聖地エルサレム

このブログも2か月目に入り、テーマも10世紀になってきた。この後は、イスラム世界とキリスト世界の対立である十字軍を取りあげようとするのである。十字軍とはそもそもエルサレムという聖地奪還という目的であった。それ故に、まずはエルサレムについて知ってもらうことが重要であろう。

読者の皆さんは既にエルサレムについての知識を実は有している。このブログのオリエント時代の処を思い出してほしい。ユダヤ人たちはカナンの地から、エジプトに行き、そこでの苦難ののちに再びカナンの土地に戻ってきたのだった。そこに短い期間ではあったが王国を造ったのだった。ソロモンやダビデという名君がでて、エルサレムに神殿を建設したのだったね。エルサレムとはそういうところなのだ。その国も滅び、ユダヤ人たちがバビロン捕囚となったあと、アケメネス朝のキュロス大王によって解放されたというような歴史はオリエントのカテゴリーで述べたとおりである。エルサレムはユダヤ教の聖地であると同時に、キリスト教の聖地でもある。はたまたイスラム教の聖地でもある。それぞれの聖地たる所以を述べていこう。

上の地図は日本聖書協会発行の『聖書』の巻末の聖書地図を拝借したものである。タイトルは「新約時代のパレスチナ」とある。エルサレムがあり、南にはベツレヘムがある。イエスが生まれたところである。

ユダヤ教の聖地:上述したようにユダヤ人とエルサレムとの関係は密接である。エルサレムはユダヤ教の神殿があった場所であるから聖地なのである。世界中にちりじりばらばらに離散していたユダヤ人たちがシオンの丘に帰ろうと願い続けたシオンの丘とは神殿があった高台である。神殿跡には外壁だけが残っている。それが「嘆きの壁」である。エルサレムを訪れるユダヤ人たちが古代の神殿を偲んで祈る最大の聖なる場所である。エルサレムがユダヤ教の聖地であることは、非常に明快である。

キリスト教の聖地:キリスト教はユダヤ教徒であったイエスがユダヤ教から派生させたものであるから、エルサレム周辺はイエスの人生(?)の足跡が残っているわけである。現在、エルサレムの中でキリスト教の聖地となっているのは「聖墳墓教会」である。近くにはイエスが磔になった丘(ゴルゴダの丘)がある。イエスが磔台を担いで歩かされた道ヴィア・ドロローサ(苦難の道の意)もある。そして聖墳墓教会にはイエスの墓がある。そこはイエスが復活した場所でもある。これだけでエルサレムは聖地として十分な資格があるであろう。でも、その場所、特に聖墳墓教会のある場所がイエスが葬られ、その後復活した場所であると、誰がどのようにして特定することができたのであろうか。キリスト教がローマ帝国によって公認されたのは313年のことである(ミラノ勅令:コンスタンチヌス1世 がリキニウス帝とミラノで会見した際に発した勅令。キリスト教を初めて公認し,長かったキリスト教迫害に終止符を打った画期的なもの)。320年頃にコンスタンチヌス帝の母であるヘレナがエルサレムを巡礼した。そして、イエスが葬られた場所を特定して聖墳墓教会が建てられたと言われているのである。

イスラムの聖地:ではイスラムにとってエルサレムはどのような曰くつきの場所であるのだろうか。イスラムの第一の聖地はメッカである。次いでメディナ。エルサレムは第三の聖地であろう。エルサレムはムハンマドが天に昇ったという伝説がある場所なのである。ムハンマドはある日の夜愛馬にまたがってメッカからエルサレム迄を一夜にして飛んで行ったという。エルサレムの岩の上から天上に昇ることができて、天上で神と会話したとかという伝説である。その時に今行われている礼拝の数を5回にするなどということも決められたとか。それ以前はもっと多かったとか。うろ覚えではあるが、そのようなことを昔読んだことがある。とにかくその伝説の岩の上にモスクが建てられたのである。その場所はユダヤ教の神殿があった丘でもある。岩は建物の内部に保護されたことになる。建設はウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクが688年に着工したという。この岩また旧約聖書でもアブラハムが息子イサクを犠牲に捧げようとした(イサクの燔祭)場所と信じられている。

三者三様の聖地としての曰くがあるわけである。いずれも一神教、そしてアブラハムを尊ぶ宗教でもある。聖墳墓教会、岩のドーム、嘆きの壁などというキーワードが並んだが、それらの映像・画像はユーチューブやインターネットで山ほどでているので、ここでは割愛する。どうかそちらでご覧いただきたい。

