イスラムを知る:モスクの紹介・マレーシアのモスク、そして東京ジャーミー

モスクとはイスラムの礼拝所のことです。アラビア語ではマスジド(مَسْجِد‎, masjid)と呼びます。モスクという語の語源もここからきているようです。さて、3日前にモスクについて書きましたことから、今回はマレーシアのモスクの画像を紹介しようと思います。イスラムというとアラビア半島で誕生し、そこから次第に勢力を拡大していったために、中東地域の大部分の国の人々はイスラムを信仰しています。中東全体のなかでムスリムの割合は非常に高いでしょう。でも、イスラムを信仰している人達の数、つまりムスリム人口が多いのはアジアなのです。要するにアジアは人口が多いといいうことです。インドネシアの2億人の殆どがイスラムと言われていますように。今回紹介するのはマレーシアのモスクです。マレーシアは「マレー系」「中国系」「インド系」の人たちがいることで有名です。異なる人種・言語・宗教・文化などを有しながら、共存している国です。ですから、私が現役で教員をしていたころには、勉強のために学生を連れて行ったこともありました。その時は現地のトヨタ自動車の工場を見学し、責任者に講義をして頂きました。民族間の複雑な事情もあるようですが、企業も政府も社会も安定に努力しているようです。

では、モスクです。クアラルンプール (KL) には国立のモスクがありました。これまで見ていたモスクとはちょっと違って、モダンでしが。1500人も入れるという大きな広間は「モスク?」という印象でした。次の写真です。

ミナレットも先に説明したときのものより、ずっとモダンでおしゃれな感じがします。翌日、KL から少し離れた地方のモスクを見ることができました。こちらはこじんまりしたモスクで土地の有力者が建てたような説明を受けたように思います。感想は「金ぴか」という印象でした。

マレーシアにはイスラム・アート美術館(正式名ではないかもしれませんが)があって、そこではアラビア書道の作品も多く展示されているそうです。今度、訪れたときには是非とも行ってみようと思っています。

最後に、東京ジャーミーの絵葉書がありましたので、これらを載せたいと思います。日本にもこんなに立派なモスクがあります。トルコ大使館が管理しているそうです。是非とも皆さん訪れてほしいものです。

 

イスラムを知る:日本にいてキブラの方角を知るには?

モスクにはメッカの方角にミフラーブがあることを前々回に述べました。メッカの方角をキブラということも分かりました。私たちがイスラムの国に行って泊まった時に、部屋の天井に矢印のようなマークを見ることがあります。それはメッカの方角を示すもので、キブラ・マークと呼ばれるものが貼られているのです。ちなみに日本でもそのようなものを売っているのかと思って楽天市場を見てみると、ありました。キブラシールという名称の3枚セットで400円とありました。日本のホテルなどでも、ムスリムの宿泊者が多いところは、おそらくキブラシールを貼っていることなのでしょうね。

それでは日本にいて、キブラを知るにはどうすればいいのでしょうか。メッカの方角を知るわけですから、地図上で自分のいる場所とメッカを直線で結び、その直線と水平に引いた線との角度などから割り出せば、大体の方角は分かりますよね。でも、移動するたびに面倒くさい話になります。そんな時に便利なグッズがあるのです。キブラ・コンパスというものです。アマゾンで調べてみましょう。

YCMコーポレーション。キブラコンパス 日本製 AL-KAABAコンパス 901A という商品が出ていました。価格は1,100円と手軽な価格です。商品の説明は次のように書かれています。世界中どこに居てもメッカの方向を知ることが出来るキブラコンパスです。日本の老舗コンパスメーカーで60年以上前から生産されており、ドバイを中心に中東のイスラム圏で愛用されています。国内での需要増加に応じ、説明書は日本語にも対応しています。品質の良い日本製のキブラコンパスはちょっとした贈り物にも最適です。」

日本のメーカーが60年も前から販売しているものらしいです。日本でもこうして売っているわけですが、ドバイなど、つまりイスラム圏で長く買われているもののようです。日本の商品がこういう風にイスラム圏で使われてきていることを知り、日本のメーカーさんもすごいなあと感じます。

