想い出の中東・イスラム世界:シーラーズのおばちゃん達

久しぶりの投稿です。9月になっても暑い日が続いていましたね。6,7日と超大型の台風10号が九州の西を通過して被害がでました。遠く離れた愛知県でも非常に強い風、そして時々ゲリラ豪雨のように降る大雨に怖い思いをしました。今日8日の午前中は少し過ごしやすいかなと感じていますが、湿度が高いのでクーラーを点けるのは時間の問題でしょう。

さて今日は、冒頭にタイトルを示しましたが「イスラムのおばちゃん達」の動画を紹介いたします。「想い出の中東・イスラム世界」のシリーズです。私が2011年の9月にイランに行った時の様子です。

日本人の多くの人々は、イスラムの女性について、どちらかというと開放的ではなくて閉鎖的、派手ではなくて地味系、社交的ではないなどのイメージを持っている方が多いのではないでしょうか(私の偏見ならごめんなさい)。でも私の知っているイランのイスラム女性に関して言えば決してそうではありません。大学への進学者の女性の比率も50%を超えたというニュースをもう10年以上前に聞いたこともあります(今はどうか、後で調べてみます)。この動画を撮影した2011年の時にイラン国内の航空券を買うためにケルマンシャー市のイランエアに行ったとき窓口には男性も女性もいましたが、私は躊躇することなく女性の窓口に行きました。その彼女はイスラハンやシーラーズ、ラシトなどに行くチケットの空席をテキパキと調べて、スケジュールを組んでくれました。隣の窓口の男性はお客を前にしていても、新しい客が入ってくると、大きな声で挨拶の言葉を交わし(それは良いことかもしれませんが)、それだけでなく世間話を始めたのでした。その窓口のお客はその間放っておかれているわけです。銀行の窓口などはあまり女性を見かけなかったのですが、一番後ろの列の方は女性がいて、全体を監督しているような雰囲気でした。ケルマンシャーでは町で出会ったイラン人が家に招待してくれたのですが、子供や奥さんも我々(3人)の前にきて、一緒に楽しいひと時を与えてくれました。

もっと昔のことを話せば、1970年代のことになりますが、当時の女性は日本というか西洋の女性となんら変わらぬ人たちでした。王政の政策でもありましたが、チャドールは被らない。被ったとしても綺麗な花柄のものでおしゃれに着こなしたりしたものです。ツイッギーのようにミニスカートも流行りました。車を運転して通勤するので、何度か便乗させてもらったこともあります。それらは1979年の革命前のことですから、それ以後一変したわけですが、彼女たちの女性としての本質は世界中同じなのではないでしょうか。勿論、私の会社の同僚の女性(当時お互いに20代でした)は私の知っている日本の女性と変わりはありませんでしたが、敬虔なイスラム教徒で、日に5回のお祈りもしていました。ラマザンの月には断食をしていました。でも、普段は何ら日本人と同じ女性、普通に一緒にレストランなどに行っていました。

前置きが長くなりましたが、想い出の動画を次にアップしておきましょう。シーラーズの町でバザールを回った時のことです。バザールから出たところにちょっとした庭があり、ドリンクや軽食が取れるところがありました。庭の周りは個別の桟敷席のようになっており、その一つで女性たちがワイワイ大声でお喋りしているグループがあったのです。日本から一緒に行った二人の日本人が現地の人との触れ合うためにもと思い、声を掛けました。その時の様子の一部を同行者が撮影したものです。「大阪のおばちゃん」と同じように思いませんか?(結局動画のファイルが大きいので直接ここに載せられなかったので、ユーチューブにリンクしてご覧いただきます。

イマームザーデとは:Imamzadeh, امامزاده

今日で8月も終わり明日からは9月というのに日本列島は猛暑が続いています。中東に、イスラム圏に目を向けると今はイスラム暦のムハッラム月です。しかも昨日は10日だったようです。ウィキペディアによると、ムハッラム月の10日目は「ヤウム・アル=アーシューラー(「10番目の日」の意)」ないし単に「アーシューラー」と呼ばれ、断食贖罪の日とされているが、この日はイマーム・フセインの殉教日でもあることから、とくにシーア派の信徒の間で熱心に宗教行事が行われている。このフサインの死を追悼する殉教祭をさして「ムハッラム」と言う場合もある。」と書かれています。つまり、スンナ派にしろシーア派にせよ重要な時期にあたるわけです。暑い時期にイランのアシュラの日には男たちが鎖で背中を打つ、あるいは胸を手の拳で叩きながら町を行進するわけですから、大変な苦行でしょう。

そんなことを考えながら、昔自分が写したパソコンの中の写真や動画を見ていました。そこで10年ほど前にイランのシーラーズを訪れた時に立ち寄ったイマームザーデの動画を見つけました。シーラーズにはもっと有名なイマームザーデがあるのですが、そこに祀られている人の甥っ子のイマームザーデです。それでも沢山の人が来ており、グループの人たちは記念写真を撮り、おしゃべりに夢中でした。若いカップルが座り込んでデートの最中というのもいました。壁は鏡のモザイクで覆われているので照明が反射して眩いほどきらびやかでした。もっと昔に訪れた時は静かで厳粛な雰囲気だったように思いますが、この時はそうではありませんでした。イマームザーデはモスクではありません。また、シーア派独特のものです。百科事典には次のように出ています。

