ダレイオス大王やビストゥーンの磨崖碑のことばかり書いてきたが、アケメネス朝のことについても話すことにしよう。アケメネス朝は当時の世界における最大の国家であった。ペルシア帝国と呼ばれる所以である。上の図はこれまた帝国書院のものであるが、キュロス⇒カンビュセス⇒ダレイオスの三代の王が国土を広げていった過程を示している。西はエジプト、今のトルコから東はインダス川へ、北東は中央アジアにまで及んでいる広大な領土だった。ダレイオスが成し遂げた偉業の1つは「王の道」の建設であった。図の中心部のスサからアナトリア半島の地中海近くのサルディスに至る2,699kmの道を造り、そこには111の宿駅を設け、守備隊が置かれていた。スサは行政の中心であり、サルディスは旧リディアの首都であった。これまでは徒歩で3ヵ月かかったものが、王室の伝令はわずか数日間で移動することができた。
中央集権体制であったが、全国を20の州(サトラピー)に分けて州知事(サトラップ)を置いた。そして州にはある程度の自治を認めた。これはアッシリアの圧政が裏目にでて早々と崩壊したことの二の舞を避けたのであった。その代わりに州知事の動向を把握するために「王の目、王の耳」を設けた。彼らは各州を回り、州知事の状況を王に報告していた。