でも、時代とともにキブラの世界もどんどん変化しているのではないでしょうか。それはスマホの発展と普及です。イスラム・プロというアプリをダウンロードしてみました。そこではお祈りの時間の通知などとともに、キブラの項目があり、その画面が下の画像です。

このように、メッカの方向が簡単に示してくれるのです。世界中、何処にいてもメッカの方向を向いて、お祈りをすることができるのです。コーランの内容も知ることができるようです。ある意味で、イスラムは IT に対応できているような気がしてきました。

イスラムを知る:アザーンについて

アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのことである。イスラムの国へ行くと、お祈りの時間になると、モスクから聞こえてくる歌のようなものである。と書いたが、歌と言ったらイスラム関係者から叱られるでしょうから、決して歌や音楽ではないと断っておきましょう。先ずはユーチューブに「東京ジャーミー」のアザーンが投稿されていたのでここにリンクを貼らせていただいた。短いものだから、聞いてみてほしい。

アザーンは礼拝への呼びかけということであって、コーランを朗唱しているのではないということを、間違わないでくださいね。そして、唱えられている言語はアラビア語である。その意味は昨日の平凡社『新イスラム事典』によると、次の通りである。

  1. アッラーフは偉大なり(4回)
  2. 私はアッラーフのほかに神なしと証言する(2回)
  3. 私はムハンマドがアッラーフの使徒なりと証言する(2回)
  4. いざや礼拝に来たれ(2回)
  5. いざや成功のために来たれ(2回)
  6. アッラーフは偉大なり(2回)
  7. アッラーフのほかに神なし(1回)

そして、早朝のアザーンは5と6の間に「礼拝は眠りに勝る」(2回)という文句が入る。また、シーア派のアザーンは5と6の間に「いざや善行のために来たれ」(2回)が入り、最後の7を2回繰り返して唱える。

このアザーンを聞いた時あなたはどのように感じるでしょうか。私自身は初めてイランで聞いた時「イスラムの国に来ているんだなあ」と実感したものです。そして、モスク近くで聞いた時はちょっと「〇〇さいな」とも少々思ったこともありました。特に、イスタンブールの安宿に泊まった時、早朝に非常に大きな音量でアザーンが流れてきたときは、びっくりしました。宿のすぐそばがモスクだったのでした。・・・でも、長い間イランにいるうちに、夕方に流れてくるアザーンには何か魅かれるようになりました。哀愁を帯びたような節回しがなぜか心に沁みる感じがしたのです。多分、アザーンを唱える人にも上手とそうでない人がいるかもしれません。聞くところによると、アザーンのコンテストもあるようです。また、小さな子供がアザーン(コーランも)を唱える動画なども沢山ネット上で見ることもできます。ユーチューブからその一つをリンクしておきましょう。素晴らしいです。

それでは今日はこの辺で。

 

 

イスラムを知る:モスクについて

しばらくの間、イスラムに関する記事がありませんでした。今回はイスラムのモスクについてちょっと詳しく掘り起こしてみることにします。そもそもモスクとは何か?手元にある平凡社発行の『新イスラム事典』には「イスラム教徒の礼拝所、礼拝堂」とあります。勿論、その後に詳しいことが色々書かれているのですが、まずは、これでいいですね。ムスリム(イスラム教徒のことをムスリムと呼びます)がお祈りをする場であるということです。でも、イスラム教徒は1日に5回礼拝することになっているわけですから、そんなに頻繁にモスクに行くことは無理です。ですから、普段はムスリムがいる場所で礼拝をすればいいわけです。例えば、会社で仕事しているときに礼拝の時刻になったなら、会社の片隅でやればいいわけです。畑で仕事している時なら、地面に敷物でも敷いて、そこでやればいいわけです。駅や飛行場などには、モスクの代わりになる礼拝の場所がきちんと設けられています。ムスリムは金曜日が休息日ですから、金曜日にはなるべくモスクへいくことが勧められています。金曜日になると町の中心的なモスクでは正午から集団礼拝が行われます。

