスタ上では飛び交っている。原語では زن  زندگی آزاد である。記事では真ん中の言葉を「命」としているが、命といういみでも間違いではないが、英語でいうと Life である。生活、人生の色合いが強いと思う。自分たちの生活が無茶苦茶だという意思表示であろう。風紀警察の車が姿を消したともあるが、一時的なものであろう。1979年の革命後にイスラム回帰した時代でも風委委員会が国中を席巻した。彼らはトヨタのピックアップを多く利用していた。その車の後ろ側にはTOYOTAの文字が浮き彫りされていた。当時はTOYOTAの車が怖いイメージを与えていたのだった。

アフガニスタン:国家の成立から共和国まで

前に紹介した渡辺光一著『アフガニスタン 戦乱の現代史』岩波新書にはアフガニスタンでの国家の形成について、以下のように記している。つまりはアフガン人達は周辺の強国に挟まれた地域に居住しており、これらの国に支配されてきたのであった。アフガン人が自分たちの国を形成できたのは18世紀になってからということである。

多民族に長い間支配されてきたアフガンに初めてアフガン人の王朝が成立したのは18世紀になってからである。18世紀初頭までのアフガンは三つの強力なイスラム帝国の支配下にあった。三つとはアフガン以北に展開してきたトルコ系民族のアストラハン朝、アフガン以西のペルシャに展開してきたサファヴィー朝、そしてアフガン以東のインドに展開してきたムガル朝である。これらの大きな国が勢力を競い、アフガニスタンはそれらの境界地域にあって支配されてきたのだった。18世紀になると、アストラハン朝とサファヴィー朝が衰退し始め、ムガル朝もイギリスの進出などにより国運が傾き始めていた。こんな中で急速に勢力を伸ばしたのが、カンダハールを地盤とするギルザイ族と呼ばれるパシュトゥーン人であった。1722年、ギルザイ族がペルシャの都イスファハンに進攻し、その壮麗さと富の大きさから「世界の半分」と呼ばれた都はあっけなく陥落したのだった。一方でアフガン南西部には部族の異なるアブダリ族が急速に勢力を伸ばし、1747年にはギルザイ族を倒すまでになった。彼らはパシュトゥーン人の伝統に従って、部族長の一人アフマド・シャーが王に選出された。彼は都をカンダハールに定めドゥッラーニー朝を創設した。そして、25年の短い治世の大半を領土拡大に励んだという(1772年、50歳で死亡)。息子のティムール・シャーが王を継承し、都をカーブルに移した。
これ以後を年表形式で列記する:
1747年 ドゥッラーニー朝成立
1826年 ドースト・ムハンマド・カーンが政権を握り、ムハンマドザイ朝成立
1839~42 第一次アフガン戦争
1878~80 第二次アフガン戦争
1880 アブドゥル・ラーマン・カーン即位
1885年 ロシアがアフガンに進出
1887年 英露、アフガン国境協定
1893年 英領インドとの間にデュランド・ライン確定
1914年 第一次世界大戦勃発
1919年 第三次アフガン戦争、アフガン独立
1929年 タジク朝成立
ナディル・シャー即位(~33年暗殺)
1933年 ザヒル・シャー即位(~73年)  1939~45年第二次世界大戦
1953年 ムハンマド・ダウド首相就任
1963年 ザヒル・シャー、ダウド首相を更迭
1964年 第三次憲法施行
1965年 初の総選挙。人民民主党結成。
1969年 第二回総選挙
1973年 軍事クーデターで元首相ダウドが大統領に。ザヒル・シャーが伊に亡命。
王制廃止。アフガニスタン共和国成立。

 

 

「シルクロード文庫」開設へ

1月3日付の中日新聞は上の記事を掲載していた。昨年亡くなった前田耕作和光大学名誉教授の遺志に基づいて「シルクロード文庫」という図書館を作るということである。新聞によると、前田先生はユネスコのアフガニスタン文化遺産保護国際調整委員などを歴任。自ら設立した「アフガニスタン文化研究所」の所長を務めた。2001年にタリバン政権が大仏とともに破壊した仏教画の修復に関わり、21年のタリバンの復興後は各国の専門家とともに現地の文化財の保護に努めた。図書館は今年の3月に開館するが、前田さんたち研究者が集めた貴重な本1万数千冊を収蔵するという。

丁度いまこのブログでアフガニスタンを扱い始めたところであったので、まさにタイムリーな記事だと思い、そのことをここに紹介した。多民族が交差したシルクロードの平和な交流の歴史が、紛争に明け暮れる今の世界に蘇ることを祈りたいものである。

実は私自身不勉強で前述の経歴の前田耕作先生のことは知らなかった。しかし、どこかで聞いたことがある名前だなと思い書棚をみていたら、次の文庫本が見つかったのである。
書名は「宗祖ゾロアスター」である。著者前田耕作とある。2003年発行であるから、ちょうど20年前の発行である。文庫本になる前に単行本ででたのが1997年なので、25年前の著作ということになる。私はペルシアに関する研究者なのでゾロアスターは当然専門領域なのでこの書も所有していたのである。ゾロアスター教やゾロアスターという人物に関する研究書は少ないので前田先生の功績は大なのである。人との繋がりがというものは意外と多いということを感じた正月だった。

