イラン映画「友だちのうちはどこ?」

昨日(2020年4月27日)の中日新聞のホームシアターというコラムで表題の映画が紹介されていた。ブルーレイが4800円(税別)、DVDが3800円(税別)らしい。映画は1987年制作で、監督が有名なアッバス・キアロスタミである。8歳の小学生がクラスメートのノートを間違って持ち帰ったので、それを返しに行こうと友達の家を探して歩くというストーリーである。その過程で、学校の先生、家族、村人たちとの接触があるわけだが、結局友だちには会えず、ノートを返すこともできなかった。それだけの話である。このコラムの筆者は「イラン革命の後、検閲が厳しくなる一方だった87年に撮影された映画だけに、監督のアッバス・キアロスタミは、困難に直面して困ったり、知恵を絞ったりする少年の姿を借りて、検閲に対する批判や自由に映画が作れないことへの不満を語っているのかもしれないと思う」と記している。

確かに当時は検閲が厳しい時代であった。男女間の恋愛感情を直接的に表現することは難しかった。体制に対する批判的な内容もNGであった。それがゆえに、イラン映画は表現の自由が制約された中でいかに表現するかを競い合った。それゆえにイラン映画は「鋭く研ぎすまされてきた」のであると、私は思う。

ただ、この作品では、私は筆者が言うように「検閲に対する批判や、自由に映画が作れないことへの不満」を語っているようには感じなかった。私が、この作品を通して感じたのは、「誰も少年の思いに気づくことなく、気づこうともしない、また、理解しようとしない大人たちの身勝手さ」であった。それはもしかしたら、大人たちが体制であって、少年が国民であったのかも知れない。もしそうだとしたら、キアロスタミ監督の体制に対する批判になるのかもしれないが。とにかく、映画の週末になるにつれ「やるせない」思いが湧いてきたのであった。そして、最後の教室での場面。友だちに返そうとして、開いたノートから白い花が現れたとき、そのやるせない思いが、ぱっと吹っ飛んだのであった。素晴らしい演出であった。この花についてコラムの筆者は「ノートにはさんでおくんだよ」とくれた老人の優しさがうれしいと記している。やはりこの映画において、この花の存在は秀逸であった。

私がこの映画を見たのも1980年代末である。NHKで放映されたのを見た。ビデオに撮った。そして、機会があれば人にも紹介した。その後、キアロスタミの三部作なるものも見た。一つは1992年『そして人生はつづく』である。

そして『オリーブの林をぬけて』(1994年)の3つで三部作と言われている。その後、1997年には『桜桃の味』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1999年の『風が吹くまま』はヴェネツィア国際映画祭審査員賞特別大賞を受賞した。東日本震災後の映画を作るために来日し、2012年には、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を日本で製作した。2016年7月4日、がん治療で訪れていたパリで逝去。76歳であった。・・・イラン映画についてもっと紹介したい気持ちが湧いてきた!

ペルシャ語講座(14の続き):数の表し方

昨日は曜日の名前を紹介したあとで数の表し方になりました。数についてもう少し追加しておきましょう。前回は100と1000まででしたね。

1000 hezar ヘザール
2000
3000
10000
50000
100000
900000
1000000

1000から、2000、3000、4000・・・・は千のhezarの前に2、3、4、・・・を付けていきます。1万では千が10個ですから、ダ・ヘザールでいいわけです。2万なら千が20ですから、ビスト・ヘザールとなります。10万だと千が100個ですからサド・ヘザールですね。そして、百万になると、そのままミリオンです。発音はミリオゥーンです。百万はイェク・ミリオゥーン、2百万ならド・ミリオゥーンです。

とりあえず、数の表し方をちょっと追加しておきました。上の表は空欄ばかりですが、今日はちょっと忙しいので後日埋めておきます。ご自分で書き込んでみて練習するのもいいかも知れませんね。

ペルシャ語講座14:曜日や時刻

ペルシャ語を母語とするイランでもコロナウィルスにより、大変な状況が続いています。現在は隣国のトルコの感染が急増したようです。皆さんもどうぞお気をつけて下さい。今回は時の表し方の一部として曜日や時刻の表現を取り上げましょう。

