タバコボイコット運動

いつものように山川出版社のヒストリカから上の図を拝借した。カージャール朝時代のペルシアとアフガニスタンの地域の様子が簡潔にまとめられている。前回述べたようにイギリスやロシアがペルシアに対して影響を与えようとして近づいてきたのであったが、ペルシアはペルシアでまたアフガニスタンへ進出する野心も持っていた。それゆえにこの図ではアフガンがでてくるのである。アフガンの向こうにはインドがある。イギリスにとってはこの地域は対ロシアの戦略からも非常に重要な地域であった。

さてカージャール朝ペルシアはロシアとの戦争に敗れ、領土の一部は割譲することになったあとには社会不安が高まった。バーブ教徒の乱とでているが、イスラムから派生した新興宗教である。この流れをくむ宗教が今現在も存在して、ペルシアだけでなく世界に少しずつ広がっている。もちろん現在のイランではこの宗教は認められていない(本題から外れるのでここまでにする)。政治的に弱体化したカージャール朝は財政的にも破綻をきたすようになる。そこに目をつけたイギリスは多額の資金援助を王室に差し出すのである。援助と言っても貸付、融資である。王族はその金で贅沢三昧をしては、また融資を受ける繰り返しであった。イギリスはペルシアにおける様々な利権を要求し、それを獲得していった。例えばペルシアにおける紙幣の発行することまで売り渡したのであった。最も有名なのがタバコである。世界史では「タバコボイコット運動」として紹介されているものである。

1890年王であるナーセロッディンシャーがイギリス人のタルボットに50年にわたってタバコ売買の独占権を与えたのである。酒を飲めないイスラム世界のペルシアの人々にとってタバコは大切なものであった。これに反発した国民が一斉に起こしたのがタバコボイコット運動であったつまり好きなタバコを国民がみんな我慢して吸わないことを続けたのであった。そして、この利権の売買を取りやめさせることに成功したのであった。この大衆運動が成功したのは、聖職者たちの組織的な指令があったからである。組織的な反対運動が大きな力となった。直接的にはミールザ・ハッサン・シーラーズィーが発したファトゥワの効果が大であるが、注目されるのはアフガーニーであった。彼はイスラム世界が一団となって帝国主義と立ち向かう必要があると説いて、各地を飛び回った。名前からしてアフガニスタン地方の出身であろうが、バグダードで学び頭角を現したようである。

この運動は現在のイランにおけるナショナリズムの最初の出来事として歴史上特記される出来事になっているのである。

図には「タバコ・ボイコット運動」のしたに「立憲革命」というのがある。これについては次回にしよう。

 

カージャール朝(1796~1925年)ペルシアと帝国主義

オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシアと段階を経てきた。オスマン帝国はまだ滅びてはいない。一方、あのイスファハーンの繁栄を誇ったサファヴィー朝ではアッバース1世の後の王族たちは乱れ、退廃的になり、最後はアフガン族などに攻められ、1736年に滅びてしまう。その後、ペルシアの地ではシーラーズを拠点とするザンド朝(1750年 – 1794年)が成立するが、そこのカリム・ハーンの宮廷ではサファヴィー朝時代にキジルバシュを構成したトルコ系カージャール族のアーガー・モハンマドが人質になり、幽閉生活をおくっていた。彼は1779年にそこから脱出し、17年の歳月をかけて群雄割拠するペルシアを統一したのであった。そしてテヘランを都としてカージャール朝が成立したのである。しかしながら、カージャール朝はイランの歴史のなかでもっとも外国からの圧力に苦しんだ時代であった。近年でも欧米諸国から核開発疑惑による制裁を受けてきたのであったが、数年前に核合意がなされ、イランも国際社会と柔軟に付き合えるようになりかけたのであったが、今はトランプ大統領の核合意離脱に始まる米のイラン制裁により、国民は苦渋に満ちた生活を送っているのであるが、カージャール朝時代のイランも列強帝国主義の犠牲者であった。