さて、これも有名な話であるが旧エルサレム市街の中での住み分けである。下の図が示すようにイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちの居住区が区分けされているのだ(実際にはもう一区画アルエニア人地区もあるが)。金曜日になるとイスラム教徒が岩のドームへ礼拝に向かう。金曜の夜から土曜へと今度はユダヤ教徒が嘆きの壁に集まっていく。そして日曜日はキリスト教徒たちが聖墳墓教会へ向かう。三者が曜日をずらせて行動する。長い間三者が争うことなくスムースな日常生活があったのである。パレスチナ問題として争うアラブとイスラエル、イスラムとユダヤ間の熾烈な争いごとは第一大戦後のオスマン帝国の領土分割、第二次大戦後のイスラエル独立宣言から始まった、きわめて新しい紛争である。(もちろん、十字軍というキリスト対イスラムという争いもあったが、それについては次回以後で詳しく取りあげよう)

上の図の出所は帝国書院『タペストリー』

イスラム世界の分裂

前々回に示したイスラム世界の歴史図は非常によくわかるように描かれていると称賛したのであるが、それでも実際の地図上ではどうなっていたのだろうか。それも知ってみたいと思うのではないだろうか。歴史図の場合は時代の縦の流れも見えたが、地図に表すとしたら、ある時代で平面的に表すことになる。そこで探してみた。講談社・後藤明著『イスラーム歴史物語』の121頁がそれである。

これは8世紀初めのイスラム世界である。この時代ではアッバース朝と後ウマイヤ朝の間の今のモロッコの辺りにイドリース、ルスタム、アグラブの3国が並んでいる。ここにあるルスタムについては歴史図にはなかったものであるが、実際にはあったハワーリジュ派の王朝である。それぞれの年代をあげると、ルスタム朝(777~909)、イドリース朝(789~926)アグラブ朝(800~909)ということである。ここではアッバース朝の東部では異変はおこっていない。そこで10世紀後半のイスラム世界が次図である。

アッバース朝の全盛期を築いたハールーン・アッラシードの死後、息子たちがカリフの地位を争った。そのような争いに乗じてホラサーンのターヒルが独立を宣言した(812)。9世紀後半になると東の地域でぞくぞくと独立政権が増えていることは歴史図の通りである。そして10世紀の後半が上の図であるが、カラ・ハン朝、サーマーン朝、ブワイフ朝などが生まれている。そして、アッバース朝の西側は先述したモロッコ辺りの3カ国は既に消滅し、ファーティマ朝が登場しているのである。目まぐるしく国が入れ替わる、まさに興亡の歴史が展開された時代である。

というものの当時のイスラム世界の中心はバグダードであり、アッバース朝であった。ユダヤ教やキリスト教の聖地であるエルサレムはイスラム支配化にあった。時代の流れとともに、つまり上述したような興亡の歴史の中で、エルサレムはその後、ファーティマ朝の支配下に置かれた、その後はセルジューク朝の支配下になるのであった。そして十字軍の遠征と続くのである。   (次回はエルサレムの予定です)

イラン革命から40年

次の写真はイランの新聞 Ofta-b (太陽の意味)のトップである。「40周年盛大!」

イラン暦 Bahman 22日(日本の2月11日)にイランでは革命40周年の迎える。1979年のこの革命は当時のパーラビー国王を追放して成し遂げた革命であった。先進国への道を加速化させていた王政は脱イスラムを掲げ、様々な改革を推進していた。王の革命は「白色革命」と名付けられて多分野にわたるものであった。教育革命では文字の読み書きのできない人を撲滅するために、多くの青年が全土に派遣された。その成果もあった。農地改革も行われた。しかしながら、地方の豪族、広大な寄進地(ワクフ)を有するモスク・イスラム関係者達は反対であった。女性の社会進出を目指した女性解放の流れはイスラム関係者から反発を受けた。王はそのような状況を顧みずに諸改革を行った。イスラム界からの抵抗には強権を発して押さえつけた。イラン革命で帰国して、革命後の最高指導者に就いたホメイニ師は王に抵抗したために国外追放になった人物であった。

