書籍紹介:アラブのことばと絶景100

先日購入した本を紹介します。タイトルは「生きる知恵を授かるアラブのことばと絶景100」です。先ずはアラブの絶景というと何を思い浮かべるでしょうか。私自身が第一に思い浮かぶ景色というと砂漠に沈む夕日です。あるいは夕暮れの砂丘を歩く隊商の駱駝の列、そうです平山郁夫さんの絵の景色などです。表紙にも駱駝の列が見えます。


実際に中を見ると、そのような景色もありました。成程と思ったのはローマの遺跡です。ローマ帝国が北アフリカ、中東地域を支配していた時代の神殿などの遺跡です。勿論、アラブで生まれたイスラムの建築が多いのは当然です。

さて、タイトルにある「生きる知恵を授かる言葉」とは、どのような言葉なのでしょうか。第一に浮かぶのはコーランの中の一節や言葉です。が、この本の中にはそれ以外の諺や偉人?や歴史上の人物の言葉が絶景の風景に合わせて紹介されているのです。著作権の侵害ではなく、この書籍のPRのために2つだけ紹介してみましょう。

絶景33:上の写真は「マダイン・サーレハ」。サウジアラビアの古代遺跡として世界遺産に登録されている。紀元前1世紀から紀元後1世紀のナバタイ人の遺跡だそう。この頁で紹介されている言葉は「開けゴマ」。その解説文をそのまま次に引用する。

乾いた大地でも力強く育ち、食用油も採れるゴマは、アラブでは古くから重要な作物でした。実は熟すと突然割れて種を外へはじき飛ばします。盗賊が宝物を隠した岩屋の扉を開けるとき、アリババが唱えたこのあまりにも有名な呪文は、その様子から作られたのではないかともいわれています。この物語はシリアの説話をもとに創作されたと伝わります。

絶景54:

これはモロッコの Royal Palace。13~15世紀のマリーン朝の君主の居城で、現在も国王がフェズに滞在するときに使われるそうである。モスクの煌びやかな外壁とは異なり、地味ではあるが美しい。この頁の言葉は「種蒔き育てる人が刈り取る」という諺である。その意味を引用しよう。

まじめにコツコツとがんばる人こそがその努力の実りを享受することができます。反対に怠惰で努力をしない人は何も得ることはできないともいえます。刈り取ることができるのは自分が蒔いた種だけということです。「千里の道も一歩から」。努力は報われることを信じて少しずつ進んでいきましょう。

この本の発行所は「株式会社地球の歩き方」
発売元は「株式会社学研プラス」
価格は1650円。
それに凄いのは全部ではありませんが、紹介されている言葉にアラビア語が併記されていることです。
久しぶりにお勧めの一冊です。

 

中東世界の女性たち:ハディージャ

ハディージャとはいうまでもなく、イスラムの創設者「ムハンマド」の最初の妻である。25歳頃のムハンマドと結婚したハディージャは40歳位であり、夫とは死別していた寡婦であった。裕福な商人であった。東京堂出版の黒田壽郎編『イスラーム辞典』では次のように説明している。色々な書籍で彼女についての記述を読んだが、これが一番詳しくて正しいように思えたので、拝借することにした。

彼女はクライシュ族のフワイリドの娘で二度の結婚歴を持ち、財産と独立を備えた裕福な商人であった。ムハンマドを雇い入れたハディージャは、彼をシリアに向う隊商の長として派遣したが、彼はその使命を見事に果たしている。誠実で責任感のある人がらに心を動かされたハディージャは、ムハンマドに結婚を申込んだ。時にハディージャは40歳、ムハンマドは25歳であったといわれる。この結婚はムハンマドにとって大きな意義をもつものであった。その一つは、メッカでの主たる活動である商業において、彼にその才能を磨く機会を与えたことである。さらに彼の精神的発展にも大きな役割を果たしている。
ハディージャにはワラカと呼ばれるキリスト教徒の従兄弟がいた。啓示を受けたムハンマドが、自分はユダヤ教徒およびキリスト教徒のそれと同じ啓示を受けているというい確信を持つに至ったのは、ワラカとハディージャの助けによると伝えられている。また預言者としての使命に確信を失った時、ムハンマドを励まし、確信を再びとり戻させたのはハディージャそのひとであった。彼女はイスラームに帰依した最初の人物であった。
ハディージャはムハンマドとの間に、女四人、男二人の子供をもうけたが、息子二人は夭逝している。ムハンマドにとって、ハディージャの信頼はきわめて重要であった。彼は生涯、妻を思い起こすたびに愛と感動と感謝の念にあふれたと伝えられる。
「この世にあるいかなる女性もハディージャには値しない。私を信じる者がいない時に、彼女だけが私を信じてくれた。皆が私の言葉を嘘とみなしたのに、彼女は真実であると受け入れてくれた。」
ハディージャはヒジュラの三年前、おそらく619年にこの世を去った。彼女が生きている間、ムハンマドは他に妻を娶らなかった。

