このブログでもトルコに関する記事を書いています。それは歴史の部分で「オスマン帝国」についてでした。自分でいうのも何ですが、歴史の上面をざっと述べた程度でしかなかったかもしれません。でも、このブログへのアクセスの統計をみると、「オスマン帝国」と「ササン朝ペルシャ」「ダレイオス大王」などの記事が意外と読まれていることが分かります。自分自身でもトルコという国に対するイメージは悪くはなく、むしろ良い方でしょう。何故でしょうか。「親日的な国・国民である」「アジアとヨーロッパの接点に在って、文化が融合したエキゾチックな国」だとか「オスマン帝国の軍楽隊の音楽が勇ましい」とか、色々あるように思います。トルコを訪れる日本人観光客も多いようです。私もトルコに行ったときには日本語を話す人が寄ってきて、お店などを案内してくれました。結局は客引きなのですが、高いものを買わされるようなことがなければ、全然友好的だなと感じるでしょう。
親日的だという表現は定着していると思います。インターネットでちょっと見てみても、「イラン革命の際に、イランから逃げ遅れた日本人を救出するために、トルコ航空がテヘランから日本人を日本に運んでくれた」ことが代表的な親日の現れのように書かれています。そして、その背景として、「かつてトルコの船が日本で遭難したときに日本人が一生懸命救助の手を差し伸べたことへの、恩返しである」とも書かれています。今回はこのエルトゥールル号の遭難がテーマです。
この地図は紀伊半島の先端です。和歌山県串本町です。串本というと台風が日本に接近した時に、「潮岬の沖100kmに接近」などと耳にすることがある、あの潮岬のあるのが串本町です。その潮岬のすぐ目の前の沖にあるのが「大島」と呼ばれる島です。昔の人なら串本節で歌われたあの大島だとすぐに分かるほど、有名な民謡です。唄いだしは「ここは串本、向かいは大島。仲をとりもつ巡行船・・・・・」です。地図をご覧ください。少し東北に那智山があります。有名な那智の滝のあるところです。そしてその東のほうに新宮という市があります。那智の滝のところにある「熊野那智大社」、新宮にある「熊野速玉大社」、そして新宮から熊野川を船で遡って(今は車ですが)本宮にある「熊野本宮大社」の3つを総称して「熊野三山」と呼ばれています。世界遺産の地でありまして、蟻の熊野詣と呼ばれたように、平安時代には都から天皇や上皇さんから一般庶民までが列をなして訪れた信仰の地なのであります。トルコ船が遭難したのは、このような地域にある大島の沖だったのです。ちなみに私が生まれ育ったのが、新宮なのです。子供の時から那智の滝や潮岬は遠足でよく行ったものでした。大島を見ては、その向こうにある外国という世界に夢を馳せたものでした。いま大島へは巡行船ではなく、橋でつながっています。次の写真は、その大島にあるトルコ記念館です。南紀串本観光協会のホームページから拝借したものです。そのホームページではエルトゥールル号の遭難について以下のように記述しています。
明治22年(1890年)オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。
巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。
日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。
やがて、山のような波に揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。
この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
この事故によりオスマン・パシャ特派大使海軍将校以下580余名が遭難しましたが、地元住民の献身的な救難活動により奇跡的に69名の命が救われました。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。
トルコとの友好関係
後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が建設されました。慰霊碑は長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校の生徒達の手で通年、清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の生徒達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。
また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。
このように580余名が遭難し、69名が救助されたわけですが、500名以上が遭難死した大惨事であったわけです。救出された人々はその後、神戸に移されました。その後、日本海軍の「比叡」と「金剛」が神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けたのでした。
今回の冒頭の画像は、この遭難を日本とトルコの合作で制作した映画のポスターです。日本とトルコの友好125周年を記念して、2015年に制作されたのでした。この映画が公開されるまえに、私は新宮に帰省したのでトルコ記念館を訪れました。撮影につかわれた小道具などが展示されていました。
昨年の2019年4月20日「カージャール朝からパーラヴィー朝へ」の記事の冒頭で「吉田正春」の名前を出しましたが、彼については後日改めて紹介すると書いていました。彼が向かったのはペルシャですが、この時に彼が乗ったのも「比叡」だったのです。正春はペルシャのシャーと会った後、すぐには帰国せずにトルコ経由で欧州に回ったのではなかったでしょうか。正春については近いうちに紹介することにします。