先ずは曜日です。

曜日 ペルシャ語 ローマ字 カタカナ
金曜日 جمعه jom’e ジョッメ
土曜日 شنبه shanbe シャンベ
日曜日 یکشنبه yek-shanbe イェク・シャンベ
月曜日 دوشنبه do-shanbe ド・シャンベ
火曜日 سهشنیه se-shanbe セ・シャンベ
水曜日 چهارشنبه chahar-shanbe チャハール・シャンベ
木曜日 پنجشنبه panji-shanbe パンジ・シャンベ

イスラム世界では金曜日が休日なので、金曜日を一番上にしました。我々の日曜日に当たるわけです。これが「ジョッメ」、土曜日が「シャンベ」です。日曜日以後はシャンベの前にイェク、ド、セ、チャハール、パンジを付けます。これは1、2、3、4、5という数字の呼び方です。つまりイェク・シャンベは1シャンベということです。ド・シャンベは2シャンベということです。簡単で覚えやすいでしょう。

数字がでてきたので、数字をやってしまいましょう。

0 صفر sefr セフル
1 یک yek イェク
2 دو do
3 سه se
4 چهار chahar チャハール
5 پنج panji パンジ
6 شش shesh シェシュ
7 هفت haft ハフト
8 هشت hasht ハシュト
9 نه noh
10 ده dah

1~10までは上の通りです。最初は覚えにくいかも知れませんが、何度も繰り返すうちにひとりでに身についてくるものです。ただ、数字はこれだけではありませんね。11から20までも覚えなければなりません。英語では13から19まではteenという語が付いてましたね。ペルシャ語も同じです。10のダという語が11から19まで付くのです。同じように表を作ってみます。この表を作るのが中々大変面倒なことを分かってもらえたらありがたいです。

11 یازده yazdah ヤーズダ
12 دوازده davazdah ダヴァーズダ
13 سیزده sizdah スィーズダ
14 چهارده chahardah チャハールダ
15 پانزده panzdah パーンズダ
16 شانزده shanzdah シャーンズダ
17 هفده hefdah ヘフダ
18 هیفده hejdah ヘージュダ
19 نوزده nuzdah ヌーズダ
20 بیست bist ビスト

一応上の通りなのですが、これが標準語とでも言いましょうか。口語では、15~18のところが、プーンズダ、シューンズダ、ヒーヴダ、ヒージュダの方が一般的だと思いますし、自然にそのような発音になっていく気がします。

21からは20のビストのあとに1、2,3,4・・・を付ければ良いわけです。英語の twentyのあとにワン、ツウ、をつけるのと同じです。ですから、30,40,50・・・・を覚えればいいわけです。下に示しましょう。

20 بیست bist ビスト
30 سی si スィー
40 چهل chehel チェヘル
50 پنجاه panjah パンジャー
60 شصت shast シャスト
70 خفتاد haftad ハフタード」
80 هشتاد hashtad ハシュタード
90 نود navad ナヴァド
100 صد sad サド
1000 هزار hezar ヘザール

例えば21の場合、20の後ろに1をつけると言いましたが、実際には 21 + and +1 です。ペルシャ語で and は و va ヴァとなります。21= بیست و یک  ビスト ヴァ イェク なのですが、実際には ビストウイェクというふうにヴァの音はo になります。22=ビストウド、33=スィオーセ、55=パンジョーパンジです。

ちょっと長くなり、時刻のことは扱えませんでした。今日はここまでにしておきましょう。

放送大学のこと

昨日放送大学の講座「中東の政治」について紹介しました。そして、今朝のことですが、6時にそろそろ起きようかなと思って、ベッドからテレビを点けました。チャンネルを回していると、BS231チャンネルで「中東の政治」の高橋和夫先生の講義が始まったところでした。今日の科目は「世界の中の日本」でした。タイトルから判断すると、この科目は中東に焦点を当てたものではないと思ったのですが、今回のテーマは「オスロ合意」でした。オスロ合意というのは、1993年、ノルウェー外相の仲介でイスラエルとPLOが初めて和平交渉に合意した出来事でした。パレスチナ暫定自治協定が成立したわけです。ここで和平へのロードマップが作られて、和平が実現するであろうと淡い期待が生まれたのでした。