モスクは礼拝所ですから、それに伴う必要な場が設けられています。東京堂出版、黒田壽郎編『イスラーム辞典』76頁(下段)には「通常モスクにはミナレット(尖塔)、いくつかの部屋、ミフラーブ(キブラの方角を指示する壁がん)、ミンバル(説教壇)、ダッカ(ムアッズィンによる礼拝の呼びかけをする高台。通常大きなモスクにある)等があり、カーペットが床に敷きつめられている。」とでています。括弧書きで注釈がありますが、それでもムアッズィンは分からないですね。ムアッズィンとは礼拝の時間を告げる呼びかけを行う人のことです。礼拝呼びかけ人とでも訳せばいいでしょう。もう一つキブラという語句も注釈しておきましょう。礼拝は聖地メッカ(サウジアラビア)のカーバ神殿の方角に向かって行うのです。ですから、キブラの方角というのは、メッカの方角という意味です。それでは、今述べられた個々の施設を見ていくことにしましょう。

(1) ミナレット(尖塔):文字通り先の尖った塔のことです。これは礼拝の時間になると先述のムアッズィンが礼拝の呼びかけをするために用いられるわけです。大きなモスクにはありますが、小さなモスクにはありません。『新イスラム事典』では次のような挿絵が載っていますので、拝借させていただきます。

左から角柱型、円柱型、折衷型となっています。最もミナレットらしいのは円柱型のように思いますが、モスクの形などによって相応しい型があるようにも思います。冒頭の画像は私が写したイランのイスファハンのイマーム・モスクの遠望です。尖塔が4本見えていています。次の画像も同じくイスファハンで私が写したものですが、ミナレットは1本だけ見えています。ドーム屋根の向こうにもう1本あったのかもしれません。モスク自体が冒頭のモスクとは異なり、装飾のない素朴なモスクでした。

(2) ミフラーブ:モスクの礼拝室の中で、聖地メッカの方角(キブラ)を示すために造られたアーチ形の壁龕(ヘキガン)のことです。要はメッカの方角を示す印なのですが、その部分が大きなモスクでは立派に設けられているのです。立派とはどういう意味かというと、例えばタイルで美しく飾られているとか、またそのタイルにアラベスク模様が描かれていたりするということです。

(3) ミンバル(説教壇):金曜日の集団礼拝をするような大きなモスクにはミンバルと呼ばれる説教壇があります。金曜礼拝時にしかるべき人がここで説教をしたりするわけです。次に、大和書房発行・山内昌之監修『イスラーム基本練習帳』の図を拝借させていただきますと、左がミフラーブで右がミンバルです。

(4) まとめ:ほかにも何やかやがあると思います。礼拝前に身を浄めるための水場は不可欠のものでしょう。身の浄め方にも作法があるようです。私はムスリムではありませんので、礼拝の作法を詳しくは知りません。が、モスクを訪れた時には絨毯の上に正座して静かな心でミフラーブに向かい手を合わせます。それでいいのだと思います。これまでモスクに入ろうとして断られたことはありません。イランのシーラーズで一度だけ止められたことがありました。宗教的な行事があったようでした。そこで、彼らはスカーフを被っていた同行の女性のために身体全体を隠すチャドールを貸してくれました。それを着れば良いということでした。

日本にもモスクはありますね。神戸と東京の者が大きいモスクと言えるでしょう。特に東京ジャーミーは非常に立派なものです。前回行ったのは3年ぐらい前でした。中の売店でナツメヤシの実のお菓子を買って帰りました。甘くて美味しい、そして安かったです。また、ジャーミーの絵葉書も買い求めました。

ペルシャ語講座11:疑問代名詞

今回は疑問代名詞としました。語学の専門家ではありませんので、疑問代名詞という意味が本当は何なのかなど細かいところは分かりませんが、英語の what や who などのつもりで、書こうとしています。完成した原稿を見て書いているのではありません。毎回の記事がそうなのですが、パソコンのキーを打ちながら書いているので、どの方向に行くのかは気持ち次第なのです。

まず、昔読んだことがあるのですが、全然言葉の分からない、言葉の知らない国に行って、言葉を覚えようとするときに、その人はスケッチブックかノートのような白い紙に、ゴチャゴチャと何か分からないような絵のようなものを描くそうです。そうすると、側にいた子供たちが「何?」と言ってくるそうです。そこで彼はまず最初にその国の「何?」という言葉を覚えるのだそうです。その言葉がわかれば、あとは、見たものを指さして何?」と質問すると、次々に新しい単語を覚えることができると書いてありました。なるほどと思ったものでした。