「イスラム教シーア派のイマーム (教主) の子孫,および主としてイランに残る彼らをまつった寺院をいい,現在では後者の意味で用いられる。イマームザーデの称号はイマームの息子や孫にだけではなく,神聖さや高潔さにおいて卓越する者,殉教をとげた者にも付される。7世紀末から,アッバース朝カリフ,マームーンが第8代イマーム・レザー Riḍāを後継者に迎えた9世紀初めにかけてイマームの子孫たちがイランに多数移住した。イマーム・レザーの死後彼らは分散し,イラン全土に多くのイマームザーデやその子孫の墓,あるいは彼らの墓と信じられているものが見出される。これらの墓やその上に建てられた寺院が人々の崇敬の対象となり,巡礼の中心地となった。その規模はワクフを有するものから,巡礼者の捧げるものだけで維持されるものまで大小さまざまであるが,イランの民間の宗教生活に果した役割はきわめて大きい。出典 ブリタニカ国際大百科事典」

ここにかかれているように、イランの民間宗教生活に果たす役割云々とありますが、私の知る限りでは、日本人が行う「願をかける」というようなこともするらしいのです。地方の田舎にいっても何を祀っているのか分からないようなイマームザーデもあります。それは村の鎮守様のようなものに感じました。

シーラーズのイマームザーデの動画をユーチューブにアップしてみましたので、このページの冒頭にリンクを張りました。よろしかったらご覧ください。3分丁度の動画です。「いいね」を入れてもらえば嬉しいです。

ペルシャ語講座22:アルファベット الفبا

この講座も20回を超えました。勝手気ままに続けてきました。そして、殆ど説明もしないままにペルシャ文字も使用するようになってしまっています。今日は文字の基本について取り上げておきましょう。

表題のところに الفبا と書いているのは「アレフバー」と読みますが、ペルシャ語の一番最初の2文字のことです。英語でいうならばABです。Aにそうとうするのが「アレフ」で「 ا 」という文字です。Bに相当するのが「ベ」で「 ب 」という文字です。それはともかくとして、ペルシャ語のアルファベットは32文字です。文字はアラビア語の文字=アラビア文字から28文字を借用しています。アラビア語にはないけれどもペルシャ語にはある文字を4つプラスしています。ではNHKのアラビア語講座に掲載されていた、アリフバー早見表を見てください。

一つの文字について、独立形、頭字形、中字形、尾字形の4つが示されています。独立形とは単独で使われる場合の形です。頭字形は単語の一番前に使われる場合の形です。同様に単語の中で前後に他の文字がある場合の形です。尾字形とは単語の末尾に使われる場合の形です。そして、それぞれの文字は他の文字とつながる場合の約束事があります。

例えば、最初の文字アレフ(アラビア語ではアリフ)は前の文字からは繋がりますが、後ろの文字にはつながりません。実際に単語を使って説明してみましょう。「本」は「ケターブ」です。アレフバーでいうと、k t a b です。ペルシャ語で書くと、ک  ت  ا  ب  の4文字です。k は頭字形を使います。t は中字形になりますね。a も中字形ですが、アレフは後ろの文字にはつなげないという約束がありますので、アレフの後ろの文字はアレフにくっつけて書くことはできません。最後の b は前のアレフとは途切れています。そして、この単語だけでは b で終了しますので、独立形が採られます。そうしてできるのが کتاب  となるのです。ややこしいようですが、これは使えばすぐに慣れます。

アレフのように後ろに繋がらない文字にはد  ذ  ر  ژ ز  و  があります

先ほどペルシャ語ではアラビア語にない4つの文字がプラスされていると言いました。その文字は「 pe  پ  」「che چ 」  「 je  ژ  」 「  gaf  گ 」です。cheが作られているので日本語の チャ チ チュ などの音もきちんと書くことができます。アラビア語ではチャやチの音がないので千葉さんなどの表記は難しいはずです?

表の中のアルファベットの読み方はアラビア語の読み方になっています。ペルシャ語では少し違います。アレフ、ベ、ペ、テ、セ be pe te se  というようにe の音で読んでいますが、どんな読み方でもいいでしょう。但し、細かいことをいうとアラビア語の発音はペルシャ語とは微妙に違うようです。今日はこれにて。
خدا حافظ khoda- hafez  さようなら

ペルシャ語講座21:基本的な動詞

今回は基本的な動詞をまとめて紹介しておきましょう。文法の基本を覚えればあとは単語を覚えて行けばいいわけですが、というものの「単語は自分で辞書を引けばすぐに分かりますよ」というのも不親切なので、使用頻度の高いと思うような動詞を一覧にしておきましょう。ここで重要なことは動詞の原形(基本形)に対する語幹(語根、不定詞などという参考書もあります)です。語幹を知らなければ動詞の現在形を作れないからです。(講座6の現在形の作り方を参照してください。)

