シリーズ「オスマン帝国」:⑪チューリップ時代を知っていますか?

オスマン帝国の歴史の中に「チューリップ時代」があったことをご存知でしょうか。歴史的な時代の名前としてはロマンチックないい名前ではないでしょうか。名前から想像するだけで、きっとその時代は良い時代だったのだろうと推測できますね。3月になり少しずつ春の気配が近づいているような気がします。チューリップの花も目を出し、葉も出てきました。このチューリップはウィキペディアで調べると「アナトリア、イランからパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カザフスタンのステップ地帯が原産。」とでています。アナトリアですからまさにトルコが原産地なのです。さらにウィキペディアは「中近東ではラーレ(トルコ語: lale、ペルシア語: لاله‎ など)と呼ばれる。」と書いています。ペルシャ語の方も発音はトルコ語と同じく「ラーレ」です。ペルシャでは美女を表す際に「月のような美女」や「チューリップのような美女」という表現をします。トルコではどうでしょうか。冒頭の画像はチューリップの原種ということでフォトライブラリーさんの無料画像を利用させていただきました。ありがとうございます。

さて本題の「チューリップ時代」とはいつ頃のどんな時代だったのでしょうか。講談社・後藤明著『ビジュアル版・イスラーム歴史物語』249頁から引用させていただきます。

18世紀にはいる直前の1699年、オスマン帝国は、オーストリアやロシアなどのヨーロッパ諸国の神聖同盟と、カルロヴィッツ条約を締結しました。これは、1683年にオスマン帝国がオーストリアの首都ウィーンを包囲して、惨めにも撤退したことに端を発する戦争の終結を意味しましたが、オスマン帝国にとっては、敗戦を認めたことに他ならなかったのです。帝国はこの条約で、ハンガリーをオーストリアに譲りました。無敵を誇っていた帝国陸軍は敗れ、帝国ははじめて領土を敵に譲ったのです。
18世紀に入って、オスマン帝国の中央部ではチューリップ時代とよばれる華やかな宮廷文化が花開きました。チューリップは、トルコやイランで人々に愛好されていた花です。その花のあでやかさゆえに命名された時代ですが、帝国の武力は確実に低下していました。この時代、帝国は混乱に乗じてイランに出兵するのですが、ナーディル・シャーに一蹴されて、一時期はイラクを失ってしまいます。帝国の武力の根幹であったイエニ・チェリも、特権階層化して、世襲が当たり前となり、戦闘力を失っていきます。地方では、中央から派遣された官僚が支配する体制が崩れはじめ、おりから台頭しはじめた豪農(アーヤーン)が、徴税請負人となって地方政治を左右するようになっていきます。そして、帝国領であったエジプトやシリアでは、それぞれの地の勢力が、帝都から派遣される総督を無視して、地方政治の派遣をめぐって争うようになりました。オスマン帝国の中央の求心力は確実に低下していったのです。そして1774年には、ロシアとの戦いに敗れて、帝国に臣従していたクリミヤ半島のクリム・ハン国をロシアに譲ってしまいました。オスマン帝国は、ゆっくりですが、解体への道をたどりはじめました。

年表や歴史本をみると「チューリップ時代」は1803年~1830年頃と記されている。トプカプ宮殿にはチューリップの庭があったことや、富裕層が別荘やチューリップにお金をつぎ込んだ贅沢をしたと宮廷文化爛熟期と書かれている。一方で、国勢は衰退とも書かれてる。オスマン帝国建国(1299年)から長い歴史を築いてきた帝国の最後の花開いた時代であっただ。チューリップの花は美しく、誰もが愛する花である。美しい花の宿命の儚さとオスマン帝国の衰退が重なってなぜか寂しく感じるのは私だけであろうか。

新シリーズ「オスマン帝国」:⑩スルタンのトゥグラ(花押)

この画像は何かおわかりでしょうか。今回のテーマとしたスルタンの「トゥグラ」である。トゥグラというのは日本の花押のようなものである。今でいえば印鑑というか、外国ではサイン、署名に相当するものです。

