ムハンマドの死と正統カリフ時代

イスラムについて、六信五行のことが分かり、コーランのこともある程度理解してもらえたのではないだろうか。いずれにせよ、アラビア半島のメッカで誕生したイスラムがメディナやメッカを中心として広がっていったのであった。そして、ムハンマドは632年に死した。ムハンマドの時代を上に図示した。

そして彼の死後、イスラムを率いる後継者4人(4代)の時代に入る。後継者のことをカリフという。そして、この4人によって治められた時代を正統カリフ時代と呼ぶのである。それを簡単に図示したものが下の図である。この時代にイスラムは周辺地域に拡大していったのである。642年にはペルシアのササン朝とニハーヴァントの戦いで勝利し、ササン朝は651年についに滅亡した。イスラムの帝国が出来上がっていった。初代カリフのアブー・バクル(573~634)はムハンマドの友であり、人望厚き長老であったが故にカリフとして認められた。が、就任後2年で他界する。二代目はウマルであった(?~644)。在位634~644年である。就任後にイラク、シリア、エジプトの征服を指導した。イスラム帝国は彼の時代に急速な拡大をなした。そして、三代目がウスマーン(在位644~656)ウマルの死後、彼の遺言によって6名の長老の互選によって選ばれた。当初は順調な治世であったが、拡大した広大な征服地の戦士たちから不満分子も現れた。内部対立も生じ、過激な連中に殺害された。そして四代目がアリー(在位656~661)である。イスラムの誕生の項でムハンマドが叔父に引き取られた時に、兄弟のように一緒に育てられた従兄弟のアリーである。アリーが四代目カリフに就いたのであったが、アリーについては簡単に終わるわけにはいかない。話せば長くなる物語である。

アリーはムハンマドの従兄弟である。血がつながっている身内である。ムハンマドが亡くなり、初代カリフを選ぶときにアブー・バクルが選ばれたのであるが、ムハンマドの血を引くアリーを強く推す人々もいたのである。が、そうはならなかった。二代目選考のときにも、三代目選出の時にもアリーを推す人々はいた。いつしかアリーを信奉するようになった人々がいた。でも、そうならなかったということは、私見ではあるが、そこには何か理由があったのだろう。人間性、性格、リーダーシップ、優柔不断・・・・などなどが。そして、三代目を殺害した連中からも推されて、アリーはようやく四代目カリフに就任したのであったが、ウスマーン殺害に対して血の制裁を加えるべきだという人物と対立して争いとなってしまう。その人物とはシリア総督のムアー・ウィアである。両者の争いは決着がつかずに調停によって収拾することになったのであるが、そうなると今度はアリーの身内の過激な連中が調停に反発したのである。彼らはハワーリジュ派と呼ばれる過激な一派ということになっているが、その中の人物によって殺害されてしまったのである。

結局、ここで漁夫の利を得たのが、ムアー・ウィアであった。彼がカリフに就任することになったのである。そして、ウマイヤ朝を創設した。一方、アリーを信奉していた人々は、アリーの死後もアリーを偲び、アリーを慕う思いが強かった。