ウマイヤ朝 ⇒ アッバース朝

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正統カリフ時代を経て、イスラム勢力はウマイヤ朝(661~750)となった。この王朝も百年足らずで滅びることになるのであるが、ウマイヤ朝の特記すべきことは、カリフが世襲になったことである。正統カリフ時代のカリフ選出については既に述べたように世襲ではなく選ばれていたとおりである。また、イスラムでは重視するのは血のつながりではなく、共同体(ウンマ)における同胞である。それがウマイヤ朝になってカリフが世襲ということになると共同体内にも首を傾げる者がいても不思議ではない。第5代アブドゥルマリクの治世になり中央集権化が進展した。行政文書がギリシア語、ペルシア語からアラビア語に変わった。つまりアラブ第一主義の傾向が強まっていったのであった。空前の大征服を行って、大帝国を作り上げたのであるが、被征服民である改宗非アラブ人たちの不満は強まっていった。

「ムハンマドの一族から皆が満足する人を指導者に選ぶ呼びかけ」がホラーサーン地方から広がった。ムハンマドの一族とは?ハーシム家か????。747年ホラーサーン全域を掌中に収め、さらにイラクに侵攻したアブー・ムスリムの軍はウマイヤ朝を破り、アッバース家のアブー・アッバースを指導者として擁立した。ウマイヤ朝の中の一部の難を逃れた人々が西方に逃れた。結局、ウマイヤ朝からアッバース朝に代わったのであるが、アリーの一族やシーア派がカリフを継承することにはならなかった。シーア派はイスラム世界ではスンニー派に対して少数派であるが、その後も絶えることなく存在してきた。

シーア派の系譜:初代イマームがアリー。2代目が息子のハサン。3代目が弟のフサインで、カルバラの悲劇の戦いで戦死。フサインには腹違いの弟がいたが、病弱のために戦いには参加せず、ウマイヤ朝の捕虜となるが、その後解放されてメディナに帰っていた。その彼アリー・ザイン・アルアービディーンが4代目イマームである。彼は息子11人、娘5人に恵まれて、シーア派の系譜は続くことになる。そして、その後の継承問題によりシーア派は分派していったのである。中央公論社・佐藤次高著『世界の歴史・イスラームの興隆』92頁から次の系図を引用させていただく。

前に述べたことがあるが、十二イマーム派が主流であり、現在イランの国教である。この12人のイマームは11人まですべて不慮の死を遂げている(殺されたのである)。そして最後の12代ムハンマド・アルムンタザルはシーア派では死去したのではなく、隠れていることになっている。940年のことであるが、お隠れになってしまったという。そして、末世になったときに再来してて民を救ってくれるという。いわゆるメシア(救世主)思想である。

余談ではあるが、1979年にイラン革命が成って、ホメイニ師がテヘランに帰国したとき、イランの新聞はトップ一面に最大の大きさの文字で「イマーム オーマッド」つまり、「イマームがやってきた」と報じていたことを思い出す。

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