イラン料理

パソコンの中の画像を見ていたら、イランへ行ったときの食事を写したものがあった。そこで、今回はイラン料理を紹介することになった。上の画像はペルセポリスの帰りに昼食のために立ち寄ったレストランでの食事であった。手前中央は言わずと知れた「キャバーブ(カバーブ)」だ。キャバーブには普通焼いたトマトや生の玉ねぎが添えられる。その奥がライスだから、それとキャバーブをセットするとチェロウ(ライス)キャバーブ(焼肉)である。普通はライスにバターを混ぜる。その上にソマーグという粉(日本のユカリと同じ)も振りかけると美味しい。生卵が安全なら是非とも卵の黄身をかき混ぜたいところである。ライスとキャバーブ。ランチなら、これだけで十分である。

キャバーブの左は「ホレシュテ・サブズィー」だ。色々な香草に豆なども少し入れて煮込んだもの。これをライスにかけて食べる。香草なので香りがきつい場合もある。ライスの左奥はパニール。イランのチーズである。壁土のような食感(壁土を食べたことはないが)の印象を抱いていたのだが、久しぶりのイランで食べたこのパニールはなかなかクリーミーであった。パニールはナーン(パン)に挟んで食べるといい。その奥が「ホレシュテ・バーデンジャーン」というナスの煮込み。これもライスにかけて食べる。羊の肉が少々入っていることもあるが、ナスがメインである。ホレシュテ・サブズィーの左の白い容器はヨーグルト。その向こうがサブズィー。先ほどのホレシュテの下であるが、生で出てくる。これもナーンにパニールと一緒に挟んで食べるといい。その奥が野菜サラダである。キュウリが多い。これが出てくる前に出たのが大麦のスープであった。こうして全体を見ると、野菜が多くてヘルシーな印象ではないだろうか。

ドリンクは昔はアーベ・ジョー(麦の水)つまりビールを付けたが、いまは公には飲むことはできない。私が飲むのはドゥークといってヨーグルトを炭酸水で割ったドリンク。昔はテヘランのドゥークの銘柄はAb-Aliというものであったが、前回行った折には見当たらなかった。

二つ目の上の写真はまた別の日にどこかのレストランで食べた時のもの。ライスの少々サブズィーが混ざり、黄色いのはサフランライスで副食の鶏肉が添えられている。名前は「チェロウ・モルグ」とでもいうのだろうか。鶏肉でなく羊の肉の場合は「チェロウ・グーシュト」となる。その奥の一皿はちょっと見にくいが「タッチン・グーシュト」だろう。私が大好きで人と一緒の時は必ずこれを食べてもらうようにしていた。ごはんをケーキのように形作り、こんがり焦げ目が少しついている。サフランライスの層が少しあるのかな。これも羊肉と合わせれば「タッチン・グーシュト」だし、鶏肉となら「タッチン・モルグ」と呼ぶ。これ一皿で十分満腹になるが、サラダやヨーグルトも一緒に食べるのが普通だ。

イラン人はおもてなしが上手である。公園を歩いているとグループでランチをしている場面に出くわすことが多い。そのそばを通ると「ベファルマイ! どうぞ!」といって、食べて行けと進めてくれる。街を歩いていて話しかけてくることも多い。そうするうちに「是非とも、我が家へ来てください」ということになる。どうしようかな?社交辞令だよな?とか思っているうちに、自宅の場所と時間を示されて約束させられる。二人の日本人を連れてイランに行った時もそうだった。私はその二人にイラン人の家庭を体験してもらうのもいいかと思い。招待を受け入れて夜、3人で訪問した。その時の料理が次の写真である。

若い夫婦と小さな子供二人がいる家庭であった。富裕層ではなくごく普通の家庭である。突然の訪問に奥さんは戸惑ったであろうが精一杯の準備をしてくれていた。

料理に関していうと、私は「フェッセンジャーン」というローカル料理が好きである。テヘランのイラン料理レストランではメニューにおいているところが多くない。地方料理らしい。どんな料理かと説明できないのだが、ごはんにかけるホレシュテの類になるのだろうか。胡桃がすりつぶして入っており、少し酸っぱい味がするのはザクロのせいである。レストランでメニューにあれば食べたい料理であった。読者も機会があればオーダーしてみてください「フェッセンジャーン」と。

