イスラムを知る:イスラム暦とは?

イスラム暦の各月の名前と日数

1月 ムハッラム 30日
2月 サファル 29日
3月 ラビーウ・アウワル 30日
4月 ラビーウ・サーニー 29日
5月 ジュマーダー・ウーラー 30日
6月 ジュマーダー・アーヒラ 29日
7月 ラジャブ 30日
8月 シャアバーン 29日
9月 ラマダーン 30日
10月 シャウワール 29日
11月 ズー・アル=カアダ 30日
12月 ズー・アル=ヒッジャ 29日

今回のテーマはイスラム暦です。ヘジラ暦、ヒジュラ暦とも呼ばれるものです。要はイスラム世界で用いられている暦のことである。サウジアラビアのメディナで預言者ムハンマドが神の啓示を受けてイスラムが誕生したのであるが、それは西暦でいうと7世紀のことであった。詳しく言うと、ムハンマドがメッカの町を追われて、メディナに移動したのが西暦622年9月24日のことであった。この移動は私たちの時代の世界史の教科書でもヒジュラ(聖遷)という名で取りあげられていた(現在はどうか分からない)。この時を、イスラム暦は紀元としているのである。正確に言うと、当時使われていたアラビアの暦のこの年1月1日、つまり、西暦622年7月16日をイスラム暦元年1月1日としたのである。ヒジュラを紀元としている暦というものの、実際には2か月少々のズレがあるということだ。こんな細かなことはどうでもいいとして、次のことだけを頭に入れておこう!

イスラム暦元年は西暦622年である。

冒頭の表でお分かりのように、1月から12月までには、それぞれに月の名前がついている。日本でも2月如月(きさらぎ)、3月弥生(弥生)などの名前があるのと同様である。そして、それぞれの月の日数が3列目に記されている。30日と29日が交互になっている。イスラム暦は太陰暦なのである。つまり、月の動きに基づいた暦である。ちなみに我々の暦は太陽暦であって、地球が太陽の周りを一周する365.24日に近い365日を一年とする暦である。太陰暦であるイスラム暦は月が地球を一周する29.53日に基づいて作られている。従って、29日と30日の月を交互におくとひと月の平均は29.5日と、ほぼ29.53日に近くなっている。これでも少々の誤差はでてくるが、閏年は置かない。

月の満ち欠けが重要な暦である。月が消えてまた、新月となり三日月が現れだすと、新しい月の始まりである。三日月はイスラムのシンボルでもある。ちょっとややこしいのは、イスラム暦の一日は日没に始まり、次の日の日没にまた、次の日が始まる。だから、例えばイスラム暦の25日というのは24日の日没から始まるのである。我々非イスラムの外国人の場合には西暦で対応してくれるであろうから、問題はないが、実際に戸惑った経験はある。

さて、イスラム暦の毎月の日数を知って、すでにお気づきであろうか。次に重要なことは1年の日数である。

イスラム暦の1年は354日である。

我々の太陽暦とは11日の差がある。1年が11日早く終わってしまう。我々の暦は季節と月が一致しているが、イスラム暦はそうではない、毎年11日づつ先に行ってしまうのである。例えば、仮に今年の1月1日がどちらも同じであったとしてみよう。我々が次の年の元旦を迎えた時に、イスラム暦は11日前に元旦を迎えているということになる。2年で22日、3年で33日となると約1ヵ月先に進んでいるのである。6年経てば2か月、9年経てば3か月以上の差がでてくる。最初元旦が同じだったときにはイスラム暦も冬であったが、9年後のイスラム暦の元旦は我々の9月の末なのである。だから季節と月が合わないというわけである.現実味を帯びるのは断食の時である。断食は9番目の月=ラマダーン月に一カ月の間行われる。断食は太陽がでてから沈むまでの間に行われる。そこでイスラム暦である。ラマダーン月が夏の時がムスリムにとって最も厳しいときとなる。日の長さが長いからである。逆に冬となると日の出も遅く、日の入りも早いから断食する時間は短くてすむ。