王政を磐石なものにするために、反政府的な言動を押さえつけて、投獄した。テヘランのエビンというところには牢獄があった。人々はエビンと聞くと震えあがった。5人に1人、いや3人に1人はサヴァク(秘密警察)だとも言われていた。我々外国人であっても、政治に対する批判は慎んでいた。というよりも、我々外国人にとっては、そのような裏の事情は詳しくは分からなかった。そして、国王が推進しようとする経済開発計画に則ったプロジェクトに参画している日本人をはじめとした外国人たちは王の推進する改革は正しいものであると思っていた。私は農業天然資源省のプロジェクトでカスピ海沿岸のラシュト市に住んでいたことがある。日本と同じような気候・景色の所であった。この町に機械織りのカーペット工場があり、そこの従業員たちが政府批判の行動の一環でストライキをしたそうだ。そうだ、と書いたのは、革命後の記録から知ったのであった。革命の前1年以上前のことである。つまり、そのころから革命への動きはあったのであるが、私には分からなかった。ただ、数年前から物価が異常に高騰してきていることは実感していた。はじめの頃、自宅の家賃は13500リヤルであったが、革命1年ほど前には同じ家ではないが9万リヤルであった。人々の生活は確実に苦しくなっていた。アバダンの映画館が焼き討ちされたりするようになって、いよいよ反王政運動が明らかになっていた。石油会社の従業員たちが運動に加わった。学生が、作家が、いわゆる知識人と称される人たちが運動に参加するようになった。私が見ていた革命前の風景はそのようなものであった。

次の記事は英文紙 Iran daily である。ロウハニ大統領がアメリカが歩み寄るのなら、イランは受け入れるというようなことを発言している。国内では保守派過激派が主流をなしており、ロウハニ大統領も舵取りが難しい今日である。

President Hassan Rouhani said Wednesday that Iran’s motto is “Iran with the entire world” and even if the US repents and changes its course, Iran is ready to accept its repentance.

He made the remarks in a meeting with ambassadors and heads of missions of foreign countries to Tehran on Wednesday, marking the 40th anniversary of the victory of Islamic Revolution of Iran.

“Despite the US adaptation of unjust policies towards Iran for years, we are ready to accept US repentance if Washington makes precise calculations, apologizes to Iran for its past inferences, recognizes the glory and dignity of the Iranian nation and the great Islamic Revolution and talks to the Iranian people respectfully,” the president said, according to president.ir. 

Our nation seeks friendly and humane relationship with all great nations, particularly our neighbors, he said.

President Rouhani said the Islamic Republic of Iran advocates a Middle East free from nuclear weapons and WMDs and a world against violence and extremism.

The United States seeks to put pressure and disappoint the Iranian nation, but our people are more united than ever.

Referring to the victory of the Iranian nation in the revolution, he said it was the victory of the right over wrong and democracy over dictatorship.

 

イスラム世界の変容

次に示す図は、毎度のことながら帝国書院『最新世界史図説タペストリー』126頁「イスラーム世界の変容」と題した図から拝借したものである。それまで一つに統一されていたイスラム世界であったものが、アッバース朝の時期に後ウマイヤ朝が西に樹立され、その後ファーティマ朝ができ、どんどん分裂していった。その辺りの歴史をこの図は地理的な位置も考慮し、日本の時代も併記して、非常に分かりやすく図化されたものである。

時代を下に追ってみると、イル・ハン国やチャガタイ・ハン国の名も見える。これらはいうまでもなくモンゴルの進出とともにできた国である。そのようなイスラム世界を征服したモンゴル人が建てた国までもがイスラム化していることに私は歴史の面白さを感じるのである。イスラムのすごさというか、影響力はなんだったのかと考えるのである。それらはまた各々の国について取り上げた時に改めて述べることにする。さらに時代を下げていくと、オスマン帝国が現れる。東のインドにはムガル帝国も現れる。

さて、問題は次回からのテーマをどうするかである。図のように乱立した諸国、諸王朝について細かく取り上げるのも面白いのである。図が示すようにアラブ系の王朝、イラン系の王朝、トルコ系の王朝、はたまたモンゴル系の王朝まで登場してくるのだから。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)はこの図では埋没してしまっているが、オスマン軍に敗れるまでは存在している。