最後にケルマンシャーのチェロウ・キャバーブ店の玄関とキャバーブとチキンキャバーブの写真をアップしておこう。

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ペルシアの詩人たち

以前にアブー・ヌワースという詩人の『アラブ飲酒詩選』を紹介したことがある。イスラム社会の中でありながら大胆に酒を歌ったものをいくつか紹介した。そしてタイトルを書籍紹介:アブー・ヌワース著『アラブ飲酒詩選』その1としたのであった。だからその2を書かなければならないのである。でも詩と言えば、本場(?)はペルシアであろう。ペルシアつまりイランのことである。そこでちょっと寄り道をすることにしよう。

イラン人が詩を愛することは有名である(日本では知られていないかもしれないが)。数多くの詩人を輩出しており、イラン人は有名な詩人の詩の中のフレーズをいくつも身に着けている。イラン人はお喋りである。スピーチも上手である。そんな彼らから発せられる言葉には詩の引用も多々見られるのである。

代表的な詩人というと、シーラーズのハーフェズとサアディであろう。ゲーテがペルシアの詩人たちを高く評価したこと、そしてその著『西東詩集』の中で「ハーフェズ」という一章を設けてハフェズを絶賛したことで彼の名は世界中で知られるようになった。『ハーフェズ詩集』はイラン人の家庭には必ず一冊はあるという。上の画像は私の本棚にあるものである。

岩波文庫で発行されているゲーテの『西東詩集』の紹介文には次のように書かれている「幼い頃から東洋にあこがれを抱いていたゲーテは、老年、ペルシアの詩人ハーフィスを知り、深い愛着をもった。さらに、才気溢れるマリアンヌと出会い、作家の感情は詩となって迸しる。彼女との相聞歌を含む「ズライカの巻」は、本詩集中最もよく知られている。ここには、東洋の恋・酒・知恵と、西洋の精神とのうるわしい結合がある。

一方、同じシーラーズで生まれたサアディもまたイランを代表する詩人である。彼の詩には人生のための教訓のようなものが多いため、実践道徳の詩人とも呼ばれている。サアディとハーフェズの二人の国民的詩人を生み出したシーラーズは薔薇の花で有名な美しい町である。アケメネス朝時代の宮殿ペルセポリスを訪れる拠点の町でもあるため、世界中から訪れる観光客が多い所である。人々は二人の詩人の廟を訪れるのも観光の定番である。詩人たちの個々の詩は改めて紹介するので、今回は詩人たちの紹介に留めておく。

私が最も好きなのはニシャプールのオマル・ハイヤームである。彼も非常に人気のある詩人である。とりあえず詩人としておくが、詩人というよりも科学者・天文学者としての方が有名であった。彼が作成した暦はその正確さで高い評価を得ている。彼の死後に彼の4行詩(ルバイヤート)がEdward Fitzgeraldによって英語に翻訳された後に世界中で知られるようになったのであった。ルバイヤートとは4行詩という意味であり、詩の形式を言うものであったが、彼の詩があまりにも有名になったために、ルバイヤートといえばハイヤームのルバイヤートと固有名詞のようになっている。ルバイヤートの詩集は詩と挿絵がペアになっていて見るだけでも楽しい装丁になっている(下図参考)。

それから近年世界中で非常に人気が高まっているのがルーミーである。「愛の詩人」と呼ばれたりしている。スーフィズム(イスラム神秘主義)的な面がある詩人である。ほかにもまだまだあるが、今回はここまでにしておこう。詩の紹介はまた改めて!

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米国とイラン

昨日の新聞はアメリカがイランにサイバー攻撃を仕掛けたと報じています。イランがアメリカの無人偵察機を撃墜したことへの報復だそうです。アメリカはイランに対話せよと言っていることに対してイランは話し合いには応じない姿勢を崩していません。アメリカは対話に応じさせようと更に制裁を強めようとします。圧力を加えて話し合いに応じさせようとする姿勢です。

でも、それって普通の人の感覚ではないですね。話し合いに持ち込もうとするなら、緊張状態をいったん解いた状態で話し合いましょうというのが普通ですね。戦争状態にある両者が停戦・休戦協定を話し合おうとするなら、いったん戦闘状態を停止させて、話し合いをするのではないでしょうか。アメリカはイランに対して話し合い、対話に誘おうという一方で制裁を強めているわけですから、つじつまがあいません。

アメリカはパレスチナに5.4兆円の経済支援策を打ち出しました。少し前にはパレスチナ和平案を提示する予定でしたが、イスラエルのリクードが連立政権を樹立できなかったために、できませんでした。トランプの娘婿が和平案を提示する予定でした。彼は今回の経済支援策を「パレスチナの人々と地域のより明るく繁栄した未来に向けた枠組みだ」と主張しています。今回も彼がイスラエルからの点を稼ぐためのパフォーマンスでしょう。

