中東の石油(9):OPECの結成

イランを初めとした中東産油国が徐々に石油メジャーズとの交渉力を強めてきたのが、1950年代であった。イランの石油国有化は失敗したのであったが、それが産油国には教訓となった。一国だけではメジャーズには勝てない。産油国の団結が必要だということである。今回は結成60年を迎えたOPECの結成がテーマである。

前回述べたように、イランの石油開発にメジャーズ以外の新規参入者が増えた。メジャーズは新規参入者との販売競争には原油価格を切り下げることで対抗することができた。しかし、原油価格の切り下げは産油国の収入を減少させるので、産油国側は不満が増大した。そして、産油国は原油価格を磁力でコントロールしたいと考えるのは自然の成り行きであった。新規参入者による合弁会社の石油開発はイランだけでなく他の産油国でも増加しつつあった。そのような時に、ベネズエラやサウジアラビアは石油輸出国機構(OPEC)の結成を呼びかけた。その結果、1960年にイラクのバグダードにおいて、イラン、クウェート、サウジアラビア、イラク、ベネズエラの五か国によってOPECが結成された。結成の主目的は、石油収入の維持および増大、すなわち、原油価格を高水準に維持することにより石油収入の増大を図ろうとした。しかしながら、OPEC結成後の約10年間は結集した力を発揮することができなかった。それができるようになったのは、1970年代に入ってからのことであった。

テヘラン協定:
1971年2月14日、ペルシャ湾岸産油国6カ国と石油会社13社との間でテヘラン協定が締結された。これはペルシャ湾岸原油公示価格をバレルあたり一律に35セント引き上げたうえ、さらに今後5年間にわたって毎年2.5%+5セントずつ段階的に引き上げていく内容であった。石油会社の所得税も55%に引き上げられた。この協定はOPECが価格決定に係ることができるようになった点に大きな意義があった。また引き続き行われたリビアと国際石油会社との間でも公示価格を大幅に引き上げるトリポリ協定が調印された。OPECの結束が勝利し、以後、メジャーズと産油国が協議して価格を決定することになり、メジャーズがそれまでのように独自で価格を決定する力をもはや有することができなくなっていた。私が最初にイランに行ったのがテヘラン協定が結ばれた1971年の11月であった。国王時代であった。国王は石油会社との交渉に成果を得たこともあって自信に満ち溢れていた。その2年後の第一次石油危機を経て、イランは石油収入を増大させていくと同時に、次々と開発計画を打ち出して投資していった。私たちも含め、日本企業・日本人がイランに続々と入っていった時代であった。

 

 

中東の石油(8):石油国有化以後

イランの石油事業が石油メジャーズの殆どのメンバーが参加したコンソーシアムによって運営されるようになったことを前回述べた。その後、1957年にイランの石油開発法が制定された。この法律はコンソーシアムの利権地域以外でNIOC(国営イラン石油会社)が外国石油会社との合弁により、石油開発を進めることを認めたものであった。まず、1957年8月にイランの沖合大陸棚の油田開発のためにSIRIPが設立された。この合弁会社のパートナーはイタリアの国有炭化水素公社(AGIP)であった。ついで、1958年4月にはスタンダード石油インディアナ社の子会社パン・アメリカン石油会社との合弁会社IPACが設立された。これら2社の契約方式は「利権供与合弁事業方式」というべきものであった。NIOCは合弁会社の半分をシェアしているために、利益の50%を得ることができた。一方、外国側のパートナーも利益の50%を受け取るが、イラン政府はその取り分に50%の所得税をかけることができたのであった。つまり、イラン側は利益の75%を受け取ることができるという内容であった。これを契機に、同様の条件による合弁会社の設立が相次いだ。それらはDEPCO, IROPCO, IMINOCO, LAPCO, FPC, PEGOPCO,などであった。この75%対25%という利益配分は周辺産油国における利権協定の条件にも大きな影響を与えていった。

