オスマン帝国(2)スルタンとは

前回、「オスマン帝国のしくみ」という図を示したが、その支配構造の頂点には突然「スルタン」が現れていた。イスラム世界ではムハンマド亡き後の後継者がカリフと呼ばれていた。正統カリフ4人もカリフであった。その後のウマイヤ朝もアッバース朝も最大権力者はカリフであったではないか。ただ、アッバース朝の衰退とともにイスラム世界の分裂も進んでいたことは既に述べた。アッバース朝にはカリフがいる状況で、後ウマイヤ朝の指導者もカリフを名乗った。イスラム世界の頂点にたって共同体を牽引してきたのがカリフであった筈である。イスラムという宗教の指導者=精神的な指導者、同時にイスラムは政教一致的な共同体であるので政治的な、あるいは軍事的な面でも指導者の役割をもっていた。イスラム世界に1人というのが本来の姿である。

アッバース朝時代には、先ほど述べた後ウマイヤ朝とエジプトのファーティマ朝君主がカリフを名乗ったので、同時期にイスラム世界に3人のカリフが存在したことがある。モンゴルの侵入により、1258年にアッバース朝が滅び、カリフ制度は途切れる形になった。その後、マムルーク朝でスルタンを名乗るバイバルス1世がアッバース朝のカリフの末裔をカリフとして擁立した。スルタンの権威にお墨付きを与えようとする実権のない形式的な擁立である。1299年にオスマン帝国が興て、1517年にマムルーク朝を滅ぼすと、カリフはオスマン帝国へ連れていかれた。オスマン帝国には実権を有するスルタンとバックに形式的なカリフがいたわけである。

カリフやスルタンという位置づけをこまごまと述べてきてしまった。私の勝手な解釈も含んでいるが、分かりやすく言うと、江戸時代の日本でいうとカリフは天皇でスルタンが将軍であろう。さらにイスラム世界ではアミールなどという語句もでてくる。これは地方を統括する総督のような者が、権力を蓄えてきたときに、ある程度の自治を与えられたときに、称号として与えられたものか。大名に相当かもしれない。

オスマン帝国では、スルタンを中心にした国家運営が行われたが、一つは宰相を頭に政治・軍事が行われ、一方でイスラム法学者の最高位であるシェイヒュル・イスラム職の下でウラマー(イスラムの学者・宗教指導層)がイスラム教徒の生活になくてはならない存在であった。