コーランについて(4):第2章・・・雌牛②

前回の「第2章雌牛」の続きです。正直な話、私自身はコーランを丁寧に読んだことはありません。必要に応じて、所々を拾い読みしたというのが現実です。でも、最初に手にしたのが以前にも紹介しましたが、岩波文庫の井筒俊彦先生訳でして、大学生の時でした。だから、もう50年も前のことですから、その間、ずっと私の傍には置いてあったことになります。でも、丁寧に端から端まで読んだわけではありません。ブログを書くようになり、いまコーランについて書くのを機会に、勉強しながら読んでいるのが真実であります。コーランの専門家などではありません。その辺はご了承ください。一緒に勉強していきましょう。

さて、本題に入りますが、この章には色々なことが書かれています。特に一般の人でも知っているようなイスラムのこと、例えば前回述べた「メッカの方向に向かってお祈りすること」「豚肉を食べないこと」「断食のこと」などです。今回もそのようなこと(と言っても私が興味ある事柄になるでしょうが)、をいくつか紹介いたしましょう。今回も井筒訳を拝借します。

第195節「アッラーの道に(宗教のために)惜しみなく財を使え。だがわれとわが身を破滅に投げ込んではならぬ。善いことをせい。アッラーは善行をなす人々を愛し給う。」
第196節「メッカ巡礼と聖所詣での務めをアッラーの御ために立派に果せ。しかし妨害されてそれができない場合には、何か手ごろな捧げものを(出せばよい)。その捧げ物が生贄を捧げる場所に到達するまでは頭を剃ってはいかんぞ。しかし病気とか、または何か頭に傷をうけて(どうしても頭を剃らねばならぬ)人は、その償いとして断食するか、自由喜捨をするか、さもなければ生贄(少なくとも羊一頭)を出すがよい。・・・・・」
宗教のためには金を使うことを奨励していることが面白い。また、巡礼についてであるが、できない場合は捧げものを、しかし、それについても頭を剃ることはあわてるなとか、でも、それも都合によっては無理なら、こうしたらいいというようなことが述べられているわけです。イスラムではこのように「~ができないときは、~しろ」ということが随所にあるように思うのです。断食の場合もそうです。「病気の時は仕方がない。旅行の時も断食は辛くてしんどいからやらなくていい。でも、後日改めて断食しろ。それが出来なければ施しを与えなさい」という風にです。つまり、非常に現実的な規則を定めているのです。精神論だけでなく、現実的な規則なのです。私はそれが「人間臭い」と感じるのです。

次のくだりは神へのお願いのことらしい。
第198節~202節「汝らが神様にお恵みをおねだりするのは罪ではない。・・・中略・・・人によっては、「神様私どもに現世で(沢山よいものを)お与え下さい」などとお願いする者があるが、そのような者は来世で何の分け前にも与れまいぞ。また人によると「神様、私どもに現世でもよいものを、来世でもよいものをお与え下さい。私どもを(地獄)の劫火の罰から護り給え」という者もある。このような者どもには自分で稼いだだけのものが与えられよう。まことにアッラーは勘定早くおわします。」
ここの部分もユーモラスではないでしょうか。「お前たちのなかにはいろんなことをお願いしてくるやつがいるんだよ」と苦笑いしているアッラーが目に浮かびます。そこでお気づきでしょうか。イスラムは今生きている現世の利益を求めるのではないということです。ムスリム(イスラム教徒がもとめるのは来世利益なのです。死後の世界で地獄に落ちて劫火の苦しみを受けることから逃れるために生前に善行を積むことを奨励しているのです。