さらに、1966年には新方式の「請負作業契約」がNIOCとフランス国営石油会社ERAPとの間で締結された。この新しい契約は外国の石油会社に利権を与えるのではなく、単なる請負者として石油を開発させるものであった。請け負ったERAPはNIOCの計画、指示によって契約地域内の探鉱と開発に従事するが、ERAPは探鉱・開発の技術と必要な費用は自らが負担し、たとえ油田開発に失敗しても費用は返ってこない。もし、成功すれば探鉱費は無利息借款となり、商業量石油の生産開始後15年間で返済されるというものであった。また、開発費もイランに対する借款となり、こちらは5年以内に、フランスの銀行の現行利息に2.5%を加算した金額相当を返済するというものであった。このように、NIOCはコンソーシアムの協定地区以外で新方式により、より良い条件の下で石油開発を推進していった。これらの合弁会社による石油開発の実績は実は大きなものではなかった。しかし、石油会社との契約条件を改善していったことが、産油国側にとっては大きな成果であった。この方式はイラクやサウジアラビアに波及していったのである。

中東の石油(7):イランの石油国有化(2)

1951年にモサデク首相がイランの石油国有化を行ったことを前回とりあげた。だが、国有化は結局失敗と言わざるを得なかった。イランの石油は国際石油会社からボイコットされたため、市場に出すことができなかった。ということは石油収入が入ってこないということだ。それまでのアングロ・イラニアン石油会社から配分される金額に不満はあったものの、石油収入は莫大なものであった。それが入ってこなくなったのだから、イラン経済は低迷することは当然の成り行きであった。イギリスはイランでの足場を失う大損失を被ることになる。なんとか国有化を阻止したかった。いずれにせよ、国有化は議会で決定されたことであり、国営イラン石油会社もすでに誕生してしまった状況である。

アメリカのCIAとイギリスの諜報機関が連携をとって1953年、モサデク政権転覆作戦(エイジャックス作戦、Operation Ajax)を実行したのである。CIAがイランのザヘディ将軍を担ぎ出して、クーデターのシナリオを実行したのだった。モサデクは失脚に追い込まれ、若き国王がアメリカの保護の下に権力を取り戻した。そして、イランの石油生産、精製、流通、販売を正常化させるために、アメリカの提案で「イラン石油コンソーシアム」が結成された。このコンソーシアムがイランの石油事業を操業するのである。そして、収益の半分をNIOCがとり、残りの半分をコンソーシアムが得るのであった。肝心のコンソーシアムのメンバと出資比率は次の通りとなった。

アングロ・イラニアン 40%
ロイヤル・ダッチ・シェル 14%
フランス石油 6%
ガルフ 7%
モービル 7%
 スタンダード・ニュージャージー 7%
ソーカル 7%
テキサコ 7%
イリコン・エージェンシー 5%

つまり、イランの石油事業を操業するコンソーシアムに当時の国際石油会社が総揃いして参加したのである。そして、イギリスの独占体制が崩れたのであった。結果的にみると、アメリカがクーデターを計画して現政権を崩壊させて、新政権後のイランの石油事業に参入することに成功したということになる。そのシナリオはフセイン政権時代のイラクに大量破壊兵器が存在することをでっち上げて、その政権を崩壊させて、イラクに影響力を行使しようとしたことと重なるものがある。大国にとって政権を転覆させることなど簡単なことなのである。イラン政府とコンソーシアムの契約期間は25年であったが、5年間の延長を3回行うことができた。イランの石油国有化は達成されたというものの「イラン人の手によるイラン石油産業の経営」は有名無実となってしまった。

このコンソーシアムに石油メジャーズの殆どが参加したということは、重要な意味を持っていた。コンソーシアムのメンバーは中東産油国各国で石油会社を操業していた。だから、イランのコンソーシアムで会合をすれば、中東全域の石油生産を、ひいては市場を、価格をコントロールできるようになったのである。1955年におけるメジャーズのシェアは92%という高い比率であった。

イランの石油国有化の失敗はその後のOPECの結成へとつながっていったのである。

中東の石油(6):イランの石油国有化(1)