他の資料を見るとハディージャは二人の夫と結婚の経験があり一人は生別、一人は死別とある。またムハンマドとの間の子供は三男四女であったとも。いずれも男子は夭逝しているのは同じである。また、ハディージャは生前ムハンマドに他の妻を持つことを許さなかったともある。(以上岩波の新イスラム事典)。大きな差異はないが、こちらのほうはムハンマドが自発的に他の妻を持たなかったのではなく、ハディージャが許さなかったと少々ニュアンスが違っているのが面白い。またハディーシャの従兄弟のワラカがキリスト教徒というのは、ネストリウス派キリスト教修道僧であるという資料もある。私はコーランを読んでいるとムハンマドは旧約聖書のことをよく知っていたんだなと思う。元々読み書きのできない彼がどうして知識を吸収したのだろうかと思ったものであるが、彼の周りにワラカのような人物がいたということで納得がいくのである。イスラム誕生以前のアラビア半島にはユダヤ教徒もキリスト教徒も沢山いたのである。
またムハンマドが隊商の長としてシリア辺りまででかけたのであるが、そのような長距離を駱駝でトボトボと灼熱の砂漠も通過したであろうに、大変な苦労をしたことであろう。冒頭の画像を参考にされたい。

 

 

イスラム女性の服装

色々なメディアでアフガニスタンのテレビの女性キャスターが復帰したことを伝えていた。発信元は共同通信だ。中日新聞の6月7日にもその記事がでていた。

タリバン政府の勧善懲悪省が顔を覆わずに出演していたロマ・アディルさんを降板させるよう命令を出し、テレビ局もそれに従ったのであったが、本人の強い意志の下でテレビ局が彼女を復帰させたというのである。イスラム社会における女性の服装は国や地域により差がある。アフガニスタンではスカーフのように頭を隠すだけではなく、顔全体を覆うのが一般的である。今回の彼女の行為に対してアフガニスタンでは勧善懲悪省の命令を支持する声もあるし、彼女の行動を支持する声もある。国際社会では彼女を支持する声の方が多いだろう。タリバン政権が今後彼女に対してどのように手に出るのか国際社会は注目することになるでしょう。

昨年11月にこのブログではコーランの第4章「女性」を取り上げたことがあります。この章はかなり長い章であり、女性が相続する場合のことなどが事細かく書かれていましたね。そして、女性の章というのですが、服装については書かれていませんでした。そこで、イスラム女性の服装については、コーランでは何処の章にどのように書かれているのでしょうか?

答えは第24章第31節です。
「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方がないが、その他の美しい所は人見せぬよう。胸には蔽いを被せるよう。」このような記載があります。井筒俊彦先生の訳本からの引用ですが、外部というのはおもてとフリガナを打っています。顔の部分は外部になるので「仕方ない」部分になるのではないでしょうか。となると顔は隠さなくても良いという解釈が成り立ちそうです。問題は次の部分「その他の美しい所」です。女性の顔を美しいと感じる人は多いでしょう。男たちが虜になる美しいものだと言えるかもしれません。そうすると隠しておかなければなりません。でも、その程度の記述なので色々な解釈が国によって異なるのでしょうね。今度改めてイスラム女性の様々な服装について取り上げてみたいと思います。

 

モスクを知る❸:モスクの分類

前回、モスクの形というタイトルで書いたのであった。が、それは基本的なことだけであった。もっと総合的に言及しなければモスクを知ることにはならないだろうと思う。というのはモスクと言っても地域によってかなり違ったものがあるからである。それらをどうまとめればいいのだろうか。モスクを分類するとどうなるのだろうか?インターネットで「モスクの分類」と検索すると神谷武夫氏のサイトに出会った(http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/1_primer/types/types.htm)。
神谷さんは建築家である。世界各地を旅して、インドやイスラム、ロマネスクの建築文化を研究している方である。
彼によれば、モスク建築の分類法としては ① 材料別 ② 機能別 ③ 構成別 という方法が考えられるとしている。

