イスファハン(イラン)郊外のモスクで寛ぐ家族
前回からの続きである。アリーの死後、ムアーウイアがカリフに就いてウマイヤ朝(661~750)を創設した。首都はダマスカス(シリア)においた。イスラムの歴史としてはムハンマド⇒正統カリフ時代⇒ウマイヤ朝⇒アッバース朝・・・・と流れていくのである。アリーには二人の男子がいたが、四代目カリフの遺児として、それ相応の待遇をうけて静かに暮らしていた。ウマイヤ朝の時代もムアー・ウィアが死去し二代目になっていた。ウマイヤ朝はカリフを世襲する体制になっていた。そんな時代にクーファ(第四代アリーが拠点としていた地)のアリーの信奉者たちがウマイヤ朝に反旗をひるがえし、そこにアリーの次男フサインが担ぎ出されたのだった。これがシーア派の始まりである。正統カリフ時代の後のウマイヤ朝には同調せずに、自分たちの派をつくり、歩み始めたのだ。シーアとは「派」という意味である。それまでイスラムという一枚岩的な組織に新たな「派」ができた。それがシーアである。シーア派という言い方は「派派」というおかしな意味になってしまうが仕方ない。そして、シーアが支流なら本流のウマイヤ朝はスンニー(スンナ)派という。スンナとは規範・慣行などの意味がある。コーランや共同体で定められた規範に則っていきる派というような意味になる。詳細は省くが680年のカルバラの戦いにおいてフサインは戦死した。シーア派はこの時の戦いを現代でも昨日のことのように深い悲しみとともに抱いている。毎年アシュラの日が近づくと、カルバラの戦いの悲劇を再現した演劇(タージェ)が各地で開かれる。人々はそれを見て涙する。アシュラ当日には男どもが鎖で背中を打ち、こぶしで胸を叩いて町を行進する。女どもは泣きながら後を歩く。シーア派の最高指導者はカリフではなく、イマームという。初代イマームがアリーであり、2代目が長男のハサン、3代目が次男のフサインであるが、その後、幾通りかに分派していくのである。シーア派で主流が12イマーム派であり、今のイランのイスラムはシーア派のこの派である。
そうなると、シーア派とスンナ派の教義はどう違うかという疑問がでるのは当然である。が、両派にとっても、それ以外の諸派にとってもコーランが第一の法源であることには変わりない。その解釈の仕方にスンナ派では四大法学派の解釈に拠ったりする(派によって若干違ったりする)が、シーア派ではイマームの解釈に拠るとか。聖地にしても、シーア派は途中から独自の道を歩いたために、シーア派のイマームにまつわる地が聖地になる。例えば、先ほどのカルバラの戦いのカルバラ、イランのマシャドなどがあるが、メッカもエルサレムもシーア派にとっても聖地である。アリーはシーア派のイマームであるが、スンナ派にとっては正統カリフ時代のカリフであることに変わりはない。イスタンブールのアヤソフィアにはムハンマドなどと並んでアリーの文字が大きく書かれているのを見た人は多いだろう。スンナ派では決してやらない肖像画(例えばアリーの顔)をシーア派では飾ることがある。アリーの肖像画はイランでよく見かける。イマームザーデなどもはシーア派独特のものだろう。こまごまとしたことは、一通りの歴史が終わった時にまた個別に詳しく取り上げてみよう。今回は正統カリフ時代の終わりにシーア派が誕生したということである。基本的なことだけであるが、いつものように山川出版のヒストリカに掲載されている両派の違いを下に紹介しておく。