前回までに中東の石油資源が大国の石油会社の支配下になったことを述べた。各社の出資比率を表にまとめると次のようになる。

イラン トルコ➡イラク バーレーン クウェート サウジアラビア
AP 100 50 23.750 50
ドイツ銀行 25
RDS 25 23.750
仏石油 23.750
エクソン 23.750 30
モービル 11.875 10
グルペンキアン 5.0
ソーカル 100 30
ガルフ 50
テキサコ 30
発見年 1908 1927 1931 1938 1938

AP=アングロ・ペルシャ石油会社。後にアングロ・イランニアン石油会社に変更
RDS=ロイヤル・ダッチ・シェル石油会社。

さて、時代が進むと世界各地で大国による支配に対する反発が強まってくる。植民地からの独立のための運動が起きてくる。石油のような資源に対しても自国に取り戻そうという動きがでてくるのは当然のことである。イランの石油国有化が今回のテーマである。

ダーシー利権を与えたときのペルシャの政治体制はカージャール朝であった。1925年にレザー・ハーンがクーデターを起こして、パーラヴィー王朝を開いた。彼は自らをシャー(王)と称しトルコに倣って国内の近代化に努力した。国名をペルシャからイランと改めたが、イランの石油利権はイギリスが保有したまま残されていた。アングロ・ペルシャ石油会社はペルシャがイランとなったのを受けて、アングロ・イラニアン石油会社(Angro Iranian Oil Company)と改称された。AIOCは1933年にイラン政府と契約を更新した。利権の及ぶ範囲は10万平方マイルに限られ、イラン政府に対する支払いも増大した。しかし、利権の期間は60年に渡る長期であった。アバダンの製油所が大規模化し、ケルマンシャーーにも製油所が建設された。1941年までに5つの油田が発見・開発された。第二次世界大戦中に原油生産は減少した。しかし、戦後の欧州の急速な需要増のために生産は急増していった。そして、各地で民族主義が高揚した。石油生産についても、石油収入の配分が不公平であるとの不満がイラン国内に充満してきた。このような時期の1948年にはベネズエラが石油会社との間で、政府と石油会社の利益配分をそれぞれ50%とする新しい分配方法を定めることに成功していた。サウジアラビア政府もアラムコから同様な条件を獲得した。このような環境で、イラン政府とAIOCとの条件改善交渉は一気に国有化へと飛躍していった。

1951年4月、石油国有化法案が議会に提議され満場一致で可決され、国営イラン石油会社(NIOC)が誕生した。可決後にイギリス人は全員退去し、残された油田や施設の操業はイラン人の手に委ねられた。イギリスはイランの石油が手に入らなくても、イラクやクウェートでの増産により補うことができた。そして、イランの石油を世界の市場から締め出すべく世界の石油会社に、イラン石油のボイコットを働きかけた。ペルシャ湾にはイギリス軍艦が配備されてイラン石油の輸出を阻もうとした。この時にイランの石油を買い付けに行ったのがあの映画「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった出光石油の日章丸である。・・・・・出光はイギリスから訴えられる・・・・イランは石油が売れなくて経済が疲弊していく・・・・・国有化を断行したのはモサデク首相であったが、政権の座がぐらつき始める・・・・・イギリスとイランの法廷闘争、イギリスと出光の法廷闘争がつづく・・・・イランは混沌とした状況に陥ってしまった。

国有化は行われた。しかしながら、イランの石油事業は行き詰ってしまった。ここでアメリカのCIAが登場するのである。CIAの策略により、クーデターが起きる。モサデクを失脚させる。そして、その後のイランでアメリカが大きな足場を作るのだ。この続きはまた次回に。

 

中東の石油(5):石油の発見(ペルシャ湾岸諸国)

イランで、そしてイラクで石油が発見された。そうなると次はどこかということになる。アラビア半島やペルシャ湾岸諸国であろう。イラク地方で石油利権をめぐる激しい駆け引きが1920年代におこなわれていた当時、アラビア半島に対する関心は低かった。サウジアラビアについていえば、1923年にアングロ・ペルシャ石油会社のジェネラル・マネージャーが送った書簡には「サウジアラビアで石油は発見されそうにない。それは地表に全く油徴がないからである。ほとんど調査されていないとはいえ、地質的な構造からも特に有望とは思えない」と書かれていたそうである。