日語 英語 原形 発音 語幹 発音
行く go رفتن raftan رو rav, rou
来る come آمدن ア(o)ーマダン آ アー(o)
与える give دادن dadan ده dah
書く write نوشتن neveshtan نویس nevis
払う pay پرداختن pardakhtan پرداز pardaz
料理する cock پختن pokhtan پز paz
見る see دیدن didan بین bin
食べる eat خوردن khordan خور khor
飲む drink نوشیدن nushidan نوش nush
読む read خواندن khandan خوان khan
眠る sleep خوابیدن khabidan خواب khab
売る sell فروختن frukhtan فروش furush
持ってくる bring آوردن avardan آور avar
持っていく بردن bordan بر bar
get گرفتن gereftan گیر gir
聞く hear شنیدن shenidan شنو shenav
理解する understand فهمیدن fafmidan فهم fahm
洗う wash شستن shostan شو shu-
する do کردن kyardan کن kyar

思いついた基本的な単語をリストアップしてみました。動詞の数は勿論まだほかにもありますが、この程度でもかなり使えるのではないでしょうか。それと次にもしかしたら最も重要で使用頻度が高いかも知れない動詞を紹介します。それは「する」という動詞です。英語の「do」に相当する動詞です。上の表の一番最後の行で太字にしている動詞です。

「する」という意味で使うのは勿論です。が、名詞につなげると、その名詞を動詞化することになります。例えば「仕事」は「カール کار 」です。カールとキャルダンで「働く」です。「考え・思い」は「فکر 」です。キャルダンを付けて、fekr kyardan で「考える・思う」となります。他にも「開く」は「バーズ・キャルダン」となります。「忘れる」は「ファラームウシュ・キャルダン」、「お願いする」は「khahesh kyardan」・・・・となります。このようにキャルダンを付けて複合動詞を作ることができるのです。キャルダンの他にも、上の表の中では「ダーダン」でも同じようなことができます。ダーダンは与えるといういみですから、「勉強という意味のダルス」とつながって「ダルス ダーダン」は「教える」になります。勿論「教える」というそのままの動詞もありますが、このような使いかたも知っておけば、役に立つものです。他にもありますが、「ヤヴァーシュ、ヤヴァーシュ(ゆっくり、ゆっくり)」やっていきましょう。

閑話休題:日本・猛暑の夏

例年より遅く梅雨明けした日本は猛暑の夏を迎えています。最高気温が35度以上の日が続いており、今日8月10日は37度位が予想されています。私自身も連日クーラーの中で過ごす時間が多くなっています。コロナで外出は控えいるので、クーラーのきいた涼しい部屋にこもりっきりというのは身体にあまり良いとは思えません。

今回は、「この程度の暑さは大したことではない」と私の頭を洗脳するために、中東地域の都市の気温をチェックしてみました。データの出典は日本気象協会 https://tenki.jp/world/ を利用させて頂きました。8月10日の日本時間で午前5時発表となっています。

都市 最高 最低 平均
湿度%
サウジアラビア リヤド 42 27 12
トルコ イスタンブール 33 22 58
UAE ドバイ 44 31 62
レバノン ベイルート 28 23 71
バーレーン バーレーン 37 34 48
イラン テヘラン 38 21 18
シーラーズ 44 20 47
イスファハン 41 17 34

やはり、暑いですね。暑いどころか熱いような気がします。最高が40℃を超えるのが殆どです。日本でも40℃を超えることはありますが、それほど多くはありません。そして、最低気温が結構涼しいくらいの温度だということです。20℃台の下の方、イスファハンではなんと17℃となっています。一番暑くて不快そうなのはバーレーンでしょうか最高は37℃ですが、最低が34℃なのです。34度以下にならないのは私ならちょっと・・・ですが、そこで住んでいる人は適応するのでしょうね。

日本でよく言われるのは、気温がそう高くなくても、「湿度が高いからいやだね」ということです。それに比べると中東地域は相対的に湿度は低いです。でも、ペルシャ湾岸などは湿度も高いところがありますが、この統計ではドバイが62%、バーレーンが48%という程度です。

私が住んでいたことのあるテヘランをみると、最高37℃、最低21℃です。湿度は18%。この統計は発表のあった日の記録ですから、年間の最高気温ではありません。明日は40℃を超すかもしれません。実際私もテヘランで40℃超は何度も経験しました。朝は少し涼しいけど午後にはすごく暑い。でも木陰や影に行くと涼しさを感じました。それは湿度が低いからです。この統計では18%ですから、カラカラ状態ですね。あの頃は若かったので、午前の仕事を終えて、午後というか夕方4時半からの仕事再開の間にホテルのプールにいって軽食をとり泳いだりしたものでした。プールから外にでると、空気が乾燥しているので一気に乾きます。そして気化熱の影響で身体が冷えるのです。注射を打つ時に腕をアルコールで消毒すると冷っとするようなものです。湿度が低く乾燥しているということです。他には、日本人ですからよく集まっては麻雀をすることがありました。その麻雀牌なのですが、使っているうちにヒビが出てくるのです。さすがに割れることはありませんが、牌にヒビ傷が入るようになると、それが目印になって相手の牌が読めるようになったりしたものです。また、尺八が趣味な人が、尺八が乾燥して割れたということも聞きました。気温の話から、ついつい昔のことを思い出してしまいました。

結論です。中東に較べると日本の夏はまだ生易しいということです。これでこの夏も乗り切れそう!乗り切りましょう!

