イスラムの啓典:コーランについて(1)

上の画像はコーランである。昔、私がテヘランの本屋で買ったものである。コーランは勿論アラビア語で書かれたものであり、世界中のイスラム教徒がアラビア語で唱えるものである。しかしながら、これはイランのものであるから、アラビア語の文言の下に非常に小さなペルシア語の文字で意味が書かれている。ペルシア語はイスラムの影響をうけてアラビア文字を使用しているので、彼らはコーランを唱えることには困らない。さて、今回のテーマはコーランである。六信五行の六信の一つである啓典が出てきた際に、コーランであるとしか書かなかったので、今回は詳しく説明しておこう。

コーランはイスラムにおける第一の法源である。コーランに書かれていることが最高の掟である。しかしながら、コーランに書かれていることだけで全てが解決するわけではない。そのようなときには創始者であるムハンマドの言行が引き合いに出される。そのようなことが伝承としてまとめられているのがハディースと呼ばれるものである。日本でも出版されているが今は入手困難かもしれない。

さらにコーランやハディースでは埒があかない場合はイジュマー(法学者の意見の一致)やキヤース(法学者がコーランやハディースの内容からの類推)に頼ることになるのである。

コーランはムハンマドが神から与えられた啓示をまとめたものであるが、ムハンマドがそれを生前に纏めたものではない。彼の死後、正統カリフ時代に後継者となったカリフたちが編纂したものである。コーランは全部で114の章から成り、章は節に分かれている。第2章には286の節があるが、第108章には3つの節しかない。それぞれの章には名前が付けられている。例えば、1開扉、2牝牛、3イムラーン家、4女、5食卓、6家畜・・・・という具合である。非常に分厚い本であり、秩序正しく、読みやすいような内容とは決して言えないと思うのであるが、興味深いことが書かれている。日本語訳(意味を日本語にしたもので、日本人の信者はそれをコーランとして読むものではない。コーランを詠むということはアラビア語で詠まなければならない)を昔、読んだのは井筒俊彦先生が訳された文庫本3冊であった。色褪せてしまったが手元にある。1冊300円だった。

私の手元には2014年発行のものがある。それは日亜対訳クルアーンという作品社発行の税抜定価4800円という高価なものであった。これは口語訳なので非常に読みやすいし、アラビア語も載っているのがすごい。

各章の最初には「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において」という語句がある。信仰深きムスリムはコーランの大部分を諳んじているのであるが、普通の人はそうもいくまい。でも最初の1章、開扉の章、あるいは開端の章は暗唱している人が多いと思う。私もその章はアラビア書道で書くことができた。

コーラン(1)終わり、続く

 

 

想い出の中東・イスラム世界:イスラムの若者たち(1970年代)

テヘランにあるゴレスターン宮殿(カージャール朝の王宮)

新年以後、ほぼ3週間の間、歴史の流れに沿ってこのブログを書いてきた。そして、いま七世紀のイスラム初期に入ったわけである。読者の方々が、ずっと歴史を読み続けるのも少々疲れるかもしれない。そこで今日は歴史を離れた話題を提供しようと思う。カテゴリーは「想い出の中東・イスラム」としておこう。