パレスチナがどう反応するかはわかりませんが、アメリカの一連の行動の真意は皆さんもうお分かりですね。

パレスチナ問題というのはパレスチナ人とユダヤ人との民族対立から始まりましたね。それがイスラエルが建国することによって、イスラエル対アラブ諸国の対立になりました。しかし、アラブはイスラエルの軍事力の前に勝つ見込みのない戦いには意欲を示さなくなっています。もちろんハマスなどはそうではないでしょうが、アラブ諸国はイスラエルと戦争しても勝てるとは思っていません。

イランはアラブではありません。アラブとはイスラムという枠の中では同胞かもしれませんが、アラブのスンナ派に対してイランはシーア派です。考え方が根本的に違います。シーア派イランはたとえ武力で負けると分かっていても筋を通そうとした戦いは貫きます。これまでアラブイスラムがユダヤイスラエルに対して抱いていた憎悪をイランは捨てていません。イスラエルは狂信的なシーア派イランが一番怖いのです。

トランプが今やっていることは、パレスチナ問題で対立していたイスラエルの敵をアラブからイランに変えようとしているのです。パレスチナにはイスラエル優位の和平を成立させる。そして、イスラエルの最大の敵イランを懲らしめることにより、トランプはアメリカのユダヤロビーから歓迎される大統領になる。それがトランプ再選への道になると考えているのでしょう。

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立憲革命(カージャール朝ペルシア)

前回のタバコボイコット運動(1891年)はペルシアの利権をことごとく獲得していった帝国主義に対する抵抗であった。抵抗運動の中心であった宗教界の要人や有力商人たちの政治的発言力は高まっていった。そんな時代である1904年から日本がロシアと戦ったのであるが、東洋の小さな国がロシアという大国と戦ったことは中東世界でも大きな関心事であった。そして日本が日露戦争に勝利したとなると、日本という国の分析が始まったのであった。日本の勝利の要因は「日本が立憲君主国であったからである」と。

上の図で見るように、1905年から憲法の発布と議会の開設を求める運動が起きてた。そして、それを勝ち取ったのであったが、その時のシャー(王)が死去したあとに就任したシャーは1908年に議会を解散し、憲法も停止してしまった。これにより、ペルシア全国で反政府運動が湧き上がったのであった。カスピ海沿岸のラシュト市やイスファハーン市からは国民軍が結成されてテヘランに集結した。その結果、シャーを廃位に追い込み、新たなシャーを擁立して、国民国家を作ることにしたのであった。この流れが立憲革命と呼ばれるものである。しかしながら、ここでロシアが武力干渉して、議会の機能を停止してしまったのである。

カージャール朝は今度はロシアの帝国主義に翻弄されてしまった。そしてロシアとイギリスはカージャール朝の領土を勝手に線引きして自分たちの勢力圏を設定したのである。1907年の英露協商である。

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タバコボイコット運動

いつものように山川出版社のヒストリカから上の図を拝借した。カージャール朝時代のペルシアとアフガニスタンの地域の様子が簡潔にまとめられている。前回述べたようにイギリスやロシアがペルシアに対して影響を与えようとして近づいてきたのであったが、ペルシアはペルシアでまたアフガニスタンへ進出する野心も持っていた。それゆえにこの図ではアフガンがでてくるのである。アフガンの向こうにはインドがある。イギリスにとってはこの地域は対ロシアの戦略からも非常に重要な地域であった。

さてカージャール朝ペルシアはロシアとの戦争に敗れ、領土の一部は割譲することになったあとには社会不安が高まった。バーブ教徒の乱とでているが、イスラムから派生した新興宗教である。この流れをくむ宗教が今現在も存在して、ペルシアだけでなく世界に少しずつ広がっている。もちろん現在のイランではこの宗教は認められていない(本題から外れるのでここまでにする)。政治的に弱体化したカージャール朝は財政的にも破綻をきたすようになる。そこに目をつけたイギリスは多額の資金援助を王室に差し出すのである。援助と言っても貸付、融資である。王族はその金で贅沢三昧をしては、また融資を受ける繰り返しであった。イギリスはペルシアにおける様々な利権を要求し、それを獲得していった。例えばペルシアにおける紙幣の発行することまで売り渡したのであった。最も有名なのがタバコである。世界史では「タバコボイコット運動」として紹介されているものである。