中東の美:ラスター彩の輝き

前回、白瑠璃碗、つまりガラス器を取り上げたので、今回も焼き物を取り上げよう。今回はガラスではなくと陶器やタイルである。冒頭の画像はINAXライブミュージアム「世界のタイル博物館」コレクションを紹介している小冊子『ラスター彩タイル』の表紙である。副題として「天地水土の輝き」とある。発行は2013年9月である。ラスター彩とはなんであろうか。この小冊子では「ラスター彩は器の表面に描かれた図柄が金属的な輝きを呈する陶器の彩画技法で、イスラーム地域で特に発展した。」と説明されている。そしてINAX社が集めた12世紀~13世紀に焼かれた美しいタイルが紹介されている。無断転載は禁止なのでここに紹介はできなくて残念であるが、INAXのホームページから見ることができるのではないだろうか。ところで、ラスター彩は金属的な輝きをいかにして発光させているのだろうか。インターネットでは以下のように説明されていた。

ラスター彩とは:
① ウィキペディア
ラスター彩(ラスターさい、Lusterware)とは、焼成した白い錫の鉛釉の上に、銅や銀などの酸化物で文様を描いて、低火度還元焔焼成で、金彩に似た輝きを持つ、9世紀-14世紀のイスラム陶器の一種。ラスター(luster)とは、落ち着いた輝きという意味。
② 大辞林 第三版
イスラム陶器の一。スズ白釉はくゆうをかけて焼いた素地きじに銀・銅などの酸化物で文様を描き低火度で焼成したもの。金属的輝きをもつ。
③ 百科事典マイペディア
陶器の表面に金属や金属酸化物のフィルム状の被膜を600〜800℃の低火度で焼きつけ,真珠風の光沢や虹彩(こうさい)を出した焼物。この技法は9世紀にメソポタミアで始まったといわれ,次いでエジプトで発達し,のち12,13世紀のペルシア陶器に多く用いられた。
④ 世界大百科事典 第2版
陶器の釉薬において金属酸化物に起因する輝き,あるいはこの輝きをもつタイプのイスラム陶器をいう。日本では〈虹彩手〉〈きらめき手〉と呼ばれている。技法的には,スズ釉による白色陶器(素地を青緑,藍彩にする例もある)に銀,銅酸化物(硝酸銀,硫化銅)を含む顔料で絵付をし,低火度還元炎で再度焼成する。呈色は黄金色が多いが,釉薬の成分,焼成温度などによって微妙に変化するので,黄褐色,赤銅色を呈することもある。 ラスター彩の技法は9世紀にメソポタミアで創始され,次いでエジプトに伝えられてファーティマ朝下で発達し,王朝滅亡後はイランに伝播した。

釉薬に金属、特に錫を混ぜるような技法であるらしい。かといって、そのように釉薬を調整すればできるというものではない。焼成の温度や陶土の質だとか、ラスター彩のあの本当の輝きを出すことは非常に難しいということだ。

これは私の手元にある1986年発行・保育社カラーブックス『ペルシャ陶器』500円の表紙である。著者は人間国宝の加藤卓男さんである。私の手元には2冊あり、もう一冊は表紙を広げると次のように著者のサインがある。陶器の作品に描かれる見慣れた銘のそばにペルシャ文字でتاکو کاتو と付記している。最初の تا の部分はちょっと変形させているようだが。著者の加藤卓男さんは、ペルシャ陶器のラスター彩に魅せられて、イランに通い、ついにラスター彩を復元することができた陶芸家なのである。岐阜県多治見市に1804年に開いた幸兵衛窯の第六代目である。現在は七代目の代になっている。幸兵衛窯では彼の作品やコレクションが見学できるので、私は時々訪れることがある。

この『ペルシャ陶器』によると釉薬のことや、イスラム模様のこと、各地域のラスター彩のことなどを知ることができる。

また、上の画像の『やきもののシルクロード』という書籍では加藤卓男さんが追い求めたペルシャ陶器のことを味のある文章と絵で著している。素晴らしい書籍である。彼はペルシャ風の絵をうまく描いており。陶板も数多く製作しており、幸兵衛窯では買い求めることができる。

最後は圧巻の『ラスター彩陶・加藤卓男作品集』を紹介して終わろう。

著作権に触れるといけないので遠慮して作品集の写真の中の一枚だけアップさせてもらおうとするのだが、一枚を選ぶのが非常に難しい。読者はどうかネットの中で、検索して彼の作品をご覧いただきたい。いや実際に幸兵衛窯に行って、本物をみていただきたいものである。

 

 

 

 

ペルシャ語講座17:動詞の未来形

今回はちょっと前に進めて、動詞の未来形を取り上げましょう。例えば「私は明日大阪に行きます」を英語では「I will go to Osaka tomorrow/」と未来形のwill goを使います。英語ではwillを使うわけです。ペルシャ語では未来形を表す助動詞として خواستنを使います。語幹は  خواه です。また、go に相当するのは raftan です。語幹はravです。ちょっと整理してみましょう。