私が最初にいった海外がイランで1971年であった。当時のイランはパーラヴィー国王時代で脱イスラムの方向に向かっていた。女性たちもチャドール(女性が頭から身体全体を隠すヴェール)を被らないようになりつつあった。私は24歳であったが、会社には同世代の若い人もいたから、すぐに友達になった。イスラムの人たちである。ある時、パーティをするからと誘われたことがあった。仕事を終えて集まったのは夜の9時ごろで、そこには20人以上の若者がいて、照明を落として、薄暗い広間だった。ソフトドリンクとクッキーやケーキなどが用意されていて、おしゃべりの場であった。自分は殆どの人が初対面だったから、皆と最初の自己紹介的な会話をしていた。途中から音楽の音が大きくなって、皆が立ち上がり踊り始めたのだった。少し、テンポの速い曲でムード音楽ではない。フォークダンスではないけれども、輪になって回っていくような踊りで盛り上がった。社交ダンスならできないのでホッとしたのだった。その時に、ここはイスラムの国だと改めて気づいたのだった。というのは、その時の音楽の歌詞が時々「エイ ホダー、エイ ホダー」と繰り返すのである。ホダーといいうのは khoda-というスペルで神という意味だ。若者たちが「おー神様、おー神様」という歌詞の下で踊っているということが、印象的だった。繰り返し踊り、食べて、喋り、また踊る。夜も更けて疲れたころになりやっとスローな曲になった。いよいよお開きだった。この日は、この家の親たちは旅行で不在のために、ここを会場にして集まったという。その後も何度か誘われた。そんなパーティが私の思い出の若者同士の集いであった。その頃の若者たちのファッションは日本と一緒であった。日本ではミニスカートをはいたツィッギーという女性が大人気になり、テヘランでもミニが流行した時代であった。

「六信五行」の五行とは?

第一に信仰告白である。イスラム教徒になるということは、アッラーが唯一の神であることと、ムハンマドが神の使徒であることを最初に信じることから始まる。従って、イスラム教徒になろうとする者は証人の前で「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」という二つの言葉を唱えなければならない。これが信仰告白である。しかもその言葉はアラビア語で行わなければならない。「ラー・イラーハ イッラッラー」「 ムハンマド ラスールッラー」。我々日本人ならアラビア語で唱えるのが少々難しいかもしれないが、それを唱えるだけでイスラム教徒にはなれるのである。

第二は礼拝である。これはイスラム教徒でない人々にも良く知られていることであろう。彼らは一日に何度も礼拝するということが、特異の目をもって見られた時代もあったが、現代では文化の違いであるということが理解されており、礼拝に対する配慮もなされてきている。礼拝は一日に5回と決められている。日の出前。正午。午後。日没時。夜。時計のない時代の昔、人々はどのようにして礼拝の時を知ったのであろうか。日の出や日没、夜も空を見ればわかる。正午とは太陽が真上に来たことでわかる。午後というのはいつでもいいわけではなくて立った自分の影の長さが身長に等しくなるときである。それとは別に、どこにいても礼拝の呼びかけ(アザーン)がけたたましく鳴り響くことで否応なしに礼拝の時は分かるのである(笑)。礼拝の方向であるが、これは世界中どこにいるイスラム教徒もメッカの方向を向いて行う。現代ではスマホのアプリでメッカの方角も簡単に示してくれるし、礼拝の時刻もアラーム設定すれば教えてくれる。昔は昔で「キブラ・コンパス」というものがあったのだ。キブラとはメッカの方角を意味し、コンパスに自分がいる場所(地域)のメモリを合わせれば大体の方角がわかるのである。この方角であるが、イスラム初期にはメッカではなくてエルサレムであったこともある。また、礼拝の回数であるがムハンマドが天上に登り神に近づいたとされる伝説の際に、もっと多かった礼拝の数を5回にしてもらったというような話も聞いたことがある(真偽のほどはわからない)。皆さんはモスクに入ったことがあるだろうか。モスクにはメッカの方角に向けて壁にくぼみが造られている(ミフラーブという)。モスク内ではそれに向かって礼拝するのである。下にスマホに入れたアプリの写真。

3番目は喜捨である。豊かな人が貧しい人々に富を分け与えること。現代社会のように税を集めて社会保障に充てるような意味合いがある。一種の救貧税ともいえる。コーランには喜捨の用途はまずは貧者、生活困窮者に、・・・・奴隷の身請け、負債で困っている人、旅人・・・などと記されている。商売で利益があれば2.5%だとか農産物の?%だとかあるようである。また、エジプトでは毎日の売り上げからいくらかをサンドウク(金庫・基金)に持っていく姿をNHKの番組で見たことがある。