そこでペルシャ語の「何?」英語の「what」から始めましょう。what は「チェ」です。スペルは چه です。ローマ字で綴ると cheとなります。「これは何ですか?」「イン チェ アスト」「in che ast 」「این چه است ؟ 」となります。これが正しいペルシャ語です(笑)。が、実際には「イン チースト?」となります。「این چیست ؟ 」とでも書けばいいでしょうか。そして、もっと言うならば「イン チエ?」と書けばいいかな? インはこれですね。あれは「アーン」ですから、「あれは何?」は「アーン チエ?」で結構です。「あれ」や「これ」のところにたずねたいものの単語を入れてみてください。「あなたの名前」なら「エスメ ショマー」「あなたの国は」なら「ケシュヴァレ ショマー」です。名前はエスム、国はケシュヴァルですが、あなたのという時は単語の語尾の子音にeを付けます。このeをエザフェと呼んでいます。ローマ字で書いた方が分かりやすいですね。esm-e-shoma とkeshvar-e-shomaです。名詞に形容詞をつけて就職するときも名詞の語尾にeを付けたのでしたね。~~の何々というときの「の」に相当するのがエザフェの e と覚えましょう。

  • 今日のランチは何? ナハーレーエムルーズ チエ?
  • 明日の天気は何? ハヴァーエーファルドー チエ?

ちょっと横道に逸れてしまいそうですが、チェが何?という意味ですから、「どのくらい」「どの程度」という意味合いをたずねるときに「ちぇ カドル cheh qadr ?」という単語があります。また。「どうでしょうか?」のよう場場合には「チェ トウリー cheh touri ?」という単語もあります。「挨拶の会話」で「how are you?」を「Hal-e-shoma khob?」と教えましたが「Hal-e-shoma chetouri ?」も使います。そうなると「調子はどうでしょうか=ご機嫌いかがですか」となりますね。いま「挨拶の会話」を見直してみると「ちぇ トウリー」のことも書いていましたね。 ついでに言うと、会話していてちょっと意味が分からないことがあった場合には「ヤニチェ?」と言ってください。「ちょっと、どういう意味?」という感じです。یعنی ヤニ・Yaniは副詞としては「すなわち」、自動詞としては「意味する」という単語です。ヤニチェ? 覚えておくと便利な言葉です。

チェだけで随分書いてしまいました。今回はチェだけで終わりましょう。中々、いいレッスンだったような気がします(笑)。

革命防衛隊について

今年初めにイランのソレイマニ司令官がアメリカによって殺害されたことで、世界中に緊張感が拡がった。直後にウクライナ機がイランのミサイル攻撃で墜落した事件も起きた。ミサイル攻撃は誤射であったことをイラン政府が認めたことにより、状況はちょっと違った方向に転換していった。イラン国内で政府を批判する動きが現れたのであった。それに対して、トランプが応援姿勢を示したが、イラン政府はソレイマニ殺害直後の米軍基地攻撃以後には攻撃的な態度にはでず、沈静化に努めたようにみえる。今回は、殺害されたソレイマニ司令官が所属したコッズ部隊とは、その上部組織である革命防衛隊を取りあげる。

ご存知のように、イランの現政権は1979年に革命によって成立した政権である。それまではパーラヴィー国王による立憲君主制の国家であった。新政権は「イラン・イスラム共和国」という名の共和国となった。イスラムと銘打っているように、イスラム法のもとで統治される(ベラヤテ・ファギーフ)国家となった。新政権の最高指導者はホメイニであった。上の図は国軍の位置づけを表したのである。国王の下に国軍があり、軍は国王に忠誠を誓っていたわけである。国王が国外に逃れ、革命が成立したあとに軍の幹部は粛清の対象となったが、軍が消滅したわけではない。軍は当然新政権の管理下に置かれた。しかしながら、為政者の心理として軍が謀反を起こすことを考えないわけではない、常に注視するのは自然である。