  • カージャール朝と列強の思惑
  • フランス:ナポレオン戦争時代、ロシアに対抗するためにペルシアの支援を期待して使節を派遣
  • イギリス:フランのこのような方針に対抗して、東インド会社のジョン・マルコム卿をイランに派遣して、軍事協力や通商に関する協定を締結。
  • ロシア:南方進出を図り(南下政策)、ペルシアも対象であった。カフカースの領有を主張=ペルシアはフランスに支援を求めるが、仏と露のチルジットの和約により仏は支援できず。ペルシアはイギリスの支援を求めて1818年にテヘラン条約を結んだ(ペルシアがロシアと交戦したばあいに、英はペルシアを支援する)。

1812年にナポレオンがロシアに進軍すると、イギリスはペルシアとロシアの和平を望むようになる。ころころ変わる列強の思惑。

  • 1796年~  カージャール朝がペルシアを統一
  • 1798年   ナポレオンがエジプト侵入
  • 1805年   ワッハーブ派がメディナを占領
  • 1805年~  エジプト総督ムハンマド・アリーの政治改革
  • 1806年~  ロシア=トルコ戦争
  • 1811年   エジプトが事実上の独立
  • 1813年   ロシアとペルシアでゴレスターン条約
  • 1821年   ギリシア独立戦争
  • 1826~26  第二次ロシア=イラン戦争
  • 1828年   トルコマンチャーイ条約

ゴレスターン条約とは1813年にアゼルバイジャンのゴレスターンでロシアとカージャール朝との間で締結された条約。カフカース地方の領有を巡って両国は1804年から8年間にわたって断続的に戦争を続けていたが、カージャール朝の敗北に終わった。この結果、ペルシアはアラス川以北のアゼルバイジャン地方をロシアに割譲し、グルジアに対する主権も放棄した。また、カスピ海の航行権をロシアの船だけに認めることに同意した。

トルコマンチャーイ条約とは1828年にタブリーズの南東のトルコマンチャーイにてロシアとカージャール朝との間で結ばれた条約である。ゴレスターン条約で取り決められなかったアルメニアのエレヴァンとナヒチェヴァンの領有権をめぐって、両国は26年に再び戦争を起こしたが、カージャール朝が敗北した結果、アラス川以北のカフカース地方を最終的に失った。また多額の賠償金を支払い、さらに治外法権やロシアに有利な関税協定を結ばされることになった。そして、その後のカージャール朝と列強との間でも不平等条約が締結されるきっかけとなった。

イギリスやロシアがペルシアでどのような卑劣なことをしたのか。書こうとすることは山ほどあるが、それは次回以後にしよう。余談ではあるが、テヘランの下町、バザールに近い所にカージャール朝の王(シャー)の宮殿が残っている。ゴレスターン宮殿である。中に入り見学することができる。カージャール朝というと、王族が退廃して何もかもを売り払ったというイメージなのであるが、宮殿内には何もないわけではない(笑)。結構立派なもの、諸外国から贈られたものなどが豪華に展示されている。

カージャール朝というと自分は、この時代の絵画の特徴を思い起こすのだ。それは人物を描いた時の目の大きさである。ぎょろっとした大きな目を見ると、すぐにこれはカージャール朝時代の絵であるとわかる。いったい何を見据えていたのだろうか。大きな目を開いて列強連中の悪行を見ていたのであろうか。

 

オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア

サファヴィー朝のイスファハーンから、長々と歴史が横道にそれたようだ。そこで、ちょっと整理してみよう。オスマン帝国が出現して東ローマ帝国を滅ぼすほどの強力な国家になった。そして、西方へ、つまりヨーロッパへ、キリスト教世界の方へ領土を拡大していった。欧州にとってそれは脅威であった。現実にウィーンまで遠征が行われたのである。一度ならず二度も(成功したわけではないが)。一方、東にはオスマンの建国から200年遅れて、サファヴィー朝が成立した。隣同士の両国は常に緊張関係にあった。民族はトルコ民族⇔イラン民族ということになる。イラン民族というのはアーリア人であるから、よく間違えられるイラク人とは全く異なる民族である。イラク人はアラブである。オスマン帝国もサファヴィー朝も共にイスラムであるが、前者はスンニー派、後者はシーア派である。両国の争いはスンニー派対シーア派との対立であるとする見方もあるが、それが争いの最大の理由ではない。最大の理由は隣同士に存在する国同士が覇権を争い、領土を侵害されないようにする争いであって、どこにでもある紛争原因である。戦いが進行すればその過程の中で宗派の違いは戦いのモチベーションを上げることにもなるであろう。