①材料による分類:
やはり建築家らしいと思った。私はアラブの一般的なモスクとイランのモスクは正面から見た形が異なると思っていたので、分類となるとまずは外観だろうと考えていたのである。しかし、建築家は建築に使用する資材から分類している。地域によって、利用できる資材が異なるであろう。従って、モスクを建築するについても、現地で容易に手に入るものを利用するのだと。もっともな話だ。
の分類によれば『「土のモスク」、「レンガのモスク」、「木のモスク」、「石のモスク」に大別される。現代では 鉄筋コンクリートのモスク、鉄とガラスのモスク、空気膜構造の 布のモスク、さらには プラスチックのモスクさえも考えられるが、ここでは伝統的な材料のみを考えることにする。』とある。イスラム建築、イスラムのモスクというと第一にレンガ造りをイメージする。そして、雨の降らない地域では泥を固めた土壁など、土を利用するのもある。私自身は木のモスクをイメージしたことはないが、山岳地方で木材が採れる地域ではモスクも木で造られるのである。そのような説明とともに、それぞれのモスクの画像も紹介されている。是非とも上述した神谷氏のサイトにアクセスして読んでもらいたい。

②機能別:第2の「機能別」というのは、そこで行われる礼拝が 個人用なのか、集団礼拝用なのか、葬祭用なのか、年に2度の大祭用なのか といった、規模と目的による種類分けである。このように記されているのだが、私には少しピンと来ない。集団礼拝が行われる大きなモスクと、そうではない比較的小さなモスク程度にしておきたい。あちこちに「金曜日のモスク」と呼ばれるものがあるが、それらは前者になるのだろう。

③構成別:この項は、神谷氏のブログの説明をそのままお借りしてここに張り付けておく。第3の「構成別」というのは、プランおよび空間構成による「型」の分類である。単室型と中庭型の違いは すでに見たので、歴史上で広く行われたモスク形式の 典型を求めると、「アラブ型」、「ペルシア型」、「トルコ型」、「インド型」の4つがある。最初のアラブ型は、アラビア語と同じように イスラーム圏全体で行われた建築形式であり、モスクの基本形となった。
モスクの代表的な 4つのタイプ
 アッバース朝が弱体化すると、各地が政治的に独立するとともに イスラーム以前からの文明を受けついだ独自の建築文化を発展させる。とりわけ 近世(16~17世紀)に イスラーム圏を分割するかのごとくに鼎立した3つの大帝国は、それぞれに 特徴的なモスク形式を確立することになる。すなわち ペルシアのサファヴィー朝、トルコのオスマン朝、インドのムガル朝である。それぞれの帝国は大規模なモスクを各地に建てたし、近隣諸国にも そのスタイルを普及させたので、ペルシア型、トルコ型、インド型のモスクが、アラブ型と並ぶ モスク建築の典型になったのである。以下に、それぞれの特徴を 詳しく見ていくことにしよう。とあるのである。しかしながらその説明を全てここに張り付けることはエチケットに反すると思うので、皆さんが各自、そのサイトにアクセスして勉強してもらうことにしよう。そのうえで、後日、私の目で見たアラブ型とペルシア型の比較でもやることにしようと思う。

コーランについて(12):第21章ーーー預言者たち(続き)

前回に続いて第21章です。今回登場する預言者は誰でしょうか。読み進めて行きましょう。

(70)~(75 ) 彼らは彼に悪だくみをしたが、逆に我らが彼らに大損させてやった。そして彼とルート(ロト)を救い出して、万民のために祝福の地ときめたところへ(連れて行って)やったのであった。我らは彼にイスハーク(イサク)を授け、なお、特別のおくりものとしてヤアクーブ(ヤコブ)をも授けた。そして三人とも義しい人間に仕立ててやった。さらに彼らをして、我らの命を奉じて(人々を)導く首領となした上、善行にはげみ、礼拝の務めを果たし、こころよく喜捨を出すことをお告げによって彼らに命じた。彼らもまたよく我らに仕えた。ルートには我ら叡智(預言者としての素質)と知識(預言者に必要な超越的知識)とを授けた。破廉恥な行いにふけっていたあの邑(ソドムを指す)から救い出してやりもした。まことに、あれは罪深い、邪悪な民であった。だが、彼(ロト)だけは、我らが慈悲の中に入れてやった。何しろ本当に義しい人間であったから。

ロトやイサクもヤコブも皆アッラーが創ったのだと。ロトは破廉恥な行為にふけっていたのを救ってやったと言っている。そして、ノアについては「ノアの方舟」と時のことを以下のように述べている。