一方、ニュージーランドのフランク・ホームズ少佐は第一次大戦終了後も帰国せず、石油を求めて中東に滞在していた。そして、彼は1924年にイギリスの保護区であったバーレーンの首長から一鉱区の利権を得た。ホームズはこの利権を1927年11月にガルフ社に5万ドルで売却した。この時、ガルフは赤線協定のメンバーになっていたので、赤線協定の対象地域内にあるバーレーンの石油開発については他のメンバーに諮る必要があった。しかしながら、アングロ・ペルシャ石油がバーレーンでの石油の存在を強く否定したために、ガルフはその利権を協定に参加していなかったソーカル社(スタンダード石油カリフォルニア)に売却したのであった。そして、そのソーカルが1931年に石油を掘りあてたのである。この発見はサウジアラビアへの注目を引くことになる。イラク石油会社内部にもサウジアラビアの利権獲得の動きはあったが、結局、バーレーンで成功したソーカルがイブン・サウド国王から利権を得ることに成功した。

利権を得たものの、ソーカルは資金不足を解消するために、赤線協定には参加していないテキサコに提携を持ちかけた。テキサコはスペインの市場を開拓しており、ソーカルにとっては新しい販路としての市場も魅力的であった。1938年3月にサウジアラビアのダンマンの油田で石油を発見した。そして、石油会社アラムコ(ARAMCO)が設立された。

ガルフがホームズ少佐からバーレーンの利権を得た時に、実はそれにはクウェートの利権も含まれていたのである。バーレーンの利権はソーカルに売却したが、クウェートは赤線協定の区画外であったため、ガルフはその利権を保持していた。クウェートはイギリスの保護下にあった経緯から、クウェートの首長は英国との間で「英政府の同意なしには、誰にも石油利権を与えない」という約束をしていた。ガルフと英国籍のアングロ・ペルシャ石油との間でこの利権をめぐって争いが激化し、首長は両者の駆け引きを利用して好条件を引き出していった。1934年12月23日に両社は首長との間で協定を締結するに至った。クウェート石油会社(KOC)が設立されて、ガルフとアングロ・ペルシャ石油が半分ずつ出資した。双方の和解の裏には一つのテクニックが必要であった。ガルフがカナダに子会社を作って、そこが当事者という形をとったのだ。カナダは英連邦の一員であるからという大義名分ができたというのである。石油は1938年に発見された。

バーレーン
ソーカル社 100%
クウェート
アングロ・ペルシャ石油 50%
ガルフ 50%
サウジアラビア
ガルフ 50%
テキサコ 50%

これで、イラン、イラク、バーレーン、クウェート、サウジアラビアで石油が発見されたことになる。そして、それらの油田は英、蘭、仏、米という大国の石油会社に所有されたわけである。その後、中東諸国ではナショナリズムが台頭する。石油資源を自国の資源に取り戻そうとする動きがでてくる。次回以後は石油資源の国有化への道のりを辿ることにしよう。

中東の石油(4):石油の発見(イラク・旧オスマン帝国領)

イギリスがペルシャ(イラン)の石油を手に入れた。次はドイツである。ドイツはオスマン帝国(トルコ)への進出を狙っていた。トルコでの石油開発のために「トルコ石油」が設立された。この会社の設立に参加したのは次の3社(3国)であった。

会社 出資比率
 イギリス アングロ・ペルシャ石油 50%
 ドイツ ドイツ銀行 25%
 オランダ ロイヤル・ダッチ・シェル石油 25%

ところが第一世界大戦が始まり、ドイツは敗北した。オスマン帝国もドイツ側についたが1918年に降伏した。従って、「トルコ石油会社」の出資者の構成は次のように変化していった。
先ず、ドイツの持ち分がフランスに譲渡された。その後、1922年にはアメリカ企業連合がアングロ・ペルシャ石油から25%を譲り受けた。つまり、英仏蘭米が各々25%を所有したのである。そして、各社が1.25%をグルベンキアンに譲渡して、最終的には以下の通りとなった。