アフガニスタンとラピスラズリ(続き)

 

昨日(前回)、ヒンドゥークシュで採れるものとはいったい何でしょうか、という所で終わったのでしたね。でも、後から気が付きました。タイトルが「アフガニスタンとラピスラズリ」となっていました。答えはラピスラズリということでした。ということで今回も更に適宜抜粋し編集しながら引用を続けます。

ツタンカーメンは、今から3300年余り前の紀元前14世紀頃、古代エジプト王、ファラオとして短い生涯を送った。彼の墓が1922年に見つかり、そこの埋葬品の「黄金のマスク」の目の部分に、ラピスラズリがはめ込まれていたのである。その周辺で見つかった140個ほどのスカラベという昆虫の彫り物は全てラピスラズリであったという。エジプトでラピスラズリが使われていたということは当時も発見された当時も重要視されるような特別なことではなかったという。だが、それらのラピスラズリはアフガンのヒンドゥークシュで採掘されて運ばれたものであるという点が、このブログでは重要な点なのである。

一方、日本との関係はどうなるのだろうか。六世紀に日本に伝えられた仏教では、宇宙には東西南北に四つの「仏の世界」、いわゆる「仏国土」が存在するとの考えから東に薬師如来、西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒菩薩が存在するとした。その中の一つ薬師如来は東方浄土を治めるだけでなく、現世で苦しむ人々を助ける力を持つとされ、これが「薬師」という名前の由来である。この薬師如来の正式な名前は「薬師瑠璃光如来」というのである。瑠璃というのはラピスラズリの日本語訳である。なぜ瑠璃という言葉が薬師如来につけられたのだろうか。かの著者は3つの説明しているが、その三つ目の説明とは「仏教徒が瑠璃の粉末を薬や顔料として珍重していた点である。実際、瑠璃に含まれる成分が精神の安定をはかるとして、中世ヨーロッパでも使用されてきた。薬師如来は、まさに医師であり、薬剤師であり、心の闇を取り払うカウンセラーでもあった。・・・・・インドへの旅を成し遂げて多くの仏典を持ち帰った玄奘三蔵が翻訳した経典に「薬師瑠璃光如来本願功徳教」があった。・・・アフガンに誕生した瑠璃は、経典の名前だけでなく、いくつかの経文の一節にも使われ、六世紀以後次々と日本に渡ってきた。これまで仏教の伝来といえば、インド、中国、日本の関係だけが注目されてきた。その中にアフガンを加える人は少数である。しかし、薬師如来像を眺める時、私たちは瑠璃の光が放ち続けて来た「アフガンの存在」を忘れてはならないだろう。

ということで、アフガニスタンはかつては西のエジプトへ、あるいは東の日本に影響を与えた一拠点であったということである。ラピスラズリという貴重な石(貴石)、日本では七宝に一つに数えられる貴い石として珍重に取り扱われたラピスラズリがアフガンからの到来物であったのである。瑠璃の美しい青さ、サファイアだと思われていたものが実はラピスラズリであったという話なども聞く。私はバードウォッチャーであるが、美しい鳥にも瑠璃が付いているものが多い。例えばオオルリ、ルリビタキ、ルリカケス等々である。冒頭の写真は私が写したルリビタキである。今日はこの辺で終わりにしましょう。

 

 

アフガニスタンとラピスラズリ

前回、引用させていただいた『アフガニスタン・戦乱の現代史』には私の関心を引き付けた部分がある。その部分を今回も引用させていただこう。

文化の伝達といえば、ギリシャのヘレニズム文化が、インド、中国を経由して日本に伝わった事実はよく知られている。この場合、ギリシャは情報の発信地であり、日本は最終的な情報の受信地であった。つまりアフガンは中継地にしか過ぎなかったということになる。しかし、これから紹介する例は、アフガンがまさに情報の発信地であり、エジプトと日本がともに最終的な受信地であったことを示している。アフガンからエジプトに伝わったのは「ツタンカーメン王」に関する事象であり、日本に伝わったのは「薬師如来」に関する事象であった。それはアフガンの大自然が、人類の歴史をはるかに超える長い年月をかけて、ヒンドゥークシュの山岳に醸成した珍しい物質であった。では、アフガンが発信したものとは、いったい何だったのか。

以上が、引用部分である。さて、皆さんはその物質とは何だとお思いですか?今日は元旦ですので、これまでにしておきましょう。次回の新規投稿までに物質が何か考えておいて下さいね。