こうして書いているうちに、考えも定まってきた。ここまで拡大してきたイスラム世界に対して西欧キリスト教世界は脅威の念を抱くようになった。8世紀に始まるイベリア半島のイスラム支配に対してキリスト教徒の反撃の動きが11世紀から活発となり、国土回復運動につながっていった。また十字軍の遠征も11世紀末から始まっていった。次回からは中東・イスラム世界と異教勢力(キリスト教世界⇔イスラム世界⇔モンゴル軍)というような方向に進むことにしよう。

閑話休題:ムスリム(イスラム教徒)の人口

イスラム世界の歴史を続けてきましたが、今回はちょっと休憩して、ムスリム(イスラム教徒)の人口を取りあげましょう。

イスラム教徒が多い国のいくつかを挙げるとすると、インドネシアが約2億人、パキスタンとインドが1.8億人程度、バングラデシュも1.5億人位でしょうか。大雑把な値ですので、その程度と把握してください。この4カ国で約7億人になります。

次に中東地域をみるとエジプト、ナイジェリア、イラン、トルコあたりが7千万~8千万人、イラク、サウジアラビア、シリア・・・モロッコ、アルジェリア・・・・など数千万人程度と思われます。中東はイスラムが誕生した地域なので、ムスリムが多いことは確かなのですが、実際に人口総数として多いのは最初に述べた国々、つまりアジアなのです。この4カ国のほかに、マレーシアや中央アジアに行けばウズベキスタンなどもムスリムが多い国ですね。それにくらべると中東の国々は人口自体が少ないところが多いわけです。しかしながら、国の総人口のほぼ全員がムスリムであったりするわけです。右を向いても左を向いてもムスリムという状態です。逆にマレーシアではマレー系はイスラム、インド系はヒンズー、中国系はまた別という風に、ムスリムばかりではありません。インドネシアは人口2億人のほぼ皆がムスリムであります。一概にこうだと決めつけることはできませんね。

前振りはそのくらいにして、冒頭の表を見てください。これはアメリカのピュー研究所(Pew Research Center) が発表したものですが、2010年のムスリム人口をほぼ16億人としています。キリスト教徒は約22億人です。世界全体の比率はイスラム23%、キリスト31%です。それが2050年にはどうなるかという予測がなされているわけです。イスラムは27.6億人となり、キリスト教は29.2億人となり、その差は縮まります。比率でみると、イスラムが30%、キリストが31%です。この間に増える人口数はイスラムがなんと11.6億人でキリストは7.5億人と予測されているのです。そして、もっと先のほうにグラフを伸ばしていくと、2070年には両者の人口が同じになり、その後はムスリム人口がキリスト教徒を追い越していくことになるのです。

世界中で3人に1人がムスリムという時代になっていくのです。日本でも外国人労働者の受け入れを大幅に緩和する法律ができました。ムスリムも増えるでしょう。私たちはもはやイスラムを無縁な宗教、ムスリムを無縁な人々と無視することはできないのです。少しでもイスラムのことを理解しようとする姿勢は不可欠な時代なのです。

 

アッバース朝(3)イスラム帝国の分裂

繰り返しになるけれども復習の意味も兼ねて、イスラム誕生からアッバース朝までを図示してみた。

イスラム誕生からウマイヤ朝に至る歴史を上の図一枚で表すことができた。次にウマイヤ朝は領土を広げたが、アッバース軍との戦いで敗れたのでしたね。この時、アッバース軍はウマイヤ朝の本拠であったシリアで、ウマイヤ家の者たちを見つけしだい殺していった。戦争や革命とはいつの時代もこのような残酷なもの。しかしながら、この時にかろうじて逃げることができた者がいた。アブドゥル・ラーマンという男である。彼はお付きのもの一人を連れて、エジプトから北アフリカを転々として、やがてイベリア半島にたどり着いたのである。彼はそこで支持者を得ることができて、そこでウマイヤ朝を再興することができたのであった。東のアッバース朝に対して西に後ウマイヤ朝が勃興したのであった(756年)。さて、下の図を見ると、アッバース朝と後ウマイヤ朝の間にファーティマ朝というのがある。これは成立が909年であるから、もう少し先のことなのではあるが、この王朝の始祖ウバイドゥッラーがカリフを宣言して、アッバース朝の権威を否定したのである。アッバース朝が滅んだのではなく、同時代に3人のカリフの国が存在するというイスラム世界にとっては異常な分裂状態になったということである。