会社 出資比率
 イギリス アングロ・ペルシャ石油 23.75%
 フランス フランス石油 23.75%
 オランダ ロイヤル・ダッチ・シェル石油 23.75%
 アメリカ アメリカ企業連合 23.75%
 個人 グルベンキアン 5%

グルベンキアンというのはトルコのアルメニアに生まれた男である。オスマン帝国のスルタンは石油開発の利権をあちこちに切り売りしていたために、トルコ石油を設立するときにフィクサー的な役割を果した男であり、今回も調整に貢献したのであった。そして、この会社は「トルコ石油会社」から「イラク石油会社」となったのである。イラク石油が石油を発見したのは1927年であった。ここに出てきたアメリカ企業連合というのはエクソンとモービルであった。両者が持ち株を1/2ずつ分け合った。このイラク石油会社という舞台に世界の主要石油会社が結集したことになった。イラク地方は石油埋蔵量が大いに期待できるところであったので、イラク石油のメンバーは、今後の石油開発に遅れをとることのないようにお互いが牽制する必要があった。そこで1928年7月に生まれたのが「赤線協定」であった。彼らは地図上で旧オスマン帝国領土の国境線を赤く引き、その赤線の中では抜け駆けすることは許されず、全員で分け前を享受するということを約束した。この協定が、その後の中東地域における石油利権争いに大きな影響を与えることになったのである。

 

中東と石油(3):中東での石油発見(イラン)

いよいよ中東での石油発見である。中東における最初の石油発見はイランの地であった。その当時のイランはカージャール朝ペルシャであった。1901年、オーストラリアの実業家がカージャール朝政府に石油の利権を申請し、北部地方を除く全イランにおける60年間にわたる石油探査、発掘の権利を手に入れた。彼は1901年から1905年の間に20万3千のイギリスポンド相当を石油開発調査のために費やしたところで、資金的に行き詰り、調査活動を停止せざるを得ない状況に陥った。1906年にイギリスのビルマ石油とスコットランド人の投資家ロード・ストラスコナが石油シンジケートを組織して、彼を援助することとなった。その後の3年間に17万7千ポンドが投資された。しかし、この投資も使い果たしてしまうことになるが、最後の土壇場でついに石油を発見したというドラマチックな出来事であった。場所はイラン南部のペルシャ湾から約2千キロ離れたマスジェデ・スレイマン、1908年のことだった。この男とはウィリアム・ダーシーである。イランではこの利権を「ダーシー利権」と呼ぶ。これが中東における最初の石油発見であり、その翌年に資本金200万ポンドの「アングロ・ペルシャ石油会社」が設立されたのである。ペルシャで発見された石油は英国資本の会社の所有されることになったのだ。1926年には2万5千人以上のイラン人が石油産業で雇用された。第一次世界大戦が始まり、資本金が400万ポンドに増資された。その増資分の200万ポンドはイギリス政府が引き受けた。こうしてイギリス政府がこの会社の支配権を握り、イランの石油は英国海軍の燃料に利用され、重要な戦略物資となっていった。

イランの石油事業は英国の支配下に置かれた。それを国有化したのが、1951年である。そこまでの道のりをここで語りたいのであるが、まずはイランに続いてイラクやサウジアラビアなどでの石油発見の流れを続けたい。         (続く)

中東と石油(1):原油埋蔵量

今回のテーマは石油である。20世紀は「石油の世紀」とも言われた。石油が燃料としてだけではなく、加工されてありとあらゆるものに製品化されたのである。我々の日常生活にも石油は大きく貢献してきた。温暖化や環境破壊などが問題視されだしたことから、21世紀は「脱石油の時代」になるはずであったが、福島の原発事故などもあり、脱石油へのシナリオは容易ではない。「脱石炭」さへ日本では難しいのが現状である。そんな現状であるが、石油資源について考察してみることにしよう。