第4は断食である。イスラム暦の第9番目の月(ラマダーン月)の一カ月間、日の出から日没まで一切の飲食ができない。但し、十歳以下の子供、病人、旅行者、妊婦・授乳中の女性、・・・・などは断食をやらなくてもよい。断食の理由は色々な説があるが、私が二十代のときに付き合っていた同世代の人はこう言った「1年に一回1カ月間断食をすることで、普段十分に食を摂ることができない人々の思いを知ることができる。そのような人々に思いを馳せることができる。そして、月末に近づくにつれて、自分の精神が研ぎ澄まされるように感じ、心があらわれるようなすっきりした気持ちになる」と。断食という食を絶つということだけでなく、慈善行為をする、助け合いに励む、禁欲生活をすることなども心掛けるようである。

最後は巡礼である。イスラム教徒は一生に一度メッカへ巡礼するという行である。現代ならいざ知らず、昔は飛行機や車があるのではない時代であった。例えばインドネシアからメッカまで行くことは不可能だったのではないだろうか。その困難を克服して巡礼することに意味があったのかもしれない。あるいはイスラムがこのように世界中に広がることは想定外だったのかもしれない。余談はさておいて、巡礼とはメッカに行くのであるが、それはイスラム暦の第12番目の月の8から10日と定められた日に行かねばならないのである。そして、メッカのカーバ神殿の周りを七周ほど回ったりする礼拝の儀式を行い、その後、近くのラフマ山に行き、石投げの儀式などを済ませるのである。こうして巡礼を終えるとハッジという称号が与えられる。イスラム教徒にとってこれは大変な名誉なことであり、親戚、一族の誇りである。

 

「六信五行」の六信とは?

ムスリム(イスラム教徒)が信じなければならない6つのことと、実践しなければならない5つのことを合わせて「六信五行」という。言い換えれば、これがイスラムの教えと言ってもいいだろう。今回はその中の「六信」を取り上げよう。6信を上のような図にしてみた。

1.アッラー :神である。唯一絶対の神・・・・ほかに神はいない。

2.天使 :アッラーと地上との間をとりもつ。コーラン第35章1節「讃えあれアッラー、天地の創造主、天使らを使者に立て給う。その翼は二対、三対、または四対。数を増して創造なさるは御心のまま・・・」アッラーは天使を思いのままに創造できると書かれている。ムハンマドにアッラーの啓示を伝えた天使ジブリールは天使の中でも位の高い天使である。キリスト教で受胎告知を伝えたとされる天使ガブリエルのことである。

3.啓典:コーランである。福音書をもつキリスト教、詩篇と律法の書をもつユダヤ教、コーランを持つイスラム教はいずれも天啓の書をもつために、これら三者は同一のカテゴリーにはいるものとされ、啓典の民という。

4.使徒(あるいは預言者):文字通り神の言葉を預かり、人々に伝える者のこと。イスラムではムハンマドがそうである。が、面白いことにユダヤ教やキリスト教のモーゼやキリストもイスラム教の預言者なのである。イスラムからみた預言者の系譜が次図である(自由国民社『中東』より引用)。

5.最後の審判:審判の日があり、生前の善行・悪行により天国・地獄に別れる6.天命(神の予定):この世のすべてのことは神が定めた予定にそって展開。

これは私自身の思うところなのですが、ムハンマドはユダヤ教やキリスト教の延長線上にイスラムを作り、過去の2つを再構築しようとしたのであろう。ノアやアブラハムやモーセやキリストたちもイスラム側でも崇められるべき預言者となっている。ノアの洪水伝説など聖書にでてくる物語もコーランには現れる。もっとも洪水伝説はメソポタミア時代の粘土板にも記載されている物語ではある。ムハンマドが山で瞑想に耽っていたときに、啓示を伝えようと天使ジブリールが現れて「読め!」と言われたとき「私は読めません!」と答えたという。そのことから、ムハンマドは読み書きができなかったということなのであるが、彼自身はユダヤ教やキリスト教について非常に多くの知識を持っていた教養人であったのであろう。と私は思うのである。