イスラム暦は太陰暦なのであるが、イランで使われている暦を紹介しておこう。勿論イランはイスラムの国であるから、他のイスラム諸国と同じようにイスラム暦に従ってイスラムの諸行事を執り行っている。しかしながら、イランではもう一つの暦も使われている。

1月 farvardin 31日
2月 ordibehesht 31日
3月 khordad 31日
4月 tir 31日
5月 mordad 31日
6月 shahrivar 31日
7月 mehr 30日
8月 aban 30日
9月 azar 30日
10月 dei 30日
11月 bahman 30日
12月 esfand 29日(30日)

イラン暦の月の名前と日数は上の通りである。日数を合計すると365日で、閏年には12月が1日増える。つまり、日本で我々が使っている暦と同じ日数、ということは太陽暦である。このイラン暦もイスラム暦と同じように622年を紀元としている太陽暦なのである。そして、もう一つの特徴は元旦(farvardin 1日)が「春分の日」ということである。毎年の春分の日が正月である。これはイスラム誕生以前からペルシャで信仰されていたゾロアスター教の名残であると考えられる。イスラムでは元旦をお祝いする習慣はないが、イラン暦の正月はノウルーズといって、盛大にお祝いをする。ノウルーズの風習はイラン以外の地域でも行われている。ノウルーズの風習も興味深いものがあるので、またの機会に取り上げることにすることにして、今回はここまでにしよう。

 

イスラムを知る:モスクの紹介・マレーシアのモスク、そして東京ジャーミー

モスクとはイスラムの礼拝所のことです。アラビア語ではマスジド(مَسْجِد‎, masjid)と呼びます。モスクという語の語源もここからきているようです。さて、3日前にモスクについて書きましたことから、今回はマレーシアのモスクの画像を紹介しようと思います。イスラムというとアラビア半島で誕生し、そこから次第に勢力を拡大していったために、中東地域の大部分の国の人々はイスラムを信仰しています。中東全体のなかでムスリムの割合は非常に高いでしょう。でも、イスラムを信仰している人達の数、つまりムスリム人口が多いのはアジアなのです。要するにアジアは人口が多いといいうことです。インドネシアの2億人の殆どがイスラムと言われていますように。今回紹介するのはマレーシアのモスクです。マレーシアは「マレー系」「中国系」「インド系」の人たちがいることで有名です。異なる人種・言語・宗教・文化などを有しながら、共存している国です。ですから、私が現役で教員をしていたころには、勉強のために学生を連れて行ったこともありました。その時は現地のトヨタ自動車の工場を見学し、責任者に講義をして頂きました。民族間の複雑な事情もあるようですが、企業も政府も社会も安定に努力しているようです。

では、モスクです。クアラルンプール (KL) には国立のモスクがありました。これまで見ていたモスクとはちょっと違って、モダンでしが。1500人も入れるという大きな広間は「モスク?」という印象でした。次の写真です。

ミナレットも先に説明したときのものより、ずっとモダンでおしゃれな感じがします。翌日、KL から少し離れた地方のモスクを見ることができました。こちらはこじんまりしたモスクで土地の有力者が建てたような説明を受けたように思います。感想は「金ぴか」という印象でした。

マレーシアにはイスラム・アート美術館(正式名ではないかもしれませんが)があって、そこではアラビア書道の作品も多く展示されているそうです。今度、訪れたときには是非とも行ってみようと思っています。

最後に、東京ジャーミーの絵葉書がありましたので、これらを載せたいと思います。日本にもこんなに立派なモスクがあります。トルコ大使館が管理しているそうです。是非とも皆さん訪れてほしいものです。

 

イスラムを知る:日本にいてキブラの方角を知るには?