第214節「一体汝ら、過ぎた昔の人々が経験したような(苦しい試み)に遭わずに(楽々と)天国に入れるとでも思っておるのか。。(昔の人たちは)みんな不幸や災禍に見舞われ、地揺れに襲われ、しまいには使徒も信者たちも一緒になって「ああ、いつアッラーのお助けがいただけるのか」と嘆いたほどではなかったか。いや、なに、アッラーのお助けは実はすぐそこまできておるのだが。」
第215節「どんなことに金を使ったらよかろうかとみんながお前(ムハンマド)に訊いてくることであろう。答えてやるがよい、善行につかう金なら、両親と親類縁者、孤児と貧民と路の子(旅行者)のため。お前たちがする善行については、アッラーは何から何までご存知だぞと。」
第219節「酒と賭矢(賭け事の一つ)についてみんながお前に質問してくることであろう。答えよ、これら二つは大変な罪悪ではあるが、また人間に利益になる点もある。だが、罪の方が得になるところより大きい、と。・・・・・」
楽々と天国に行けるものではないのだと、言っている。イスラムは現世よりも来世のほうが長いので来世で天国で幸せに暮らすことを夢見ているのです。そのためにも地獄の劫火に遭わないことを求めるのです。地獄の劫火にあったらそれはそれは苦しいこと限りない世界のようです。すでにもう死んでいるのだから、劫火にあってどんな苦しい目にあっても死ぬことはない。極限の苦しみが永遠に続くことにある恐ろしい地獄の世界らしいのです。
ここでもお金の使い方がでてきました。使い道の一つとして両親、親類縁者、孤児、旅行者への支出が挙げられています。血縁よりもイスラム同胞を重んじるイメージがあるので両親、親類縁者はちょっと意外ですが、孤児を大事にするというのはあちこちで述べられていることです。酒と賭け事については 益<害 ということで説明されています。

第256節~257節「宗教には無理強いということが禁物。既にして正しい道と迷妄とははっきりと区別された。さればターグート(イスラム以前のアラビアで信仰されていた邪神のたぐい)に背いてアッラーの信仰に入る人は、絶対にもげることのない把手を掴んだようなもの。アッラーは全てを聞き、あらゆることを知り給う。アッラーこそは信仰ある人の保護者。彼らを暗闇から連れだして光明へと導き給う。だが、信仰なき者どもは、ターグートたちがその保護者、その手引きで光明から連れ出され、暗闇の中に落ちて行く。やがて地獄の劫火の住人となり、永遠にそこに住みつくことだろうぞ。」
無理強いして入信させるのは禁物であると言っている。だから入信しなくてもいいではなく、イスラムを信仰しなければ地獄へ落ちて大変なことになるぞと言っているのである。そして、光明という言葉がでてきたが、イスラムではイスラム以前の時代をジャーヒリヤといって日本では無明時代、つまり光のない時代と訳されています。イスラムではイスラムが誕生して人々は光ある世界の下で暮らせるようになったと言っているのです。私からみるとイスラム以前にも例えばササン朝ペルシャなどでは洗練された文化のもとで豊かな世界が発展していたと言いたいのですが。

この章はもう少しありますが、とりあえず今日はここまでにしておきます。続きを書くか、また別の章へ移るのか、それは神のみぞ知ると言っておきましょう(笑)。ところで冒頭の画像はオスマン朝時代の17世紀にムスタファ・イブン・ムハンマドという書家のコーランの写本です。『Palace and Mosque, Islamic art from the Victoria and Albert museum』から拝借させていただいたものです。それから、ここに書いた事柄がすべてではありません。例えば酒なら酒についての記述は他にも沢山あります。同様に賭け事についても、断食や巡礼についても複数の章で書かれているので、ここのものがすべてではないことには御留意ください。

コーランについて(3):第2章・・・雌牛①

コーランの最初の頁「第1章・・・開扉」に続くのが「第2章・・・牝牛」です。かなり長い章で286節で構成されています。手元にある亜日対訳コーランでは約50頁の量になっています。ここには興味ある事柄が盛りだくさん含まれています。

第1節はアリフ・ラーム・ミームです。これだけです。アラビア文字の3文字があるだけです。つまり、الم というわけです。何を意味するのでしょうか?諸説あるようですが、それを聞いても私には良く分かりません。逆に言うと、こう言う意味であるとはっきりしたものがないということなのでしょう。全114章のうちの29章が冒頭にこのようにアルファベットで始まっています。そして、このアリフ・ラーム・ミームで始まっているのは6つの章です。残りの23章がどのような文字で始まるかはその都度紹介していきましょう。(以下の訳文は井筒俊彦著『コーラン』からの引用です。)

