アッバース朝(3)イスラム帝国の分裂

繰り返しになるけれども復習の意味も兼ねて、イスラム誕生からアッバース朝までを図示してみた。

イスラム誕生からウマイヤ朝に至る歴史を上の図一枚で表すことができた。次にウマイヤ朝は領土を広げたが、アッバース軍との戦いで敗れたのでしたね。この時、アッバース軍はウマイヤ朝の本拠であったシリアで、ウマイヤ家の者たちを見つけしだい殺していった。戦争や革命とはいつの時代もこのような残酷なもの。しかしながら、この時にかろうじて逃げることができた者がいた。アブドゥル・ラーマンという男である。彼はお付きのもの一人を連れて、エジプトから北アフリカを転々として、やがてイベリア半島にたどり着いたのである。彼はそこで支持者を得ることができて、そこでウマイヤ朝を再興することができたのであった。東のアッバース朝に対して西に後ウマイヤ朝が勃興したのであった(756年)。さて、下の図を見ると、アッバース朝と後ウマイヤ朝の間にファーティマ朝というのがある。これは成立が909年であるから、もう少し先のことなのではあるが、この王朝の始祖ウバイドゥッラーがカリフを宣言して、アッバース朝の権威を否定したのである。アッバース朝が滅んだのではなく、同時代に3人のカリフの国が存在するというイスラム世界にとっては異常な分裂状態になったということである。

ファーティマ朝について補足すると、この王朝はシーア派である。シーア派の主流は十二イマーム派であると前に述べたことがあるが、それではなく七イマーム派である。シーア派であるから初代がアリーであることには変わりないが、その後、枝分かれした一派なのである。後日、この王朝が大活躍する歴史上の事件がおきるので、覚えておいて欲しい。

後ウマイヤ朝が立ち上がったとしても、アッバース朝が後ウマイヤ朝を征服するにはあまりにも遠く、それほどの強力な軍勢があるわけでもなかった。イスラム世界はあまりにも広くなりすぎていた。それを中央集権的に治めるのは難しくなっていた。また、イスラムは非アラブ民族にも深く浸透してきており、非アラブ民族のイスラム世界も拡大していた。