オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア

サファヴィー朝のイスファハーンから、長々と歴史が横道にそれたようだ。そこで、ちょっと整理してみよう。オスマン帝国が出現して東ローマ帝国を滅ぼすほどの強力な国家になった。そして、西方へ、つまりヨーロッパへ、キリスト教世界の方へ領土を拡大していった。欧州にとってそれは脅威であった。現実にウィーンまで遠征が行われたのである。一度ならず二度も(成功したわけではないが)。一方、東にはオスマンの建国から200年遅れて、サファヴィー朝が成立した。隣同士の両国は常に緊張関係にあった。民族はトルコ民族⇔イラン民族ということになる。イラン民族というのはアーリア人であるから、よく間違えられるイラク人とは全く異なる民族である。イラク人はアラブである。オスマン帝国もサファヴィー朝も共にイスラムであるが、前者はスンニー派、後者はシーア派である。両国の争いはスンニー派対シーア派との対立であるとする見方もあるが、それが争いの最大の理由ではない。最大の理由は隣同士に存在する国同士が覇権を争い、領土を侵害されないようにする争いであって、どこにでもある紛争原因である。戦いが進行すればその過程の中で宗派の違いは戦いのモチベーションを上げることにもなるであろう。

さて、視野を広げて両国を俯瞰してみよう

冒頭の図のオスマンとサファヴィー朝の間に黄色い円を書き足した。そこはクルディスタンである。クルド人(クルド民族)が住んでいる一帯であり、歴史的にクルディスタンと呼ばれてきた地域である。今現在もシリア紛争、イスラム国紛争の場で活躍している民族である。一方トルコからは敵対視されている民族である。彼らはこのクルディスタン地域に住んでいて、オスマンとサファヴィー朝の戦いの歴史の中で大きな影響を受けてきたのである。オスマンの支配下にあればオスマン側として戦い、サファヴィー朝支配下にあればサファヴィー朝側として戦わされた。時にはクルディスタンが分裂状態にあれば、クルド人同士が戦うことにもなった。オスマンの支配下にあった時、一部のクルド人たちはアフリカの方に移住させられたケースもあった。クルディスタンでまとまって居住していたクルド人たちの平和は次第に分断されてきた。そして、それが決定的になるのは第一次世界大戦後である。

図が示すようにサファヴィー朝はオスマン帝国よりもいち早くアフガン民族によって滅ばされてしまう。そしてその後にカージャール朝が成立するのである。そうなるとオスマンに敵対する英国を初めとした西側がカージャール朝に接近してオスマンの背後から圧力をかけようとする。その前にカージャール朝が瀕死の状態になってしまう。英露がカージャール朝を思うがままに懐柔することに成功するのである。列強による帝国主義が中東に押し寄せてくるのであった。