礼拝をする方角をキブラということは以前紹介したことがあります。このキブラについて142節以後で触れています。144節には「何処から出てきた場合でも、必ず顔を(メッカの)聖なる礼拝堂の方に向けるようにせよ。この(規定)は、まさしく主の下し給うた真理。アッラーは汝らの所業をぼんやり見過ごしたりはなさらぬぞ。」とあります。世界中のどこにいても、イスラム教徒たちが礼拝の時にはメッカの方向を見て行うということがここに記載されているのです。

では、食べ物について見てみましょう。173節には次のように書かれています。「アッラーが汝らに禁じ給うた食物といえば、死肉、血、豚の肉、それから(屠る時に)アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)のみ。それとて、自分から食い気を起こしたり、わざと(神命に)そむこうとの心からではなくて、やむなく(食べた)場合には、別に罪にはなりはせぬ。まことにアッラーはよく罪をゆるし給うお方。まことに慈悲の心深きお方。」豚肉・血・死肉以外のものなら何を食べてもいいようです。

第177節「本当の宗教心とは汝らが顔を東に向けたり西に向けたりすることではない。いや、いや、本当の宗教心とは、アッラーと最後の(審判の)日と諸天使と聖典と予言者たちとを信仰し、己が惜しみの財産を親類縁者や孤児や貧民、または旅路にある人や物乞いに分け与え、とらわれの(奴隷)を購って(解放し)、また礼拝のつとめをよく守り、こころよく喜捨を出し、一旦約束したらば約束を果し、困窮や不幸に陥っても危急の時にのぞんでも毅然としてそれに堪えてゆく人、(これこそ本当の宗教心というものじゃ)そういうのが誠実な人、そういうのこそ真に神を畏れる心をもった人。」とある。とある。この部分は喜捨の勧めに相当するでしょうか。

第183節「これ信徒の者よ、断食も汝らの守らねばならぬ規律であるぞ、汝らより前の時代の人々の場合と同じようね。(この規律を良く守れば)きっとお前たちにも本当に神を畏れかしこむ気持ちが出来てこよう。」第184節「(この断食のつとめは)限られた日数の間守らなければならぬ。但し、汝らのうち病気の者、または旅行中の者は、いつか他の時に同じ数だけの日(断食すればよい)。また断食をすることができるのに(しなかった)場合は、貧者に食物を施すことで償いをすること。しかし、(何事によらず)自分から進んで善事を成す者は善い報いを受けるもの。この場合でも(出来れば規律通りに)断食する方が、汝らのためになる。もし(ものごとの道理が)汝らにはっきりわかっているならば。」このあともう少し断食についての記載が続いている。断食の規律に従えなかった場合には後日穴埋めをすればよいというようなことであるが、このような点で私はイスラムは非常に現実的かつ具体的なを有する集団であると思う。それにもう一つ人間臭いものでもあると感じている。それは次のような節である。第187節「断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。彼女らは汝らの着物、汝らは彼女らの着物。アッラーは汝らが無理していることをご承知になって、思い返して、許し給うたのじゃ。だから、さあ今度は。(遠慮なく)彼女らと交わるがよい。そしてアッラーがお定め下さったままに、欲情を充たすがよい。食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかしその時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ。礼拝堂におこもりしている間は、絶対に妻と交わってはならぬ。これはアッラーの定め給うた規定だから、それに近づいて(踏越え)てはならぬ。このようにアッラーは人間にそのお徴を説き証かし給う。こうすればきっとみんなも敬神の念を抱くようになるかも知れぬとお思いになって。」

長くなるので一度ここで終わることにし、後日つづきを追加することにします。

書籍紹介:イスラム2.0(SNSが変えた1400年の宗教観)

コロナの影響で外出を控えていましたが、不要不急でない用があり、名古屋に出かけました。少し時間があったので大型書店の店頭でこの本を見つけました。

題名は『イスラム2.0(SNSが変えた1400年の宗教観)』というちょっと風変わりなタイトルに魅かれました。著者は飯山陽さん。初めて知った著者でしたが、新潮新書『イスラム教の論理』という書籍も出している方でして、私の勉強不足でした。表紙カバーに記載されている著者の紹介は以下の通りです。ツイッターでも発信しているようです。