1890年王であるナーセロッディンシャーがイギリス人のタルボットに50年にわたってタバコ売買の独占権を与えたのである。酒を飲めないイスラム世界のペルシアの人々にとってタバコは大切なものであった。これに反発した国民が一斉に起こしたのがタバコボイコット運動であったつまり好きなタバコを国民がみんな我慢して吸わないことを続けたのであった。そして、この利権の売買を取りやめさせることに成功したのであった。この大衆運動が成功したのは、聖職者たちの組織的な指令があったからである。組織的な反対運動が大きな力となった。直接的にはミールザ・ハッサン・シーラーズィーが発したファトゥワの効果が大であるが、注目されるのはアフガーニーであった。彼はイスラム世界が一団となって帝国主義と立ち向かう必要があると説いて、各地を飛び回った。名前からしてアフガニスタン地方の出身であろうが、バグダードで学び頭角を現したようである。

この運動は現在のイランにおけるナショナリズムの最初の出来事として歴史上特記される出来事になっているのである。

図には「タバコ・ボイコット運動」のしたに「立憲革命」というのがある。これについては次回にしよう。

 

サファヴィー朝(2)

イスファハーンの首都建設の際にアッバース1世は優秀な異民族の能力を活用した。特に有名なのがアルメニア人たちである。イスファハーンにジョルファという地区があるが、そこはアルメニア人たちを移住させて住ませた地区である。彼らはキリスト教徒である。従って、今現在もイスファハーンには多くのアルメニア人が住んでいる。そして、冒頭の写真は彼らのためのキリスト教会である。イランと言えば、ガリガリのイスラム国家であるが、異教徒を全く拒否しているのではない。

アゼルバイジャンとイランの国境の地図を上に示した。右の海がカスピ海である。その西方にジョルファという町がある。イスファハーンのジョルファ地区にいるアルメニア人たちの祖先はこの辺りから連れてこられた人と、旧市街に住んでいた人たちであろう。アルメニア人というと日本では余り馴染みがないかもしれないが、商業的な才能に秀でていることでも有名であり、世界中に進出している。キリスト教をいち早く公認したのもアルメニア王国であったために、エルサレム旧市街にはアルメニア人の居住区もある。私個人的には、テヘランに住んでいたころであるが、街中にある数多くの雑貨店をはじめとした商店主がアルメニア人であった。実直で真面目な人たちで安心して買い物ができる印象だった。イスファハーンの街づくりには彼らが貢献したようだ。職人としての技をイスラムの人々にも教えていったのである。

今回も写真を何枚かアップする。私がアルメニア教会を訪れた時のものである。そこで出会ったアルメニア人の母と子がいたので、写真を撮らせてもらった。

ビストゥーンの磨崖碑(2)ローリンソンのサインがあった!

 

さて、このビストゥーンの磨崖碑の位置であるが、写真でみると分かりやすいだろう。小生が下から撮った写真である。下の方で人物がいるところが道であり、この磨崖碑をみるには下から見上げるわけであるが、100m近い頭上のものを肉眼では見ることはできない。また補修用に足場が組まれているので視界が遮られるため、レリーフや碑文を見ることは不可能なのである。それを小生は目の前でみて、碑文を手で触ったのである。

目の前でみた碑文の壁が次の写真である。

ここは世界遺産である。管理事務所の方に案内してもらいたどり着いたのである。世界中の研究者たちから立ち入りができるようにとの要請が沢山くるそうであるが、許可することはないとのことであった。小生の場合は特別である。

そうそう、今回はこの碑文を解読したローリンソンの秘密を明らかにすることであったね。実はローリンソンはここに自分の名前を書いていたんだ!(現代なら大事な遺跡に落書き禁止!というものだが?歴史的な仕事だから、仕方ないよね。)それが、次の写真である。1844年という文字とH.C.Rawlinsonと他に二つの名前が見えるでしょう。

この写真は特ダネものではないでしょうか????

 

ビストゥーンの磨崖碑

上の絵はウィキペディアから拝借したものである。昨日からお話ししているダレイオス大王が王位に就いた際に造られたものである。ウィキペディアでは「反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ。描かれている人物は左から順に、槍持ち、弓持ち、ダレイオス1世。彼は僭称者ガウマタを踏みつけている。さらにその右に命乞いをする9名の反乱指導者がいる。左からアーシナ(エラム)、ナディンタバイラ(バビロニア)、フラワルティ(メディア)、マルティヤ(エラム)、チサンタクマ(アサガルタ)、ワフヤズダータ(ペルシア)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)、最後尾の尖帽をかぶっている人物はスクンカ(サカ)。反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ。」と書かれている。一人一人が何処の誰であるか特定できているのである。しかしながら、一度にすんなりと彼ら全員を征服したのではないことも分かっている。最後尾の男のレリーフはサカ族であるが、彼が征服されたのは他の者たちよりも遅い時代(BC520)であり、このレリーフもあとから彫られたのである。それに関する記述も新たに1欄が加えられているのである(それが第5欄という)。

