アケメネス朝第2代国王「カンビュセス2世」

キュロス大王がアケメネス朝初代の王であるが、アケメネス家の存在は紀元前700年ころまで遡ることができる。上の図は山川出版社の『世界史図録ヒストリカ』に掲載されている系図の一部を拝借したものであるが、キュロス大王はキュロス2世ということになる。系図によると祖父がキュロス1世であり、父がカンビュセス1世ということがわかる。そして、キュロス大王は生前にカンビュセス2世を王位継承者に指名し、弟のバルディアには広大な地域の統治権と特権を与えた。カンビュセス2世はBC525~BC522年にかけてエジプトを征服し、さらにリビアから中央アジアにいたるまで帝国の領土を拡大したのだった。

カンビュセス2世は父親のキュロス大王とは性格が違い、短気で癇癪持ちであったと言われるが、彼は一人の国王の命令によって全国が統一されるような支配体制、つまり中央集権的な国家を望んだ。その結果、弟のバルディヤを暗殺したのであるが、暗殺されたはずの弟の偽者(マギ僧のスメルディス)が現れた。そして、この偽者はカンビュセスがエジプトの遠征中に王位就任を宣言した。カンビュセスは急いで帰還しようとしたが、そこで急死する。ということで、カンビュセス2世はあっけなくこの世を去ったのであるが、この偽者の王を巡って国は混乱する。このあたりの歴史については、ギリシアの歴史家で有名なヘロドトスが『歴史』の中で詳しく書いている。ヘロドトスが生きた時代がこの時代に近いこともあって、彼の『歴史』に書かれていることは比較的信頼性も高く、注目すべき内容なのである。

さて、カンビュセス後の後継者が系図では直系でないダレイオス1世となっているではないか。その辺りの経緯は次回に譲ことにしよう。

アケメネス朝ペルシア創設者キュロス大王の墓

前回、キュロス大王がユダヤ人を解放したと述べた。彼はアケメネス朝ペルシアを建国し、パサルガダエで新しい都の建設を始めたのであった。しかしながら、この都の完成を待たずしてキュロスは戦士した。というもののここには建設された宮殿などの遺跡が残されている。その後、都はスサやペルセポリスに移るのである。ここで最も有名なのが上の写真の背景である。キュロス大王の墓である。私の身長が丁度第一段目ほどであるので、高さは私の身長の8倍から10倍程度でしょうか。次回からアケメネス朝の歴史になります。

オリエント世界 (4) ユダヤ人の解放

上の図は帝国書院発行の『最新世界史図説・タペストリー』から拝借したものであるが、アッシリアが崩壊したあとの四王国時代が描かれている。そして、その後のオリエントを再び統一したのはメディアの支配下から立ち上がったペルシア人のアケメネス一族である。アケメネス一族はアステュアゲス治下のメディアを陥落させたあと、クロイソス治下のリュディアを、ナポニドス治下の新バビロニアを征服していった。そしてアケメネス朝ペルシアが誕生した。王位に就いたのはキュロス大王であり、スサに最初の都を築いた。彼が新バビロニア王国を打ち破ったあとに最初に行ったことは、バビロニア捕囚、つまりユダヤ人たちの解放であった。ユダヤ人たちはパレスチナに戻ることができ(戻らなかった人もいる)、破壊された神殿を再建したのであった。ユダヤ人の歴史はこのあとハスモン朝の建設、ローマの支配下、ローマとの闘いなどと続くのであるが、それはまた別の機会に譲ろう。ここでは、ユダヤ人たちがバビロン捕囚の身から解放してくれたのがペルシアのキュロス大王であったということを強調したいのである。現在、ペルシア人のイランとユダヤ人のイスラエルは犬猿の仲であるが、古代の歴史を振り返れば、ユダヤ人たちはペルシア人たちに大きな借りがあるということになる。旧約聖書のエズラ記の冒頭は「ペルシアの王キュロスの布告」である。キュロス大王がユダヤ人たちにエルサレムへの帰還を許し、神殿を再建することを許すということが布告されたと記されているのである。ユダヤ人にとってキュロス大王は英雄だったのである。

 

 