さて、視野を広げて両国を俯瞰してみよう

冒頭の図のオスマンとサファヴィー朝の間に黄色い円を書き足した。そこはクルディスタンである。クルド人(クルド民族)が住んでいる一帯であり、歴史的にクルディスタンと呼ばれてきた地域である。今現在もシリア紛争、イスラム国紛争の場で活躍している民族である。一方トルコからは敵対視されている民族である。彼らはこのクルディスタン地域に住んでいて、オスマンとサファヴィー朝の戦いの歴史の中で大きな影響を受けてきたのである。オスマンの支配下にあればオスマン側として戦い、サファヴィー朝支配下にあればサファヴィー朝側として戦わされた。時にはクルディスタンが分裂状態にあれば、クルド人同士が戦うことにもなった。オスマンの支配下にあった時、一部のクルド人たちはアフリカの方に移住させられたケースもあった。クルディスタンでまとまって居住していたクルド人たちの平和は次第に分断されてきた。そして、それが決定的になるのは第一次世界大戦後である。

図が示すようにサファヴィー朝はオスマン帝国よりもいち早くアフガン民族によって滅ばされてしまう。そしてその後にカージャール朝が成立するのである。そうなるとオスマンに敵対する英国を初めとした西側がカージャール朝に接近してオスマンの背後から圧力をかけようとする。その前にカージャール朝が瀕死の状態になってしまう。英露がカージャール朝を思うがままに懐柔することに成功するのである。列強による帝国主義が中東に押し寄せてくるのであった。

ペルシアの細密画(ミニアチュール)

前回のハータムカーリーの額に入れるにはペルシアの細密画(ミニアチュール)が最高にマッチすると思うのだ。というものの細密画の質が重要ではあるが。ここに挙げたものは一応、名の知れた作家のサインがあるので、いい方のものであるが、もっと上質なものになると睫毛や眉毛、髪の毛の一本一本が細かく描写されている。この作品は近くで虫眼鏡でみても、そういう風ではない。しかし、壁に飾って少し離れたところからみる限りにおいては良い方である。絵の部分だけを少しアップにしたものが次の画像である。

次に、この作品とペアの物を示そう。同じ作者のものである。王人が酒を飲んでいる風景である。オマル・ハイヤームの詩に出てくる風景であろう。ハイヤームはイスラム社会に居ながら、酒をこよなく愛し、「酒なくて、何の人生や!」とうたった詩人である。ついでにハイヤームの詩を一つだけ紹介する。他の詩は今度また改めて紹介することにしたい。(平凡社、『ルバーイヤート』岡田恵美子訳より)

3つめは少し大きい作品である。ハータムカーリーの額がよく合っている。これはペルシアの歴史物語の場面であろう。先の二つとは全然画風も異なっている。

細かい点を見るために、額を外して部分的に見ると次のようになる。

 

 