私がアラビア書道を習っていることは、このブログでも何度かお話ししていますが、このトゥグラはアラビア文字をデザインしているのです。日本の花押と同じようにその人を区別するために他人とは同じではないように作っています。冒頭のものはスルタン・マフムード・ハーンのものです。年表を見ると在位1730~54のスルタンのようです。インターネットでトゥグラの語句で検索すると数多くのスルタンのものが出てきます。無断でここに引用するのは良くないので興味ある方はそちらでご覧いただければと思います。

アラビア書道をやっていると、最終的にはデザインに行きつきます。ナスヒー書体から始め、次にルクア書体を学び、次にディワーニーやスルスなどなどを経てナスタアリークへと続くのです(日本の書道の

楷書から行書、草書などと同じです)が、単にその書体で上手に書くだけでなく、それをどのような形にデザインするかということになるのです。その意味でスルタンのドゥグルはアラビア書道で最後に辿り着くゴールのように自分には感じるのです。

例えば、コーランの開端章の冒頭の語句(そして、全ての章の冒頭にもかかれている)は活字体で書くと以下のようになります。
بسمالله الله الرحمزالرحیم
これをアラビア書道のナスヒー体では次のようになります。二つとも同じ書体ですが、二つ目には伸ばした長い線があるのと左の方に湾曲したラインが描かれています。

そして、先ほどのトゥグラのようにデザインしたものが次の画像です。冒頭のスルタンのトゥグラとそっくりですね。

他にも三つほど次に紹介しておきましょう。いずれも先ほどの語句、通称バスマラと呼ばれるムスリム(イスラム教徒)にとって聖なる言葉です。

引用させていただいた資料は次の『図説・アラビア文字事典』です。ありがとうございました。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:⑧メフメト2世

1444年:メフメト2世(在位1444年~46、1451~81年)が1453年のコンスタンティノープルを攻略したことは既に⑥のところで述べた。ビザンツ帝国を打ち破った英雄であるから、彼のことをもう少し見てみよう。生存したのは1432~81である。冒頭の在位の部分が二つに分かれているのが気になった。実は父ムラト2世は1444年にメフメト2世をスルタンに就かせたのであるが、2年後に復位したのであった。そして、ムラト2世の死によって1451年からがメフメト2世の実質的な在位というわけである。

講談社『オスマン帝国500年の平和』によれば、メフメト2世は町の破壊を望まず、それを最小限に抑えようとしたということが歴史の諸資料で一致しているそうである。イスラムでは三日間の略奪が認められているが、それも一日で切り上げられたようである。また、ビザンツ側の貴族たちについては、その身代金を自ら払って彼らの解放を保障したといわれている。メフメト2世は早々にハギヤ・ソフィア大聖堂に入り、ここをモスクとした。これがあの有名なアヤ・ソフィアである。その他の教会や修道院などもイスラムの施設に転用されたことはいうまでもない。

『オスマン帝国500年の平和』では当時の様子を詳述しているので、すこし拝借することにしよう。
メフメト2世は先ず、捕虜になることを免れたり身代金を払って解放されたギリシャ人らの住民にたいして安全を保障し、旧来の「慣習と宗教」の維持を約束した。また町のガラダ地区に在留するジェノヴァ人にも、その身の安全と商売や通行の自由を保障した。・・・・・
メフメト2世は人口の激減した町の復興のため、征服戦に参加・協力した人々(軍人、ウラマー、神秘主義教団員など)に市内の建造物を住居として与えている。・・・・・・征服戦で大きな貢献をした巨大大砲の製作者ハンガリー人のウルバンも対象者であった。

こうしてみてみると、メフメト2世は打ち破ったビザンツ側に対しても極悪非道な扱いをしたわけではなく、理性的に対処していたことが伺える。一応慣習となっている略奪には目を瞑ったようではあるが、それも日数を短くするなど、最低限の略奪に抑えようとしたことがわかった。というものの、彼の約30年間の統治時代は東西への遠征に明け暮れた。自らが率いた遠征は18回にも及んだとある。

