ササン朝(226-651)の時代、ヨーロッパ世界ではローマ帝国が発展していた。しかしながら、ローマ帝国は皇帝テオドシス1世が亡くなるとき(395年)に東を長男アルカディウスに、西を次男のホノリウスに与えた。ローマ帝国は東と西に分かれた分割統治となったのである。その後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に悩まされ、100年足らずの476年に崩壊する。東ローマ帝国はオスマン帝国に敗れた1453年まで長きにわたって繁栄した。このような時代背景を踏まえた上で、ササン朝とローマ帝国との覇権争いを見ることにしよう。
シャープール1世(在位242~272年)が260年にエデッサの戦いでローマ軍を破り、皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。4世紀にはユリアヌス帝(361~363年)がササン朝との戦いでクテシフォンまで迫ったが傷を負い戦死した。ササン朝のホスロー1世は579年ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いで戦死した。ホスロー2世(590~628年)は614年にビザンツ帝国の領土であったエルサレムを攻撃し、イエスが磔になったという十字架を持ち帰った。ローマ側のヘラクレイオス1世(610~641年)が628年にクテシフォンを占領した。・・・・このように歴史年表に現れている主だった戦いの記録からも両者の敵対関係を知ることができる。
冒頭の写真であるが、私の背後に写っているのが、文中で述べたエデッサの戦いの戦勝記念のレリーフ碑である。シャープール1世が馬上から、捕虜にしたローマ皇帝ウァレリアヌスを見下している。一方、ローマ皇帝は跪いているという図柄である。このように強力な勢力を誇ったササン朝を打ち滅ぼした勢力がイスラムであった。