さて、内容ですが、私が店頭で見て魅かれたのは、そのタイトルです。イスラム2.0とは何だろうかということでした。そこで中身をみると42頁に次のようにかかれていました。
2000年以降、ジハード主義が世界中で急速に拡大した背景にあるのは「イスラム2.0」であると私は考えています。イスラム2.0とは、ここ10年ほどの間に世界で発生したイスラム教に関わるような様々な事象を解釈するために、私が創出した分析概念です。
この概念においてイスラム教は、「イスラム教についての知識」というOSを搭載し、それに従って考えたり行動したりする存在だととらえられます。イスラム教が勃興した七世紀からインターネットが普及するまでの約1400年間にわたり、イスラム教徒たちが搭載してきた「イスラム教についての知識」が、OS1.0です。インターネットが一般に普及し検索エンジンやSNS、動画サイトなどが登場した2000年代初頭から、そのイスラム1.0が2.0へとアップデートしています。現在は、世界中のイスラム教徒の脳内OSが2.0に更新されつつある移行期、というのが私の認識です。

つまり「イスラム2.0」というのは著者が創出した分析手法ということです。中々面白い発想だと思いました。1400年もの間伝えられてきたイスラム教徒たちの伝統的な社会の今をITの世界でのOSという概念に例えて考察しようとしているのです。

分析手法は分かりました。その方法でどのような分析がなされたのでしょうか。詳しい内容をここで書いてしまうと販売を妨害してしまいます(笑)。詳しいことを知りたければ、この本を買って読んでみてください。新書版ですので税別で880円という手軽に買える価格です。

要は、1.0のOS時代には、一人一人のイスラム教徒に本当のイスラムの教えが正確にが伝えられていなかった。イスラムの知識は一部の法学者たちの独占販売的なものであって、それを皆鵜呑みにしてきたのだった。しかし、現在のイスラム教徒の脳内にはOS2.0を搭載するようになったので、イスラム法学者のいうことだけを信じるような世界ではなくなったというのである。

これまでコーランの内容を事細かく知って理解するのは難しかったが、いまではインターネットを使えばコーランの内容を誰もが知ることができて、自分で内容を理解することができるようになっているという。その結果、イスラムに対する考え方が覚醒された結果が現在のイスラムの背景であるという。世界中で多発しているテロ事件、ジハードを実行するイスラム教徒の背景にはOS2.0による、彼らの周りの環境変化があるという。

まだ最後まで読み終えていないのであるが、十分面白い本です。また、私の知らない面での情報が沢山あって新鮮でもあります。中東・イスラム世界に関心がある人は是非とも読んで頂きたいものです。そして、ご自分で考えてみてください。

「アヤソフィアのモスク化」のその後

このブログで、7月13日にトルコ政府がアヤソフィアをモスクにする決定をしたことを書きました。今回は、そのアヤソフィアにて初の金曜礼拝が行われたという新聞記事(7月25日・中日新聞)を紹介します。モスクに変更されたアヤソフィアで24日に初の金曜礼拝が行われ、エルドアン大統領も出席したと報じている。トルコ国内でも賛否両論があり、複雑な問題ではある。アヤソフィアで礼拝できることを素直に嬉しく思うムスリムがいる。これは極めて自然なことであろう。一方で、イスタンブール市内にはすでに三千近いモスクがあり、市民の間には「礼拝時にほとんど人がいないモスクもあるのに、なぜこれ以上必要なのか」という声もあるそうだ。モスクとしての機能だけを求めるなら、モスク化は必然性がないとも言えよう。また、アヤソフィアに訪れる観光客から得る収入は大きいので、外貨獲得という面ではマイナスであろうとも。今後もこれまでのように観光ツアーも入れるようであるが、礼拝時だとかイスラムの行事のときを避けるようなツアースケジュールを強いられるようである。

時代の流れとアヤソフィア:
537年・・・・ ギリシャ正教の重要な聖堂として建設
1453年・・・   オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼす
1453年・・・・アヤソフィアがモスクに転用された
1934年・・・・トルコ政府が博物館とする閣議決定
2020年・・・・行政裁判所がその決定を無効と判断しモスクとなった