モスクにはメッカの方角にミフラーブがあることを前々回に述べました。メッカの方角をキブラということも分かりました。私たちがイスラムの国に行って泊まった時に、部屋の天井に矢印のようなマークを見ることがあります。それはメッカの方角を示すもので、キブラ・マークと呼ばれるものが貼られているのです。ちなみに日本でもそのようなものを売っているのかと思って楽天市場を見てみると、ありました。キブラシールという名称の3枚セットで400円とありました。日本のホテルなどでも、ムスリムの宿泊者が多いところは、おそらくキブラシールを貼っていることなのでしょうね。

それでは日本にいて、キブラを知るにはどうすればいいのでしょうか。メッカの方角を知るわけですから、地図上で自分のいる場所とメッカを直線で結び、その直線と水平に引いた線との角度などから割り出せば、大体の方角は分かりますよね。でも、移動するたびに面倒くさい話になります。そんな時に便利なグッズがあるのです。キブラ・コンパスというものです。アマゾンで調べてみましょう。

YCMコーポレーション。キブラコンパス 日本製 AL-KAABAコンパス 901A という商品が出ていました。価格は1,100円と手軽な価格です。商品の説明は次のように書かれています。世界中どこに居てもメッカの方向を知ることが出来るキブラコンパスです。日本の老舗コンパスメーカーで60年以上前から生産されており、ドバイを中心に中東のイスラム圏で愛用されています。国内での需要増加に応じ、説明書は日本語にも対応しています。品質の良い日本製のキブラコンパスはちょっとした贈り物にも最適です。」

日本のメーカーが60年も前から販売しているものらしいです。日本でもこうして売っているわけですが、ドバイなど、つまりイスラム圏で長く買われているもののようです。日本の商品がこういう風にイスラム圏で使われてきていることを知り、日本のメーカーさんもすごいなあと感じます。

でも、時代とともにキブラの世界もどんどん変化しているのではないでしょうか。それはスマホの発展と普及です。イスラム・プロというアプリをダウンロードしてみました。そこではお祈りの時間の通知などとともに、キブラの項目があり、その画面が下の画像です。

このように、メッカの方向が簡単に示してくれるのです。世界中、何処にいてもメッカの方向を向いて、お祈りをすることができるのです。コーランの内容も知ることができるようです。ある意味で、イスラムは IT に対応できているような気がしてきました。

イスラムを知る:アザーンについて

アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのことである。イスラムの国へ行くと、お祈りの時間になると、モスクから聞こえてくる歌のようなものである。と書いたが、歌と言ったらイスラム関係者から叱られるでしょうから、決して歌や音楽ではないと断っておきましょう。先ずはユーチューブに「東京ジャーミー」のアザーンが投稿されていたのでここにリンクを貼らせていただいた。短いものだから、聞いてみてほしい。

アザーンは礼拝への呼びかけということであって、コーランを朗唱しているのではないということを、間違わないでくださいね。そして、唱えられている言語はアラビア語である。その意味は昨日の平凡社『新イスラム事典』によると、次の通りである。

  1. アッラーフは偉大なり(4回)
  2. 私はアッラーフのほかに神なしと証言する(2回)
  3. 私はムハンマドがアッラーフの使徒なりと証言する(2回)
  4. いざや礼拝に来たれ(2回)
  5. いざや成功のために来たれ(2回)
  6. アッラーフは偉大なり(2回)
  7. アッラーフのほかに神なし(1回)

そして、早朝のアザーンは5と6の間に「礼拝は眠りに勝る」(2回)という文句が入る。また、シーア派のアザーンは5と6の間に「いざや善行のために来たれ」(2回)が入り、最後の7を2回繰り返して唱える。

