上は塩野七生さんの『十字軍物語』の表紙である。塩野さんは『ローマ人の物語』のあと、これを著したのであるが、読んでいて非常に面白かった。私がここに書いている文章は単に歴史の流れを記述しているにすぎないが、彼女の著作は読んでいると、ドラマを見ているような気がしてくる。ドラマの中の風景が映像が見えてくるのだ。
第1回十字軍は1096年に始まった。そこで当時の中東地域に乱立していた国々を先ずピックアップすることにしよう。
- ファーティマ朝(909~1171)
- ブワイフ朝(932~1062)
- ガズナ朝(962~1186)
- カラ・ハン朝(10世紀中ごろ?~12世紀?)
- セルジューク朝(1038~1194)
ブワイフ朝はペルシア人、ガズナ朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝はトルコ人によるイスラム国家である。アッバース朝は衰退しており、バグダードはブワイフ朝が支配下に治めていた。が、アッバース朝のカリフを打倒するのではなく保護するという形をとっていた。一方、ファーティマ朝はアッバース朝のカリフに真っ向から否定して自らのカリフ政権を樹立したのである。非常に複雑な様相を呈していたのである。
前回と重複する部分も多いが、エルサレムとは紀元10世紀ごろにユダヤの王ダビデが神殿を建設したところであり、ダビデの子ソロモンは神殿を立派なものにした。時がたち、神殿は破壊され、その後再び第二神殿が再建された。その頃にイエスが十字架の刑に処せられ、いったん埋葬される。彼の復活を信じ、彼を救世主とみなすキリスト教が成立した。その後、135年にローマ帝国がエルサレムの町を破壊し、神殿も破壊した。イスラムがエルサレムを征服したのは638年のことである。イスラム側の勢力の興亡もあり、970年にはファーティマ朝がエルサレムを支配していた。ファーティマ朝が11世紀後半に弱体化すると、セルジューク朝がエルサレムを占領するようになった。この占領を率いた軍人アトスズは略奪や異教徒を含む住民の虐殺などを禁止して、エルサレムの平安は維持されていたという。1098年には再びファーティマ朝がエルサレムを奪還した。少々ややこしいのであるが、イスラム世界でも勢力争いが盛んになっていた時代であった。
さて、そこでいよいよ十字軍の登場である。11世紀頃からキリスト教徒の間では聖地エルサレムへの巡礼熱が高まっていた。1095年、クレルモンの宗教会議においてウルバヌス2世がエルサレム奪還のために十字軍の遠征を提唱。1096年から第1回十字軍の遠征が始まった。
第1回(1096~99年):4万人を超える規模の十字軍は食料を用意して出たわけではなく、進軍する地域の住民から食料を奪い、レイプ、虐殺などを行いながらエルサレムに向かったのである。沿道の住民は十字軍に対抗する術もなく、震えあがっていた。エルサレムにおいてもイスラム教徒やユダヤ教徒の虐殺を行った。その結果、十字軍はエルサレムを奪還して、エルサレム王国を建設した。
第2回(1147~49年):十字軍はセルジューク軍の反撃を受けて、シリア付近で敗退。
第3回(1189~92年):この遠征は、十字軍の遠征の中でも特に注目されるものではないだろうか。エルサレムが再びイスラムの支配下になった有名な戦いなのだ。トップに紹介した『十字軍物語2』の帯に「イスラムにサラディンあり!」とあるように、この戦いでサラディンという英雄が出現したのである。彼はファーティマ朝で宰相にまで出世したあと、ファーティマ朝のカリフが死ぬと、「アッバース朝のカリフがイスラム世界の唯一のカリフであると宣言し、自分はスルタンであると称してエジプトに君臨し、アイユーブ朝を創始したのである。ファーティマ朝はシーア派であったが、彼のアイユーブ朝はスンナ派であった。当時セルジューク朝の中から勢力を拡大していたザンギー朝のヌール・ウッディーンが死すと、彼の領土の大部分を併合して、十字軍との戦いに備えて作戦を練った。1187年、ヨルダン川の水源である湖に近いヒッティーンの丘でサラディンは十字軍勢を撃破した。さらにエルサレムを攻撃して陥落させた。彼はキリスト教徒もユダヤ教徒もエルサレムに住むことができるようにした。3つの教徒が共存できる聖地としたのである。が、ローマ教会はここで第3回の十字軍派遣を決めたのである。この戦いは2年にわたり、激戦をくりかえしたのであるがサラディンの勝利となる。エルサレム王国はエルサレムを失うが、シリアの海岸部に拠点を確保することができてエルサレム王国の名は残すことができた。サラディンはヨーロッパからの巡礼者を迎えて保護することを約束したのである。
サラディンは武勇に秀でた強い英雄というだけでなく、寛容な精神でもって敵を受け入れた大人物であった。キリスト教側からもサラディンは高く評価された歴史に残る人物であった。余談かもしれないが、イラクのフセイン大統領のことを思い出してもらいたい。彼はイラクのクルド地区に近い所の出身であった(彼自身はクルド人ではない)。それ故、フセインは俺はサラディンの生まれ代わりだとか言っていたことがある。そう、サラディンのルーツはクルドであると思われるのである。サラディン(正式名称はサラーフ=アッディーンであるが、ヨーロッパにはサラディンと伝わった)