Khatam Kari خاتم کاری 象嵌細工のこと

イスファハーンの名所を紹介しているついでに、イランの工芸品を紹介しておこう。工芸品というとペルシア絨毯がその筆頭であろうが、格が違うのでそれはまた別途扱おう。イスファハーンのお土産というとお菓子のギャーズだろう。日本ではヌガーという飴のようなものだ。大小さまざまなサイズの布に草木インクで唐草模様や花模様をスタンプした更紗が手ごろな価格でお土産にはもってこいだ。いまは化学染料インクも使っているが、伝統的なものは絨毯用の糸を染めるようなインクを使うので長年使っても色あせないのである。私は大きなものを買ってベッドカバーに利用したことがある。もうベッドカバーとしては使っていないが、そのもの自体は色あせずに健在である。あと金物細工や木工細工などもあるが、今回はkhatam-kariを紹介したい。これはイスファハーンというよりもイランの工芸品と言った方がいいのかも知れない。テヘランでもいいものが買えるから。それから、今回もタイトルをkhatam Kariとアルファベットで書いているが、それはkhの音であるせいである。日本語ではハータムカーリイと書くのが普通のようだが、じつはハではないからである。喉の奥をこすってケェというように出すハの音である。だから私はハータムと書くことに違和感を覚えるせいである。例えば、これまでにもモンゴルの来襲で中東各地に建国された国々=チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、オゴタイ・ハン国などのハンもkhanなのであるが、これはもうハンに定着したかのような感もあるが、イル・カン国という言い方もある。チンギスハンの場合はカンを使うとジンギスカンになるのかな?もっと余談にいけば、日本では昔カーキー色という表現があった。土色である。語源はペルシア語の土 Khaak である。この場合、日本語はハーキー色ではなくカーキー色となっている。ペルシアの詩には「人は土から生まれ、土に帰る」という人生観が多出する。ペルシア語の学習を始めたばかりの人は日本語に入っているペルシア語に驚くのである。ほかにもペルシアではチャランポラン(チャラングポラングと聞こえるが)も使われていた。

さて本題のハータムカーリー(笑)である。象嵌細工のことである。この記事のトップの写真が一般的なお土産用のハータムカーリーである。表面をアップしてみると、次の通りである。

ラクダの骨、銅、貝殻、木などの材料を埋め込んで作った模様の板を薄切りにして箱などに貼り付けていく伝統工芸品である。次の写真のように、額縁の外枠に使われているものも多い。銅(真鍮)が使われているので、時間が経つと錆がでてくるが、常にきれいに拭いておくと美しさは保つことができる。チェス盤などにも使われることがある。写真はバックギャモンの盤である。実際に遊べるが、飾り物という感が強い。

イランというと、というよりは私たち日本人はイランだけでなく、外国人たちよりも繊細な細工をする技術力は上であると思いがちなのであるが(私の勝手な思い込みかもしれないが)、イラン人たちの技術も大したものである。先述の絨毯織りの技も素晴らしい。陶器にしてペルシアではその技術が途絶えたために、日本人の人間国宝・故加藤卓男さんが再現に成功したペルシアのラスター彩も美しいものである。そのような細かな手作業が得意な民族であるようだ。ここまで書いてきたなら、このハータムカーリーの額にいれるミニアチュールにも触れなければならなくなった。が、それは次回にしよう。

Sheikh Lotfollah Mosque、 シェイク・ルファッラーモスク、مسجد شیخ لطف الله

 

イスファハーンの名所を紹介しているが、今回はSheikh Lotfollah Mosqueである。イスファハーンで一番有名なモスクは長方形状の「王の広場(現イマーム広場)」の南側の辺に位置する「王のモスク(現イマームモスク)」であろう。そのモスクに向かって立つと、左側(東側)の長辺に位置するのがタイトルのモスクである。Sheikh Lotfollahモスクという名であり、サファヴィー朝の名君アッバース大王がレバノンから招いた人の名前である。彼は最初マシャド(Mashahd)に呼ばれた後に、先述の「王のモスク」およびマドレッセ(学校)の責任者としてイスファハーンに招かれたのであった。Sheikh Lotfollahの名が冠されたこのモスクが建てられたのは1602年~1619年である。

私がこれを取りあげたのは、このモスクの内部が非常に美しいからである。このブログのトップにランダムに現れる写真の中にも入れているのであるが、実に美しい。私が写した素人写真ではどこまで伝わるかは分からないが、それなりに美しさは分かってもらえると思う。モスク内部に入る光の具合でも変化するので、一日に何度訪れても楽しめるモスクである。