参考資料
林佳世子著『オスマン帝国500年の平和』講談社
『新イスラム事典』平凡社

新シリーズ「オスマン帝国」:⑥ オスマン一世からメフメト2世まで

14世紀、アナトリアで勢力を拡大してきていたオスマン侯国の軍勢はビザンツ帝国の目の前に姿を現した。そして、サカリヤ川流域からビザンツ領に侵入し、略奪を始め、ブルサの町を包囲した。軍勢を率いていたオスマンはここで没したという。後を継いだ息子のオルハンが1326年にブルサを陥落させた。そして、その後、1329年のペレカノンの戦いでオスマン軍が勝利すると、1331年にニカイヤを、1337年にニコメディアを征服した。

オスマン帝国500年の平和から引用

こうして、オスマン侯国はバルカン半島に進出を始めた。そして、14世紀末までにバルカン半島の大半を征服した。1453年にはコンスタンティノープルを攻略してビザンツ帝国を滅ぼしたのであった。ここまでの経緯を時系列で改めて列記すると以下の通りである。

1299年:オスマン一世、オスマン帝国建設
1326年:オルハンがビザンツ帝国領ブルサを征服し、都とする
1329年:ペレカノンの戦いで勝利
1331年:ニカイヤを征服
1337年:ニコメディア(イズミト)を征服
1361年:アドリアノープルを攻略
1362年:オルハン没
1366年:マケドニア、ブルガリア征服
1389年:コソヴォの戦でバルカン同盟軍を撃破(コソヴォの戦とは、ムラト1世のオスマン帝国軍が、セルビアのコソヴォで、セルビア・ボスニア・ブルガリア・ハンガリーなどのキリスト教連合軍を破った戦い。バルカン半島は長いオスマン帝国による支配下におかれることとなった)

ムラト1世の次にバヤジット1世(雷電王)在位1389~1402の時代となり、
1396年:ニコポリスの戦でハンガリー王ジギスムントを破る
1402年:アンカラ(アンゴラ)の戦でティムールに敗れ、オスマン帝国混乱続く(~1413)
1413年:メフメト1世(在位1413~21)が即位し、国の混乱を収め再統一。その後、ムラト2世の治世を経て、
1444年:メフメト2世(征服者)(在位1444年~46、1451~81年)が即位して、1453年のコンスタンティノープル攻略に至るのである。丁度区切りの良いところになったので、」今回はここまでとしよう。

 

新シリーズ「オスマン帝国」:⑤ オスマン侯国からオスマン一世へ

前々回までで、ルーム・セルジューク朝まで辿ってきた。この王朝も滅びたのであるが、その当時の周辺の勢力図というか王朝図を一瞥で分かる図を探していたのだが、中々見つからなかった。やっと見つけたのが次の図である。「世界史の歴史マップ」のサイトである。
( https://sekainorekisi.com/glossary/ ) 。ちょっと拝借させていただくことにする。

イスラーム世界の形成と発展

一目瞭然である。エジプト地域にはファーティマ朝 ⇒ アイユーブ朝 ⇒ マムルーク朝と推移している。一方、イラン・イラク方面ではモンゴル系の王朝が立ち並んでいる。そして、アナトリアではルーム・セルジューク朝の後にオスマン帝国が登場するのである。いきなりオスマン帝国が登場したのではない。先ずはオスマン侯国の登場である。

私なりに纏めるならば、トルコ系民族が中央アジアから西に移動してきた。今のイラン、イラク辺りで起こしたのがセルジューク朝である。セルジューク朝ではペルシャ人が登用されており、イラン文化が興隆していた。ここでの言語はペルシャ語が主流であった。トルコ系民族と言ったが、セルジューク朝を興したグループとは別にトゥルクマーンというのもよく耳にするのであるが、セルジューク朝では彼らの扱いが少々厄介(?)だったようでもある。彼らは東ローマ(ビザンツ)帝国との前線であるアナトリアに派遣されていき、ルーム・セルジューク朝のように、そこで地方政権を作っていった。ルーム・セルジューク朝の後の時代のアナトリアの地図が次の図である。