このアザーンを聞いた時あなたはどのように感じるでしょうか。私自身は初めてイランで聞いた時「イスラムの国に来ているんだなあ」と実感したものです。そして、モスク近くで聞いた時はちょっと「〇〇さいな」とも少々思ったこともありました。特に、イスタンブールの安宿に泊まった時、早朝に非常に大きな音量でアザーンが流れてきたときは、びっくりしました。宿のすぐそばがモスクだったのでした。・・・でも、長い間イランにいるうちに、夕方に流れてくるアザーンには何か魅かれるようになりました。哀愁を帯びたような節回しがなぜか心に沁みる感じがしたのです。多分、アザーンを唱える人にも上手とそうでない人がいるかもしれません。聞くところによると、アザーンのコンテストもあるようです。また、小さな子供がアザーン(コーランも)を唱える動画なども沢山ネット上で見ることもできます。ユーチューブからその一つをリンクしておきましょう。素晴らしいです。

それでは今日はこの辺で。

 

 

イスラムを知る:モスクについて

しばらくの間、イスラムに関する記事がありませんでした。今回はイスラムのモスクについてちょっと詳しく掘り起こしてみることにします。そもそもモスクとは何か?手元にある平凡社発行の『新イスラム事典』には「イスラム教徒の礼拝所、礼拝堂」とあります。勿論、その後に詳しいことが色々書かれているのですが、まずは、これでいいですね。ムスリム(イスラム教徒のことをムスリムと呼びます)がお祈りをする場であるということです。でも、イスラム教徒は1日に5回礼拝することになっているわけですから、そんなに頻繁にモスクに行くことは無理です。ですから、普段はムスリムがいる場所で礼拝をすればいいわけです。例えば、会社で仕事しているときに礼拝の時刻になったなら、会社の片隅でやればいいわけです。畑で仕事している時なら、地面に敷物でも敷いて、そこでやればいいわけです。駅や飛行場などには、モスクの代わりになる礼拝の場所がきちんと設けられています。ムスリムは金曜日が休息日ですから、金曜日にはなるべくモスクへいくことが勧められています。金曜日になると町の中心的なモスクでは正午から集団礼拝が行われます。

モスクは礼拝所ですから、それに伴う必要な場が設けられています。東京堂出版、黒田壽郎編『イスラーム辞典』76頁(下段)には「通常モスクにはミナレット(尖塔)、いくつかの部屋、ミフラーブ(キブラの方角を指示する壁がん)、ミンバル(説教壇)、ダッカ(ムアッズィンによる礼拝の呼びかけをする高台。通常大きなモスクにある)等があり、カーペットが床に敷きつめられている。」とでています。括弧書きで注釈がありますが、それでもムアッズィンは分からないですね。ムアッズィンとは礼拝の時間を告げる呼びかけを行う人のことです。礼拝呼びかけ人とでも訳せばいいでしょう。もう一つキブラという語句も注釈しておきましょう。礼拝は聖地メッカ(サウジアラビア)のカーバ神殿の方角に向かって行うのです。ですから、キブラの方角というのは、メッカの方角という意味です。それでは、今述べられた個々の施設を見ていくことにしましょう。

(1) ミナレット(尖塔):文字通り先の尖った塔のことです。これは礼拝の時間になると先述のムアッズィンが礼拝の呼びかけをするために用いられるわけです。大きなモスクにはありますが、小さなモスクにはありません。『新イスラム事典』では次のような挿絵が載っていますので、拝借させていただきます。

左から角柱型、円柱型、折衷型となっています。最もミナレットらしいのは円柱型のように思いますが、モスクの形などによって相応しい型があるようにも思います。冒頭の画像は私が写したイランのイスファハンのイマーム・モスクの遠望です。尖塔が4本見えていています。次の画像も同じくイスファハンで私が写したものですが、ミナレットは1本だけ見えています。ドーム屋根の向こうにもう1本あったのかもしれません。モスク自体が冒頭のモスクとは異なり、装飾のない素朴なモスクでした。