ホメイニは国軍とは別に「革命防衛隊」という新組織を創設したのであった。簡単な位置づけは、イラン国軍(アーテッシュ)はイランの独立と領土保全に責任をもち、革命防衛隊は革命とその成果を守る責任があるという(つまり、早い話が自分たちのイスラム政権を死守するための軍隊ということだ)。

イラン・イラク戦争(1980年9月~88年8月)は革命防衛隊の重要な任務となり、規模が拡大していった。 1981年5万人、1983年15万人、1985年25万人・・・35万人とも言われた。最近の情報では概ね次のように言われている。

革命防衛隊 国軍
陸軍 100,000 350,000
海軍 5,000 18,000
空軍 20,000 52,000
小計 125,000 420,000

数の上からみると国軍に較べて革命防衛隊は1/3程度でしかない。しかしながら、例えばミサイルのような最先端とはいえずとも、先端の兵器を装備しているのは革命防衛隊である。戦争時に戦える軍隊は革命防衛隊のほうなのである。そして、何よりも大きな特徴は、革命防衛隊には特殊作戦部隊(通称コッズ部隊)と民兵組織であるバスィージ(バシジ)があるということである。

先般、殺害されたソレイマニーはコッズ部隊の司令官であった。コッズ部隊はハメネイ最高指導者に直属する部隊で、革命防衛隊の中で最も精鋭の部隊である。周辺国(レバノンやイラクなど)でも活躍していると見られている。かつての大統領、アハマドネジャドもコッズ部隊に属していた。彼が大統領のときの「イスラエルを地図から抹消する」という発言はコッズ部隊の過激さを表しているといえよう。はっきりとは分からないが15,000人程度のようである。

次いでバスィージは1979年11月に創設された民兵組織であったが、次第に革命防衛隊の補助組織となっていった。バスィージはイラクとの戦争時に地雷原への人海戦術に使われた。バスィージを構成していたのは地方出身で革命に影響を受けた宗教心豊かな少年たちだった。イラク戦争の間に、バスィージの数は300万人超になったとも言われている。反政府運動などのデモが発生したりすることもたまにはある。このようなときに政府が頼りにするのは革命防衛隊であった。また。バスィージはイスラム社会の価値観からはみだすような言動を取り締まった。正規のバスィージは90,000人程度。予備軍が300,000人とも。また有事になると、もっと増やせるという。

次に注目すべきは「革命防衛隊は単なる軍隊ではない」ということである。北朝鮮や中国、パキスタンなどと軍事的な協力関係の下で武器や兵器の軍事産業を手掛けているのである。革命防衛隊の傘下には様々な企業体が置かれている。Khatam al-Anbiaはそのなかでも、もっとも大きな企業体であろう。イラク戦争後の復興のために造られた土木・建設会社である。革命防衛隊はアメリカからはテロ組織と名指しされているが、Khatam al-Anbiaも制裁の対象である。イランの重要な石油産業においても革命防衛隊参加の企業が活躍しているのはいうまでもない。軍産複合体的な発展をしているのが、イラン・イスラム革命防衛隊である。

 

ペルシャ語講座(番外篇):ユーチューブを利用しよう

このブログに「ペルシャ語講座」を時々入れていますが、これまでに10回になります。お遊び程度に始めたものですが、少しは見てもらえているようです。中でも、4回目の「挨拶の会話」の閲覧回数が多いようです。でも、正直言うと、私が書くこのブログでペルシャ語が学べるとは思えません。ペルシャ語の一端を知っていただける程度でしかないだろうなというのが本音です。やはり語学は音が重要です。それもネイティブの発音が望ましいでしょう。そんなことを思いながら、ユーチューブでペルシャ語のレッスンをしているものを探してみました。色々出てきました。中でも「挨拶の会話」などを扱ったものがありました。それが冒頭のユーチューブ動画です。再生スピードが少し早いので、今から始めようという方にはちょっと聞き取りにくいかもしれませんが、簡単な内容ですので予め予習しておけばいい動画だと思いました。このような動画が昔あったなら、勉強も楽だっただろうなと思います。当時はインターネットそのものがなかった。いや、パソコン自体がまだ知られていない時代でしたからねえ。せいぜい、リール式のテープレコーダーが最新の語学学習機器でした。あるいはリンガフォンというレコードも有名な教材でした。私は英語のリンガフォンを買いました。話がそれましたが、今日はユーチューブの動画を紹介するだけが目的です。