オスマン帝国が第一次大戦で敗れ、新生トルコが誕生した。一時はセーブル条約でトルコの領土分割が行われたが、立ち上がったケマルが連合国側と再交渉してローザンヌ条約にこぎつけて、今のトルコを築き上げた。ケマルの頭にはトルコの将来のためには民族や宗教ということにとらわれない国家を描いていた。従って政教分離をすすめた。イスラム世界でいう世俗化である。もっと言えば、極端であるが、トルコにいるのは皆トルコ人である。クルド人はいない。クルド人はトルコ語を忘れた山岳トルコ人であるといった。民族や宗教に関係なく国民国家というようなものを作ろうとしたのだった。当然イスラム色は排除である。
ところが時代の流れと共に、世界中が変化してきた。イスラム世界ではイスラム復興の掛け声が高まった。イランでは革命によってイスラム共和国が生まれた。・・・・エルドアン大統領が率いるトルコではイスラム色の強い政策が進められてきた。今回のアヤソフィアのモスク化はモスクとしての必然性などとは関係なく政治的なパフォーマンスなのである。求心力が弱くなった指導者は極端な政策をとって注意を我に引き寄せようとする。アメリカのトランプもそうである。彼が大統領になって以後、やりたい放題である(特に米大使館のエルサレム移転)。それでもそれを指示する層がいるのである。

今回のアヤソフィア問題では前回心配だと書いた「モザイクの壁画」が布で隠されることになるようである。破壊されなくてホッとしているのである。

 

 

トルコ政府が「アヤソフィアのモスク化」を決定

昨日のニュースでトルコのアヤ・ソフィアがモスク化されることになったと報じられました。世界各国から批判的なコメントが出ていることも。トルコに旅行されたなら、イスタンブールで必ず訪れる名所です。近くのスルタン・ハフメドモスクと共に多くの人が訪れるところです。このアヤ・ソフィアについて岩波書店発行の『新イスラム事典』は次のように記しています。

537年ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世によって首都コンスタンティノープルに造営されたギリシャ正教会の最も重要な聖堂。直径32m、高さ54mの大ドームを中心にすえ、内部はモザイクで覆われた。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に征服されると、ただちにモスクに改造された。16世紀の建築家シナンは、このビザンティン建築の最高傑作をしのぐために苦心した末、スレイマニエ・モスクなどトルコ・イスラム建築の傑作を残した。19世紀末にアヤ・ソフィアをギリシア正教会に復帰させようとの国際世論もあったが、1935年にトルコ共和国政府によって博物館とされた。近年、イスラム復興運動の高まりにより、博物館の一角がモスクとしても使われている。

建築家シナンのことは、このブログでも書いたことがある。気になる方は、目次から検索して遡って読んで頂きたい。もともとキリスト教徒であったシナンではあったが、イスラムに改宗し、そして、イスラム建築の傑作を生みだしたのである。

キリスト教会から転用したために、モスクとなったアヤ・ソフィアでは内部のモザイクの人物の部分を塗りつぶしたのであった。博物館となったアヤ・ソフィアではその部分をはがして元のモザイク画を見ることができる。それが次の写真である。もう、20年ほど前に私が学生をつれて旅行した時に写したものである。

今回のニュースを聞いて私が思うのは、アヤ・ソフィアをモスクにすることの是非ではない。オスマン帝国の人々が奪い取った領土にあった宗教施設を自分たちの宗教に合わせて利用したのなら非難はできまい。まして、その後の時代の流れに応じて、博物館としての扱いをしたことも讃えられることではないだろうか。しかし、今回の決定によって、アヤ・ソフィアの先ほどお示ししたような露わになっていたモザイク画がどう扱われるのかということが心配である。

私自身はイスラムの精神は寛容である(寛容な宗教であるとは言わない)と思っている。しかし、偶像崇拝を嫌うためにバーミアンなど各地で貴重な文化財を破壊したイスラム教徒と称する連中と同じようなことをして欲しくないのである。イスラムの寛容さを見てみたいのである。

コーランについて(2):第96章・・・凝血

コーランはイスラムの創始者ムハンマドが神からうけた啓示を編纂したものである。ムハンマドが最初に啓示を受けた部分がこの章に綴られている。それゆえ、コーランの中でも重要な章である。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・・   (ここの部分は全部の章の初めについている。今後、この部分は省略する。)

