カージャール朝(1796~1925年)ペルシアと帝国主義

オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシアと段階を経てきた。オスマン帝国はまだ滅びてはいない。一方、あのイスファハーンの繁栄を誇ったサファヴィー朝ではアッバース1世の後の王族たちは乱れ、退廃的になり、最後はアフガン族などに攻められ、1736年に滅びてしまう。その後、ペルシアの地ではシーラーズを拠点とするザンド朝(1750年 – 1794年)が成立するが、そこのカリム・ハーンの宮廷ではサファヴィー朝時代にキジルバシュを構成したトルコ系カージャール族のアーガー・モハンマドが人質になり、幽閉生活をおくっていた。彼は1779年にそこから脱出し、17年の歳月をかけて群雄割拠するペルシアを統一したのであった。そしてテヘランを都としてカージャール朝が成立したのである。しかしながら、カージャール朝はイランの歴史のなかでもっとも外国からの圧力に苦しんだ時代であった。近年でも欧米諸国から核開発疑惑による制裁を受けてきたのであったが、数年前に核合意がなされ、イランも国際社会と柔軟に付き合えるようになりかけたのであったが、今はトランプ大統領の核合意離脱に始まる米のイラン制裁により、国民は苦渋に満ちた生活を送っているのであるが、カージャール朝時代のイランも列強帝国主義の犠牲者であった。

  • カージャール朝と列強の思惑
  • フランス:ナポレオン戦争時代、ロシアに対抗するためにペルシアの支援を期待して使節を派遣
  • イギリス:フランのこのような方針に対抗して、東インド会社のジョン・マルコム卿をイランに派遣して、軍事協力や通商に関する協定を締結。
  • ロシア:南方進出を図り(南下政策)、ペルシアも対象であった。カフカースの領有を主張=ペルシアはフランスに支援を求めるが、仏と露のチルジットの和約により仏は支援できず。ペルシアはイギリスの支援を求めて1818年にテヘラン条約を結んだ(ペルシアがロシアと交戦したばあいに、英はペルシアを支援する)。

1812年にナポレオンがロシアに進軍すると、イギリスはペルシアとロシアの和平を望むようになる。ころころ変わる列強の思惑。

  • 1796年~  カージャール朝がペルシアを統一
  • 1798年   ナポレオンがエジプト侵入
  • 1805年   ワッハーブ派がメディナを占領
  • 1805年~  エジプト総督ムハンマド・アリーの政治改革
  • 1806年~  ロシア=トルコ戦争
  • 1811年   エジプトが事実上の独立
  • 1813年   ロシアとペルシアでゴレスターン条約
  • 1821年   ギリシア独立戦争
  • 1826~26  第二次ロシア=イラン戦争
  • 1828年   トルコマンチャーイ条約

ゴレスターン条約とは1813年にアゼルバイジャンのゴレスターンでロシアとカージャール朝との間で締結された条約。カフカース地方の領有を巡って両国は1804年から8年間にわたって断続的に戦争を続けていたが、カージャール朝の敗北に終わった。この結果、ペルシアはアラス川以北のアゼルバイジャン地方をロシアに割譲し、グルジアに対する主権も放棄した。また、カスピ海の航行権をロシアの船だけに認めることに同意した。

トルコマンチャーイ条約とは1828年にタブリーズの南東のトルコマンチャーイにてロシアとカージャール朝との間で結ばれた条約である。ゴレスターン条約で取り決められなかったアルメニアのエレヴァンとナヒチェヴァンの領有権をめぐって、両国は26年に再び戦争を起こしたが、カージャール朝が敗北した結果、アラス川以北のカフカース地方を最終的に失った。また多額の賠償金を支払い、さらに治外法権やロシアに有利な関税協定を結ばされることになった。そして、その後のカージャール朝と列強との間でも不平等条約が締結されるきっかけとなった。

イギリスやロシアがペルシアでどのような卑劣なことをしたのか。書こうとすることは山ほどあるが、それは次回以後にしよう。余談ではあるが、テヘランの下町、バザールに近い所にカージャール朝の王(シャー)の宮殿が残っている。ゴレスターン宮殿である。中に入り見学することができる。カージャール朝というと、王族が退廃して何もかもを売り払ったというイメージなのであるが、宮殿内には何もないわけではない(笑)。結構立派なもの、諸外国から贈られたものなどが豪華に展示されている。

カージャール朝というと自分は、この時代の絵画の特徴を思い起こすのだ。それは人物を描いた時の目の大きさである。ぎょろっとした大きな目を見ると、すぐにこれはカージャール朝時代の絵であるとわかる。いったい何を見据えていたのだろうか。大きな目を開いて列強連中の悪行を見ていたのであろうか。