(76) またヌーフ(ノア)も(同じこと)。これはさらに前のはなしになるが、あれが大声あげて(我ら)を喚んだ時のこと。我らは早速これに応じて、あれと、その一家を大災害から救ってやった。我らの神兆を嘘呼ばわりする者どもにたいして、彼の見方をしてやった。いや、それにしても、あれはまことに邪悪な民であった。だから、一思いに全部溺らせてしまった。

次にはソロモンとダビデにも叡智と知識を与えてやったと述べている。

(78)~ (79) それからダーウード(ダビデ)とスライマーン(ソロモン)も。ある畑に他人の羊が入りこんで来て、夜中に草を喰ってしまった事件を二人が裁いたことがあった(古註によると、その時ダビデはその羊群は畑の持主のものになると判決した。ソロモンは当時11歳だったが、この判決は少し酷に過ぎるとして、羊はその持主に返し、そのかわり、畑の損害の償として、畑がもと通りの状態になるまで乳と毛と仔羊とを畑の持主がもらうこと、という判決を下したと伝えられる。この説話は『聖書』にはない)。彼らの判決には、いつも我ら(アッラー)が立ち会っていた。
だいいち、スライマーンにああいうこと(賢明な判決のしかた)をわからせてやったのも我らであった。だが、どちらにも(ダビデにもソロモンにも)叡智と知識を授けておいた。また、特にダビデにあっては、我ら山々をも頤使してこれに(神の)賛美の歌をうたわせた。それから鳥たちも。これみな我らのしわざであった。・・・・

続いては、アイユーブ(ヨブ)、それからイスマーイールとイドリース、ズー・ル・キフルやザカリーヤ他の者のことに言及している。そして最後の締めくくりは次である。

(108)~(112) 言うがよい、「わしは、ただ、汝らの神は唯一なる神とだけお告げを戴いておる。さ、これでお前たちは帰依したてまつるか」と。それで、もし彼らがうしろ向いて知らぬ顔するなら、こう言ってやるがよい、「わしは、ともかくお前たちみんなに、わけへだてなく神託を伝えたぞ。お前たちに約束されていること(天地の終末と最後の審判)がすぐそこに迫っているか、それともまだずっと先か、そんなことわしは知らぬ。いずれにしてもアッラーは、大声で言われる言葉でも、お前たちがそっと胸にかくしていることでもよく御存知。(本当のことは)わしは知らないが、もしかしたらこれ(無信仰なのに、こうしてなかなか罰を喰わされないでいること)も何かお前たちへの試練で、要するにごく当座だけの楽しみなのかもしれないぞ。」彼(ムハンマドを指す)はこう言った「主よ、真実をもって裁き給え。我らの主はお情け深い御神。お前たち(邪宗教)の言う(悪口)にたいして、ひたすらそのお助けをお願いすべき(唯一の)御神」と。

コーランの文言を読んで、ここに打ち込んでいるわけであるが、そうすると次のように思うことがある。アッラーつまり神がムハンマドに言わしめている部分などは、逆に言えばムハンマドが信仰深くない人々(あるいは異教徒)に対して説得力を強めるために利用しているようにも思えるのである。・・・・・いずれにしても、昔若いときには全然読み続けられなかったコーランを少しは根気よく読むことができるようになったようだ。やはり歳のせいということかもしれない。

コーランについて(11):第21章ーーー預言者たち

久しぶりにコーランです。この章を取り上げた理由は特にありません。コーランを取り出して、パッと開いたところが、この章だったのです。いつものように訳文は岩波文庫・井筒先生のものです。

上の画像はコーランのこの章の冒頭の部分です。昔イランで買ったものです。コーランはご存知のようにアラビア語で書かれています。画像を見ると、コーランの文章の下に小さな文字が書かれているのが見えますね。これはアラビア語のコーランの意味をペルシャ語で書いているのです。イランの言葉はペルシャ語ですので、アラビア語のコーランは読めても意味が分からない人も大勢います。従って、こうしてペルシャ語で意味を併記しているのです。イスラム教徒にとってコーランはアラビア語で唱えるのが鉄則です。イラン人もみんなアラビア語で唱えているのは言うまでもありません。

さて、今回の第21章が預言者たちと題されるのは何故でしょう。この章では、ムーサー(モーセ)、ハールーン、イブラーヒーム、ルート、イスハーク、ヤアクーブ、ヌーフ(ノア)、ダーウード、スライマーン、アイユーブ・・・・・そのほかの預言者たちについて言及されていることから、この名が付いたようです。先ずはイブラーヒームについて言及している辺りを紹介しましょう。