その前に、動詞の形について以前にも書いていますが、もう一度きちんと説明しておきましょう。動詞は先ずは基本となる形があります。私は動詞の基本形または原形といっていますが、参考書では不定法や不定詞や不定形という場合が多いです。その動詞の基本形の末尾は ن -an となっています。更に تن  tan、 دن  -dan、 یدن -idan の3つに分けられます。つまり動詞の基本形は〇〇タン、〇〇ダン、〇〇ディダンの3通りしかないということです。

そして、動詞の基本形から  ن -an を取り除いたものが過去形の基本形となります。この基本形に人称別の語尾をつけると過去形ができます。過去語幹とでも名付けましょう。

基本形 過去語幹
 go رفتن raftan رفت raft
 give دادن dadan داد dad
 ask پرسیدن porsidan پرسید porsid

未来形から話がずれていきますが、ついでに現在形です。

基本形 現在語幹
 go رفتن raftan رو rav
 give دادن dadan ده dah
 ask پرسیدن porsidan پرس pors

ちょっとややこしいのですが、動詞の基本形とともに、語幹というのがあります。これは覚えなければなりません。掛け算の九九を覚えるように口ずさんんで覚えるようなものです。例えば go なら、raftan–rav,  give ならdadan–dah, askならporsidan–porという風にです。そして、現在形を作る場合には必ず mi میを前につけます。 私は行く= miravamとなるわけです。あなたは行く=miraviですね。話し言葉では必ずしもこの通りの発音ではありませんが(miravam➡miram,  miravi➡miri)、先ずは基本を身に着けるのが先でしょう。先ほどの過去語幹に対して現在語幹と名付けておきましょう。

さて未来形です。先ほどخواستن を使うと言いました。خواستن の語幹は خواه です。下の表に go の現在形と未来形を記入しました。現在形は動詞の語幹に人称語尾をつけました。未来形はخواهの末尾に人称語尾をつけて、あとはすべてraftで良いわけです。覚えやすいのではないでしょうか。

 I go miravam میروم I will go خواهم رفت
 You go miravi میری you will go خواهی رفت
 He goes miravad میرود He will go خواهد رفت
 We go miravim میرویم We will go خواهیم رفت
 You go miravid میروید You will go خواهید رفت
 They go miravand میروند They will go خواهند رفت

簡単に説明しましたが、それほど難しいものではありませんね。また、否定形の場合は خواه の前にن naをつけて下さい。 نخوا となりますから、I will not goなら نخواهم رفت となります。na khaham raf です。

最後になりますが、私自身は殆ど未来形を使って話したことはありません。ほとんど現在形で用は足せたと思うのです。最初に書いて例文の「明日、大阪に行きますなら」「Fardo be Ozaka miravam」で良いと思います。

 

中東の美:ペルシャ絨毯

これまで色々な記事を書いてきたので、ペルシャ絨毯についても既に書いた気がしていた。でも、そうではなかったようである。今回はそのペルシャ絨毯について書いてみよう。冒頭の画像は昔テヘランの書店で買った本の表紙である。タイトルが「Oriental Rugs and Carpets」であるから、ペルシャ絨毯だけでなく、中央アジア、例えばサマルカンドや中国の緞通などについても書かれているので、それぞれの特徴も分かるので興味深い書籍である。この本からいくつかの画像を拝借させて戴くことにする。

ペルシャ絨毯の場合は「織る」というよりも「結ぶ」という方が合っているかもしれない。縦糸に結び付けていく感じである。上の図の左側の列が「トルコ結び(Turkish knot)」と呼ばれる結び方である。上段は正面から見たもので、中断は上からセクション(断面)で見たもの、そして下段は縦糸2本に結び付ける方法である。右列は「ペルシャ結び(Persian knot)」と呼ばれる方式である。縦糸にこのように糸を結び付けて、それを道具をつかって上から下に押さえつけるように締め込むような感じと言えばいいだろうか。

絨毯織りに使う道具である。上の二つは縦糸の間に入れて、結んだ糸を下に抑え込むものであろう。あとは糸を切ったりするためのナイフや鋏類であろう。普通は次の画像のように絨毯を立てて織っていくわけである。大きなサイズのものを織る場合は、横に数人が並んで織ることもある。珍しい方式では、立てるのではなく水平において織っていく方法もある。

ペルシャ絨毯の美しさの要素の一つは色である。古い伝統をもつペルシャ絨毯は現代のような化学染料が存在しない時代からの産物である。従って、天然の染料で糸は染められた。もちろん今ではすべての絨毯が天然染料で染めた糸を使っているわけではないのは仕方ないことであろう。また糸の種類も絨毯の良し悪しに関係する。もともと古い時代から絨毯は生活の必需品であった。建物の中、テントの中・・・絨毯は日本でいえば畳に相当するわけである。だから、絨毯は華美や豪華さを求めるものではなかったはずである。私が最初に絨毯を買った場所はイランのシスタン州・ザヘダン市から、また車ではるか東のパキスタン国境に近い町ザボールで、1972年のことであった。その土地周辺のローカル色豊かな絨毯2枚ものであった。それの糸はウール(羊毛)であった。ウールの絨毯は実用的でそれで充分であった。あれから既に50年近く経ったことになる。

これがその50年前の絨毯である。古くなり色も褪せてきたが、絨毯としての役目は健在である。いわゆる高級なペルシャ絨毯の洗練された趣はないが、地方色豊かな人間味溢れる図柄であると思っている。愛着のある絨毯である。