当事者であったパレスチナのアラファト議長、イスラエルのラビン首相、ペレス外相には1994年にノーベル平和賞が送られたのでした。でも、あれから30年近くが経過した今も和平はほど遠いのが現状です。

今日の講義はオスロ合意がパレスチナとイスラエルに中立的な立場であるノルウェーという国が公平な仲介をした結果ではないということを、ノルウェーの歴史学者のインタビューをいれて説明していました。イスラエル寄りのノルウェーが、イスラエルという強者の意向を反映するように仲介した結果であると。アラファトも、それをよく理解していて、その時のパレスチナという弱い立場では、これに合意するしかなかったという見方でした。

それ以前のPLOはフセインのイラクのバックアップがあった。イスラエルに敵対するパレスチナにはアラブ諸国の支持があった。ソ連のゴルバチョフ政権も味方した。しかし、イラクのクウェート侵攻、そして湾岸戦争により、湾岸のアラブ諸国はイラクとは対立する立場になった。アラファトはそのイラクと袂を分かつことなく、イラクの侵攻に若干の理解を示したことから、アラブ諸国もPLOへの支援を止めてしまう。湾岸戦争で石油収入の途絶えたイラクはもはやPLOを支援する余裕は無くなってしまった。ソ連はゴルバチョフがペレストロイカを推し進め、冷戦も終結に向かった。ベルリンの壁が崩壊した。アラファトに肩入れしていたソ連自体が崩壊してのであった。これが上述の赤太線で示した「弱い立場」である。

オスロ合意の背景を分かりやすく講義していました。この科目は中東に焦点をあてたものではありませんが、幅広い視野で世界を見つめることができると思いました。次回も視聴してみます。皆様にもお勧めいたします。

放送大学新講座:中東の政治

2020年4月から放送大学の講座で「中東の政治」が始まりました。番組表を見るとBS232チャンネルで土曜日の17時15分からとなっています。私自身はBS231チャンネルで金曜日の午前6時45分からのものを見ています。

 

講師は国際政治学者である高橋和夫先生です。国際政治学者ですが、最も強みのある専門分野は中東関係です。中東で何かがあった時には、テレビのコメンテイターとして引っ張りだこの先生です。私よりずっと若いと思います。アメリカのコロンビア大学大学院で博士課程の単位取得(1979年)をされています。日本では1974年3月に大阪外国語大学外国語学部ペルシャ語科を卒業されています。ということは、私の後輩にあたるわけであります。在学時代が重なっていないので面識はありませんが。それはともかくとして、3回までの講義を聞きました。なかなか分かりやすいと家族は申しておりました。第2回は放送大学のスタジオからではなく、受講生を前にした講義でした。友人であるというピアニストも登場し、講義内容に合わせた音楽のピアノ演奏を随所に入れるというものでした。受講者を飽きさせない良い手法だと感心しました。ここまで書いてきて、今回の文章が「です」「ます」調になっていることに気づきました。それはきっと高橋先生に対する敬意がそうさせたのだと思います。

実は、2月頃からコロナが大流行していて、日本、いや世界中が大変な状態になっています。それで感染防止のために3つの密を避けるようにとの要請ですね。従って、私が主宰している月一度の「中東・イスラム学習会」である「南山会」も2月以来開講していないのです。そこで、私の講義の代わりと言っては高橋先生に失礼なのですが、私の受講生たちに放送大学のこの講座を見るように案内しています。このブログをご覧下さっている皆様にも、放送大学の講座をお勧めいたします。テキストも販売されていますが(冒頭の画像)、なくても良く分かります。15回の講座内容は以下の通りです。

 1.新しい列強の時代
 2.冷戦期のアメリカの中東政策
 3.アメリカの一極覇権
 4.オバマ
 5.「アメリカ・ファースト」の時代
 6.ロシアとイスラム世界
 7.冷戦の頃
 8.プーチン
 9.中国
 10.北朝鮮/小さな軍事大国
 11.イラン/成功の代償
 12.トルコ/新たなるオスマン帝国の夢
 13.イスラエル/ハイテクパワーのジレンマ
 14.サウジアラビア/石油大国の幻想
 15.クルド民族の戦い

 

中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。

 

 