(1) 原油確認埋蔵量
石油いうものの大元は原油である。地下から汲み上げる。それが海底の地下深いところから汲み上げることもある。その原油を製油所で精製してガソリン、灯油などが作られる。一方でナフサが作られて、それより数多くの種類の石油化学製品が作られる。その大元である原油の埋蔵量から見ることにしよう。以下の表は2018年末時点の「原油確認埋蔵量」を地域別に示したものである。

10億バレル 可採年数
USA 50.0 2.9% 10.5
Total North America 226.1 13.3% 30.8
Venezuela 303.2 17.9% 393.6
Total S. & Cent. America 330.1 19.5% 125.9
Norway 7.9 0.5% 11.0
United Kingdom 2.3 0.1% 6.3
Total Europe 13.4 0.8% 10.4
Azerbaijan 7.0 0.4% 24.1
Kazakhstan 30.0 1.8% 44.8
Russian Federation 106.2 6.3% 25.8
Total CIS 144.9 8.5% 27.8
Iran 157.2 9.3% 86.5
Iraq 148.8 8.8% 90.2
Kuwait 101.5 6.0% 91.9
Qatar 25.2 1.5% 36.1
Saudi Arabia 266.2 15.7% 61.0
United Arab Emirates 97.8 5.8% 68.1
Total Middle East 807.7 47.6% 70.0
Algeria 12.2 0.7% 21.7
Angola 9.5 0.6% 15.6
Libya 48.4 2.9% 153.3
Nigeria 37.5 2.2% 51.6
Total Africa 126.5 7.5% 42.9
China 25.7 1.5% 18.3
Indonesia 3.2 0.2% 9.2
Total Asia Pacific 48.0 2.8% 16.7
世界全体 1696.6 100% 50.2

出所は石油メジャーのBPの「Statistical review 」である。時には、確認可採埋蔵量ということもある。現時点で地下に埋蔵されていると推定できる量のうち、現時点での採掘技術で採掘可能な埋蔵量である。現代の科学では地球内部に存在する原油量は物理学的に推定できるようである。そして、現在の科学技術で採掘できる量を示しているそうである。数十年前には深海に油断があることが分かっていても採掘する技術がなかったが、今はそれが可能である。その時点で埋蔵量は増えるのである。上表の埋蔵量の単位は「十億バレル」である。バレルとは英語で樽という意味である。1バレルは159リットルである。昔、アメリカのペンシルベニア州で石油が発見されたときに、ウィスキーの樽を利用して輸送したことから、バレルが原油量の単位になったのである。埋蔵量の後ろの列の%は全体に占める比率である。中東地域の比率は 47.6 %となっている。つまり世界全体の埋蔵量の約半分が中東地域に偏在しているということ。そして、最後の列の可採年数は、その埋蔵量を現在の年間生産量で割り算したものである。簡単に言うと、埋蔵量が100億バレルで、年間生産量が10億バレルなら10年で底をついてしまうという単純な目安である。アメリカは約10年となっている。もうずっと10年以上まえから10年程度となっている。新規に油田が発見されることもあるが、それは先に述べたように深海油田などの存在が分かっていても可採でなかった油田が可採になったりするためである。アメリカのシェール石油なども近年に埋蔵量が増えた一因でもある。埋蔵量が多く、可採年数も長いのがやはり中東地域であることも良く分かる表である。              (続く)

 

世界中からのアクセスありがとうございます。

このブログを始めて1年少々経過しました。中東の歴史やイスラムのことを記そうと思って始めたものです。最初は中東世界の歴史を古いところから始め、7世紀になるとイスラムが現れたので、イスラムのことも交えながらあれこり綴ってきました。オスマン帝国の時代が終わり、第一次大戦後になると、歴史を一通り終えたという感もあり、このころから内容がばらついてきました。イランのネタが多くなったり、自分の思い出話などがでるようになりました。少々、反省をしながら、最近はまたイスラムに関するネタを続けてみたりもしています。過去の内容とダブることも出て来るかもしれませんが、あれころ思うままに書いていこうと思っています。

中東やイスラムについて関心や興味のある人はそれほど多いとは思いません。むしろ少ない方でしょう。でも、その辺りのことは知ってみるとなかなか面白い地域であり、文化であり、日本との関りも意外と深いものがあります。これからもご愛読よろしくお願いいたします。