これは前に紹介した講談社「興亡の世界史」シリーズの『オスマン帝国500年の平和』の中の図である。太い点線がイブン・バットゥータが旅したルートである。アナトリアを旅したのは1332年ごろであるらしいが、アナトリア西部にオスマン侯国が描かれている。そして、イブン・バットゥータはオスマン侯国を、この地の最有力者と称しているとのことである。ようやくオスマン帝国への道筋が明らかになってきた。色々調べてみたが、やはりオスマン帝国が起きるあたりのことは詳しくは分からないというのが定説であるようだ。ウィキペディアには次のように記されている。
「オスマン家の起源に関する確実な史料は存在しないが、後世オスマン帝国で信じられた始祖伝説によると、その遠祖はテュルク系遊牧民のオグズ24部族のひとつのカユ部族の長の家系の出自である。イスラム教を受け入れたカユ部族は中央アジアからイランのホラーサーンに移住し、スレイマン・シャーが部族長のとき、おそらくモンゴル帝国の征西を避けてアナトリアに入った。スレイマン・シャーはそこで死に、部族の一部はホラーサーンに帰ったが、スレイマン・シャーの子の一人エルトゥールルは遊牧民400幕を連れてアナトリアに残り、ルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア東北部のソユトの町を中心とする一帯を遊牧地として与えられ、東ローマ帝国に仕えるキリスト教徒と戦った。1280年から1290年の間頃にエルトゥールルは病死し、息子のオスマン(オスマン1世)が後を継ぐ。」

このオスマン一世がオスマン帝国の祖である。
オスマン一世が登場したところで、今日は終わりにしよう。

 

「アヤソフィアのモスク化」のその後

このブログで、7月13日にトルコ政府がアヤソフィアをモスクにする決定をしたことを書きました。今回は、そのアヤソフィアにて初の金曜礼拝が行われたという新聞記事(7月25日・中日新聞)を紹介します。モスクに変更されたアヤソフィアで24日に初の金曜礼拝が行われ、エルドアン大統領も出席したと報じている。トルコ国内でも賛否両論があり、複雑な問題ではある。アヤソフィアで礼拝できることを素直に嬉しく思うムスリムがいる。これは極めて自然なことであろう。一方で、イスタンブール市内にはすでに三千近いモスクがあり、市民の間には「礼拝時にほとんど人がいないモスクもあるのに、なぜこれ以上必要なのか」という声もあるそうだ。モスクとしての機能だけを求めるなら、モスク化は必然性がないとも言えよう。また、アヤソフィアに訪れる観光客から得る収入は大きいので、外貨獲得という面ではマイナスであろうとも。今後もこれまでのように観光ツアーも入れるようであるが、礼拝時だとかイスラムの行事のときを避けるようなツアースケジュールを強いられるようである。

時代の流れとアヤソフィア:
537年・・・・ ギリシャ正教の重要な聖堂として建設
1453年・・・   オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす
1453年・・・・アヤソフィアがモスクに転用された
1934年・・・・トルコ政府が博物館とする閣議決定
2020年・・・・行政裁判所がその決定を無効と判断しモスクとなった