中東の石油(8):石油国有化以後

イランの石油事業が石油メジャーズの殆どのメンバーが参加したコンソーシアムによって運営されるようになったことを前回述べた。その後、1957年にイランの石油開発法が制定された。この法律はコンソーシアムの利権地域以外でNIOC(国営イラン石油会社)が外国石油会社との合弁により、石油開発を進めることを認めたものであった。まず、1957年8月にイランの沖合大陸棚の油田開発のためにSIRIPが設立された。この合弁会社のパートナーはイタリアの国有炭化水素公社(AGIP)であった。ついで、1958年4月にはスタンダード石油インディアナ社の子会社パン・アメリカン石油会社との合弁会社IPACが設立された。これら2社の契約方式は「利権供与合弁事業方式」というべきものであった。NIOCは合弁会社の半分をシェアしているために、利益の50%を得ることができた。一方、外国側のパートナーも利益の50%を受け取るが、イラン政府はその取り分に50%の所得税をかけることができたのであった。つまり、イラン側は利益の75%を受け取ることができるという内容であった。これを契機に、同様の条件による合弁会社の設立が相次いだ。それらはDEPCO, IROPCO, IMINOCO, LAPCO, FPC, PEGOPCO,などであった。この75%対25%という利益配分は周辺産油国における利権協定の条件にも大きな影響を与えていった。

さらに、1966年には新方式の「請負作業契約」がNIOCとフランス国営石油会社ERAPとの間で締結された。この新しい契約は外国の石油会社に利権を与えるのではなく、単なる請負者として石油を開発させるものであった。請け負ったERAPはNIOCの計画、指示によって契約地域内の探鉱と開発に従事するが、ERAPは探鉱・開発の技術と必要な費用は自らが負担し、たとえ油田開発に失敗しても費用は返ってこない。もし、成功すれば探鉱費は無利息借款となり、商業量石油の生産開始後15年間で返済されるというものであった。また、開発費もイランに対する借款となり、こちらは5年以内に、フランスの銀行の現行利息に2.5%を加算した金額相当を返済するというものであった。このように、NIOCはコンソーシアムの協定地区以外で新方式により、より良い条件の下で石油開発を推進していった。これらの合弁会社による石油開発の実績は実は大きなものではなかった。しかし、石油会社との契約条件を改善していったことが、産油国側にとっては大きな成果であった。この方式はイラクやサウジアラビアに波及していったのである。

中東の石油(7):イランの石油国有化(2)

1951年にモサデク首相がイランの石油国有化を行ったことを前回とりあげた。だが、国有化は結局失敗と言わざるを得なかった。イランの石油は国際石油会社からボイコットされたため、市場に出すことができなかった。ということは石油収入が入ってこないということだ。それまでのアングロ・イラニアン石油会社から配分される金額に不満はあったものの、石油収入は莫大なものであった。それが入ってこなくなったのだから、イラン経済は低迷することは当然の成り行きであった。イギリスはイランでの足場を失う大損失を被ることになる。なんとか国有化を阻止したかった。いずれにせよ、国有化は議会で決定されたことであり、国営イラン石油会社もすでに誕生してしまった状況である。

アメリカのCIAとイギリスの諜報機関が連携をとって1953年、モサデク政権転覆作戦(エイジャックス作戦、Operation Ajax)を実行したのである。CIAがイランのザヘディ将軍を担ぎ出して、クーデターのシナリオを実行したのだった。モサデクは失脚に追い込まれ、若き国王がアメリカの保護の下に権力を取り戻した。そして、イランの石油生産、精製、流通、販売を正常化させるために、アメリカの提案で「イラン石油コンソーシアム」が結成された。このコンソーシアムがイランの石油事業を操業するのである。そして、収益の半分をNIOCがとり、残りの半分をコンソーシアムが得るのであった。肝心のコンソーシアムのメンバと出資比率は次の通りとなった。

アングロ・イラニアン 40%
ロイヤル・ダッチ・シェル 14%
フランス石油 6%
ガルフ 7%
モービル 7%
 スタンダード・ニュージャージー 7%
ソーカル 7%
テキサコ 7%
イリコン・エージェンシー 5%