今回のタイトルを「世界中からのアクセスありがとうございます」としたのは、決して多くはないアクセス量ではありますが、アクセスしていただいた国が多岐にわたっていることに感謝したいのです。2019年には日本、アメリカ合衆国、フランス、アイルランド、中国、チリ、トルコ、米領サモア、インドネシア、カナダ、欧州連合、オーストラリア、ベトナム、オランダ、シンガポール、大韓民国、ミャンマー、マカオ特別行政区、マレーシア、フィリピン、ハンガリー、スウェーデン、イギリス、インドと日本以外で23カ国からアクセスがありました。欧州連合とは別にフランスやオランダもあるのはどういうことかはわかりませんが、そのように表示されています。そして2020年はまだ2ヵ月少々しか経過していませんが、今年になって新たに増えた国はドイツ、エジプト、香港特別行政区、スペイン、ニュージーランド、フィンランド、台湾、デンマーク、イスラエルの9カ国です。日本人の方なのか、日本語のわかるその国の方なのかは分かりませんが、嬉しいことです。そういうこともあり、外国人のかたのために、ブログの上部に英語に自動翻訳のボタンを付けてみました。いざ試してみると、自動翻訳にうまく訳してもらうには、元の日本語を訳しやすいように書かねばならないということが分かりました。難しいものです。

いまコロナウィルスが拡がっています。そのために南山会(中東・イスラム学習会)の2月、3月の例会は中止にしました。コロナは世界中に広がりつつあります。これ以上広がらずに収束に向かうように祈ってやみません。これからも、よろしくお願いいたします。

クルド人の国家ができようとしていた(イラクの歴史3)

第一次大戦後のオスマン帝国の領土を英仏が中心となり分割した結果、今のトルコの領土が確定され、イラクという国ができたのであった。そのついでとは言ってはなんであるが、今回はクルド人の国が第一次大戦後に造られかけたことを取りあげてみよう。

1918年にドイツ側について戦ったオスマン帝国が降伏した。大戦中にクルド人はトルコ軍の兵士として勇敢に戦った。約40万人のクルド人が死亡したといわれている。終戦処理をめぐるパリ講和会議にはシャリーフ・パシャを代表とするクルド代表団も参加した。そして、1920年8月10日にフランスのセーブルにおいて連合軍とオスマン帝国の間で講和条約が結ばれた。この条約でオスマン帝国の領土分割が決定された。その中の一つとしてオスマン領内のクルド人には一年後の独立を前提に自治を与えることが盛り込まれていた。つまりクルド人国家の誕生が約束されたのであった。

ところが、このセーブル条約によって連合国側の言いなりになるオスマン政府にたいして立ち上がり、反乱を起こしたのが後にトルコの父と呼ばれたケマル・アタテュルクである。彼はスルタン制やカリフ制を廃して、新政府を樹立したのである。そして、先述のセーブル条約に代わって、ローザンヌ条約を締結した。その内容にはクルドの独立はなかった。セーブル条約で実現しかけたクルド人の国家建設は幻となったのであった。

クルドについてもう少し述べよう。上の図がクルディスタンとよばれるクルド人の居住区である。スタンは土地・場所といういみであるから、クルディスタンとはクルドの土地という意味である。アフガン人の土地ならアフガニスタン、美しいという意味のパークにスタンを付けると美しい土地・美しい国で、パキスタンの国名になっている。カザフ人の国がカザフスタン、ウズベク人の国がウズベキスタンという風である。図で見てお分かりのようにクルディスタンの中にトルコ、イラン、イラク、シリヤなどの国境線が引かれているのである。この国境線によってクルド人の居住区であるクルディスタンは分断されてしまったということである。数多くある書籍の中で時には「クルド人とはトルコ、イラン、イラク、シリヤにまたがって居住している民族・・・」と書かれているものもあるが、決して彼らが国境をまたいで居住しているのではなく、国境が彼らの居住区を分断したのである。これは大きな違いである。