ファーティマ朝について補足すると、この王朝はシーア派である。シーア派の主流は十二イマーム派であると前に述べたことがあるが、それではなく七イマーム派である。シーア派であるから初代がアリーであることには変わりないが、その後、枝分かれした一派なのである。後日、この王朝が大活躍する歴史上の事件がおきるので、覚えておいて欲しい。

後ウマイヤ朝が立ち上がったとしても、アッバース朝が後ウマイヤ朝を征服するにはあまりにも遠く、それほどの強力な軍勢があるわけでもなかった。イスラム世界はあまりにも広くなりすぎていた。それを中央集権的に治めるのは難しくなっていた。また、イスラムは非アラブ民族にも深く浸透してきており、非アラブ民族のイスラム世界も拡大していた。

 

アッバース朝(つづき)

アッバース朝時代から少々はみ出るものもあるかもしれないが、イスラムの秀でた科学・学問などに係る人を列記してみよう。カッコ内はヨーロッパでの呼び名である。

  • アル・フィワーリズミー(アルゴリズム)数学・天文学、9世紀
  • アル・キンディー(アルキンドゥス)哲学、形而上学、論理学、9c
  • アル・ファルガーニー(アルフラガヌス)数理天文学、?~929
  • アル・ラーズィー(ラーゼス)医学、哲学、錬金術、864~925頃
  • アル・ファーラービー(アルファラビウス)哲学、政治学、870頃~950
  • イブン・アル・ハイサム(アルハーゼン)数学、965頃~1041年
  • イブン・シーナ(アヴィセンナ)哲学、医学、980~1037
  • アル・ガザリー(アルガゼル)哲学、神学、法学、1058~1111
  • イブン・バーッジャ(アヴェンバケ)哲学、音楽、詩、~1139
  • イブン・ズフル(アヴェンゾアル)医学、1092~1161年
  • イブン・ルシュド(アヴェロエス)哲学、医学、法学、1126~1198
  • アル・ビトルージー(アルベトラギウス)哲学、天文学、12世紀

中でも特に有名なのは太字赤字で示したイブン・シーナであろう。彼が著した『医学典範』は長い間ヨーロッパの医学生の教科書として重宝されたものである。ヨーロッパではアヴィセンナ(またはアヴィケンナ)として知られている。日本の高校生の世界史の教科書にも彼の名は出ているはずである。

前回も述べたが、当時のヨーロッパはイスラム世界に較べるとずいぶん遅れていたのである。身内を病気で亡くした青年が、医学を勉強しようとペルシアに行った物語が世界のベストセラーになり、その映画化されたものが2-3年前に日本でも公開されていた。青年はイブン・シーナの下で学ぶというストーリーであった。物語はフィクションなのであるが、イブン・シーナのもとでタブーとされていた人体解剖などを手掛ける場面もあり、イスラム世界の先進性を知るいい作品あった。

幾何学は古代ギリシアで始まり、インドではゼロの概念が発見された。イスラム世界では両者の文化を取り入れて、高度な代数学を生み出したという。その代数学を表現できる数字が「アラビア数字」であった。一段目は、我々の使う(西方)アラビア数字。2段目がアラブ諸国で使う(東方)アラビア数字。最後はペルシアで使うアラビア数字である。

0 1 2 3 4 5 6 7 8 9
٠ ١ ٢ ٣ ٤ ٥ ٦ ٧ ٨ ٩
۰ ۱ ۲ ۳ ۴ ۵ ۶ ۷ ۸ ۹

例えば10×10という計算を、アラビア数字を使えば左のように書けて計算できるが、ローマ数字ではゼロもないからできなかったという。数学や天文学が発達したことは、イスラムの礼拝の方角を知ることや、礼拝の時刻を知ることにも役立ったかもしれない。

イスラム世界が大きくなるにつれて、様々な社会問題や争いごともふえてきた。そのような状況から法の整備が必要であった。以前、イスラム世界における第一の法源はコーランであると説明したのであるが、このコーランの解釈のためにも法が必要であった。そして、シャーフィイー派、ハナフィー派、ハンバル派、マーリク派という四つの法学派が成立した(四大学派)が成立した。

アッバース朝(750~1258年)

ウマイヤ朝については少々はしょりすぎた感がある。その分、アッバース朝は盛りだくさんの内容となるだろう。何から話そうか。先ずは系図を見ていただこう。西暦750年から1258年までの37代、アッバース朝は、ほぼ500年続いた王朝であった。

