いよいよオスマン帝国(1299~1922年)の登場である。前回、オスマン軍がビザンツ帝国を滅ぼしたと述べた。その強大化したオスマン帝国の歴史を一枚の図に表すと次の通りである(笑)。
オスマン帝国とはトルコ民族によって、1299年にアナトリアに建てられたイスラム国家である。第一次大戦後の1922年に滅亡するまで600年にわたり、西アジア(但し、イランを除く)、北アフリカ、バルカン、黒海北岸、カフカースの大部分を支配した。
- 1326年にブルサを首都とする。
- 1354年にバルカン半島に進出
- 1361年頃にアドリアノープル(エルディネ)に遷都
- 1453年、コンスタンチノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅亡させる
- 15世紀末までに、バルカンとアナトリア全土を支配
- 1517年、エジプトのマムルーク朝を滅ぼして、メッカとメディナの保護権を獲得=このことはスンナ派イスラム世界の盟主を意味する。そして、アッバース朝の衰退とともに失われていたスンナ派の統一の回復でもあった。そして、シーア派政権のサファヴィー朝が大国化し、相争う構図が成立していくのであった。
トルコ人は支配下にあった非トルコ人を同化させようとはしなかった。支配者として役人や兵士を派遣することはあったが、一定期限を越えて常駐することはなかった。トルコ人の居住地域に帰るか、また別のアラブ人たちの居住区に転勤するような形であった。トルコ人たちが戦ったのはアラブ人ではなく、アラブ人たちを支配していたマムルーク朝という体制であった。そして、支配下に置いたアラブ地域では彼らに自治権を与えていた。トルコ人の多くはアラビア語を習得する必要はなかったが、トルコ語の中にはアラビア語の語彙が入っていった。また、アラビア語の知識がなくては法の基盤であるイスラム法(シャリーア)を理解して維持することができなかった。いつものように帝国書院のタペストリーを見ると、「オスマン帝国のしくみ」は次のように図示されている。
- ティマール制とは建国から16世紀にいたる国家と社会を規定した軍事封土制。江戸時代の将軍と大名のような制度。
- デヴシルメ制とは、バルカン半島方面のキリスト教徒農民の少年を対象に、所定の手続きを経て必要な人数の徴用を行った制度。スルタン直属の近衛師団の補充などに充てた。
オスマン帝国の領土の図である。スルタンの時代別に色分けがされている。遠くはウィーンにまで遠征をおこなったのである(1529年と1683年)。