時代をすこし進めて、第二次大戦後のイランに目を向けてみよう。イランはカージャール朝からパーラヴィー朝に移っていた。イランは中立を宣言していたが初代国王レザー・シャーがドイツに傾倒したために、1941年8月にイギリスとソ連がイランに進駐し、彼に退位を迫った。翌月の9月に彼は退位して、モーリシャス島に流された。レザー・シャーの息子モハンマド・レザー・シャーが二代目の国王に据えられた。そしてイランの南部をイギリスが。北部をソ連が占領した。残りの地域が国王の支配下であったが、そこの地域にクルド地域があった。クルドは内部での主導権争いが激しくて一致団結という状況ではなかったが、イスラムの聖職者であったモハンマド・カズィーはイランに英ソ両雄が割って入った状態を好機ととらえた。彼は「クルディスタン民主党」を結成し、ソ連に接近し支持を得るようになる。その後、1946年1月には帝国主義からのイラン解放とイラン国内のクルド人の自治を掲げて、ソ連軍進駐下で「クルド人民共和国(マハーバード共和国)」の樹立が宣言された。イラン北部には同様にソ連軍の駐留下で「イラン・アゼルバイジャン自治共和国」が樹立されていた(1945年12月~)。両国は相互防衛条約を結びテヘラン政府の圧力に抵抗した。

3国に分断された国の一つイランにおいて史上初のクルド人国家が誕生したのであった。カーズィーは大統領に就任し、クルド語による新聞や雑誌の発行を開始した。しかし、この共和国の内部は一致団結とはいかず内部抗争が絶えなかった。アメリカはこの自治政権をソ連の傀儡とみなし、ソ連のイランへの干渉として非難し、イラン政府はソ連の干渉として国連に提訴した。イランは北部地方の石油利権をソ連に与えると約束して、ソ連軍の撤退を促した。石油利権に食指を動かしたソ連が撤退すると、手薄になったアゼルバイジャンとクルドの両国をイラン軍が攻撃して両国は崩壊したのであった。カーズィーは公開で絞首刑にさらされた。クルド語の印刷機は破壊され、クルド語の教育も禁止された。人々はクルド語で書かれた書物を焼き捨てた。クルド人の初めての国は1946年11月までの短命であった。

イラクのクルド人はどうだったのだろうか。1958年7月、イラクではアブドゥル・カリーム・カセムが反王政クーデターを起こした(7月革命)。クルド・ゲリラの指導者バルザーニはカセムから恩赦をうけ、彼とその部族がバグダードに戻ってきた。10月、バルザーニが空港に到着すると、クルド人は民族衣装をまとい、民族の歌と踊りで彼を迎えた。カセムはバルザーニをクルド民主党(KDP)の書記長につけることにより、クルド人を管理しようと試みた。カセムとバルザーニはお互いに腹の探り合いをしながら攻略的に動いた。この時期には共産主義者が勢力をのばして共産党員2名が内閣改造に伴い入閣した。そして、共産党では多くのクルド人が幹部職をしめていた。1961年バルザーニたちはクルド地域の自治を要求した。

また、7月革命後に改正されたイラク憲法にはクルド人はイラク領内におけるパートナーであると規定されており、クルド人にはイラク国内において民族的権利を認めることを明示していた。というものの、クルドの要求はカセムに受け入れられたわけではなかった。両者の溝は深まり1961年、バルザーニとKDPがイラク政府に対して蜂起した。以後、北部でKDPの解放闘争が続けられていったのである。1963年2月8日、バース党がクーデターを起こして、カセムから政権を奪った。カセムは処刑された。クーデター以前にバース党はKDPと協定を結んでおり、その中でバース党はクルド人の自治に理解を示すと表明していた。しかしながら、クーデター後に正式な交渉が始まると、両者間には大きな隔たりがあった。バース党政権の関心事はナセル主義、アラブ民族主義であった。・・・・イラクの政治はバース党主導で変化していき、その先でサダム・フセインが登場してくるのである。今回はこれまでとして、これ以後はまた「イラクの歴史4」として後日述べることにしよう。