初代カリフのサッファーフは若くして急死して、754年に異母兄弟のマンスールが跡を継いだ。彼がアッバース朝の事実上の創始者である。762年にメディナ、763年にバスラにおいてシーア派の反乱が起きたが、いずれも鎮圧することができが。自分の座を危うくさせるような人物は抹殺し、強大な力を持って国づくりに励んだ。彼の功績は全土を結ぶ駅伝の制度を整えたことである。その交通網によって全国の情報をカリフに集めることができた。それにより、彼は農産物や食料の価格、各地域での役人の仕事ぶりなどの情報を収集し実態を把握することができた。しかし何と言ってもアッバース朝初期の注目すべきことは首都バグダードの建設であろう。766年に完成したバグダードは円形都市として有名である。円形都市バグダードで検索すれば様々なイラストや画像がでてくるので、各自でご覧いただきたい。バグダードはティグリス川西岸にあり、この川を利用して海からのあらゆる物産と北イラクやアルメニアなどからも豊富な食糧が入手できた。またユーフラテス川はシリアからの物産を運んでくれた。3万のモスクと1万の公衆浴場が存在した大都市であったという。8世紀末には、ティグリス川の東側にも市街地が拡大して、その人口は百万人ほどであったという。

アッバース朝の最盛期は第5代カリフのハールーン・アッラシード(在位786~809年)の治世であった。バグダードはさらに発展・拡大していた。商人たちはイスラム世界を越えて、広く世界と取引していた。バスラ港からペルシア湾 ⇒ インド洋へでて、インドや東南アジア、さらに中国へと船が行き来していた。カスピ海からは北欧へ、地中海経由で南フランスへのルートも開かれていた。このようなルートを通じてバグダードには世界の物産が溢れていた。

第7代カリフのマームーンは「知恵の館」を建設した。ここではギリシア語による哲学・自然科学の書物を収集し、それをアラビア語に翻訳したのである。ハールーン・アッラシード時代にも「知恵の宝庫」というものがあったが、「知恵の館」では翻訳活動が組織的に行われた。その結果、ギリシアの哲学や科学がイスラム世界におおいて生かされ、更に成熟していったのである。ヨーロッパ人がギリシアの諸学問を知ったのは、イスラム世界を経由してのことなのである。

ウマイヤ朝 ⇒ アッバース朝

正統カリフ時代を経て、イスラム勢力はウマイヤ朝(661~750)となった。この王朝も百年足らずで滅びることになるのであるが、ウマイヤ朝の特記すべきことは、カリフが世襲になったことである。正統カリフ時代のカリフ選出については既に述べたように世襲ではなく選ばれていたとおりである。また、イスラムでは重視するのは血のつながりではなく、共同体(ウンマ)における同胞である。それがウマイヤ朝になってカリフが世襲ということになると共同体内にも首を傾げる者がいても不思議ではない。第5代アブドゥルマリクの治世になり中央集権化が進展した。行政文書がギリシア語、ペルシア語からアラビア語に変わった。つまりアラブ第一主義の傾向が強まっていったのであった。空前の大征服を行って、大帝国を作り上げたのであるが、被征服民である改宗非アラブ人たちの不満は強まっていった。

「ムハンマドの一族から皆が満足する人を指導者に選ぶ呼びかけ」がホラーサーン地方から広がった。ムハンマドの一族とは?ハーシム家か????。747年ホラーサーン全域を掌中に収め、さらにイラクに侵攻したアブー・ムスリムの軍はウマイヤ朝を破り、アッバース家のアブー・アッバースを指導者として擁立した。ウマイヤ朝の中の一部の難を逃れた人々が西方に逃れた。結局、ウマイヤ朝からアッバース朝に代わったのであるが、アリーの一族やシーア派がカリフを継承することにはならなかった。シーア派はイスラム世界ではスンニー派に対して少数派であるが、その後も絶えることなく存在してきた。

シーア派の系譜:初代イマームがアリー。2代目が息子のハサン。3代目が弟のフサインで、カルバラの悲劇の戦いで戦死。フサインには腹違いの弟がいたが、病弱のために戦いには参加せず、ウマイヤ朝の捕虜となるが、その後解放されてメディナに帰っていた。その彼アリー・ザイン・アルアービディーンが4代目イマームである。彼は息子11人、娘5人に恵まれて、シーア派の系譜は続くことになる。そして、その後の継承問題によりシーア派は分派していったのである。中央公論社・佐藤次高著『世界の歴史・イスラームの興隆』92頁から次の系図を引用させていただく。