オリエント世界 (3) バビロニア捕囚

前回、ヘブライ王国やバビロン捕囚の語句がでたので、それに関連して書いてみよう。旧約聖書ではユダヤ人はアブラハムに率いられて古代メソポタミアのウルから西に向かい、カナンの地に入植した。そこは乳と密の流れる地であり、ここがパレスチナであった。ここでユダヤ人達はペレシテ人の地に初めて入植したことになる。しかし、その後、飢饉などのせいでユダヤ人たちはエジプトに移住していった。エジプトでは奴隷のような扱いをうけて苦難の日々を送っていたことから、再びエジプトを脱出することになる。それを率いたのがモーセ(モーゼ)である。旧約聖書の「出エジプト記」にはそのことが記されている。モーセに率いられた一行はエジプト軍に追いかけられ進路がなくなった時に海が割れて道ができるなどの奇跡が起きる中、十戒を授けられるが、それを守り、ついにカナンの土地に戻ることができたのである。しばらくの間、ユダヤ人たちの世界は繁栄し自分たちの国・ヘブライ王国を持つことができた。都エルサレムには神殿が建設された。この神殿は今では残っていないが、ユダヤ教徒が聖地としているのはこの神殿跡である。神殿の壁の一部が残っており、それが「嘆きの壁」である。知恵者で有名なソロモン王はこの国の第三代目の王であった。しかしながら、この王国は紀元前926年頃に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国はその後アッシリアによって滅ぼされた。ユダヤ王国はもう少し長く続いたが、新バビロニアにより征服され、ユダヤ人たちは捕らえられてバビロンに連れていかれてしまう。歴史でいうところの「バビロニア捕囚(バビロンの捕囚)」である。時は紀元前586年~538年頃のことである。

旧約聖書の詩編137には次のような詩がある。この中のシオンというのはエルサレム神殿のあった丘のことであり、ユダヤ人たちがシオンの丘に国家を造って戻ろうという運動がシオニズム運動と呼ばれたのであった。

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オリエント世界 (2) アッシリアのオリエント統一

歴史とは栄枯盛衰そのものである。国が滅ぼされ、新たな国が興り、それがまた滅びゆく。メソポタミアの歴史もそうであった。ヒッタイトのほか、地中海貿易で活躍したフェニキア人たち、内陸貿易で手腕を発揮したアラム人たちがいた。ユダヤ人はダヴィデやソロモンという名君を得て繁栄した。ヘブライ王国が栄華を極めた。それもつかの間のことだった。ヘブライ王国はユダ王国とイスラエル王国に分裂する。その辺の流れを図示してみると次のようになった。

図の中ほどから下の部分に横たわっている部分が今日の重要事項である。前7世紀前半のアッシリアのオリエント統一である。北メソポタミアから興ったのがアッシリアであった。アッシリアが発展したカギとなったのは強力な常備軍だった。アッシリアは軍事遠征を繰り返して巨大帝国を維持しようとした。統一後も征服した地域を圧力をもって治めた。アッシリアの圧政は支配される人々の反感をかいアッシリアの命運は尽きた。アッシリアを直接討ったのはメディアであるが、あっしり滅亡後のオリエント世界にはメディアのほかにリディアがあり、バビロニアが新バビロニアとして復活し、群雄割拠のありさまとなった。図で分かるように、二つに分かれたユダヤ人の国・ユダ王国が滅びずにいたのであるが、新バビロニアによって滅ぼされた。そして、ユダヤ人たちが捕囚となってバビロンに連れていかれたのである。

オリエント世界 (1) メソポタミア文明からバビロン第一王朝

中東世界について2回書いたのであるが、アラブやトルコ、イランという前の中東世界があった。中国、インドとともに世界の四大文明であるメソポタミア文明とエジプト文明が中東地域で誕生した。現代世界において、政治・社会面で不安定な地域ではあるが、その昔、この地域は文明の開けた世界の中で最も発展していた地域であった。やがてこの地域はヨーロッパ世界からオリエントと呼ばれるようになる。その時代を大雑把に下図のように描いてみた。

メソポタミア文明を築いた中心はシュメール人であった。ウル、ウルク、ラガシュといった有力な都市が互いに競い合って発展していった。だが、シュメール人がどのような人々だったかは、いまだに謎とされている。

メソポタミアは世界で最も早く文字が発明された場所でもある。彼らの文字は絵文字の起源となり、やがて楔形文字に発展していった。文字は商業、経済、政治、文学といった多くの場面で使用された。メソポタミア周辺で発見された粘土板文書は50万枚にも達すると言われている。粘土板に記された有名な物語が『ギルガメシュ叙事詩』である。神と人間が入り混じった主人公ギルガメシュの物語で粘土板に書かれている。「ノアの方舟」の元と思われる洪水伝説が語られている。矢島文夫さんが訳出したものがちくま学芸文庫から出版されている(900円税別)。