(1) ~(3) 人々がうかうかよそ見しているうちに、総決算の時は刻々と近づいてきた。いくら次々に新しいお諭が下されても、みんなは遊び半分に聞き流すばかり。一向に気がはいらぬ。しかも、不義の徒輩、こちらに聞かせぬつもりのひそひそ話で、「なんだ、これは君たちとおなじただの人間ではないか。立派に目が見えておりながら、君たち、妖術にやられる法はあるまい」などと言っている。

冒頭でいきなり信心深くない人間のことを取り上げて、次のように嘆いている。

(4)~(6) 「神様は天と地のどこで言われていることでもすっかり御存知。まことに早耳で、何から何まで御存知におわします。」と彼(ムハンマド)が言えば、さらに彼らは言い返す。「なあに、愚にもつかない夢ごたまぜ。」「どうせあの男のでっち上げ。」「あの男は詩人だ(当時は、詩人は妖霊に憑りつかれた人と考えられていた)。」「昔の使徒のように、一つお徴(おしるし=奇蹟)でもやって見せたらいいに。」今までも、我ら(アッラー)が滅ぼした邑(まち)はどれもこれも信仰しなかったもの。それでもあくまで信仰しないつもりか。

しばらく後になると、次のように壮大な神の力を力説する。

(31)~(34)  信仰なき者どもには分からないのか、天と地はもと一枚つづきの縫い合わせであったのを、我らがほどいて二つに分けた上、水であらゆる生きものを作りだしてやったということが。これでも信仰しないのか。また我らは大地の揺れをとめるために山塊をどっかと据え、そこに峡谷を縦横にはしらせ道となした。これもみな、なんとかして人々を正道に導こうとてしたこと(天地自然の不思議をみて信仰にはいるようにとしたこと)。さらにまた、我らは大空をもって、がっしりとまった(落ちてこないようにしっかりとめられた)屋根となした。それでも、彼らは、こういう神兆に平気で顔をそむけるのか。彼(アッラー)こそは、夜と昼と太陽と月とを創造し給うたお方。みな大空の中を泳いでいる。

(52)~(59 ) その昔、我らはイブラーヒーム(アブラハム)に正しい行きかたを授けた。あの男のことは我らもはじめからよく知っていた。あれが父親とその一族に向って「そうやって貴方がたが崇めたてまつっているその彫像は、一体なんです」と言った時のこと。「わしらの御先祖様がたの崇めておられたものじゃ」と一同が答える。「それでは、みなさん確かに道を踏み違えておられたのですよ、御先祖様たちも、貴方がた御自身も」と言う。「これ、お前、本気でそんなこと言っているのか。それとも悪ふざけしているのか。」「とんでもない。みなさんの本当の主は、天と地を統べ給うお方、それを初めてお創りになったお方なのです。私はそれの証人の一人です。誓って申します。みなさんが私に背を向けてあちらへ行ってしまったあとで、必ず私があの偶像(でく)どもに一泡ふかせて見せましょう。」とそう言って、彼は(邪神の彫像をことごとく)ばらばらに叩きこわしてしまった。但し、たった一つ、大物だけ残しておいた。これは(あとで)みながこのもののところへやって来るように(わざと)そうしておいたのであった。

アブラハムが人々に偶像崇拝を咎めて、それらを壊したのであった。だけど、一つだけ残したのには理由がある。後日、みんながそこに集まってけしからんと騒ぐだろう。その折に再び説諭するというシナリオのようである。

(63) ~(69 ) 「これ、イブラーヒーム、お前か、我々の神様がたにこんなまねをしたのは」と一同が尋ねた。「いえいえ、ほら、この大物のしわざです。あの連中(こわされた神々を指す)にきいてごらんなさい、もし彼らに口がきけるものなら」と彼が言う。そこせ一同、額を集めて協議となり、「悪いのはこちら側だった(物も言えない偶像を神とあがめたりした我々の方が間違っていた)と言う。(しかし反省したのもつかの間)、たちまちひっくりかえって。「この方々(神々を指す)に口がきけないことはお前(アブラハム)初めから知っていたくせに。」「さ、そこです」と彼が言う。「それでは、みなさん、アッラーをよそにして、毒にも薬にもならないようなものを神と崇めていらっしゃるんですね。いやはy、なんとなさけないことか、アッラーをよそにして、あのようなものを崇めるとは。みなさん、わからないのですか。」「あれ(アブラハム)を火炙りにしてしまえ。どうせやるなら、君たち(俺たち)の神々がたにお味方申せ」とみなが叫んだ。そこで我ら(アッラー)は「これ、火よ、冷たくなれ。イブラーヒームに危害を加えるな」と命じたのであった。