つまり、イランの石油事業を操業するコンソーシアムに当時の国際石油会社が総揃いして参加したのである。そして、イギリスの独占体制が崩れたのであった。結果的にみると、アメリカがクーデターを計画して現政権を崩壊させて、新政権後のイランの石油事業に参入することに成功したということになる。そのシナリオはフセイン政権時代のイラクに大量破壊兵器が存在することをでっち上げて、その政権を崩壊させて、イラクに影響力を行使しようとしたことと重なるものがある。大国にとって政権を転覆させることなど簡単なことなのである。イラン政府とコンソーシアムの契約期間は25年であったが、5年間の延長を3回行うことができた。イランの石油国有化は達成されたというものの「イラン人の手によるイラン石油産業の経営」は有名無実となってしまった。

このコンソーシアムに石油メジャーズの殆どが参加したということは、重要な意味を持っていた。コンソーシアムのメンバーは中東産油国各国で石油会社を操業していた。だから、イランのコンソーシアムで会合をすれば、中東全域の石油生産を、ひいては市場を、価格をコントロールできるようになったのである。1955年におけるメジャーズのシェアは92%という高い比率であった。

イランの石油国有化の失敗はその後のOPECの結成へとつながっていったのである。

中東の石油(6):イランの石油国有化(1)

前回までに中東の石油資源が大国の石油会社の支配下になったことを述べた。各社の出資比率を表にまとめると次のようになる。

イラン トルコ➡イラク バーレーン クウェート サウジアラビア
AP 100 50 23.750 50
ドイツ銀行 25
RDS 25 23.750
仏石油 23.750
エクソン 23.750 30
モービル 11.875 10
グルペンキアン 5.0
ソーカル 100 30
ガルフ 50
テキサコ 30
発見年 1908 1927 1931 1938 1938

AP=アングロ・ペルシャ石油会社。後にアングロ・イランニアン石油会社に変更
RDS=ロイヤル・ダッチ・シェル石油会社。

さて、時代が進むと世界各地で大国による支配に対する反発が強まってくる。植民地からの独立のための運動が起きてくる。石油のような資源に対しても自国に取り戻そうという動きがでてくるのは当然のことである。イランの石油国有化が今回のテーマである。

ダーシー利権を与えたときのペルシャの政治体制はカージャール朝であった。1925年にレザー・ハーンがクーデターを起こして、パーラヴィー王朝を開いた。彼は自らをシャー(王)と称しトルコに倣って国内の近代化に努力した。国名をペルシャからイランと改めたが、イランの石油利権はイギリスが保有したまま残されていた。アングロ・ペルシャ石油会社はペルシャがイランとなったのを受けて、アングロ・イラニアン石油会社(Angro Iranian Oil Company)と改称された。AIOCは1933年にイラン政府と契約を更新した。利権の及ぶ範囲は10万平方マイルに限られ、イラン政府に対する支払いも増大した。しかし、利権の期間は60年に渡る長期であった。アバダンの製油所が大規模化し、ケルマンシャーーにも製油所が建設された。1941年までに5つの油田が発見・開発された。第二次世界大戦中に原油生産は減少した。しかし、戦後の欧州の急速な需要増のために生産は急増していった。そして、各地で民族主義が高揚した。石油生産についても、石油収入の配分が不公平であるとの不満がイラン国内に充満してきた。このような時期の1948年にはベネズエラが石油会社との間で、政府と石油会社の利益配分をそれぞれ50%とする新しい分配方法を定めることに成功していた。サウジアラビア政府もアラムコから同様な条件を獲得した。このような環境で、イラン政府とAIOCとの条件改善交渉は一気に国有化へと飛躍していった。

1951年4月、石油国有化法案が議会に提議され満場一致で可決され、国営イラン石油会社(NIOC)が誕生した。可決後にイギリス人は全員退去し、残された油田や施設の操業はイラン人の手に委ねられた。イギリスはイランの石油が手に入らなくても、イラクやクウェートでの増産により補うことができた。そして、イランの石油を世界の市場から締め出すべく世界の石油会社に、イラン石油のボイコットを働きかけた。ペルシャ湾にはイギリス軍艦が配備されてイラン石油の輸出を阻もうとした。この時にイランの石油を買い付けに行ったのがあの映画「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光石油の日章丸である。・・・・・出光はイギリスから訴えられる・・・・イランは石油が売れなくて経済が疲弊していく・・・・・国有化を断行したのはモサデク首相であったが、政権の座がぐらつき始める・・・・・イギリスとイランの法廷闘争、イギリスと出光の法廷闘争がつづく・・・・イランは混沌とした状況に陥ってしまった。