オスマン帝国が第一次大戦で敗れ、新生トルコが誕生した。一時はセーブル条約でトルコの領土分割が行われたが、立ち上がったケマルが連合国側と再交渉してローザンヌ条約にこぎつけて、今のトルコを築き上げた。ケマルの頭にはトルコの将来のためには民族や宗教ということにとらわれない国家を描いていた。従って政教分離をすすめた。イスラム世界でいう世俗化である。もっと言えば、極端であるが、トルコにいるのは皆トルコ人である。クルド人はいない。クルド人はトルコ語を忘れた山岳トルコ人であるといった。民族や宗教に関係なく国民国家というようなものを作ろうとしたのだった。当然イスラム色は排除である。
ところが時代の流れと共に、世界中が変化してきた。イスラム世界ではイスラム復興の掛け声が高まった。イランでは革命によってイスラム共和国が生まれた。・・・・エルドアン大統領が率いるトルコではイスラム色の強い政策が進められてきた。今回のアヤソフィアのモスク化はモスクとしての必然性などとは関係なく政治的なパフォーマンスなのである。求心力が弱くなった指導者は極端な政策をとって注意を我に引き寄せようとする。アメリカのトランプもそうである。彼が大統領になって以後、やりたい放題である(特に米大使館のエルサレム移転)。それでもそれを指示する層がいるのである。

今回のアヤソフィア問題では前回心配だと書いた「モザイクの壁画」が布で隠されることになるようである。破壊されなくてホッとしているのである。

 

 

トルコ政府が「アヤソフィアのモスク化」を決定

昨日のニュースでトルコのアヤ・ソフィアがモスク化されることになったと報じられました。世界各国から批判的なコメントが出ていることも。トルコに旅行されたなら、イスタンブールで必ず訪れる名所です。近くのスルタン・ハフメドモスクと共に多くの人が訪れるところです。このアヤ・ソフィアについて岩波書店発行の『新イスラム事典』は次のように記しています。

537年ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世によって首都コンスタンティノープルに造営されたギリシャ正教会の最も重要な聖堂。直径32m、高さ54mの大ドームを中心にすえ、内部はモザイクで覆われた。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されると、ただちにモスクに改造された。16世紀の建築家シナンは、このビザンティン建築の最高傑作をしのぐために苦心した末、スレイマニエ・モスクなどトルコ・イスラム建築の傑作を残した。19世紀末にアヤ・ソフィアをギリシア正教会に復帰させようとの国際世論もあったが、1935年にトルコ共和国政府によって博物館とされた。近年、イスラム復興運動の高まりにより、博物館の一角がモスクとしても使われている。

建築家シナンのことは、このブログでも書いたことがある。気になる方は、目次から検索して遡って読んで頂きたい。もともとキリスト教徒であったシナンではあったが、イスラムに改宗し、そして、イスラム建築の傑作を生みだしたのである。

キリスト教会から転用したために、モスクとなったアヤ・ソフィアでは内部のモザイクの人物の部分を塗りつぶしたのであった。博物館となったアヤ・ソフィアではその部分をはがして元のモザイク画を見ることができる。それが次の写真である。もう、20年ほど前に私が学生をつれて旅行した時に写したものである。

今回のニュースを聞いて私が思うのは、アヤ・ソフィアをモスクにすることの是非ではない。オスマン帝国の人々が奪い取った領土にあった宗教施設を自分たちの宗教に合わせて利用したのなら非難はできまい。まして、その後の時代の流れに応じて、博物館としての扱いをしたことも讃えられることではないだろうか。しかし、今回の決定によって、アヤ・ソフィアの先ほどお示ししたような露わになっていたモザイク画がどう扱われるのかということが心配である。

私自身はイスラムの精神は寛容である(寛容な宗教であるとは言わない)と思っている。しかし、偶像崇拝を嫌うためにバーミアンなど各地で貴重な文化財を破壊したイスラム教徒と称する連中と同じようなことをして欲しくないのである。イスラムの寛容さを見てみたいのである。

トルコと日本:エルトゥールル号の遭難

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このブログでもトルコに関する記事を書いています。それは歴史の部分で「オスマン帝国」についてでした。自分でいうのも何ですが、歴史の上面をざっと述べた程度でしかなかったかもしれません。でも、このブログへのアクセスの統計をみると、「オスマン帝国」と「ササン朝ペルシャ」「ダレイオス大王」などの記事が意外と読まれていることが分かります。自分自身でもトルコという国に対するイメージは悪くはなく、むしろ良い方でしょう。何故でしょうか。「親日的な国・国民である」「アジアとヨーロッパの接点に在って、文化が融合したエキゾチックな国」だとか「オスマン帝国の軍楽隊の音楽が勇ましい」とか、色々あるように思います。トルコを訪れる日本人観光客も多いようです。私もトルコに行ったときには日本語を話す人が寄ってきて、お店などを案内してくれました。結局は客引きなのですが、高いものを買わされるようなことがなければ、全然友好的だなと感じるでしょう。