(2) ミフラーブ:モスクの礼拝室の中で、聖地メッカの方角(キブラ)を示すために造られたアーチ形の壁龕(ヘキガン)のことです。要はメッカの方角を示す印なのですが、その部分が大きなモスクでは立派に設けられているのです。立派とはどういう意味かというと、例えばタイルで美しく飾られているとか、またそのタイルにアラベスク模様が描かれていたりするということです。

(3) ミンバル(説教壇):金曜日の集団礼拝をするような大きなモスクにはミンバルと呼ばれる説教壇があります。金曜礼拝時にしかるべき人がここで説教をしたりするわけです。次に、大和書房発行・山内昌之監修『イスラーム基本練習帳』の図を拝借させていただきますと、左がミフラーブで右がミンバルです。

(4) まとめ:ほかにも何やかやがあると思います。礼拝前に身を浄めるための水場は不可欠のものでしょう。身の浄め方にも作法があるようです。私はムスリムではありませんので、礼拝の作法を詳しくは知りません。が、モスクを訪れた時には絨毯の上に正座して静かな心でミフラーブに向かい手を合わせます。それでいいのだと思います。これまでモスクに入ろうとして断られたことはありません。イランのシーラーズで一度だけ止められたことがありました。宗教的な行事があったようでした。そこで、彼らはスカーフを被っていた同行の女性のために身体全体を隠すチャドールを貸してくれました。それを着れば良いということでした。

日本にもモスクはありますね。神戸と東京の者が大きいモスクと言えるでしょう。特に東京ジャーミーは非常に立派なものです。前回行ったのは3年ぐらい前でした。中の売店でナツメヤシの実のお菓子を買って帰りました。甘くて美味しい、そして安かったです。また、ジャーミーの絵葉書も買い求めました。

オスマン帝国(5):第一次世界大戦後のトルコ

上は宮田律著『中東イスラーム民族史』から転載させてもらったオスマン帝国の系図である。1299年に始まったこの王朝も1922年に幕を閉じたわけである。そして新生トルコ、現在のトルコが誕生した。今回はオスマン帝国が第一次世界大戦で降伏したあたりのことを取りあげよう。

第一次大戦後の1920年8月10日に連合軍とオスマン帝国との間で講和条約(セーヴル条約)が締結された。この条約により、オスマン帝国は広大な領土の殆どを失った。詳しいことは省くがオスマン帝国にはアナトリア半島の中ほどの限られた地域だけが残されるような条約であった。特筆すべきことは、この条約にはオスマン帝国内にあったアルメニア人地域、クルド人地域に将来の独立を見据えた自治を認めるという内容があったのである。

出所:山川出版社『中東現代史1』

ここで立ち上がったのが、トルコ共和国建国の父ケマルであった。彼はセーヴル条約を締結したカリフ政権を倒して革命政権を樹立した。そして彼の新政府は連合国との間でセーヴル条約に代わる新たな講和条約(ローザンヌ条約)を1923年に締結して、今現在のトルコの領土の国境を確定させたのである。そしてケマルの改革が始まった。

  • トルコ発展のために宗教と政治を分離した(政教分離)。憲法からイスラム教を国教とする条文を削除した。
  • トルコ語の文字をアラビア文字からアルファベットに換えた。
  • 一夫多妻を禁じ、1934年には女性の参政権を実現。
  • トルコ人としての意識強化  などなど。

クルドやアルメニアという他の民族を抱えたトルコである。宗教や民族にはかかわらず、トルコに居住する人はトルコ人であるという国民国家的な思想の下でケマルは国づくりをしようとしたのであろう。それが高じると「トルコにクルド人はいない。彼らはトルコの山岳地帯に居住するトルコ語を忘れたトルコ人である」というような発言も出てきたのであろう。クルド語の使用を禁止したり、印刷機を壊し、書物を破棄させたようなことも行った。・・・・アルメニア人の大虐殺などという問題もトルコで起ったのである。こうして、トルコは辛うじて現在のトルコの領土を確保することができた。しかし、その他の地域であるシリア、イラク、パレスチナ辺りの処理はどうなったのであろうか。イギリスとフランスの委任統治領が誕生していったのである。それは次回に譲ことにしよう。