図に記されたアツカド文明は紀元前2330年頃から約1世紀の間、シュメール時代に割り込むように栄えた。アツカド人はアラビア半島にルーツをもつセム系言語(アラビア語もセム系)を話す民族だったとされている。その次がバビロニアである。前2000年頃~前9世紀頃まで、中部イラクのバビロンを中心に栄えた。ハンムラビ王はメソポタミアを統一して帝国を築こうとしたが、多様な民族を統合するために制定したのが「ハンムラビ法典」であった。そのバビロニア王国もヒッタイトの攻撃により滅びた。

 

 

中東世界とは (2)

前回、数多くの少数民族がいると書いた。例えば、イランにはルール、バルチ、トルクメン、クルド、バクチヤーリなどがいる。アラブ人やトルコ人もアルメニア人もいる。でも中心をなすのはイラン人=ペルシア人=アーリア人であって、イランと言えばペルシア文化が基調の国である。

同様にトルコもそうである。中東問題のひとつでもあるクルド問題のクルド人達は少数民族ではない。しかしながら、東ローマ帝国を滅ぼして築いたオスマン帝国の主役はトルコ人であり、そこに築いたのはトルコ文化である。このような意味合いで、私は上の図を描いたのである。中東にはアラブとペルシアとトルコの3つの文化があることを認識してもらいたい。

強調したいのは「中東には数多くの民族、そして彼らの文化があるので一つではない。しかし、中東の文化には3つの中心的な文化がある」ということである。多くの人々はイラク人とイラン人は同じ中東の隣の国で同じような民族・文化であると思っているのではないだろうか。イラクはアラブであり、イランはそうではない。特にイラン人は同一視されることを嫌悪する。それは西洋人が我々をみて「チャイニーズ?」「コーリアン?」と言われたときの感情以上のものがある。シルクロードを通じて中国や日本に洗練された文化を伝えたササン朝ペルシアは初期のイスラム帝国=アラブに滅ぼされたのだった。

 

中東世界とは

本ブログのサブ・タイトルは「中東・イスラム世界への招待」である。中東とはどの地域を指すのだろうか。上の地図はヨーロッパの人々が見慣れている世界地図である。我々日本人が見慣れている地図は日本が中心に描かれているが、この地図で日本は東の端に描かれている。つまり「極東」という言葉はこのような地図を利用している人々の世界観から生まれた概念である。ヨーロッパに近い東方が「近東」と呼ばれ、それは東北アフリカの辺りを指すことになり、「中東」とはその東となる。このブログではトルコ、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、オマーン、イェメン、そしてイスラエルの15ヵ国を中東諸国としておこう。

これらの国々を宗教で分類するとイスラム教が主流でない国家はイスラエルだけである。レバノンは元来キリスト教マロン派が中心勢力を占めていた地域であり、複雑な民族と宗教構造からなるイスラムとキリスト勢力の混合国家としておこう。残りの13ヵ国はすべてイスラムの国である(宗派に違いはあるものの)。

民族で分類するならば、イスラエルはユダヤ民族が建設した国家である。この国家建設がパレスチナ問題を引き起こしたのである。トルコ民族の国家がトルコであり、イラン民族(ペルシア人)の国家がイランである。残りの国々の主要構成民族はアラブ民族である。アラブ民族とはアラビア語を母語とする人々を指し、その人々は中東から北アフリカ一帯の広い世界に居住している。アラブはひとつというアラブ民族主義の質は時代とともに変遷してきた。トルコの公用語はトルコ語であり、イランの公用語はペルシア語である。というもののトルコやイランにはクルド語を話すクルド民族やキリスト教徒のアルメニア人も居住しているし、もっと数多くの少数民族も存在しているので、この国はこれこれであるとステレオスコープ的に決めつけることはできない。

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2019年1月ブログ開始です。

中東・イスラム世界について名古屋から発信いたします。サイトの整備しながら進めてまいります。記事の掲載は最初は歴史から入っていきますが、合間合間に時事的な記事や、想いでの体験話などを取り混ぜていこうと思います。遅々たるものかもしれませんが、お付き合いの程を宜しくお願いいたします。