親日的だという表現は定着していると思います。インターネットでちょっと見てみても、「イラン革命の際に、イランから逃げ遅れた日本人を救出するために、トルコ航空がテヘランから日本人を日本に運んでくれた」ことが代表的な親日の現れのように書かれています。そして、その背景として、「かつてトルコの船が日本で遭難したときに日本人が一生懸命救助の手を差し伸べたことへの、恩返しである」とも書かれています。今回はこのエルトゥールル号の遭難がテーマです。

この地図は紀伊半島の先端です。和歌山県串本町です。串本というと台風が日本に接近した時に、「潮岬の沖100kmに接近」などと耳にすることがある、あの潮岬のあるのが串本町です。その潮岬のすぐ目の前の沖にあるのが「大島」と呼ばれる島です。昔の人なら串本節で歌われたあの大島だとすぐに分かるほど、有名な民謡です。唄いだしは「ここは串本、向かいは大島。仲をとりもつ巡行船・・・・・」です。地図をご覧ください。少し東北に那智山があります。有名な那智の滝のあるところです。そしてその東のほうに新宮という市があります。那智の滝のところにある「熊野那智大社」、新宮にある「熊野速玉大社」、そして新宮から熊野川を船で遡って(今は車ですが)本宮にある「熊野本宮大社」の3つを総称して「熊野三山」と呼ばれています。世界遺産の地でありまして、蟻の熊野詣と呼ばれたように、平安時代には都から天皇や上皇さんから一般庶民までが列をなして訪れた信仰の地なのであります。トルコ船が遭難したのは、このような地域にある大島の沖だったのです。ちなみに私が生まれ育ったのが、新宮なのです。子供の時から那智の滝や潮岬は遠足でよく行ったものでした。大島を見ては、その向こうにある外国という世界に夢を馳せたものでした。いま大島へは巡行船ではなく、橋でつながっています。次の写真は、その大島にあるトルコ記念館です。南紀串本観光協会のホームページから拝借したものです。そのホームページではエルトゥールル号の遭難について以下のように記述しています。

明治22年(1890年)オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。

巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。

日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。

明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。

やがて、山のような波に揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。

この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。

この事故によりオスマン・パシャ特派大使海軍将校以下580余名が遭難しましたが、地元住民の献身的な救難活動により奇跡的に69名の命が救われました。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。

トルコとの友好関係
後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が建設されました。慰霊碑は長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校の生徒達の手で通年、清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の生徒達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。

また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。

このように580余名が遭難し、69名が救助されたわけですが、500名以上が遭難死した大惨事であったわけです。救出された人々はその後、神戸に移されました。その後、日本海軍の「比叡」と「金剛」が神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けたのでした。

今回の冒頭の画像は、この遭難を日本とトルコの合作で制作した映画のポスターです。日本とトルコの友好125周年を記念して、2015年に制作されたのでした。この映画が公開されるまえに、私は新宮に帰省したのでトルコ記念館を訪れました。撮影につかわれた小道具などが展示されていました。

125 Years Memory movie poster in four different languages

昨年の2019年4月20日「カージャール朝からパーラヴィー朝へ」の記事の冒頭で「吉田正春」の名前を出しましたが、彼については後日改めて紹介すると書いていました。彼が向かったのはペルシャですが、この時に彼が乗ったのも「比叡」だったのです。正春はペルシャのシャーと会った後、すぐには帰国せずにトルコ経由で欧州に回ったのではなかったでしょうか。正春については近いうちに紹介することにします。