信仰深きない人々を相手にアッラーの凄さをPRするかのように我とイブラーヒームの働きかけがまるでコントを見ているように映像が浮かびます。イスラムで偶像崇拝を禁じ、それを破壊した初期の状態が動画をみているように目に浮かんでくるようです。中々興味深い内容でした。この後、ほかの預言者にも言及するわけですが、今日のところはここまでにしておきましょう。

 

 

アフガニスタンのタリバンについて

アフガニスタンでタリバンが政権を奪取したために、イスラムについて尋ねられることが少し多くなりました。イスラムに対する関心が増えることはイスラムを正しく理解されるためにはいいことでしょう。まず、タリバンとは何なのでしょうか。ネットでweblio辞書のサイトには次のように書かれています。
タリバーン【Taliban】
「タリブ(イスラム神学生)」の複数形。「タリバン」「ターリバーン」とも》アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装集団。1996年首都カブールを占領して内戦後のアフガニスタンを支配。偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した。2001年のアメリカ同時多発テロの指導者ビンラディンをかくまったとして米軍の攻撃を受け、同年11月に政権は崩壊した。2006年ころから再び攻勢を強めている。

「タリバンはイスラム神学生」である。それだけではイスラム世界にはどこにでもあるイスラム神学生と同じでしかありません。タリバンは何が違うのでしょうか。「イスラム原理主義者による武装集団」ともあります。さて、原理主義者とはどういう定義なのでしょうか。原理主義という言葉は英語のfundamentalismを訳したもので、もともとはキリスト教の用語で、聖書の無謬性を主張する思想や運動(キリスト教根本主義)を指す言葉である。イスラム世界では自らが原理主義と名乗るようなことはなかったのです。1979年にはイランで革命により王政が崩壊し、イスラム政権が発足して今に至っています。イスラム法による統治をうたっています。でもそれはイスラム法に則る社会秩序を築くということで、原理主義というものではありません。サウジアラビアも厳格なイスラムの国です。彼らの宗派はワッハーブ派というものです。アラブの多くの国の人々がイスラムを信仰しているわけですが、地域や時代により厳格さが薄らいだところも沢山あります。そういう場合に、イスラムの原点に戻ろうという動きもあったりします。そういう場合は「イスラム回帰」あるいは「イスラム復興」などと表現されます。イスラム教徒自らが「原理主義」と名乗るようなものではないのです。

「偶像崇拝を排斥する立場から同国バーミヤンの石仏を破壊した」ともあります。あたかも偶像崇拝を配する立場の連中がバーミヤンの石仏を破壊したことは、イスラムの立場では当たり前のことであるように記されています。そうでしょうか。イスラム教徒のことをムスリムと言いますが、ムスリムたちは偶像崇拝をすることはいけないことだと教えられ、そのように信じています。それはそれで悪いことではありません。それが信仰というものでしょう。でもムスリムが他の宗教の信仰者たちが崇拝している文化財を破壊してもいいわけではありません。

次に1947年以後のアフガニスタンの歴史を年表形式で紹介します。

  • 1747年、パシュトゥーン人によるドゥッラーニー朝が成立。
  • 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。
  • 1838年、第一次アフガン戦争(~1842年)
  • 1880年、第二次アフガン戦争(~1880年)に敗れ、イギリスの保護国となる。
  • 1919年、アマーヌッラー・ハーン国王が対英戦争(第三次アフガン戦争)に勝利し、独立を達成。
  • 1973年ムハンマド・ダーウードが無血クーデターを起こして国王を追放。共和制を宣言して大統領に就任。
  • 1978年、軍事クーデターが発生(四月革命)。大統領一族が処刑される。人民民主党政権成立。革命評議会発足。
  • 1979年ソ連軍によるアフガン侵攻開始。親ソ連派のクーデターによってアミン革命評議会議長を殺害し、バーブラーク・カールマル(元)副議長が実権を握る。社会主義政権樹立。

アフガニスタン内戦

1979年12月 ソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻

1978年に成立した共産主義政権を支援するためであったが、反政府組織がソ連と戦い内戦状態となる。1989年のソ連軍の完全撤退まで10年間続いた。

代表的な反政府組織:

ラッバーニ率いるタジク人主体の                                   イスラム協会

ドスタム率いるウズベク人主体の                                  イスラム民族運動

ヘクマティヤール率いるバシュトゥーン人主体の          イスラム党

ハザラ人主体のシーア派勢力                                        イスラム統一党

これらの勢力はソ連と戦ったわけであるが、ソ連撤退後に戦い合うことになる。1992年平和協定

1994年 平和協定が破棄され、大規模な軍事衝突へ。ここで台頭したのがイスラム原理主義者のターリバーンである。(パキスタンから支援をうけて勢力拡大。1996年9月に首都カーブルを制圧「アフガニスタン・イスラム共和国」を樹立。

長くなったがアフガニスタンにソ連軍が侵攻したのが1979年、その後、内紛が続いたのであるが、ソ連に対抗するために米国は様々な集団にテコ入れをして、米国の都合のいいように育て上げていったのです。タリバンもその一つであり、1989年のソ連軍撤退後にタリバンは急成長していった。細かいことをいう必要はありません。要はタリバンというイスラム集団を都合のいいように政治的集団として育て、利用していった結果が今のタリバンなわけです。タリバンがまっとうなイスラム精神を保持した(あえて言えば)原理主義集団などという輩ではないのです。

イスラムの美②:陶器

前回の「イスラムの美①:タイル」の評判が良かったので、タイルに続いて陶器を紹介することにしました。前回同様にヴィクトリア・アンド・アルバート美術館の所蔵品の紹介です。

白地藍黒彩文字文壺。エジプトまたはシリア。14世紀。高さ37センチ。

青釉黒彩透彫鳥首水差。イラン、カーシャーン。12世紀末~13世紀初期。高さ29センチ。

白地色絵人物文鉢。イランおそらくカーシャーン。12世紀末期~13世紀初期。直径20.7センチ。

白釉雄牛像。シリア。12世紀。高さ22.2センチ。

白地藍黒彩草花文壺。イラン。17世紀。高さ52.5センチ。

白地藍黒彩獣文壺。イラン。17世紀。高さ29.8センチ

左:白地藍黒彩三美人図鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径29.7センチ。
右:ラスター彩騎馬人物図皿。イラン。1208年。直径35.2センチ。

グルガーン出土陶器類各種。全品が13世紀初期のカーシャーン産フリットウェア器物の埋蔵品の一部。このような上質の陶器を扱った行商人の手持ち商品と推定される。

白地藍彩アラベスク文台付鉢。トルコおそらくイズニク。15~16世紀。高さ23.5センチ。

白地多彩草花文台付鉢。トルコおそらくイズニク。16世紀中期。高さ26.5センチ。

白地多彩花文モスク・ランプ形壺。トルコおそらくイズニク。1557年頃。

白地多彩花文墓標。トルコおそらくイズニク。16世紀。高さ42.2センチ。

白釉青彩赤ラスター彩蓋付壺。イタリア、グッピオ。1510年頃。

左:白地藍黒彩草花文鉢。イランおそらくカーシャーン。13世紀初期。直径24.4センチ。
右:白地藍彩葡萄文皿。トルコおそらくイズニク。16世紀初期。直径39.1センチ。

円卓天板。9枚の別個のタイルから成り、それぞれイランの国民叙事詩『王書』に啓発された場面を描いたものである。中央図下部の銘文は、当品がロバート・マードック・スミス少将の注文によりアリー・ムハンマド・カシュガル・イスファハニーが、西暦1887年に相当するヒジュラ歴1304年に制作したものであることが記されている。直径136センチ。

12世紀以後の各地で作られたものであるが、中には日本の陶器と見間違うようなものもありますね。イスラム世界のものであるのに、人物像が描かれているものもあることに、オヤッと思われた方がいるかもしれません。でもそれらは、イランの作品です。イランはご承知のようにシーア派の国であります。イランでは第4代カリフ・アリーの肖像を飾ることがあるように、人物像を描くことを厳格に禁止しているわけではないようです。ペルシャの絵皿には独特の顔の人物像が描かれているものです。

 

イスラムの美 ①:タイル

2021年も早や9月になりましたね。コロナは一向に静まる気配がありません。本来ならば行楽の秋、芸術の秋ということで何処も賑わいを増す季節になるのでしょうが、今年はそうもいかないようです。せめて、ここではイスラムの美を楽しむことにしましょう。今回はタイルです。イスラム世界を旅するとモスクの美しさに強烈な印象を覚えるのではないでしょうか。勿論絢爛豪華なモスクばかりではありませんが、豪華でないモスクでもそれなりの美しさを感じるような気がします。