スィー・オ・セ橋 ( Si-o-se-pol  سی‌وسه‌پل )

 

今回もイスファハーンの名所を紹介する。前回のアーテシュキャデからイスファハーンの町を見ると緑が豊かであった。ザーヤンデ・ルード(ルードは川という意味)という名の大きな川がある。この川の水がイスファハーンの重要な水源である。Si-o-se-pol はこの川に架けられた橋の通称である。Si-o-se-とは数の33で、-pol は橋という意味である。33の橋ということになるが、写真でみるとわかるように、美しいアーチの部分が33あるのであろう。私は実際に数えたことがないが。

この橋が建設されたのはサファヴィー朝の時代、アッバース1世治世の時である。1599年~1602年に造られた。サファヴィー朝時代を代表する構造物の一つである。橋であるがダムの役割をも兼ねている。そして、人々がレクレーションに集う場所でもあった。建材は石と煉瓦。全長297m、幅約15mで、二階建ての構造になっている。私が最初に訪れた時は1972年頃であったが、水は沢山流れていたが、その後、訪れるたびに水量は減っていた。写真は最後に訪れた時のものであるが、9月初めという季節のせいもあるが、表面には水はなかった。暑い日であったが、この日も橋の上を楽しくお喋りしながら歩く人が沢山いた。残念ながら夜景の写真は持っていないが、夜の橋の景色は一段と美しいのである。

この橋のかかるザヤンデ川には他にも美しい橋がいくつもあるのだ。Khaju橋やチュービ橋などがそれである。

イスファハーンのアーテシュキャデ ・Ateshkadeh ・ اتشكده‎

イスファハーンについて述べてきたので、ついでにイスファハーンの観光名所を紹介しよう。まずは、タイトルの「アーテシュキャデ」である。以前にゾロアスター教を紹介したことがある。この宗教は拝火教と日本語に訳される通り、火を崇める宗教であった。このアテシュキャデはその火を祭っていた場所である。すなわち神殿の場所である。イスファハーンの中心部から車で30分位で行ける郊外にある小山の上に、この神殿はある。小山といったが、木が全然生えていない、はげ山で登り道もザラザラに削れていて、滑りそうであった。9月であったので、まだ太陽がギラギラと焼けつくように暑かった。勉強不足だったので、どの部分が拝火殿なのかなどは分からなかったが、土で作られた構造物があって、そこがそうなのであろう(笑)。

はげ山の様子が良く分かると思うが、アラブの服を着た男性と、黒い衣類をまとった女性が登っていく風景が印象的だった。頂上でしばらく構造物を観察したが、ここには心地よい風が吹いていた。次に示す若いカップルがいたので話を聞いてみた。遠距離交際中の二人であった。女性が地元イスファハーンにいて、男性はテヘランの大学生とのこと。夏休みで帰省中とのことで、今日はデートだった。

最後の一枚は頂上からの町の風景である。緑の多きことに気が付くだろう。イランは乾燥した砂漠の国であるが、水を有効に集めて利用している。人々の住むところはどこも緑豊かな町である。というものの、イスファハーンの河川も実際に行ってみると表面の水量は殆どなかった。上流で堰き止めて灌漑用に使用しているためである。その水の確保も次第に難しくなっているという。

 

サファヴィー朝(2)

イスファハーンの首都建設の際にアッバース1世は優秀な異民族の能力を活用した。特に有名なのがアルメニア人たちである。イスファハーンにジョルファという地区があるが、そこはアルメニア人たちを移住させて住ませた地区である。彼らはキリスト教徒である。従って、今現在もイスファハーンには多くのアルメニア人が住んでいる。そして、冒頭の写真は彼らのためのキリスト教会である。イランと言えば、ガリガリのイスラム国家であるが、異教徒を全く拒否しているのではない。