  1. 誦め、おまえの主の御名において、(森羅万象)を創造し給うた(主の御名において)、
  2. (つまり)彼は人間を凝血から創造し給うた。
  3. 誦め、そしておまえの主は最も気前よき御方であり、
  4. 筆によって(書くことを)教え給うた御方であり、
  5. (つまり)人間に彼の知らなかったことを教え給うた(御方)である。
  6. ・・・・19節まで続く

訳文は前回も引用させていただいた作品社の『日亜対訳クルアーン』からである。森羅万象ありとあらゆるものを創造したのは神であり、人間に人間の知らなかったことを教えたのも神であるという。啓示の始めに相応しい章句であると思う。

冒頭の句=誦め の読み方は「よめ」である。神の啓示を伝えた大天使ジブリールが「よめ」と言うと、ムハンマドは「私は読むことができません」と言ったとか?この天使のジブリールはキリスト教ではガブリエルと呼ばれる天使のことである。そして、ムハンマドの「誦めません」という答えに対して、ジブリールはさらに「誦め」と言ったのが第3節である。

つまり、ムハンマドは読み書きができない人であったらしい。それゆえに神から与えられた啓示を記録することもできないので、記憶を頼りに啓示を伝えることは至難の業であったろうと思う。そして、コーランが編纂されたのは、彼の死後の正統カリフ三代目ウスマーンの頃である。生前にムハンマドが伝えた啓示を取りまとめるという作業はさぞかし大変だったことだろう。

コーランについて(1):第1章・・・開端

2019年1月31日と2月1日に「イスラムの啓典:コーランについて(1)と(2)を書いています。あれからもう1年以上が経過したのですね。今後、時々になるでしょうが、コーランの中身について、少し詳しく取り上げてみようと思います。今回は第1章を取り上げましょう。

コーランの初めの章ですから、「開端」とか、「開扉」と訳されています。イスラム教徒の人たちは、この章を毎日の礼拝の時に唱えます。そうです、礼拝は毎日5回ですから、この章句も5回唱えることになります。コーランは全部で114の章で成っていますが、それぞれの章はいくつかの節で構成されています。この開端の章は7つの節でできています。最も短い章は108章でして、わずか3つの節しかありません。第1章が「開端」と名付けられているように、全ての章には名前が付けられています。追々紹介していきましょう。さて、開端の章ですが、日本語訳を紹介しておきましょう。訳は岩波文庫(井筒俊彦著)「コーラン」より。

慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名(みな)において・

  1. 讃えあれ、アッラー、万世(よろず)の主、
  2. 慈悲ふかく慈愛あまねき御神、
  3. 審き(さばき)の日の主宰者。
  4. 汝こそ我らはあがめまつる、汝にこそ救いを求めまつる。
  5. 願わくば我らを導いて正しき道を辿らし給え、
  6. 汝の御怒りを蒙る人びとや、踏みまよう人々の道ではなく、
  7. 汝の嘉し(よみし)給う人々の道を歩ましめ給え。

井筒先生の訳は文語調であるので現代人には少し難しいい気もします。そこで作品社(中田考監修)『日亜対訳クルアーン』の訳を以下に紹介してみましょう。

  1. 慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名において
  2. 称賛はアッラーに帰す、諸世界の主に、
  3. 慈悲あまねく慈悲深き御方、
  4. 裁きの日の主宰者に、
  5. あなたにこそわれわは仕え、あなたにこそ助けを求める。
  6. われらを真っすぐな道に導き給え、
  7. あなたが恩寵を垂れ給うた者たち、(つまり)御怒りを被らず、迷ってもいない者たちの道に