アフガニスタンの民族

アフガニスタンは中東の範疇からは若干外れる面があるが、かつてのペルシア帝国の領土が最大であった当時は今のウズベキスタン辺りまでがペルシアであったことを考えるとアフガニスタンは遠くない。またアフガニスタンはイランに接しており、その言語はダリーと呼ばれるが、ペルシア語の方言ともいえる言語である。アフガニスタンというと我々日本には余り馴染みがないと思われるかも知れないが、中国から西域へのルートでもあり、またシルクロード以前から通商の道として開かれた一帯であった。先ずはアフガニスタンの民族を紹介しよう。以下の内容は渡辺光一著『アフガニスタン 戦乱の現代史』岩波新書からの引用である。

アフガンの民族集団を分類すると20以上にものぼるという。人口の多いものから10の集団をあげると、①パシュトゥーン(約40%)、②タジク(25%)、③ハザラ(10%)、④ウズベク、⑤トルクメン、⑥カザック、⑦キジルバッシュ、⑧ヌーリスタン、⑨バローチ、⑩キルギスである。
ウズベク以下は100万人に満たない少数である。アフガンの宗教は98%がムスリムである。うち85%はスンニー派系のハナフィー派に属している。アフガン中央部に居住するハザラ人とイランからアフガンに渡来したとされる西部地方のキジルバッシュの2集団は、イランを中心とするシーア派のイスラムを信奉している。しかし、アフガンでは仏教が衰退したあと、インドの多神教ヒンドゥー教やペルシアのゾロアスター教、そのほか土俗的な宗教が混在していた。8世紀、バグダードにアッバース朝が興きると、その勢力拡大に伴って、イスラムが徐々に浸透してきた。このあと13世紀にはモンゴルの支配を受けるが、このころにインド、トルコを中心に民衆の間に広がっていた「スーフィー」と呼ばれるイスラム神秘主義がアフガンに入り始めた。

最大勢力であるパシュトゥーンは人種・言語的にはインド・アーリア系に属し、紀元前2000年前後に西アジアから移動してきた民族と考えられている。どのようにして集団を形成、維持してきたかを遡ることができるのは、せいぜい今から300年ほど前までである。彼らは外部からの強力な支配者から逃れる手段として、アフガンとパキスタンとの国境付近に広がる山岳地帯を有効に使っていた。外部からの強い圧力が加わると、険しい山の中に逃げ込み、圧力が弱まると山から平原に戻るという行動を繰り返してきた。このような行動パターンは、アフガンの支配を目指したイギリスに対する三度のアフガン戦争や、ソ連軍侵攻の際にムジャーヒデイーン(アラビア語で「ジハードを遂行する者」を意味する)としての山岳におけるゲリラ戦などでしばしば見られた。

他民族国家である。最大勢力であるパシュトゥーン人以外は少数であり、言語も異なることがわかる。あまり聞きなりないハザラという民族も存在して彼らはシーア派イスラム教徒でありダリー語というペルシア系の言語を話す。聞きなれない民族名かもしれないが、私が昔イランに居た頃、カスピ海沿岸の町にも住んでいたが、カスピ海のことをダルヤーエ・ハザルと呼ばれることがあると知った。つまり、ハザル人の海ということである。多民族国家ゆえの統治の難しさがあることが推察できるのである。

 

アフガニスタンについて

中村哲さんがアフガニスタンで殺害されてから、3年が経過した先日にはメディアが彼の亡き後の現地を取材して放映していた。そこでは中村さんの遺志を継いだ人々が治水工事に取り組んでいる姿があった。中村さんは医師であった。現地の人々を病から救うために赴任したのであったが、病に対する対処以前に彼らの生活基盤を整えることが必要だと感じ、安定して農作物を手に入れることができるように、灌漑施設の工事などに取り組んだのであった。
私は1971年に初めてイランに駐在員として赴いた。水資源開発コンサルタンツ会社の一員としてであった。社の仕事はイラン政府との契約業務でイランの水資源開発計画を推進することであった。従って、イランの首都テヘランの事務所には日本からの技術者が沢山駐在していた。イランの計画を推進する一方で、アフガニスタンでの水資源開発計画の可能性も探っていた。そして、何人かのスタッフがプロジェクトファインディングという名目でアフガニスタンを行き来していたのであった。その現場はジャララバードだった。
カーブルの東方にジャララバードが在る。北にはヒンドゥークシュ山脈があるので、この山脈から流れて来る水を利用しようとした。ヒンドゥークシュとはヒンドゥーがインド(人)、クシュの元は殺すという動詞コシュタンであるから、インド人殺しの山脈ということ。つまり、非常に険しい山脈ということだろう。当時、現地の人々は剣や鉄砲を手にしていたので怖かったという話も聞いた。治安が良くなくて開発計画を進めるような状況ではなかったということだ。もし、我々が思っていたような開発ができていたなら、中村さんのような不幸な事件も起こらなかったかもしれない。アフガニスタンはその後ソ連の侵攻などもあり、虐げられた歴史を辿ってきた。私がこのブログで扱う中東地域とは少し外れるのであるが、今後、少し、アフガニスタンの歴史について紹介してみようかと思っている。