中東の石油(6):イランの石油国有化(1)

前回までに中東の石油資源が大国の石油会社の支配下になったことを述べた。各社の出資比率を表にまとめると次のようになる。

イラン トルコ➡イラク バーレーン クウェート サウジアラビア
AP 100 50 23.750 50
ドイツ銀行 25
RDS 25 23.750
仏石油 23.750
エクソン 23.750 30
モービル 11.875 10
グルペンキアン 5.0
ソーカル 100 30
ガルフ 50
テキサコ 30
発見年 1908 1927 1931 1938 1938

AP=アングロ・ペルシャ石油会社。後にアングロ・イランニアン石油会社に変更
RDS=ロイヤル・ダッチ・シェル石油会社。

さて、時代が進むと世界各地で大国による支配に対する反発が強まってくる。植民地からの独立のための運動が起きてくる。石油のような資源に対しても自国に取り戻そうという動きがでてくるのは当然のことである。イランの石油国有化が今回のテーマである。

ダーシー利権を与えたときのペルシャの政治体制はカージャール朝であった。1925年にレザー・ハーンがクーデターを起こして、パーラヴィー王朝を開いた。彼は自らをシャー(王)と称しトルコに倣って国内の近代化に努力した。国名をペルシャからイランと改めたが、イランの石油利権はイギリスが保有したまま残されていた。アングロ・ペルシャ石油会社はペルシャがイランとなったのを受けて、アングロ・イラニアン石油会社(Angro Iranian Oil Company)と改称された。AIOCは1933年にイラン政府と契約を更新した。利権の及ぶ範囲は10万平方マイルに限られ、イラン政府に対する支払いも増大した。しかし、利権の期間は60年に渡る長期であった。アバダンの製油所が大規模化し、ケルマンシャーーにも製油所が建設された。1941年までに5つの油田が発見・開発された。第二次世界大戦中に原油生産は減少した。しかし、戦後の欧州の急速な需要増のために生産は急増していった。そして、各地で民族主義が高揚した。石油生産についても、石油収入の配分が不公平であるとの不満がイラン国内に充満してきた。このような時期の1948年にはベネズエラが石油会社との間で、政府と石油会社の利益配分をそれぞれ50%とする新しい分配方法を定めることに成功していた。サウジアラビア政府もアラムコから同様な条件を獲得した。このような環境で、イラン政府とAIOCとの条件改善交渉は一気に国有化へと飛躍していった。

1951年4月、石油国有化法案が議会に提議され満場一致で可決され、国営イラン石油会社(NIOC)が誕生した。可決後にイギリス人は全員退去し、残された油田や施設の操業はイラン人の手に委ねられた。イギリスはイランの石油が手に入らなくても、イラクやクウェートでの増産により補うことができた。そして、イランの石油を世界の市場から締め出すべく世界の石油会社に、イラン石油のボイコットを働きかけた。ペルシャ湾にはイギリス軍艦が配備されてイラン石油の輸出を阻もうとした。この時にイランの石油を買い付けに行ったのがあの映画「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光石油の日章丸である。・・・・・出光はイギリスから訴えられる・・・・イランは石油が売れなくて経済が疲弊していく・・・・・国有化を断行したのはモサデク首相であったが、政権の座がぐらつき始める・・・・・イギリスとイランの法廷闘争、イギリスと出光の法廷闘争がつづく・・・・イランは混沌とした状況に陥ってしまった。

国有化は行われた。しかしながら、イランの石油事業は行き詰ってしまった。ここでアメリカのCIAが登場するのである。CIAの策略により、クーデターが起きる。モサデクを失脚させる。そして、その後のイランでアメリカが大きな足場を作るのだ。この続きはまた次回に。

 

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