同じ動画の2も次にアップしておきます。参考にして学習してみてください。

イラン革命から40年

上の画像は2月9日のイランの新聞 (Iran daily)です。1979年2月8日の革命から41年となります。新聞はハメネイ最高指導者が「イランは敵の脅威を終わらせるために、強くならなければならない」と演説したとあります。参考までに英文を紹介すると次の通りです。We must become strong so that there will not be a war, become strong so that the enemy’s threats will end. アメリカと名指しはしていませんが、敵の脅威を終わらせるために強くならなくてはならない。戦争にならないように強くならなければならないということです。先だって、アメリカがコッズ部隊のソレイマニ司令官を殺害した際には、トランプ大統領が、戦争にならないように彼を殺害したと述べていました。お互いに戦争は欲していないというものの、戦争を回避するために何をしてもいいのではなく、話し合いをして平和裏に解決してもらいたいものです。第二次大戦の際の日本への原爆投下についても米国は「戦争を終わらせるためだった」と正当化しようとしたことが思い出されます。そして、今日12日の新聞は次の画像のように全国で記念集会が開かれたことを紹介しています。

イランには昔から沢山の新聞があります。1979年の革命以前に私が見ていたのは保守的な Keyhanというペルシャ語紙とその英文版 Keyhan internationalでした。また英文紙の Tehran Journalも時々読みました。最近ネットから覗くのは、もっぱら上に紹介している Iran daily 紙です。英語だから読みやすいので、日々のできごとを知ることができます。今日はTehran Times も見てみました。こちらの写真は次のものです。国民の団結を叫んで旗を広げている風景のようです。いずれいせよ、日本にいても世界中の新聞が読める時代なのですね。

先月のソレイマニ司令官殺害の直後にウクライナ機がイランのミサイルによって撃墜された事件がありました。これは間違って撃墜してしまったのですが、この時に民衆から反政府的な行動が起きました。「アメリカに死を!」という決まり文句の「アメリカ」の部分を「最高指導者」として叫んでいたと報じられました。沈静化されたようですが、長い間続くアメリカとの関係による経済制裁に苦しむ人々からは、今回の撃墜時間だけでなく、複雑な思いが膨らんでいるようです。

革命から41年となりまして、40歳以下の人々は革命後のイランしか知らない状態になっています。50歳の人でも当時10歳位なら、あまり覚えていないでしょう。先週インスタグラムの友達とライブ電話で話しましたが、お父さんは62歳だと言っていました。革命時は二十歳ぐらいだったのでしょう。この人たちは、今のイランをどのように思っているのか気になるところです。でも、政治的な話は日本のように自由にはできないのが世界の多くのところです。相手に迷惑のかかることの無いように話さないように心がけています。

ペルシャ語講座10:形容詞最上級

前回のペルシャ語講座は形容詞比較級でした。比較級をやるなら、最上級も早くやってよという声にせかされました。比較級は使う機会もあるし、知っておくと便利ですが、最上級はどうでしょうか。英語の場合を思い出すと、比較級を使えば最上級的な意味を表すことができましたよね。例えば、Mt.Fuji is taller than any other Japanese mountains. 富士山は日本のどの山よりも高い。このように比較級の使い方はペルシャ語でもできるわけです。どの言語でもできるということですよね、きっと。

比較級は形容詞の語尾に tar タル تر を付けました。最上級は tarin タリン をつけます。形容詞の「大きい」と「小さい」を表にしてみましょうか。

大きい bozorg bozorgtar bozorgtarin
بزرگ بزرگتر بزرگترین
小さい kuchek kuchektar kuchektarin
کوچک کوچکتر کوچکترین

二つだけを示しましたが、形容詞の語尾に付け加えるだけですから、簡単です。形容詞をいくつか紹介しておきましょうかね。

 美しい qashang 寒い sard 暖かい garm
若い jaba-n 老いた pir 高い(値段が) gera-n
高い(山が) boland 安い(値段が) arza-n 美味しい khoshmaze