キーワード:オスマン帝国、第一次世界大戦、セーヴル条約、ローザンヌ条約、ケマル、政教分離、委任統治領

 

カージャール朝からパーラヴィー朝へ

英露の圧力下でカージャール朝ペルシアは衰退していった。このカージャール朝時代に日本はペルシアと国交をもつのであるが、その前にペルシアがどのような国であるのか視察に出た一行がある。それを率いたのは吉田正春である。土佐藩の出である。土佐藩で吉田と言えば、参政・吉田東洋を思い起こすであろう。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」を見た方は吉田東洋が暗殺された場面を覚えているかもしれない。吉田正春とは東洋の息子である。父東洋が死したあと、彼を養育したのは遠縁に当たる後藤象二郎である。吉田正春が当時のペルシアを視察した記録が残されており、その頃のペルシアを知る貴重な資料である。この時の様子は後日「日本と中東との関係」で改ためて取り上げることにする。

第一次大戦後の1925年にレザー・ハーンがクーデターによって実権を握ると、カージャール朝に代わってパーラヴィー朝を興して自らシャーと名乗った。近代化に努めて1925年にはペルシアという国名をアーリア人の国という意味を込めてイランと改めた。イラン人の祖先は北から移住してきたアーリア人とされており、イラン人はそれを誇りにしている。イラク人などのアラブ人と間違われると「俺たちはアラブではない。アーリア人だ」と声をあげる。レザー・ハーンがレザー・シャーとなってイランは改革を進めた。このブログではオスマン帝国が崩壊して新生トルコに至る部分はまだ登場していないのであるが、パーラヴィー朝が始まった時は既に新生トルコの時代になっている。レザー・シャーはオスマン帝国が解体されてトルコ民族の国が消滅しかけたことを見てきた。そしてケマルが新生トルコを建設したことを目の前で見ていた人物である。彼はケマルのやり方を手本として帝国主義に立ち向かおうとした。が、結局、彼も帝国主義には勝てなかったのが結論である。彼は追放されて、幼い息子が王位に就き、それを保護するという大国がイランを翻弄したのであった。私がイランにいた1970年代のテヘランにはシャー・レザー通りという空港に通ずる東西の道路があり、テヘラン大学近くのロータリーには彼の銅像があった。そのロータリーは通称「メイダーネ・モジャッサメ」と呼ばれていた。モジャッサメとは彫像という意味である。このパーラヴィー朝も1979年に崩壊するのであるが、この王朝については、オスマン帝国から新生トルコの項を書いた後で取りあげることにしましょう。

冒頭の写真は1976年に住んでいたテヘランの我が家(アパートメント)

キーワード:パーラヴィー朝、レザー・シャー、イラン、アーリア人、

カージャール朝(1796~1925年)ペルシアと帝国主義

オスマン帝国、サファヴィー朝ペルシアと段階を経てきた。オスマン帝国はまだ滅びてはいない。一方、あのイスファハーンの繁栄を誇ったサファヴィー朝ではアッバース1世の後の王族たちは乱れ、退廃的になり、最後はアフガン族などに攻められ、1736年に滅びてしまう。その後、ペルシアの地ではシーラーズを拠点とするザンド朝(1750年 – 1794年)が成立するが、そこのカリム・ハーンの宮廷ではサファヴィー朝時代にキジルバシュを構成したトルコ系カージャール族のアーガー・モハンマドが人質になり、幽閉生活をおくっていた。彼は1779年にそこから脱出し、17年の歳月をかけて群雄割拠するペルシアを統一したのであった。そしてテヘランを都としてカージャール朝が成立したのである。しかしながら、カージャール朝はイランの歴史のなかでもっとも外国からの圧力に苦しんだ時代であった。近年でも欧米諸国から核開発疑惑による制裁を受けてきたのであったが、数年前に核合意がなされ、イランも国際社会と柔軟に付き合えるようになりかけたのであったが、今はトランプ大統領の核合意離脱に始まる米のイラン制裁により、国民は苦渋に満ちた生活を送っているのであるが、カージャール朝時代のイランも列強帝国主義の犠牲者であった。

