ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の最後の戦い

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前回はモンゴルが来襲してイル・ハン国を初めとした複数のハン国ができたと述べた。以前掲載した歴史図のこの部分を切り取ったのが上図である。東のインドにはデリー・スルタン朝が、西のエジプトにはマムルーク朝の名がある。マムルークとは奴隷という意味で、アイユーブ朝を滅ぼしてマムルークが建てた王朝である。マムルーク朝については採りあげたい気もするが、ここではスルーしておこう。後日採りあげることがあるかもしれない。ここで見てもらいたいのは、イル・ハン国とマムルーク朝の間である。1299年という数字があり、オスマン帝国の領域が細い縦の帯で始まっている点である。そして1517年にマムルーク朝を滅ぼすというところで領域の幅が広くなっている。しかしながら、この歴史図は前にも述べたが、ビザンツ帝国は描かれていない。今回はビザンツ帝国(395~1453)が都コンスタンチノーブルをオスマン軍によって陥落させられた、そして滅亡していった当時の歴史を振返ることにしよう。

  • セルジューク朝末期においてイスラム化したトルコ系民族が中央アジアからアナトリア(小アジア)に移動し、オスマン朝(1299)を建国した。
  • バルカン半島にはビザンツ帝国、イランの地域はイル・カン国からティムールへ。インドはデリー・スルタン朝。
  • 1299 オスマン帝国建国:オスマン1世(1299-1326)
    1354 ヨーロッパ侵入始まる
    1362 アドリアノープルを占領
    1366 アドリアノープルへ遷都
    アドリアノープルとは古代都市ハドリアノポリスの後身。現在のトルコ最西端のエディルネ州の州都エディルネのこと。2000年の人口12万人。ギリシア国境まで5キロの地点。
  • 1389 コソヴォの戦い
    オスマン帝国のムラト1世がセルビア・ボスニアなどのバルカン半島のスラヴ勢力をコソヴォで破った戦い。この結果、ドナウ川以南のバルカン半島は19世紀にいたるまでイスラムのオスマン帝国の支配下におかれつづけた。セルビア人はコソヴォの戦いに敗れた6月15日を国辱記念日としている。
  • 1389 バヤジット1世即位(1389-1402)
    1394 スルタンの称号を受ける
    1402 アンカラの戦い
    ティムールとの戦い。バヤジット1世は捕虜となった後、病死。以後11年間空位時代となり滅亡の危機に陥る
  • 1413 メフメト1世即位(1413-1421)
    1444 ヴァルナの戦いでハンガリー、ポーランドを撃破
    メフメト2世即位(1444-46、51-81)
  • 1453 コンスタンティノープル攻略(=ビザンツ帝国滅亡)

長々と書いてきたが、今回伝えたいのはオスマン軍がビザンツ軍の最後の砦コンスタンチノープルを陥落させた戦いの奇想天外な戦法だけである。例のように山川出版のヒストリカの図を借りて説明する。

オスマン軍は敵の心臓部である金角湾に艦隊を入れようとするが入れない。ビザンツ軍が金角湾の入り口に鉄の鎖を配備したからである。攻めあぐねたメフメト2世は艦隊を山越えさせるという歴史に残る奇想天外な戦法を考えたのである。図の金角湾の入り口の右側、ボスフォラス海峡側から矢印のルートの山を切り開き木道をつくり、艦隊を引きずりあげて山越えさせたのである。舟が山に登ったのである。「船頭多くして舟山に上る」という諺は「リーダーがたくさんいると、意見が対立して、本来登るべきは川なのに、迷走して山へ進んでしまう」ということであるが、この話は実際に舟が山を越えて敵陣に乗り込んだという、私の大好きな話なのだ。

画像の出所:山川出版社の歴史図説ヒストリカ

キーワード:オスマン、ヴィザンツ、メフメト2世、金角湾、イスタンブール、コンスタンチノープル

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