それでは文章にしましょう。先ほどの「富士山は日本で一番高い山です」kuh-e-Fujisan bolandtarin kuh dar japon astとなります。「琵琶湖は日本で一番大きい湖です」 daryache-ye Biwako bozorgtarin daryache dar japon. です。  Biwako bozorgtarin daryache dar japon.  湖はダルヤーチェ。ダルヤーは海でして、チェをつけて小さな海=湖です。ちなみにカスピ海は darya-e-Mazandaran つまりマーザンデラーンの海といいます。マーザンデラーンというのはカスピ海のある北部地方を指す言葉です。ハザル族の海という意味でダルヤーエーハザルと呼ばれることもあります。

冒頭の画像は大学書林発行の黒柳恒男先生の『ペルシア語四週間』です。定価7千円という高価な本ですね。私も社会人になって余裕ができた時に買っておいてはありますが、殆ど未使用状態です。もし昔これがあったら勉強できただろうなと思います。私たちの時代は日本語参考書は皆無でした。前にも書いたかもしれませんが、Lambton著の英語があるだけでした。生のペルシャ語を聞く機会も殆どない時代でしたね。今ではNHKの国際放送も聞けます。インターネットを開けばいくらでも耳にすることができる良き時代です。一昨日もインスタグラムで知り合ったイランのラシト市(RASHT)の方とインスタグラム電話で顔を見ながら話をしました。私が昔いたことのあるラシト市の方なので懐かしく話すのですが、今は全然変わっているよということです。逆に昔のその町のことを聞かせてほしいという有様です。昔に比べると、イランも近いものです。ここ名古屋から孫たちのいる東京とライン電話ビデオで交わすやり取りと何ら変わりません。・・・それでは今日はここまでで。

クルド人の国家ができようとしていた(イラクの歴史3)

第一次大戦後のオスマン帝国の領土を英仏が中心となり分割した結果、今のトルコの領土が確定され、イラクという国ができたのであった。そのついでとは言ってはなんであるが、今回はクルド人の国が第一次大戦後に造られかけたことを取りあげてみよう。

1918年にドイツ側について戦ったオスマン帝国が降伏した。大戦中にクルド人はトルコ軍の兵士として勇敢に戦った。約40万人のクルド人が死亡したといわれている。終戦処理をめぐるパリ講和会議にはシャリーフ・パシャを代表とするクルド代表団も参加した。そして、1920年8月10日にフランスのセーブルにおいて連合軍とオスマン帝国の間で講和条約が結ばれた。この条約でオスマン帝国の領土分割が決定された。その中の一つとしてオスマン領内のクルド人には一年後の独立を前提に自治を与えることが盛り込まれていた。つまりクルド人国家の誕生が約束されたのであった。

ところが、このセーブル条約によって連合国側の言いなりになるオスマン政府にたいして立ち上がり、反乱を起こしたのが後にトルコの父と呼ばれたケマル・アタテュルクである。彼はスルタン制やカリフ制を廃して、新政府を樹立したのである。そして、先述のセーブル条約に代わって、ローザンヌ条約を締結した。その内容にはクルドの独立はなかった。セーブル条約で実現しかけたクルド人の国家建設は幻となったのであった。

クルドについてもう少し述べよう。上の図がクルディスタンとよばれるクルド人の居住区である。スタンは土地・場所といういみであるから、クルディスタンとはクルドの土地という意味である。アフガン人の土地ならアフガニスタン、美しいという意味のパークにスタンを付けると美しい土地・美しい国で、パキスタンの国名になっている。カザフ人の国がカザフスタン、ウズベク人の国がウズベキスタンという風である。図で見てお分かりのようにクルディスタンの中にトルコ、イラン、イラク、シリヤなどの国境線が引かれているのである。この国境線によってクルド人の居住区であるクルディスタンは分断されてしまったということである。数多くある書籍の中で時には「クルド人とはトルコ、イラン、イラク、シリヤにまたがって居住している民族・・・」と書かれているものもあるが、決して彼らが国境をまたいで居住しているのではなく、国境が彼らの居住区を分断したのである。これは大きな違いである。