前に述べたことがあるが、十二イマーム派が主流であり、現在イランの国教である。この12人のイマームは11人まですべて不慮の死を遂げている(殺されたのである)。そして最後の12代ムハンマド・アルムンタザルはシーア派では死去したのではなく、隠れていることになっている。940年のことであるが、お隠れになってしまったという。そして、末世になったときに再来してて民を救ってくれるという。いわゆるメシア(救世主)思想である。

余談ではあるが、1979年にイラン革命が成って、ホメイニ師がテヘランに帰国したとき、イランの新聞はトップ一面に最大の大きさの文字で「イマーム オーマッド」つまり、「イマームがやってきた」と報じていたことを思い出す。

アリーの派=シーア派の誕生

イスファハン(イラン)郊外のモスクで寛ぐ家族

前回からの続きである。アリーの死後、ムアーウイアがカリフに就いてウマイヤ朝(661~750)を創設した。首都はダマスカス(シリア)においた。イスラムの歴史としてはムハンマド⇒正統カリフ時代⇒ウマイヤ朝⇒アッバース朝・・・・と流れていくのである。アリーには二人の男子がいたが、四代目カリフの遺児として、それ相応の待遇をうけて静かに暮らしていた。ウマイヤ朝の時代もムアー・ウィアが死去し二代目になっていた。ウマイヤ朝はカリフを世襲する体制になっていた。そんな時代にクーファ(第四代アリーが拠点としていた地)のアリーの信奉者たちがウマイヤ朝に反旗をひるがえし、そこにアリーの次男フサインが担ぎ出されたのだった。これがシーア派の始まりである。正統カリフ時代の後のウマイヤ朝には同調せずに、自分たちの派をつくり、歩み始めたのだ。シーアとは「派」という意味である。それまでイスラムという一枚岩的な組織に新たな「派」ができた。それがシーアである。シーア派という言い方は「派派」というおかしな意味になってしまうが仕方ない。そして、シーアが支流なら本流のウマイヤ朝はスンニー(スンナ)派という。スンナとは規範・慣行などの意味がある。コーランや共同体で定められた規範に則っていきる派というような意味になる。詳細は省くが680年のカルバラの戦いにおいてフサインは戦死した。シーア派はこの時の戦いを現代でも昨日のことのように深い悲しみとともに抱いている。毎年アシュラの日が近づくと、カルバラの戦いの悲劇を再現した演劇(タージェ)が各地で開かれる。人々はそれを見て涙する。アシュラ当日には男どもが鎖で背中を打ち、こぶしで胸を叩いて町を行進する。女どもは泣きながら後を歩く。シーア派の最高指導者はカリフではなく、イマームという。初代イマームがアリーであり、2代目が長男のハサン、3代目が次男のフサインであるが、その後、幾通りかに分派していくのである。シーア派で主流が12イマーム派であり、今のイランのイスラムはシーア派のこの派である。

そうなると、シーア派とスンナ派の教義はどう違うかという疑問がでるのは当然である。が、両派にとっても、それ以外の諸派にとってもコーランが第一の法源であることには変わりない。その解釈の仕方にスンナ派では四大法学派の解釈に拠ったりする(派によって若干違ったりする)が、シーア派ではイマームの解釈に拠るとか。聖地にしても、シーア派は途中から独自の道を歩いたために、シーア派のイマームにまつわる地が聖地になる。例えば、先ほどのカルバラの戦いのカルバラ、イランのマシャドなどがあるが、メッカもエルサレムもシーア派にとっても聖地である。アリーはシーア派のイマームであるが、スンナ派にとっては正統カリフ時代のカリフであることに変わりはない。イスタンブールのアヤソフィアにはムハンマドなどと並んでアリーの文字が大きく書かれているのを見た人は多いだろう。スンナ派では決してやらない肖像画(例えばアリーの顔)をシーア派では飾ることがある。アリーの肖像画はイランでよく見かける。イマームザーデなどもはシーア派独特のものだろう。こまごまとしたことは、一通りの歴史が終わった時にまた個別に詳しく取り上げてみよう。今回は正統カリフ時代の終わりにシーア派が誕生したということである。基本的なことだけであるが、いつものように山川出版のヒストリカに掲載されている両派の違いを下に紹介しておく。