ウールであると言った。他にはコットン糸(綿糸)の物もある。イランの北東部辺りのトルクマン達が織る絨毯は綿糸のものが多かったように思う。もちろん、ウールもある。さらに絹(シルク)もあるであろう。今、日本のお店でも、またイランに行って絨毯屋を除いても、目を引く美しい絨毯は「オール・シルク」ですと言われるだろう。本当に美しいのはそういう絨毯であることに間違いはない。多分、我々日本人が買うとなると、それは装飾品として求めるのであろうから、このような絨毯が望まれるのであろう。でも、絨毯は飾り物ではなく、やはり部屋に敷いて使ってもらいたいものだ。例えば次の画像のこの絨毯はオール・シルクの少々大きめのものである。オール・シルクの製品は見る角度によって光の反射の影響で色が濃くなったり薄くなって見えるのである。そして、絨毯の厚みが非常に薄い。模様も糸が細い分だけ細やかな模様が出来上がる。素晴らしい出来栄えになる。私はこの絨毯も普段から敷いて使い古しているので汚れもでてきたし、傷もできてきたが、厭わずに使っている。

次の絨毯もオール・シルクである。これは小さいサイズなので玄関のマットに使用している。これは20年ほど前にゼミ生の学生一人を連れてイランとトルコ旅行に行ったときに、学生の勉強のために絨毯の買い物の仕方を実戦で形式で教えたときのものである。テヘランのバザールの絨毯屋をうろうろして気に入ったのがこれであったが、その日の値段交渉はまとまらず、翌日もう一度行って交渉したが、まとまらず。何度も行って交渉するのがお互いの楽しいゲームなのである。そして、イスファハンとシーラーズの観光に3日ほど行って帰ってから、またこの店に行って、最終的に買い求めたものである。産地はコムである。今頃コムの絨毯は人気が高いという。

次の絨毯はイスファハンであるが、中級品である。というのはウールが主で、一部にシルクを使っているのである。シルクは花柄の輪郭部分などに使われており、その部分は光って見えるので美しい。オール・シルクに較べると厚みがある。そうそう、ペルシャ絨毯は薄ければ薄いほど評価が高いのである。中国の緞通は何と言っても厚みがあってフカフカの肌触りが良いらしいが、ペルシャ絨毯は反対である。だから、新しい絨毯を買うと、それを家の前の道路に置くことがある。その上を車が走っていくのである。そうして、表面の毛羽が擦られていい具合になるというのである。

この絨毯はそう薄くはないが、それでも旅行用のスーツケースに折りたたんで入るくらいのものである。

話は自分の絨毯になってしまったが、これなどは中級の下程度のものであって、決して自慢できるものではない。でも繰り返すが絨毯は消耗品であるというのが私の考えである。でも、ペルシャ絨毯は長持ちするのも事実である。そして、模様の細かさであるが、これはパソコンが普及して画像を画素数で表すように、ペルシャ絨毯も一定枠の中にknot(結び目)がいくつあるかが尺度になる。いい絨毯なら表は勿論美しいが、裏も美しい。だから、あえて裏返して置いておく場合もある。オール・シルクなら、どんなものでも裏返してもいいだろう。

トルコに行けばトルコの絨毯。パキスタンにも独特の絨毯がある。国によって柄が特徴あるように、ペルシャ絨毯も産地によって絵柄が異なっており、ほぼ特定できるのである。そして、いいものには絨毯の隅に産地と工房のの前が織り込まれているのである。先述の玄関に敷いているものの工房が次のように示されている。

ちょっと書き疲れたので今日はここまでにしておきましょう。

 

 

ペルシャ語講座16:昨日、今日、明日など

久しぶりにペルシャ語講座の開催です。前回は時刻の表し方を学びました。今回は表題のような内容にしましょう。原稿を用意しておいて書いているのではなく、思いつくまま書いていくので整然としていなくても、ご了承のほどお願いいたします(笑)。

今日 امروز emru-z エムルーズ 備考
昨日 دیروز diru-z ディルーズ
一昨日 پریروز pariru-z パリルーズ
明日 فردا fardou ファルドー
明後日 پس فردا pas fardou パスファルドー
今年 امسال emsa-l エムサール
昨年 سال گذشته palsa-l サーレゴザシュテ
来年 سال آینده sa-le-ayand サーレアーヤンデ

一昨日よりもっと前を表現したい時もあるかもしれません。例えば一昨日の前だとすれば、3日前ということになりますね。前は=ピッシュ なので、数字の3のセ + 日のルーズ をつけると「セ ルーズ ピッシュ」となります。これで「3日前」という表現ができます。4日前、5日前なども数字を変えればいいだけです。

同様に明日、明後日の先はどうなるでしょうか。明後日の次は「3日後」ですから「3日」=「セ ルーズ」+「ディゲ」と言います。「ディゲ」というのは、正確には「ディギャル」ですが、話し言葉の場合「ディゲ」となります。「ディギャル」の代わりに「バッド」を使ってもいいです。4日後、5日後も数字を変えればいいだけです。例文を作ってみましょうか。