  • カージャール朝と列強の思惑
  • フランス:ナポレオン戦争時代、ロシアに対抗するためにペルシアの支援を期待して使節を派遣
  • イギリス:フランのこのような方針に対抗して、東インド会社のジョン・マルコム卿をイランに派遣して、軍事協力や通商に関する協定を締結。
  • ロシア:南方進出を図り(南下政策)、ペルシアも対象であった。カフカースの領有を主張=ペルシアはフランスに支援を求めるが、仏と露のチルジットの和約により仏は支援できず。ペルシアはイギリスの支援を求めて1818年にテヘラン条約を結んだ(ペルシアがロシアと交戦したばあいに、英はペルシアを支援する)。

1812年にナポレオンがロシアに進軍すると、イギリスはペルシアとロシアの和平を望むようになる。ころころ変わる列強の思惑。

  • 1796年~  カージャール朝がペルシアを統一
  • 1798年   ナポレオンがエジプト侵入
  • 1805年   ワッハーブ派がメディナを占領
  • 1805年~  エジプト総督ムハンマド・アリーの政治改革
  • 1806年~  ロシア=トルコ戦争
  • 1811年   エジプトが事実上の独立
  • 1813年   ロシアとペルシアでゴレスターン条約
  • 1821年   ギリシア独立戦争
  • 1826~26  第二次ロシア=イラン戦争
  • 1828年   トルコマンチャーイ条約

ゴレスターン条約とは1813年にアゼルバイジャンのゴレスターンでロシアとカージャール朝との間で締結された条約。カフカース地方の領有を巡って両国は1804年から8年間にわたって断続的に戦争を続けていたが、カージャール朝の敗北に終わった。この結果、ペルシアはアラス川以北のアゼルバイジャン地方をロシアに割譲し、グルジアに対する主権も放棄した。また、カスピ海の航行権をロシアの船だけに認めることに同意した。

トルコマンチャーイ条約とは1828年にタブリーズの南東のトルコマンチャーイにてロシアとカージャール朝との間で結ばれた条約である。ゴレスターン条約で取り決められなかったアルメニアのエレヴァンとナヒチェヴァンの領有権をめぐって、両国は26年に再び戦争を起こしたが、カージャール朝が敗北した結果、アラス川以北のカフカース地方を最終的に失った。また多額の賠償金を支払い、さらに治外法権やロシアに有利な関税協定を結ばされることになった。そして、その後のカージャール朝と列強との間でも不平等条約が締結されるきっかけとなった。

イギリスやロシアがペルシアでどのような卑劣なことをしたのか。書こうとすることは山ほどあるが、それは次回以後にしよう。余談ではあるが、テヘランの下町、バザールに近い所にカージャール朝の王(シャー)の宮殿が残っている。ゴレスターン宮殿である。中に入り見学することができる。カージャール朝というと、王族が退廃して何もかもを売り払ったというイメージなのであるが、宮殿内には何もないわけではない(笑)。結構立派なもの、諸外国から贈られたものなどが豪華に展示されている。

カージャール朝というと自分は、この時代の絵画の特徴を思い起こすのだ。それは人物を描いた時の目の大きさである。ぎょろっとした大きな目を見ると、すぐにこれはカージャール朝時代の絵であるとわかる。いったい何を見据えていたのだろうか。大きな目を開いて列強連中の悪行を見ていたのであろうか。

 

オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア

サファヴィー朝のイスファハーンから、長々と歴史が横道にそれたようだ。そこで、ちょっと整理してみよう。オスマン帝国が出現して東ローマ帝国を滅ぼすほどの強力な国家になった。そして、西方へ、つまりヨーロッパへ、キリスト教世界の方へ領土を拡大していった。欧州にとってそれは脅威であった。現実にウィーンまで遠征が行われたのである。一度ならず二度も(成功したわけではないが)。一方、東にはオスマンの建国から200年遅れて、サファヴィー朝が成立した。隣同士の両国は常に緊張関係にあった。民族はトルコ民族⇔イラン民族ということになる。イラン民族というのはアーリア人であるから、よく間違えられるイラク人とは全く異なる民族である。イラク人はアラブである。オスマン帝国もサファヴィー朝も共にイスラムであるが、前者はスンニー派、後者はシーア派である。両国の争いはスンニー派対シーア派との対立であるとする見方もあるが、それが争いの最大の理由ではない。最大の理由は隣同士に存在する国同士が覇権を争い、領土を侵害されないようにする争いであって、どこにでもある紛争原因である。戦いが進行すればその過程の中で宗派の違いは戦いのモチベーションを上げることにもなるであろう。

さて、視野を広げて両国を俯瞰してみよう

冒頭の図のオスマンとサファヴィー朝の間に黄色い円を書き足した。そこはクルディスタンである。クルド人(クルド民族)が住んでいる一帯であり、歴史的にクルディスタンと呼ばれてきた地域である。今現在もシリア紛争、イスラム国紛争の場で活躍している民族である。一方トルコからは敵対視されている民族である。彼らはこのクルディスタン地域に住んでいて、オスマンとサファヴィー朝の戦いの歴史の中で大きな影響を受けてきたのである。オスマンの支配下にあればオスマン側として戦い、サファヴィー朝支配下にあればサファヴィー朝側として戦わされた。時にはクルディスタンが分裂状態にあれば、クルド人同士が戦うことにもなった。オスマンの支配下にあった時、一部のクルド人たちはアフリカの方に移住させられたケースもあった。クルディスタンでまとまって居住していたクルド人たちの平和は次第に分断されてきた。そして、それが決定的になるのは第一次世界大戦後である。

図が示すようにサファヴィー朝はオスマン帝国よりもいち早くアフガン民族によって滅ばされてしまう。そしてその後にカージャール朝が成立するのである。そうなるとオスマンに敵対する英国を初めとした西側がカージャール朝に接近してオスマンの背後から圧力をかけようとする。その前にカージャール朝が瀕死の状態になってしまう。英露がカージャール朝を思うがままに懐柔することに成功するのである。列強による帝国主義が中東に押し寄せてくるのであった。

ペルシアの細密画(ミニアチュール)

前回のハータムカーリーの額に入れるにはペルシアの細密画(ミニアチュール)が最高にマッチすると思うのだ。というものの細密画の質が重要ではあるが。ここに挙げたものは一応、名の知れた作家のサインがあるので、いい方のものであるが、もっと上質なものになると睫毛や眉毛、髪の毛の一本一本が細かく描写されている。この作品は近くで虫眼鏡でみても、そういう風ではない。しかし、壁に飾って少し離れたところからみる限りにおいては良い方である。絵の部分だけを少しアップにしたものが次の画像である。

次に、この作品とペアの物を示そう。同じ作者のものである。王人が酒を飲んでいる風景である。オマル・ハイヤームの詩に出てくる風景であろう。ハイヤームはイスラム社会に居ながら、酒をこよなく愛し、「酒なくて、何の人生や!」とうたった詩人である。ついでにハイヤームの詩を一つだけ紹介する。他の詩は今度また改めて紹介することにしたい。(平凡社、『ルバーイヤート』岡田恵美子訳より)

3つめは少し大きい作品である。ハータムカーリーの額がよく合っている。これはペルシアの歴史物語の場面であろう。先の二つとは全然画風も異なっている。

細かい点を見るために、額を外して部分的に見ると次のようになる。