上の画像は講談社発行「興亡の世界史10」の『オスマン帝国500年の平和』である。サブタイトルも見えているが、そこには「イスラムの名の下に多民族が共有した帝国」とある。時間の余裕のある人は図書館ででも借りて読んでもらいたい本である。さて、このブログではビザンツ帝国を滅ぼした後の歴史について、この本に記載されている年表から主な出来事をピックアップしてみたい。
- 1453年、コンスタンチノープル征服
- 1460年、ペロポネス半島併合
- 1469年、白羊朝との戦いに勝利して、中央アナトリアを支配
- 1492年、スペインなどからユダヤ教徒を受け入れ
- 1501年、イランにサファヴィー朝が成立
- 1514年、サファヴィー朝にチャルディランの戦いで勝利する
- 1515年、東部・南部アナトリアを征服
- 1516年、シリアを征服
- 1517年、エジプト征服。マムルーク朝を滅ぼす。メッカ、メディナの支配者となる。
- 1512年、ベオグラード征服
- 1522年、ロードス島征服
- 1526年、モチーハの戦いでハンガリー軍を破る
- 1529年、ウィーン包囲
- 1538年、プレヴェザの海戦でヴェネチア・スペインの合同艦隊を破る
- 1543年、フランスと協同でニース攻撃
- 1557年、建築家シナンにより、スレイマニエ・モスク完成
- 1571年、レパントの海戦でヴェネチア・ハプスブルク家などの連合艦隊に敗れる
- 1574年、チュニス奪還。チュニジアを属国に。
- 1579年、サファヴィー朝とコーカサスとアゼルバイジャンを巡って戦争始まる
- 1587年、サファヴィー朝にアッバース1世即位し、コーカサス、アゼルバイジャンを奪還
- 1606年、シリアでジャンボラットオールの乱
- 1622年、イェニチェリが反乱。オスマン2世殺害
- 1639年、サファヴィー朝とカスレ・シーリーン条約
- 1672年、オスマン帝国ヨーロッパ側の領土最大に
- 1683年、ウィーン包囲(第二次)失敗
- 1699年、カルロヴィッツ条約。ハンガリー・トランシスヴァニアをハプスブルグ家に割譲
- 1718年、パッサロイッツ条約。ベオグラード周辺を失う。
周辺諸国との争いを続けながら領土を拡大していったことが良く分かる。そして、このころから領土を逆に奪回されるようなことも起きてきていることも分かる。
- 1740年、フランスがカピチュレーション改訂版を獲得。カピチュレーションとは生命・財産の安全,治外法権(領事裁判権,免税)などの保障を在留外国人に特権的に認めることを定めた国際的条約のことである。このような特権を一国に与えると、同じように強国から要求されることにもなるのである。
- 1768~74年、露土戦争。チェシュメの海戦でロシア軍に大敗。1787~92年、第二次露土戦争。クリミアを露が併合。ロシアとの戦争はこのあとも何度か繰り返す。
次第にオスマン帝国は衰退へと向かっていく。この年表の所々にサファヴィー朝が出てきたのであるが、サファヴィー朝はオスマン帝国の東側、つまり今のイランに位置したペルシア帝国である。ペルシア帝国はアケメネス朝、ササン朝、そしてこのサファヴィー朝とまさに興亡の歴史そのものの帝国である。西のオスマンと東のサファヴィーが同時期に覇権を争った両国である。両者の関係はスンナ派 ⇔ シーア派の対立でもあるのだ。
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