 私は3日前、東京に行きました。
   من سه روز پیش به توکیو رفتم
 man se ruz pish be Tokyo raftam
 彼は4日後に、大阪に行きます。
  او چهار روز بعد به اوزاکا می رود
  u chahar ruz bad be Osaka miravad

「彼は4日後に大阪に行きます」は未来のことなので、英語ならwill goとなるのかもしれません、ペルシャ語の場合も未来形がありますが、ここでは現在形を使っておきます。日本語でも「四日後に大阪に行きます」という風に現在形の表現をしているように、ペルシャ語の同じように考えて下さい。もちろん、推定的なニュアンスで、「多分行くでしょう」というような場合は動詞を未来形にしたらいいでしょう。未来形の作り方はそう難しくはありませんが、それは後日ということにしましょう。

今日は簡単なこれだけにしておきましょう。質問があればメールをお送りください(またはコメントでもいいです)。ところで皆様方、コロナが収束傾向にあるようでいながら、まだまだ東京や北九州では不透明な状況が続いています。くれぐれもご注意ください。

 

吉田正春:ペルシャを訪れた最初の日本人の一人

上はペルシャ湾と当時のペルシャの地図である。ペルシャ湾内に黒い実線が描かれており、チグリス川を遡りバグダードに続いている。さらにもう一本の線がブシェールからシラズ、イエズディ、イスパハン、テヘラン、レシトへと続いている。現在ではシーラーズ、ヤズド、イスファハン、テヘラン、ラシトと表記されている都市である。これは明治時代に、この地に足を踏み入れた日本人が辿ったルートである。

その男の名は吉田正春。彼は明治13年(1880年)にカージャール朝ペルシャとの国交樹立のための調査団を率いて現在のイランを訪れた。ブッシェール港に着いた彼らは先ず、現在のイラクの首都バグダードを往復してから、イランの首都テヘランに向かったのであった。

この調査の旅が実現するまでの経緯を少し説明しておこう。明治7年(1874年)1月、榎本武揚が駐露特命全権公使となり、サンクトペテルブルクに赴いて、樺太・千島交換条約を締結したのであるが、その後、1879年に訪欧の帰途にロシアに立ち寄ってペルシャ皇帝ナーセロッディーン・シャーに会う機会があった。そこで、皇帝から国交樹立の条約締結の提案があった。榎本武揚は帰国後に国交樹立の前段階の調査団を派遣することを決めた。その結果、団長として外務省御用掛である吉田正春が選ばれたのである。

吉田正春以外のメンバーは、参謀本部から工兵大尉古川宣譽、大蔵省商務局から大倉組商会副頭取の横山孫一郎、大倉組商会社員土田政次郎、七宝焼き磁器商の後藤猪太郎、小間物商の藤田多吉、金銀細工物商の三河鋳二郎であった。

一行は、明治13年4月に軍艦比叡で東京を出発し、途中、香港着4月23日、香港発5月1日、シンガポール着5月7日、ボンベイ着5月20日、ペルシャのブシェール港に到着。ブシェールに到着したのであるが、吉田と横山は先ずバグダードに行って、再びブシェールに戻っている。そして、改めてテヘランを目指したのである。外務省の資料は次のように記している。

1878年(明治11年)、榎本武揚(えのもと・たけあき)駐ロシア公使が、ロシアでペルシャ国王(ガージャール朝の第四代ナーセロッディーン・シャー)および総理大臣と会見したことが、明治の日本とペルシャとの交流のきっかけとなりました。特使派遣を知らせる井上馨(いのうえ・かおる)外務卿からペルシャ外務卿への通牒(1880年4月1日付)によれば、この榎本公使とペルシャ国王との会見をきっかけとして、両国間に通商協定を結ぶ機運が生まれ、交易の準備として、まずは商況調査のための使節団が派遣されることとなりました。
 特使に選ばれたのは、外務省御用掛の吉田正春(よしだ・まさはる)でした。吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。使節団には、吉田を団長として、参謀本部から派遣された古川宣譽(ふるかわ・のぶよし)陸軍工兵大尉、大倉組副社長の横山孫一郎(よこやま・まごいちろう)や同社員の土田政次郎(つちだ・まさじろう)、七宝焼陶器や小間物、金銀細工の商人が参加していました。
 一行は1880年4月に、インド洋での演習に向かう軍艦「比叡」で東京湾から出発し、5月にはペルシャ湾岸のブーシェフルに到着しました。その後吉田と横山はバグダッドへと旅行した後、再びブーシェフルに戻って古川らと合流し、7月の下旬から9月にかけてシーラーズ、イスファハンを経てテヘランへと北上の旅を続けました。
 吉田使節団の道中はまさに冒険というべき苦労の旅でした。途次、砂漠で遭難しそうになったり、現地人に医者と間違えられたり、険しい崖道を夜闇の中命からがら進んだり、といった稀有な体験をしながら、テヘランに到達したようです。
 一行は同年9月27日、ペルシャ国王ナーセロッディーン・シャーに謁見しました。この時に国王が吉田に与えた言上は、国書として日本側に渡されました。その国書には、両国はお互いに「亜細亜州」の国として、その心情は一致すると述べられていました。
 この時の会見の模様は、吉田が帰国後に提出した「謁見始末」に詳しく報告されています。吉田はまた、政府に提出した報告書に基づき『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著しました。国王はアジアでともに近代化をめざす国として日本に強い関心を示し、日本の政体・徴兵制度・鉄道建設など様々な問題についての詳細な質問を行ったことが「謁見始末」に記されています。この会見は、外国からの訪問者に対する会見としては異例の長時間に及んだということです。