イスラム誕生の時代背景

イスラムがアラビア半島の西部、紅海沿いのメッカに誕生したことはすでに述べた。今回は当時の中東地域の状態がどのようであったのか述べてみたい。ササン朝(226~651)がビザンツ帝国(395~1453)と争っていたこともすでに述べたが、上図で示す通り、両者の間では継続的な戦争状態が続いていた。そのことによって絹の道を通じて行われていた商業活動がリスクを回避するためにアラビア半島へ迂回するルートを選ぶようになっていった。インド洋からアラビア海にかけての水域は海にシルクロードと呼ばれるほどに商業活動が活発な海域になっていった。アデンやメッカ、メディナなどの土地が貿易中継地となって繁栄したのであった。メッカの富める商人たちとムハンマドが対立したのはそうような時代であった。元来、部族性を基礎とする遊牧社会のアラブでは互いに授けあう社会だったが、大商人が富を独占し貧富の差が拡大するという社会的な矛盾が激化していたのだ。

イスラム暦とは

前回、イスラム暦の紀元は622年のヘジラの年であると述べた。そこで今回はイスラム暦について説明しよう。まず暦というものが世界に1つというものではないということを改めて認識しましょう。中国ではまもなく春節(正月)になります。日本でも昔は旧暦を使っていました。マヤ暦というのも数年前に話題になりましたね。ユダヤ暦というのもありますね。だから、イスラムでは独自のイスラム暦を使っているからといっても、それは何も特別なことではないということを先ずは認識しておいてください。てそこでイスラム暦です。

太陰暦である。ということは月の満ち欠けに基づいた暦であるということ。ひと月は新月から始まる。それぞれの月には名前がついている。9番目の月の名はラマダーンといって断食月である。12番目の月は巡礼月。詳しくは次のようになる。

29日の月と、30日の月が交互に繰り返すから、それぞれが都合6回ずつになる。つまり1年の日数は355日である。我々の1年が365日に較べると11日間少ないことになる。従って、我々の暦は季節に一致しているが、イスラム暦では季節が少しずつずれてくる。分かりやすくいうと、例えば今年我々の1月1日とイスラム暦の1月1日が一緒だったとすると、我々の暦の今年の12月20日にイスラム暦では一足早く翌年の1月1日になる。そうして毎年11日ずつ前へ前へと行くので1月1日が冬から次第に秋になり、だんだん夏になっていくとうことになる。だから、あの断食の月も秋になることもあれば夏になることもあるわけである。お判りいただけたであろうか。

イスラム世界での行事、祝祭日などはイスラム暦をもって執り行われる。一方で、現代のようなグローバル化された時代においては、国際間のやり取り上でどうしても西暦も必要になっている。従って、多くの国々では西暦と併用することが一般的である。昨年だったか、サウジアラビアでも西暦を一般化するような方針を打ち出したようだった。そうなると、今より1年が11日増えることになる=働く日が増えるから反対だというような声もあったとか報じられていた。当事者でないと分からない感覚だと思ったのである。

イスラム暦は太陰暦であると言ったが、イスラム暦と紀元を同じくした太陽暦もある。それはイランの暦である。イランも同じイスラムの国である(但し、十二イマーム派のシーア)ので、イスラムの行事はイスラム暦に従うのは当然であるが、日常生活の暦は太陽暦を用いており、正月の元旦は毎年3月の春分の日である。このことは既にゾロアスター教のところで述べたとおりであるが、ゾロアスター教の影響である。イラン人の暦には西暦とイスラム暦とイラン暦の3つが一緒になっているのである。

ムハンマドの登場:イスラム誕生

イスラムが誕生したのは7世紀のことである。ユダヤ教やキリスト教に較べると、ずっと新しいのである。7世紀、アラビア半島のメッカで一人の男が神の啓示を受けたということからイスラムは始まった。この男とはムハンマドである。イスラムの創始者といえば、今ではムハンマドというのが定着しているが、以前の日本ではムハンマドのことをマホメットと呼んでいた。それはなせだろうか?アラビア半島はアラビア語の世界である。アラビア語でムハンマドと書いた場合、そのスペルは m h m d と書く。子音ばかりで母音がない。マホメットという呼び方も、そのような母音を記さないことに原因があるのであろう。冒頭の文字は筆者が書いたムハンマドというアラビア文字である。