モスクを美しいと感じるとき、それは色彩からかもしれません。あるいは花や唐草をあしらった模様、いわゆるアラベスク模様かもしれません。私たちのアラビア書道の仲間には、モスクを見た時の文字の美しさに魅せられてアラビア書道を始めたという方が大勢おられます。色彩であれ、模様であれ、文字であれ、それらはモスクの外壁を覆っているタイルの美しさなのです。今回はヴィクトリア・アンド・アルバート美術館発行の「Palace and Mosque – Islamic art from the Victoria and Albert Museum 」の中のタイルを紹介させていただきます。つまり、これらはこの美術館に所蔵されているものです。

メッカ・カーバ神殿図解のタイルである。トルコ、おそらくイズニクでの17世紀の作であろう。縦が61センチ。

押型ラスター彩青釉文字唐草文小型ミフラーブ。イランおそらくカーシャーン、14世紀初期。高さ62センチ。

ラスター彩草花文十字・星形タイル。イランおそらくカーシャーン。1261ー62年の年代銘記。

ラスター彩釉文字文方形タイル。イランおそらくカーシャーン。1307ー08年頃。高さ35.8センチ。

白地多彩花文組タイル。トルコおそらくイズニク。17世紀。高さ188.6センチ。

白地多彩野宴図組タイル。イラン、エスファハーン。17世紀。幅221.5センチ。

白地多彩文字タイル。トルコ。1727年。主調となるのは書道文字装飾で、神の名、預言者ムハンマド、さらにアブー・バクル、ウマル、ウスマーン及びアリーの最初の歴代カリフ4名の名が様式化されてあしらわれている。この組み合わせはシーア派がアブー・バクル、ウマル、ウスマーンの正統性を拒絶していることから、スンナ派イスラムへの帰依を表す。高さ29センチ。

押型ラスター彩青釉タイル。バフラーム・グール図。イラン、タフト・イ・スレイマーン。13世紀末。高さ31.5センチ。

白地多彩チンターマニ(変形宝珠)文タイル貼暖炉。トルコおそらくイスタンブル。1731年。高さ365センチ。

それぞれの画像には詳しい説明もあるのですが、ここではこれらのタイルの美しさを楽しんでいただければと思います。

コーランについて(10):第104章・・・中傷者

最近のネット社会では誹謗中傷が酷い状態であるらしい。まもなく閉会となる東京オリンピックに出場したアスリートたちに対するものも非常に多いようである。コーランを見ると第104章に「中傷者」という章があるので、それを見ることにしよう。

ええ呪われよ、よるとさわると他人の陰口
宝を山と貯めこんで、暇さえあれば銭勘定

これだけあればもう不老不死と思ってか。
いやいや、つぶし釜(なんでも粉々につぶしてしまうもの。地獄を指す)に叩き込まれる身のさだめ。
が、さて、つぶし釜とはそもなんぞやとなんで知る。
ぼうぼうと焚きつけられた神の火で、
忽ち心(投げこまれる罪人の心臓)を舐めつくし、
頭の上から蓋をして、
蜿々長蛇の柱とはなる(はてしなく続く柱の列のように火焔が燃え立つのである)。

後半は少し分かりにくいかもしれないが、要は人を中傷するような輩は地獄に落ちるんだということ。金をため込んで銭勘定ばかりするような輩は、貯め込んだ財産が不老不死を与えてくれると思っているのかもしれないが、そんな輩も地獄へ落ちるということだ。そして、地獄というのは、前回にも出て来たが、劫火の責めを受ける処である。最後の審判で地獄行となった者は火で焼かれるが、彼らは既に死を経験しており、地下のあの世から、喇叭の音によって復活した者どもである。一度死んでいるので、再び死ぬことはない者どもである。つまり、酷い劫火に焼かれても、死ぬことはなく、永遠に火の攻めを受けるのである。もう殺してくれと泣き叫んでも、死なずに、一生苦しみ続けるのである。一生というのは可笑しいな!

とにかく、イスラムの地獄での苦しみはコーランのあちこちで述べられている。その部分だけを抜き書きして整理するだけで学位論文が書けるかもしれない。世界中の人々が、他人を誹謗中傷したりすると地獄に落ちることを心に留めておいてもらいたいものである。