9月17日に王に謁見したとあるから、ブシェールを出発した日がはっきりと分からないのであるが6月初めとすると、4ヵ月近くかかったことになる。そして、『回疆探検 波斯之旅』(1894年発行)という書籍を著したとある。その書の表紙の画像が次である。

なかなか古めかしい表紙である。国会図書館のサイトのデジタル資料として公開されているものである。これも是非見てみたいものであるが、私が入手しているものは、中央公論社の中公文庫1990年12月に発行された復刻本のようなものである。その表紙画像も次に示しておこう。

 

文語体で書かれているので読みにくいけど、興味があれば厭わずに読めるものである。これによると、テヘランに到着するまでの当時のペルシャの様子が描かれているので非常に興味深い。中から部分的に紹介してみよう。

第三章:ブシールよりシラズに到る道中(表記も原文通り):
ブシールよりテヘランに到らんとするには、その旅装の都合二様あり。荷物を多く持ちたる者は隊商(キャラバン)に入るべく、また軽装急行の者は駅伝(チャバル)に拠らざるべからず。駅伝の方法はおおむね普通旅客の成し得るところにあらずして、かの国の官吏または外国人に限りこれが便に藉(か)ることを得、すなわち費用を多くして日数を短くする方なり。隊商はその体ほぼアラビアに似たれども、途上はアラビアに比して見ればまず大抵安全なる方と言わざるべからず。・・・・・

まどろっこしいので、自分の言葉で書くことにする。
駅伝は費用が高いが時間的に早く行ける。ペルシャ側の役人の勧めなどもあり駅伝を利用することにするが、荷物が多いものもいるので、隊商利用と駅伝利用の二つの組に分けてシラズに向かって出発したそうである。

途中で現地の子供が口の中を大怪我をしたのに出会った。吉田たちを外国人と知って、助けを求められたことがあった。医者でもないし、どうしようもなかったが、泣き疲れたので仕方なく、砂糖水をなめさせることしかできなかった。それでも感謝されて、その場を立ち去ったというようなことも書かれていた。

ラバに乗った印象は次のように記している。「鞍上は馬よりも穏やかであるが、ゴー、ストップを御するのは難しい。口の引っ張る力が強いので、力いっぱい腕に力を入れても止まってくれない。普段騎乗に慣れていない自分たちはしばしば墜落した」とロバの背に乗り四苦八苦している様子が目に見える。今から見れば珍道中であったようだが、過酷な旅であったろう。いくつかの挿絵も紹介しておこう。

 

 

一行はテヘランで王に謁見したのであるが、すぐに会えたのではなく、結局テヘランには4ヵ月滞在したとある。テヘランでの仕事がメインであったが、カスピ海沿岸のギーラーン州のラシトに回った。そして、船でバクー(現在のアゼルバイジャン)に行きそこからトルコ経由のルートに変更している。ラシトは私が45年ほど前に妻と1歳の娘と共にしばらく住んでいた町である。正春はラシトについて、以下のように記している。
「ギーラーン州に入れば到るところ村落相連なり、田野広廓、石は皆苔衣を帯び、樹は皆老大陰をなせり。・・・・ここに至って余は初めて信ぜり。テヘラン以南の荒れ果てた地をもってペルシャの国は皆同じということは言えないと。・・・」。カスピ海沿岸は雨も多く、湿度も高いので風景は日本とそっくりなところなのだ。正春もそれをみて、ペルシャは砂漠の地ばかりではないということを自分の目で見て知ったのであった。気候・風土が似ているということは、生活様式も似通ったものがある。ラシトに住んでそのようなことも私は驚いたのであった。例えば、冬に家庭で暖をとるのに、コタツがあった。

さて、長くなってしまったので終わりにしようと思うが、先ほどの外務省の資料の記述に、吉田は幕末の動乱に際して土佐藩の改革にあたった吉田東洋(よしだ・とうよう)の息子で、東洋が土佐勤王党によって暗殺された後は後藤象二郎(ごとう・しょうじろう)(明治政府で官僚・政治家として活躍)のもとで育てられた経歴をもっており、幕末から明治初期にかけての動乱を体感してきた人物でした。という部分があった。そうなのだ。吉田正春は吉田東洋の息子である。土佐から東京にでて英語を学び外務省に勤めるようになった。このペルシャの旅のあと、彼は政治運動にも参加する。板垣退助などとも親交があったはずである。

一つのことを調べて、あることを知ると、そこからまた芋づる式に新たなことを知るきっかけになる。正春が乗っていった軍艦比叡は前回紹介したエルトゥールル号の遭難生存者をトルコへ送還した軍艦であった。そして、その正春のことを知ると、彼が吉田東洋の息子で、時代的にもきっと坂本龍馬とも交流があったと思わざるを得ない。実は10年ほど前に正春のことを知りたくて高知に行ったことがあるのです。知を求め、広げることは何と快感なんだろう。