ムハンマドの生い立ちから始めることにしよう。彼は571年にメッカに生まれた。当時のアラビア半島は部族社会であった。ムハンマドの一家はクライシュ族の支族であるハーシム家に属していた。彼が生まれる前に父は死去しており、6歳のときに母親も他界したため、叔父に養育されたという。この時に叔父の息子アリー(ムハンマドとは従兄弟である)と兄弟のように育ったのであるが、このことを読者には覚えておいてもらいたい。25歳のときに15歳年上の未亡人で女商人のハディージャと結婚し、その後二人の間に二男二女を授かったが、男子二人は成人前に早逝した。

610年ころ(40歳ころ)にメッカ郊外のヒラー山で瞑想に耽るようになり、天使ジブリール(ガブリエル)が現れて神の啓示を受けたとされている。その後何度か啓示を受けた後、妻のハディージャに支えられて、預言者の自覚をもって、イスラムの布教活動を始めた。布教を始めたといっても簡単なものではなかった。ムハンマドは当時のメッカの社会の状態を憂いていたのである。大商人たちが富を独占していること、彼らの利益追求の姿勢、飲酒や賭博の蔓延などなどを批判して、社会の変革を訴えようとしたのだった。全ての人々は平等であると訴えた。彼の布教活動を理解しめしたのは第一に妻のハディージャ、次に従兄弟で兄弟のように育ったアリー、そして友人アブー・バルクたちであった。布教活動が進むにつれてムハンマドには商人たちから圧力がかけられた。抵抗するも多勢に無勢であったろう。ムハンマドはメッカの人々から迫害をうけてメッカを去った。行った先はメディナである。この移動をイスラムでは「ヒジュラ(ヘジラ)」日本語では「聖遷」といって、イスラムの歴史の重要な出来事である。イスラムの人々は我々とは異なる暦を使っている。イスラム暦である。

イスラム暦の紀元はこの事件が起きた西暦622年である。

ササン朝(2)ローマ帝国との争い

ササン朝(226-651)の時代、ヨーロッパ世界ではローマ帝国が発展していた。しかしながら、ローマ帝国は皇帝テオドシス1世が亡くなるとき(395年)に東を長男アルカディウスに、西を次男のホノリウスに与えた。ローマ帝国は東と西に分かれた分割統治となったのである。その後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に悩まされ、100年足らずの476年に崩壊する。東ローマ帝国はオスマン帝国に敗れた1453年まで長きにわたって繁栄した。このような時代背景を踏まえた上で、ササン朝とローマ帝国との覇権争いを見ることにしよう。

シャープール1世(在位242~272年)が260年にエデッサの戦いでローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。4世紀にはユリアヌス帝(361~363年)がササン朝との戦いでクテシフォンまで迫ったが傷を負い戦死した。ササン朝のホスロー1世は579年ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いで戦死した。ホスロー2世(590~628年)は614年にビザンツ帝国の領土であったエルサレムを攻撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち帰った。ローマ側のヘラクレイオス1世(610~641年)が628年にクテシフォンを占領した。・・・・このように歴史年表に現れている主だった戦いの記録からも両者の敵対関係を知ることができる。

冒頭の写真であるが、私の背後に写っているのが、文中で述べたエデッサの戦いの戦勝記念のレリーフ碑である。シャープール1世が馬上から、捕虜にしたローマ皇帝ウァレリアヌスを見下している。一方、ローマ皇帝は跪いているという図柄である。このように強力な勢力を誇ったササン朝を打ち滅ぼした勢力がイスラムであった。

ササン朝ペルシア(1)