実は信じてもらえないかもしれないが、私はこの断崖絶壁に造られた磨崖碑の前に登り、レリーフと碑文を眼前で見たのである。その話は改めてアップするが、レリーフの周辺に彫りこまれた文字にも圧巻されたのだった。頭が真っ白になるほどの興奮を覚えたのだ。紀元前520年頃の歴史的な遺産の前に立っている自分が信じられなかった。楔形文字の一部を下に示そう。

余はダレイオス、偉大なる王、諸王の王、ペルシアの王、諸邦の王、ウィシュタースパの子、アルシャーマの孫、アケメネスの裔。・・・・
王ダレイオスは告げる、アウラマズダーの御意によって余は王である。アウラマズダーは王国を余に授け給うた。・・・・

びっしりと書かれた碑文を解読したのはローリンソンであると昨日書いたが、彼はここに彼の足跡を残しているのである。それは次回のお楽しみにされたい。

 

中東世界とは (2)

前回、数多くの少数民族がいると書いた。例えば、イランにはルール、バルチ、トルクメン、クルド、バクチヤーリなどがいる。アラブ人やトルコ人もアルメニア人もいる。でも中心をなすのはイラン人=ペルシア人=アーリア人であって、イランと言えばペルシア文化が基調の国である。

同様にトルコもそうである。中東問題のひとつでもあるクルド問題のクルド人達は少数民族ではない。しかしながら、東ローマ帝国を滅ぼして築いたオスマン帝国の主役はトルコ人であり、そこに築いたのはトルコ文化である。このような意味合いで、私は上の図を描いたのである。中東にはアラブとペルシアとトルコの3つの文化があることを認識してもらいたい。

強調したいのは「中東には数多くの民族、そして彼らの文化があるので一つではない。しかし、中東の文化には3つの中心的な文化がある」ということである。多くの人々はイラク人とイラン人は同じ中東の隣の国で同じような民族・文化であると思っているのではないだろうか。イラクはアラブであり、イランはそうではない。特にイラン人は同一視されることを嫌悪する。それは西洋人が我々をみて「チャイニーズ?」「コーリアン?」と言われたときの感情以上のものがある。シルクロードを通じて中国や日本に洗練された文化を伝えたササン朝ペルシアは初期のイスラム帝国=アラブに滅ぼされたのだった。

 

中東世界とは

本ブログのサブ・タイトルは「中東・イスラム世界への招待」である。中東とはどの地域を指すのだろうか。上の地図はヨーロッパの人々が見慣れている世界地図である。我々日本人が見慣れている地図は日本が中心に描かれているが、この地図で日本は東の端に描かれている。つまり「極東」という言葉はこのような地図を利用している人々の世界観から生まれた概念である。ヨーロッパに近い東方が「近東」と呼ばれ、それは東北アフリカの辺りを指すことになり、「中東」とはその東となる。このブログではトルコ、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク、イラン、クウェート、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、カタール、オマーン、イェメン、そしてイスラエルの15ヵ国を中東諸国としておこう。

これらの国々を宗教で分類するとイスラム教が主流でない国家はイスラエルだけである。レバノンは元来キリスト教マロン派が中心勢力を占めていた地域であり、複雑な民族と宗教構造からなるイスラムとキリスト勢力の混合国家としておこう。残りの13ヵ国はすべてイスラムの国である(宗派に違いはあるものの)。

民族で分類するならば、イスラエルはユダヤ民族が建設した国家である。この国家建設がパレスチナ問題を引き起こしたのである。トルコ民族の国家がトルコであり、イラン民族(ペルシア人)の国家がイランである。残りの国々の主要構成民族はアラブ民族である。アラブ民族とはアラビア語を母語とする人々を指し、その人々は中東から北アフリカ一帯の広い世界に居住している。アラブはひとつというアラブ民族主義の質は時代とともに変遷してきた。トルコの公用語はトルコ語であり、イランの公用語はペルシア語である。というもののトルコやイランにはクルド語を話すクルド民族やキリスト教徒のアルメニア人も居住しているし、もっと数多くの少数民族も存在しているので、この国はこれこれであるとステレオスコープ的に決めつけることはできない。

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