こちらの訳にしても同じように難しく感じるかもしれないが、意味はお分かりいただけることでしょう。アッラー(神)がいて、我らは神に仕え、そして神は我らを導いてくださるようにという祈りの文言であろう。日本語訳を紹介したのであるが、日本語のこの訳文を唱えてもコーランを唱えたことにはならない。キリスト教の聖書は、日本語訳の物はそれはそれで日本語訳された聖書である。が、イスラムの場合はコーランが書かれたアラビア語で詠むことが必須なのである。おそらく、多くの言語に訳されていくうちに神の言葉の真意が伝わらなくなってしまうという危惧からそうなったのであろう(私見)。従って、貴方がイスラム教徒になったなら、コーランをアラビア語で唱えなければならないのです。せめて、この第1章だけは唱えられるようにしておきましょう。私はイスラム教徒ではありません。でも勉強はしています。この開端の章をアラビア書道で書いたものが次の画像です。これ一枚をまあまあ良しとして書けるまで3か月かかっています。それでもその前のナスヒー書体の時は6カ月もかかったのでした。

さて、今回はこれまでにしておきます。今後、どういう風に各章を取り上げていくか、大きな課題ができました。旧約聖書との関係なども面白いかなと思っています。お楽しみに!

 

ウズベキスタンの書架台

今日はウズベキスタン製の書架台の紹介です。ウズベキスタンの木工品でして、向こうに行くとお店に沢山並んでいるようです。残念ながら私はウズベキスタンに興味があり、是非とも行きたい国なのですがまだ行ったことがありません。かつて、ウズベキスタン観光から帰った知人に見せてもらったことがあり、以前から欲しいと思っていた品物です。今回、皆さんご存知のメルカリに出ていたので入手することができました。

冒頭の写真はその書架台にコーランを置いたところの写真です。英語では「Folding Quran holder」とか「Folding Quran stand」と訳されているように、イスラムのコーランを置く台なのです。Folding という 部分は折り畳み式ということです。もちろん、どんな本や楽譜などをおいてもいいでしょうね。

これの特徴は一枚の板でできているようなのです。信じられないのですが、厚い板をうまく切り込みをいれてはがすようにしてバラバラにならないように切っていって作るのでしょうか。確かに複数の板を組み込んでくっつけた形跡はありません。まず、畳んでいる状態が次です。

これを少し広げていくと、すこし高くなってきます。次のようになります。

さらに伸ばしていくと、次のようになります。

同じ状態のものを前からみると、高さも良く分かります。このような状態ならコーランを載せられます。

次の写真を見てください。これも同じような形になっていますが、上部両サイドの先端を見てください。先ほどの上の写真ではその部分が山のようにカーブしています。しかし、これは角ばった形になっています。組み立て方が幾通りもできるのです。最初はこの形にすることすら難しいかったです。形ができてもストッパー的な部分があわなくてペシャンコになったりします。試行錯誤しながら覚えればいいでしょう。でも書架台としてなら、今できている形で十分でしょう。

コーランを置くと様になりますね!

昨日、この写真をインスタグラムに投稿しました。するとイラン人の方から、ペルシャ語ではこれを「رحل」rahl ということを教えてくれました。早速辞書を見ると確かに載っていました。「コーランの書架」「書見台」と。こうして今日も又新しい単語を覚えることができました。

イスラム世界の偉人②:イブン・バットゥータ

今回紹介するのはイブン・バットゥータである。平凡社発行の『新イスラム事典』を要約すると以下の通りである。

1304年にモロッコで生まれたベルベル系のアラブ人旅行家である。1325年、21歳のときにメッカ巡礼の旅にでた。以後30年間世界を旅した男である。陸路エジプトを経てシリアからメッカに入ったのが1326年。その後、イラク、イラン西部、アラビア半島、イエメン、東アフリカ、アナトリア、アフガニスタン、そしてインドへ行き、1333年~42年までデリーに滞在した。その後、モルディブ諸島、セイロン、ベンガル、スマトラへ、再びペルシャ湾からシリア、エジプトへと旅し、1349年にフェスに帰った。3か月の闘病生活のあと再び旅に出て、グラナダを訪問。52~53年にはサハラ砂漠を越えてニジェール川上流地域を調査した。1353年の帰国後に旅の記録をまとめた旅行記を完成したのち、1377年に没した。

彼の旅行記は平凡社の東洋文庫から8冊で発行されているので、現代でも読むことができる。自分で買うとなると高価なので、図書館に行って、東洋文庫を探せば殆どの図書館では置いているのではなかろうか。