ササン朝ペルシアを手元にある数研出版『世界史辞典』で引いてみると、以下のように記載されている。

ササン朝(Sāsān)226-651 中世ペルシアの王朝。名はその先祖イスタフルのマズダ教の祭司ササンに基づくという。アルダシール1世(226-241)がパルティアの衰微に乗じて、クテシフォンに即位、諸王の王と号し、ゾロアスター教を国教としたが、総じて他宗教にも寛容。領土を広げて古代ローマ帝国と対立。6世紀中ごろ、ホスロー1世のとき、黄金時代を現出、しばしば東ローマ帝国に侵入したが、同世紀末から衰え、ニハーヴァンドの戦いでイスラム帝国に敗れて崩壊、まもなく名実ともに滅んだ。ペルシア固有の華やかな技法にギリシア、インド的要素を加えた銀器・青銅器・ガラス器・連珠紋模様の絹織物などのササン朝美術はシルクロードを通じて当方に伝えられた。

ササン朝の特徴の第一は上述されている中の1つ「ゾロアスター教の国教化」であろう。ゾロアスター教については既にこのブログの中でアケメネス朝の王族が信仰していたことを述べた。ダレイオス大王はゾロアスター教の神・アフラマズダが我を王位に就けたと宣言している。ササン朝になると、更にその傾向は強くなり、ササン朝時代のレリーフには「王権神授」を表す絵柄が多くみられる。

上の写真はNaqshe-Rajabにあるレリーフである。アルデシール1世の王権神授の図である。下の写真はターゲ・ボースタンにあるレリーフである。これはホスロー2世がアナヒータ神とアフラマズダ神から光輪を授けられている図である。

ターゲ・ボースタンにはこのほかにも美しいレリーフがある。次の写真は天使あるいはアナヒータ神でしょうか。非常に美しいと思いました。(写真は筆者が撮ったものである)

第二の特徴は、ササン朝では諸文明を融合した高度な文化が生まれたことである。優れた様式や技術は、ササン朝を滅ぼしたイスラム世界にも継承されるとともに広く東西各地へ伝播し、その地方の文化に影響を与えた。わが日本にもその影響が奈良に残っている。法隆寺の「獅子狩紋錦(ししがりもんきん)」には日本に生息しない獅子(ライオン)を描かれている。ササン朝ペルシアの「帝王獅子狩文銀皿」の獅子をモデルにしたという説がある。山川出版のヒストリカには次の図でササン朝文化の伝播が説明されている。

奈良正倉院にある漆胡瓶(しっこへい)がササン朝の影響を受けたものであり、同様に他地域でも同じように影響を受けた瓶が存在するという説明である。ササン朝の洗練された文化が銀器・青銅器・ガラス器などの優れた工芸品を生み出した。そして、それらの品はシルクロードを経て各地へ伝わった。東方へのシルクロードの中国の起点(終点)は長安であった。そして、当時の日本へと伝わったのである。奈良正倉院には西方から伝わった工芸品が多数保存されていることを読者はご存知の通りである。今回はここまでにしておきましょう。

ササン朝ペルシアの台頭

アレクサンドロス大王の死後、彼の帝国は大きく分けると3つに分裂していった。プトレマイオス朝のエジプト、アンティゴノス朝のマケドニア、そしてセレウコス朝シリアであった。西ではローマが地中海世界を征服し発展していた。その当時の勢力図を山川出版社『世界史図録ヒストリア』では次のように描いている。

上段はBC270年頃でアレクサンドロスの帝国の領土を引き継いだセレウコス朝が広大な領土を有しているが、下段のBC200年頃の図ではセレウコス朝の東部にバクトリアとパルティアが勢力を拡大していることがわかる。更に、帝国書院『最新世界史図説タペストリー』の次の図ではパルティアがさらに拡大している。そして、その下の図になればササン朝ペルシアがペルティアにとって代わっている。この間の歴史の流れについては割愛するが、アケメネス朝ペルシアが滅亡したあと、再びササン朝ペルシアが台頭したのである。

西暦224年アルデシール1世がパルティア(中国名安息)を倒して首都クテシオン(現在のイラク領内)を占領し、ササン朝を建国した(226年)。ササン朝の詳しいことは次回以後に。