アゼルバイジャンとイランの国境の地図を上に示した。右の海がカスピ海である。その西方にジョルファという町がある。イスファハーンのジョルファ地区にいるアルメニア人たちの祖先はこの辺りから連れてこられた人と、旧市街に住んでいた人たちであろう。アルメニア人というと日本では余り馴染みがないかもしれないが、商業的な才能に秀でていることでも有名であり、世界中に進出している。キリスト教をいち早く公認したのもアルメニア王国であったために、エルサレム旧市街にはアルメニア人の居住区もある。私個人的には、テヘランに住んでいたころであるが、街中にある数多くの雑貨店をはじめとした商店主がアルメニア人であった。実直で真面目な人たちで安心して買い物ができる印象だった。イスファハーンの街づくりには彼らが貢献したようだ。職人としての技をイスラムの人々にも教えていったのである。

今回も写真を何枚かアップする。私がアルメニア教会を訪れた時のものである。そこで出会ったアルメニア人の母と子がいたので、写真を撮らせてもらった。

サファヴィー朝(1)

さて、サファヴィー朝の歴史であるが、実はこの王朝が存続したのは上の系図が示すように1502年から1736年、11人の王の200年少々にしか過ぎないのである。イスマイル1世がトルコ民族の支配下から脱出・独立してタブリーズを都としてペルシア全土の統一に成功し、シーア派を国教としたのであった。前回、イスファハーンがサファヴィー朝の都であったと述べたが、イスファハーンが都となったのは1598年からのことである。

サファヴィー朝というのは元々はサファヴィー教団という神秘主義教団に源があります。15世紀の中ごろに騎馬遊牧民の戦士を組織して、戦う教団となったときに、シーア派十二イマーム派であることを表明した。戦士たちは赤い印をつけたターバンを巻いていたのでキジルバシ(赤い頭)と呼ばれていたのである。新たな王朝を建設したものの、西にはオスマン帝国という大国が控えていた。1514年にはオスマンとの戦いで大敗を喫し、その後もオスマンの圧力を受ける苦しい時代が続くなかで、十二イマーム派の教義が整えられてきたのである。現在のイランがシーア派十二イマーム派であることは、この時の歴史の流れから発しているのである。

サファヴィー朝を代表する王といえば、アッバース1世である。通称アッバース大王(Abbas the Great)である。系図で見る通り、彼は第5代の王である。ではあるが、彼は幼いころに祖父からホラサーン地方の総督に任命されており、現地のキジルバシに守られて成長した。その後、第3代の叔父、第4代の父が王に就くが、ごたごたがありサファヴィー朝は衰退しつつあった。ごたごたのことは省略しておいて、17歳で王位について、第5代となったのである。シャー・アッバースである。シャーというのはペルシア語で王という意味である。オスマン帝国のスルタンに対してサファヴィー朝ではシャーが、それぞれ王に等しい権力者である。1979年のイラン革命で失脚してパーラヴィー国王はシャーハンシャーと名乗っていたが、それは王の中の王というペルシア伝統的な呼び方である。

アッバース大王は都をガズヴィンからイスファハーンに遷した。タブリーズから一度ガズヴィンに都がおかれたことがあり、そこからの遷都である。ガズヴィンとはテヘランの西方の比較的近い所である。余談ではあるが、イランで「あいつはガズヴィニー(ガズヴィンの人)だ」というと、深い意味がある。これは冗談であるが、日本なら「京都の着倒れ」「大阪の食い倒れ」とかいうように、土地ごとに揶揄される言葉があるのである。イスファハニー(イスファハーン人)は〇〇だとか。そんなことも知るようになると会話も弾むようになるのである。

シャー・アッバースはイスファハーンを首都にするにあたり、様々な工夫をした。旧市街と新都市との間に現存する「王の広場(現イマーム広場)」を作り、周りに「王のモスク(現イマームモスク)」等モスクや宮殿など公共施設、バザールなどの商業施設などを造り、周辺の発展を期した。イスファハーンが急速に発展した理由は他にもあった。それについては、次回にしよう。今回もイスファハーンの写真をどうぞ。