東海道新幹線が開業したのは昭和39年(1964年)10月1日であった。東京オリンピック開催の直前だった。私は高校3年生で大学受験前であった。あれからもう55年になるのだ。私が大学を卒業して、社会人になったのが昭和44年(1969年)。そして、2年後の1971年にイラン駐在員となった。その後、現地で2年ほど経過したときだった。パーラヴィー国王時代であったが、イラン政府が日本の新幹線をイランに走らせたいという意向を私たちの会社に伝えてきた。日本の新幹線をイランに走らせるという新たな計画が突然現実化し始めたのであった。
当時の日本はまだ「国鉄」の時代だった。昔のことなので詳しいことは忘れたが、国鉄と直接ではなくJARTSという国鉄の関連組織が窓口となって、プロジェクトの調査計画を始めたと記憶している。イランはテヘランとペルシャ湾の港コラムシャーとを結ぶ既存の「南線」を電化複線化にすることのほかに、テヘランと聖地マシャドを結ぶ既存の路線を新幹線にすることが希望であった。マシャド線はフランスの技術協力で完成したターボトレイン車が快適な列車の旅を提供していた。下の写真のように車内には飛行機のキャビンアテンダントのような若い女性がいて乗客のケアをしていた。しかし、国王は国威発揚的な意味で新幹線を走らせたいという意向であったようだ。従って、このプロジェクトのメインは新幹線計画であった。
とんとんと話が進み、日本国鉄の技術者たちがイランに入ってきた。当時の滝山技師長、呉副技師長他が来イした。副技師長は現地の中心メンバーとして長期に滞在していた。テヘランからマシャド間の調査のためにイラン国鉄は列車を提供してくれた。列車には寝台車と食堂車がついており、調査中の食事はそこで摂ることができた。イラン料理は美味しかった。次の写真はその時のものである。私はずーと同行して、現地の人の聞き取りなどに活躍(笑)した。
数日間かけて路線の周辺を調査しながらマシャドに到着した。マシャドはシーア派イラン国内で重要な聖地である。817年、8代目イマーム・レザーがこの場所で殉教した地である。モンゴルの攻撃を受けたり、ティームールの息子ミーラーン・シャーによって壊滅的な打撃を受けた町である。しかし、16世紀になりサファヴィー朝の時代に復活したのである。
我々の調査はマスタープラン作成後のフィージビリティ・スタディ(可能性調査)を経て、実施設計へとはいり、その設計も完了したのだった。分厚い報告者が日本から持参されて、すぐさまそれは道路大臣にプレゼンされた。そして、計画に係るすべての成果品を引き渡したのであった。
イランに革命(1979年)が起こらなかったなら、80年代に日本の新幹線がイランに走ったはずだった。けれども革命、その後のイラクとの戦争でイランは混乱状態になっていった。前政権(王政時代)のプロジェクトは殆どが否定されてしまった。ペルシャ湾では三井グループが推進していたIJPCプロジェクト(イラン・日本石油化学プロジェクト)が完成前に頓挫してしまった。私たちの会社が手掛けていた他のいくつかのプロジェクトも継続が不可能となっていった。
この新幹線計画がなされていた時、私は結婚直後であった。南線の方の調査に行ったときは、妻を一人テヘランに残すのが偲びないので、一緒に連れていくことが許されるという粋な計らいを会社はしてくれた。途中、イスファハンなどの名所は国鉄のスタッフと一緒に観光するということもできた。それは私たちの新婚旅行でもあった。
また、この時に日本の新幹線を語るときに欠かせない人物「島秀雄」さんにお会いすることができた。当時はすでに十河総裁とともに国鉄を去っており、宇宙開発事業団の初代理事長であったが、イランの新幹線計画ということでアドバイスにお出でいただいたのであった。滞在中にケアさせていただいたわけだが、同じ島という姓同士で色々話が弾んだことを覚えている。その時に戴いた宇宙開発公団のグッズ(ネクタイピン)は今も大事にとってある。その時は、正直言うと、新幹線計画になくてはならない人物という、そんなに偉い人とは知らなかったのである。でも新幹線と島三代の関りのテレビ番組などを見て、今は詳しく知っている。
長々と書いたが、日本の新幹線技術の最初の海外輸出が幻に終わったという苦い思い出である。
(注) マシャドという地名について。日本ではマシュハドと書かれているのが殆どであるが、それでは現地で通じない。現地語ではمشهدであり、m-sh-h-dの4文字である。3音目のhは子音のhであり、haではない。従って発音は「マシャhド」と書くのが一番近いと思う。地球の歩き方を読むとローマ字表記がMashhadとなっているので、カタカナではマシュハドとなっているようだ。余談ではあるが、旅行に行く人のために一言付記しました。
キーワード:イラン新幹線、テヘラン、マシャド、