時代をすこし進めて、第二次大戦後のイランに目を向けてみよう。イランはカージャール朝からパーラヴィー朝に移っていた。イランは中立を宣言していたが初代国王レザー・シャーがドイツに傾倒したために、1941年8月にイギリスとソ連がイランに進駐し、彼に退位を迫った。翌月の9月に彼は退位して、モーリシャス島に流された。レザー・シャーの息子モハンマド・レザー・シャーが二代目の国王に据えられた。そしてイランの南部をイギリスが。北部をソ連が占領した。残りの地域が国王の支配下であったが、そこの地域にクルド地域があった。クルドは内部での主導権争いが激しくて一致団結という状況ではなかったが、イスラムの聖職者であったモハンマド・カズィーはイランに英ソ両雄が割って入った状態を好機ととらえた。彼は「クルディスタン民主党」を結成し、ソ連に接近し支持を得るようになる。その後、1946年1月には帝国主義からのイラン解放とイラン国内のクルド人の自治を掲げて、ソ連軍進駐下で「クルド人民共和国(マハーバード共和国)」の樹立が宣言された。イラン北部には同様にソ連軍の駐留下で「イラン・アゼルバイジャン自治共和国」が樹立されていた(1945年12月~)。両国は相互防衛条約を結びテヘラン政府の圧力に抵抗した。

3国に分断された国の一つイランにおいて史上初のクルド人国家が誕生したのであった。カーズィーは大統領に就任し、クルド語による新聞や雑誌の発行を開始した。しかし、この共和国の内部は一致団結とはいかず内部抗争が絶えなかった。アメリカはこの自治政権をソ連の傀儡とみなし、ソ連のイランへの干渉として非難し、イラン政府はソ連の干渉として国連に提訴した。イランは北部地方の石油利権をソ連に与えると約束して、ソ連軍の撤退を促した。石油利権に食指を動かしたソ連が撤退すると、手薄になったアゼルバイジャンとクルドの両国をイラン軍が攻撃して両国は崩壊したのであった。カーズィーは公開で絞首刑にさらされた。クルド語の印刷機は破壊され、クルド語の教育も禁止された。人々はクルド語で書かれた書物を焼き捨てた。クルド人の初めての国は1946年11月までの短命であった。

イラクのクルド人はどうだったのだろうか。1958年7月、イラクではアブドゥル・カリーム・カセムが反王政クーデターを起こした(7月革命)。クルド・ゲリラの指導者バルザーニはカセムから恩赦をうけ、彼とその部族がバグダードに戻ってきた。10月、バルザーニが空港に到着すると、クルド人は民族衣装をまとい、民族の歌と踊りで彼を迎えた。カセムはバルザーニをクルド民主党(KDP)の書記長につけることにより、クルド人を管理しようと試みた。カセムとバルザーニはお互いに腹の探り合いをしながら攻略的に動いた。この時期には共産主義者が勢力をのばして共産党員2名が内閣改造に伴い入閣した。そして、共産党では多くのクルド人が幹部職をしめていた。1961年バルザーニたちはクルド地域の自治を要求した。

また、7月革命後に改正されたイラク憲法にはクルド人はイラク領内におけるパートナーであると規定されており、クルド人にはイラク国内において民族的権利を認めることを明示していた。というものの、クルドの要求はカセムに受け入れられたわけではなかった。両者の溝は深まり1961年、バルザーニとKDPがイラク政府に対して蜂起した。以後、北部でKDPの解放闘争が続けられていったのである。1963年2月8日、バース党がクーデターを起こして、カセムから政権を奪った。カセムは処刑された。クーデター以前にバース党はKDPと協定を結んでおり、その中でバース党はクルド人の自治に理解を示すと表明していた。しかしながら、クーデター後に正式な交渉が始まると、両者間には大きな隔たりがあった。バース党政権の関心事はナセル主義、アラブ民族主義であった。・・・・イラクの政治はバース党主導で変化していき、その先でサダム・フセインが登場してくるのである。今回はこれまでとして、これ以後はまた「イラクの歴史4」として後日述べることにしよう。