国有化は行われた。しかしながら、イランの石油事業は行き詰ってしまった。ここでアメリカのCIAが登場するのである。CIAの策略により、クーデターが起きる。モサデクを失脚させる。そして、その後のイランでアメリカが大きな足場を作るのだ。この続きはまた次回に。

 

中東の石油(5):石油の発見(ペルシャ湾岸諸国)

イランで、そしてイラクで石油が発見された。そうなると次はどこかということになる。アラビア半島やペルシャ湾岸諸国であろう。イラク地方で石油利権をめぐる激しい駆け引きが1920年代におこなわれていた当時、アラビア半島に対する関心は低かった。サウジアラビアについていえば、1923年にアングロ・ペルシャ石油会社のジェネラル・マネージャーが送った書簡には「サウジアラビアで石油は発見されそうにない。それは地表に全く油徴がないからである。ほとんど調査されていないとはいえ、地質的な構造からも特に有望とは思えない」と書かれていたそうである。

一方、ニュージーランドのフランク・ホームズ少佐は第一次大戦終了後も帰国せず、石油を求めて中東に滞在していた。そして、彼は1924年にイギリスの保護区であったバーレーンの首長から一鉱区の利権を得た。ホームズはこの利権を1927年11月にガルフ社に5万ドルで売却した。この時、ガルフは赤線協定のメンバーになっていたので、赤線協定の対象地域内にあるバーレーンの石油開発については他のメンバーに諮る必要があった。しかしながら、アングロ・ペルシャ石油がバーレーンでの石油の存在を強く否定したために、ガルフはその利権を協定に参加していなかったソーカル社(スタンダード石油カリフォルニア)に売却したのであった。そして、そのソーカルが1931年に石油を掘りあてたのである。この発見はサウジアラビアへの注目を引くことになる。イラク石油会社内部にもサウジアラビアの利権獲得の動きはあったが、結局、バーレーンで成功したソーカルがイブン・サウド国王から利権を得ることに成功した。

利権を得たものの、ソーカルは資金不足を解消するために、赤線協定には参加していないテキサコに提携を持ちかけた。テキサコはスペインの市場を開拓しており、ソーカルにとっては新しい販路としての市場も魅力的であった。1938年3月にサウジアラビアのダンマンの油田で石油を発見した。そして、石油会社アラムコ(ARAMCO)が設立された。

ガルフがホームズ少佐からバーレーンの利権を得た時に、実はそれにはクウェートの利権も含まれていたのである。バーレーンの利権はソーカルに売却したが、クウェートは赤線協定の区画外であったため、ガルフはその利権を保持していた。クウェートはイギリスの保護下にあった経緯から、クウェートの首長は英国との間で「英政府の同意なしには、誰にも石油利権を与えない」という約束をしていた。ガルフと英国籍のアングロ・ペルシャ石油との間でこの利権をめぐって争いが激化し、首長は両者の駆け引きを利用して好条件を引き出していった。1934年12月23日に両社は首長との間で協定を締結するに至った。クウェート石油会社(KOC)が設立されて、ガルフとアングロ・ペルシャ石油が半分ずつ出資した。双方の和解の裏には一つのテクニックが必要であった。ガルフがカナダに子会社を作って、そこが当事者という形をとったのだ。カナダは英連邦の一員であるからという大義名分ができたというのである。石油は1938年に発見された。

バーレーン
ソーカル社 100%
クウェート
アングロ・ペルシャ石油 50%
ガルフ 50%
サウジアラビア
ガルフ 50%
テキサコ 50%

これで、イラン、イラク、バーレーン、クウェート、サウジアラビアで石油が発見されたことになる。そして、それらの油田は英、蘭、仏、米という大国の石油会社に所有されたわけである。その後、中東諸国ではナショナリズムが台頭する。石油資源を自国の資源に取り戻そうとする動きがでてくる。次回以後は石油資源の国有化への道のりを辿ることにしよう。