中公文庫BIBLIOから発行されているのが『三大陸周遊紀抄』である。抄と記載されているように、これは先述の旅行記の要約版らしい。でも、平凡社新書の『イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる』 なら、もっと手っ取り早く、彼の足跡を知ることができるだろう。

14世紀の時代に大旅行を成し遂げることを可能にしたのは、イスラムと深い関りがあるという。新イスラム事典ではそれを可能にしたのは「諸都市を結んで張りめぐらされていたムスリム知識人のネットワークによるところが大きい」と記している。また東京堂出版『イスラーム辞典』では「イスラムにおける旅行者への優遇措置と一時的ではあるが壮大なモンゴル支配下の東西交易路の保全、拡大であった。この時代にはスペイン人イブヌ・ル・ハティーブやチュニジア人のアッ・ティジャーニー等の有名な旅行家がいる」と記している。両書ともイスラム世界・イスラム社会という背景がこのような大旅行を可能にした重要なポイントであるとしている。最後にインターネットの「世界史の窓」から彼の辿った足跡を示した地図を拝借しておこう。このサイトのURLを記載しておくので、そのサイトの説明も一読していただくと良いと思う。
世界史の窓・イブン・バットゥータの旅行記

 

イスラム世界の偉人①:イブン・シーナ

「イスラムを知る」のシリーズの一部として「イスラム世界の偉人」を何人か取り上げてみようと思う。最初はイブン・シーナである。このブログでしばしば引用させていただいている平凡社発行『新イスラム事典』から、イブン・シーナについて主要な部分を引用させていただく。

イブン・シーナ(980~1037):ラテン名はアヴィケンナ。イスラム哲学者、医学者。ブハラ近郊に生まれ、ハマダーンで没した。幼少のころから天才を発揮し、18歳の時には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高まった。やがてアリストレレスの形而上学研究に手を染め、ついに独自の存在の形而上学を完成した。・・・・中略・・・・著作は多岐にわたるが、とりわけ哲学者として存在論の発展に寄与した。彼は外界も自己の肉体もなんら知覚しえない状態で空中に漂う「空中人間」の比喩により、自我の存在がアプリオリに把握されるとする。他方、存在を・・・・中略・・・・こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導入されたのである。・・・中略・・・また、形而上学、医学の著書は、中世、西欧にラテン語訳され、トマス・アクイナスの存在論・超越論に大きな影響を与えた。その医学書『医学典範』は17世紀ころまで西欧の医科大学の教科書に使用されていた。哲学上の主著は『治癒の書』。

事典の説明の半分以上を割愛したが、彼が学問全般に幅広く、しかも深く究めていた学者であることがわかる。私自身は高校の世界史の教科書のイスラム文化のところでイブン・シーナの名前と『医学典範』を試験のために覚えたことを忘れない。イブン・シーナというイスラム世界での名前が、西側世界に伝わる過程でアヴィケンナ、あるいはアヴィセンナとなったということも世界史の先生は話してくれた。


画像はアマゾンで出品されているものです。14,994円である。1千年前の貴重な著書が日本語に訳されているのである。カスタマーレヴューを読むとちょっと残念なことが書かれているが、それはイブン・シーナの業績を汚すものではない。

ところで、イブン・シーナはどこの国の人なのでしょうか。ブハラに生まれたとある。数回前のハーフェズの詩を紹介したときに、「シーラーズの乙女に与えようサマルカンドをブハーラを」と出てきたあのブハーラのことである。サーマン朝の都ブハラでサーマン朝高官の息子としてうまれたそうである。サーマン朝(873年 – 999年)はイラン系のイスラム王朝である。サーマン朝が滅びたとき彼は19歳。21歳で父を亡くすと、カスピ海の東岸一体のホラムズ地方に移り、その地の統治者マームーン2世に仕えて『医学典範』の執筆を開始したという。その後、テヘラン、レイ、ブアイフ朝支配下のハマダンへと居を移し、『医学典範』を完成させたのは1020年ハマダンにいた時である。その後、イスファハンに移動する。

病で母を失った青年がロンドンからイスファハンに向かい、医師イブン・シーナの弟子になって医学を学ぶ物語の映画がある。上の画像はその時の広告のポスターである。このことはこのブログの「アッバース朝(つづき)」で書いたとおりである。